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近代、日本の発達ほど、世界を驚かしたものはない。
1 名も無き筑波大生 :2003/04/30(水) 14:41

 「近代、日本の発達ほど、世界を驚かしたものはない。この驚異的発展には他の国と異なる何ものかがなくてはならぬ。
果たせるかな、この国、3千年の歴史がそれであった。この永い歴史を通じて、一系の天皇を戴いたという比類なき国体を有することが
、日本をして今日あらしめたのである。私はいつも世界上のどこか一カ所位、このような尊い国がなくてはならぬと考えていた。
 何故なら世界の未来は進むだけ進み、その間幾度びも争いは繰り返され、最後に戦に疲れる時が来る。
その時人類は必ず誠の平和を求めて世界的盟主をあげねばならぬ時がくる。
この世界盟主なるものは、武力や金の力ではなく、凡ゆる国の歴史を抜き越えた最も古く又尊い家柄でなくてはならぬ。
世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。それはアジアの高峰日本に立ち戻らねばならぬ。吾々は神に感謝する。
天が吾々に日本という尊い国を作って置いてくれた事を

アインシュタインが大正11年(1922)初来日の時に残した言葉

980 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 22:48
 で,何が問題なのか?。私は「硫黄島の砂」なる映画は見ていないけれども,以前,テレビで放映されていたアメリカの戦争ドラマ「コンバット」はずっと見ていた。それは虚構の世界のことでもあり,また,ユダヤ人抹殺,周辺国家侵略,ナチス独裁翼賛体制,自由の圧殺という悪の帝国ドイツと自由と民主主義のアメリカの戦争という設定でもあり,さらに,見ているうちにアメリカ軍部隊のサンダース軍曹への身内感覚が生成されることもあり,私は,サンダース軍曹の部隊が勝つたびに「ドイツ軍は悪の軍隊で,正義のアメリカ軍に懲らしめを受けて滅びることでめでたし,めでたし」と思っていたことは間違いない。
 「硫黄島の砂」では,このドイツ軍が日本軍に入れ替わっていただけである。「拍手喝采」した人たちは日本人でありながら,アメリカ人にアイデンテティを感じ,その勝利に高揚を感じた。戦争は根源的に2つの社会運営法の争いとして見るべきものである。もし大日本帝国の日本より,自由と民主主義のアメリカの社会運営法が優越しているのならば,アメリカの勝利に対する「拍手喝采」はまんざら否定すべきものではないかも知れないのである。
 たしかに,この「拍手喝采」には少なくとも日本兵とアメリカ兵が殺し合い,大量の日本兵とアメリカ兵が命を失ったことへの悲しみはない。戦争における殺人が違法性を阻却されるとしても,行為の構成として殺人が行われたことへの不快感,憂鬱のようなものはない。私は不戦主義ではないけれども,不戦主義,平和主義の世論を作るには,戦争の双方的な殺戮と破壊の凄まじさを訴えるしかないのに,一方の勝利に「拍手喝采」するというのは,戦争の安易な肯定しか生まないのに,日教組は何をしていたのだと思う。
 むろん,私も「コンバット」を見ている時,ドイツ兵の死,弾丸が命中し,のけぞり,もんどりうって倒れるドイツ兵に何の感応もなかった。ヒットラーの社会運営法を嫌悪するがゆえに,その「業務」を遂行するドイツ兵に全くアイデンテティを感じていなかったからである。しかも,それは虚構の世界のできごとであり,またドイツ人に対する身内感覚もなく,ドラマもその死んでいくドイツ兵を個人として認識するようには作られてはいなかったからである。ドイツ人,日本人とアメリカ人の双方に関して,破壊と殺戮の目の当たりの現実をこれでもか,これでもかと見せつけることがない。これが戦争映画の一つの問題点である。

981 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 22:49
 西部さんは,無批判に大日本帝国を肯定し,アメリカの自由と民主主義を否定するために,戦争における目的,2つの違った社会運営法の衝突という構造が見えず,しかも,戦争がどう転んでも相互の破壊と殺戮であることが見えないのである。
 そして,西部さんは,西部さんや同級生たちと同じ日本人が,アメリカ人に負けたのに,「拍手喝采」するとは何事だと怒るのである。
 西部さんはこの「拍手喝采」が日教組の教師の率先拍手によって誘導されていたという話を紹介しているが,つまり,戦後の日教組の「自虐史観」,日本軍=悪,アメリカ軍=正義という理念を否定し,お前ら,同胞たる日本人が負けてうれしいのか,屈辱感はないのか,同胞たる日本人が死んでうれしいのか,喪失感はないのか,それでも日本人かと叫びたいわけである。
 だが,ある戦闘場面を見て,日本人か否かだけを評価の基軸にすることはバカげていないか?。日本人同士の戦闘場面はどう評価するのだ?。全共闘と民主青年同盟の鉄パイプによる対決,戦闘は?。安保全学連と機動隊の対決,戦闘は?。2.26青年将校と他の陸軍部隊との対決,戦闘は?。河井継之助の長岡藩兵と官軍の戦闘は?。徳川家康と石田三成の関ヶ原の戦いは?。これ以上並べるまでもないであろう。日本人同士の対決,戦闘になったら全く無効な評価の基軸など使い物にはならない。つまり,日本人のDNA,大和魂などとわめいている連中はほとんどバカなのである。

982 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 22:49
 もう一度繰り返す,戦争には,ある社会運営法の保持,導入,移植などという目的があり,それこそ根源的なものである。しかも戦争は互いの破壊と殺戮であり,平時なら犯罪であるものをどう扱えばいいのかということが必ずつきまとう。単に日本兵とアメリカ兵が戦った,どっちが勝った,どっちが負けた,どっちがより多く殺されたかなどという問題ではないのだ。
 戦争はスポーツの試合と違う。人が大量に死に,物が大量に壊される。負ければ,社会運営法が一変する可能性が高い。サッカーのワールドカップが終わる。祭りが終わって空しいということはあろうが,誰も死ぬわけではなく,何かが壊されるわけでもない。ブラジルが優勝しても,日本その他の国がブラジルの属国になるわけでもなく,日本の社会運営法が何も変化するわけでもない。
 だが,戦争は違う。ヒットラーのドイツが負ければ,ユダヤ人抹殺,周辺国家侵略,ナチス独裁翼賛体制,自由の圧殺という悪しき社会運営法,国際関係への姿勢が解体される。そこではドイツ軍=悪,連合軍=正義という等式が成り立っていた。これを西部さんが認めないわけはない。連合軍の中にはもう一つの悪である旧ソ連全体主義が含まれていたが,政治というものは一筋縄ではいかないものである。悪と手を組んで,もう一つの悪と戦うなんて常識ではないか。悪を一つ減らせば,それは一つの進化なのである。むろん,もう一つの悪がその過程で膨張しすぎないように注意すべきではあろう。で,とにかく,ドイツ軍=悪,アメリカ軍=正義という等式そのものは成立するわけである。

983 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 22:49
 とすれば,一般的には日本軍=悪,アメリカ軍=正義という等式が成立しても,不思議ではない。もちろん,ある現場の兵士たちは戦闘「業務」を遂行しているだけであり,何の悪でもない。しかし,社会運営法,国際関係への姿勢を比較すると,相対的に日本のほうが全体主義の悪であっただろう。神聖不可侵で世襲の統治権力のある天皇VS選挙で選出され,ジョークのネタにしても懲罰されない大統領。虎の威を借る狐が「君側の奸」となる天皇制VS支持勢力を多数派にしなければ統治できない大統領制。大日本帝国憲法第29条の,「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」というみみっちい言論の自由VSアメリカ憲法修正第一条の,言論,出版の自由を奪ういかなる法律の制定も許さないという宣言。大日本帝国憲法第19条の,「日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得」という公務員になる権利の平等というみみっちい平等VSアメリカの導入した日本国憲法第13条の「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」という公共性と対になった全面的な権利(機会)の平等。ヒットラーのドイツと同盟した日本VSヒットラーのドイツと戦ったアメリカ。もうこれだけでも,アメリカの社会運営法の,諸個人にとっての優越,暮らしやすさは明白であろう。日本軍の兵士諸個人の罪では全くないが,軍として見れば,日本軍=悪,アメリカ軍=正義という等式が成立するのである。
 もちろん,だからといって,命を失った兵士たちの映像を目の前にして,「拍手喝采」などすべきではない。しかし,大日本帝国の悪はあくまでもはっきりと確認されるべきである。大日本帝国に比較すれば,アメリカがその憲法を強制した日本国ははっきりと正義である。問題は基本的に,アメリカが日本を戦争の全くできない国家にしようとして導入した第九条だけなのである。そして,これも実のところ,アメリカが,次の機会に日本が更なる軍事大国として現れることを恐れた結果であって,むしろ日本人は,アメリカを恐れさせた自分の潜在的な軍事的な力を誇るべきなのである。で,アメリカとの同盟を保持して,九条を改正すれば済むことである。
 この社会運営法という観点から言えば,日本は負けるべきであった。負けるほうがよかった。ちょうどヒットラーのドイツが負けるほうがよかったように。それで問題がないのである。
 スポーツの試合なら,お前ら,同胞たる日本人が負けてうれしいのか,屈辱感はないのか,同胞たる日本人が惨敗してうれしいのか,喪失感はないのか,それでも日本人かと言ってもよい。しかし,戦争はスポーツではない。スポーツの試合なら,勝っても負けても,暮らしやすさが変わるわけではない。「同胞」だ,同じ日本人だとなんぼ叫んでもたいした害はないのである。
 ただし,仮にスポーツの試合と同じだと仮定しても,負けた,悔しい,負けた,悔しいという情動に沈殿するのは,勝つという本来の目的自体を破損する。怒りでも,悔しさでも,それをバネとして,勝つための技術を合理的に追求するのでなければ,何の意味もない。なぜ負けたのか,たとえば硫黄島でなぜ大量に兵士の人命が失われたのか,どうすれば予防できたのか,どうすれば勝てたのかなどを考察しなければ無意味なのである。チョーむかつく,悔しーいっと繰り返すだけでは無駄であり,それで自分の内部の情動がいよいよ固着して,そのうちお前はむかつかないのか,日本人のDNAがないんだ!とか,あなたは悔しくないの?大和魂がないんだわとか,たわごとを言い始めることになるしかない。勝敗を善悪にすりかえ始めるのである。

984 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 22:50
 団体単位としての日本人の勝ち負けに,日本人の大多数は程度の差はあれ,多少,情動を動かされるであろう。しかし,その情動に耽溺すれば,最も大切な社会運営法という問題を忘れ,同時に,日本が勝つための技術合理主義,日本の破壊と殺戮をいかにして最小限にするかという追求を放棄することにもなるのである。
 西部さんは言う。「私の父は出征した世代より少し上で,そのために生き残ったことを恥じていたように思います。罪の意識を持って憂鬱な戦後を送り,やがてガンで死んでしまった。」一人の人間の自己史とその決断と思えば,重いものではあるが,こういう情動的な民族主義は間違っている。生き残ったら,日本人の普通の暮らしの建設のために活動すればよい。アメリカの自由と民主主義よりも,ナチスの全体主義に親近感を持ち,アメリカと同盟するどころか,アメリカとの戦争を始めた戦前の日本の指導者たちを呪い殺せばいい。上にも述べたように,戦争中の戦闘行為は基本的に無罪であり,また,軍事指導者の戦略が死の確率を高めたり,低めたりはするが,そのうえで,いったん戦闘が始まれば,誰かが生き残り,誰かが死ぬのは,さまざまな偶然の合成の結果である。兵士たちの誰にも罪はない。西部さんの父親の「罪の意識」は思い込みである。
 その思い込みは重いものではあるが,そう思い込んだら,そういう結果になるしかないだろうと悟達するしかない。こんなに敗北や生き残りの「罪の意識」に耽溺する人ばかりだったら,戦後の日本はとっくに滅びていた。私の父親を一つの典型として,日本は負けたんだ,何を言っても仕方がない,与えられた環境の中で,自分流に世に出て,家族にめしを食わせていくしかないと思って元気に生きた者のほうが多数派だからこそ,日本は復興したのである。
 さて,では硫黄島の戦闘に即して,互いの破壊と殺戮としての戦争の問題点を考察してみよう。それは太平洋戦争における一つの戦闘である。戦闘は破壊と殺戮であり,より大きく破壊し殺戮し,相手の戦闘意志を打倒するか,ほとんど全滅させるかすれば勝ちである。平和時なら,それは互いに殺人と建造物破壊の犯罪を繰り返しているのであり,双方とも犯罪者として拘束,懲罰すべき対象となる。戦闘における殺戮と破壊の違法性を阻却することができるとすれば,国内においてもそうであるように,正当防衛,緊急避難,および犯罪者を懲罰するなどの正当業務行為の場合だけである。
 「コンバット」で戦争における殺人に疑問を示す若い兵が何度か登場することがあったが,それに対して,サンダース軍曹が「殺さなければ殺されるからだ」と言ってけりを付けていたのも,その考え方なのである。
 刑法には,正当行為(第35条 法令又は正当な業務による行為は,罰しない。),正当防衛(第36条 急迫不正の侵害に対して,自己又は他人の権利を防衛するため,やむを得ずにした行為は,罰しない。),緊急避難(第37条 自己又は他人の生命,身体,自由又は財産に対する現在の危難を避けるため,やむを得ずにした行為は,これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り,罰しない。)の3つの違法性阻却事由が述べられている。「殺さなければ殺されるから,殺すのだ」という論法は,これに準拠しているのである。
 戦場において,敵兵は基本的に自分たちを殺戮し破壊する意志をもって現れる。敵兵の中にたとえ殺人をしたくないと思っている兵士がいたとしても,大多数は殺戮と破壊の意志をもって現れるのである。業務として与えられたことに従っているだけにせよ,自分自身,強い動機をもっているにせよ,あるいは殺戮と破壊を嫌悪しているにせよ,最終的に相手を殺戮し破壊する意志を選択し,決断して,兵士は戦場に現れる。もちろん敵兵に対抗し,攻撃したからといって,殺戮と破壊を免れられるとは限らない。しかし,攻撃すれば,免れられる可能性が生じる。もし自分たちが敵を殺戮し,破壊しなければ,ほぼ必然的に殺戮され,破壊されることになるだけである。で,「殺さなければ殺されるから,殺すのだ」と言うしかないのである。
 戦争は殺戮と破壊である。その究極的犯罪性はいかんともしがたい。しかし,好き好んで戦争をするのでない限り,戦争はそこに「急迫不正の侵害」や「自己又は他人の生命,身体,自由又は財産に対する現在の危難」があり,「自己又は他人の権利を防衛」し,「危難」を「避けるため」に,「やむを得ず」行われるのである。

985 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 22:50
        まもなくここは 乂1000取り合戦場乂 となります。

      \∧_ヘ     / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ,,、,、,,, / \〇ノゝ∩ < 1000取り合戦、いくぞゴルァ!!       ,,、,、,,,
    /三√ ゚Д゚) /   \____________  ,,、,、,,,
     /三/| ゚U゚|\      ,,、,、,,,                       ,,、,、,,,
 ,,、,、,,, U (:::::::::::)  ,,、,、,,,         \オーーーーーーーッ!!/
      //三/|三|\     ∧_∧∧_∧ ∧_∧∧_∧∧_∧∧_∧
      ∪  ∪       (    )    (     )   (    )    )
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986 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 22:50
 兵士は「急迫不正の侵害」に対して防衛し,「自己又は他人の生命,身体,自由又は財産に対する現在の危難」を回避するために,政府の命令や「法令」に従った「業務」として戦闘し,違法性を阻却されるのである。
 ここで,正当防衛と緊急避難の但し書きの部分について少し触れておこう。正当防衛については「防衛の程度を超えた行為は,情状により,その刑を減軽し,又は免除することができる。」,緊急避難については「その程度を超えた行為は,情状により,その刑を減軽し,又は免除することができる。」という但し書きがある。つまり,正当防衛と緊急避難は過剰になってはいけないと言っているのである。過剰になれば,刑の減軽はあるとしても,犯罪であると言っている。これが戦争犯罪に該当する。戦争は互いの破壊と殺戮であるが,それが過剰になれば戦争犯罪になるという論理がここに含まれている。逆に,そのことは戦争中の虐殺などということを安易に言ってはいけないということをも意味する。戦争中の行為が戦争犯罪かどうかは,一つ一つ,過剰であったかどうかを識別しなければならないということである。安易に扱えば,もともと戦争それ自体が相互の殺戮と破壊なのだから,何でも虐殺になりかねない。注意すべきである。
 さて,硫黄島では日本兵はアメリカ兵に惨敗し,ほぼ全滅するまで戦い,「玉砕」した。アメリカ兵も日本兵も,違法性阻却事由をもって戦った。ともに罰せられるいわれがない。平和時に殺戮と破壊が犯罪に該当しても,戦争時に敵兵に対してはその違法性を阻却される。繰り返すが,平和時には破壊と殺戮は犯罪である。だが,引き分け的に和睦して双方が戦闘意志を放棄するとか,敗者が降伏して戦闘意志を放棄し,それに伴って勝者も戦闘意志を放棄するとかいうことがない限り,破壊と殺戮は続く。「玉砕」するまで戦おうとすれば,相手は「殲滅」するまで戦おうとする。当たり前の話である。
 硫黄島での戦闘は,双方ともに違法性を阻却された正当な戦闘業務である。勝とうが負けようが,それは双方無罪の戦いなのである。

987 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 22:51
 むろん人間個人にとって生命および生活は個人が個人たる根拠であり,これを殺戮し破壊すること,その殺戮と破壊を賭けることは好ましくない。つまり戦争は可能な限り,選択しないほうがよい。だが,始めてしまえば,あるいは,終わらなければ,続けるほかはないのである。
 だから,西部邁よ,硫黄島の日本兵の惨敗を見て,思うべきことはただ一つ,惨敗が決定的になったら降伏せよということである。降伏しなければ,「殲滅」されるのは事柄の必然なのである。
 太平洋戦争が,社会運営法という基本から言えば,アメリカが勝つべき戦争であったということと,一つ一つの戦闘でアメリカが勝ったら万歳ということとは意味が全く違う。
 ある戦闘における大量の兵士の死は,彼ら個人の生の終わりであるのみならず,その家族や身内における最愛の個人の喪失である。彼らの生を断固として尊重しなければならない。硫黄島の守備隊が押し寄せるアメリカ軍と戦闘しても,惨敗し,全滅するしかないと予測できたのなら,その撤退を支援すべきであった。「生きて虜囚の辱めを受けず」という倫理を兵士に強制していたのなら,それを修正して,降伏し捕虜になることを許容すべきであった。兵士の生命は国家のものではなく,その兵士個人のものであり,その家族,身内のものである。守るべき国とは,諸個人とその家族,身内の普通の暮らしの集合体である。全滅を回避させ,可能な限り,多くを生き残らせ,普通の暮らしに戻し,普通の暮らしを続けさせるというのが,戦争における国家の最も重要な使命である。国家がその使命を負わなければ,そもそも戦争する意味もないのである。
 戦前の日本の軍事思想はここでも間違っていた。最後の一兵まで戦え,「玉砕」せよ,捕虜になるな,死ぬまで戦えなどという軍事思想は「人で無し」の軍事思想なのである。それは人間が個人ではなく,臣民であった大日本帝国の社会運営の一つの現れなのである。生き残れ,死に急ぐな,死んだら悲しむ者がいる,今降伏しても次の機会があるという軍事思想こそ,自由と民主主義の軍事思想なのである。

988 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 22:51
 私がこの映画を見ていたら,おそらく,なぜ硫黄島の守備隊を撤退させなかったのだ,なぜ圧倒的な火力を見抜いて降伏しなかったのだというような感想を抱くと思う。兵士は臣民なのではなく,血の通った個人,他の人とも心の血を通わせる個人なのである。惨敗しそうなら,逃げよ,戦っても殺されそうなら,捕虜になれ。それは大日本帝国の軍事道徳ではなかったが,現在,最強の軍事大国アメリカの軍事道徳なのである。アメリカの優越はここでも明白である。
 さて,西部さんは硫黄島で圧勝したアメリカ軍が,惨敗した日本軍に虐殺紛いのことをしたようなニュアンスを漂わせている。これについて触れておきたい。
 「日本兵が艦砲射撃で焼かれる場面や,日本兵の骸骨や死体を山ほどの実写映像で見せつけられ,」という部分である。
 硫黄島「玉砕」があったのは,昭和20年2月のことであった。その頃すでに,アメリカ軍はサイパン、グアムなどを制圧してB29爆撃機による日本本土への長距離爆撃を開始していた。そこで本土防衛のために,大本営は硫黄島に総数約21,000名を配置し,島内に全長18kmにも及ぶ地下壕を作ったそうである。アメリカ軍は艦船800隻、航空機4,000機、総数25万人を投入して,上陸作戦を開始し,まずB−29によって空爆し,硫黄島沖に集結した艦隊によって艦砲射撃したそうである。その当時,まだ神風特別攻撃隊(5,6機?)の体当たり攻撃には効果があり,空母「サラトガ」(約30人が戦死)を損傷し,「ビスマルク・シー」(約200人が戦死)は沈没したという。また,アメリカ軍の上陸後,日本の海軍航空隊の一式陸上攻撃機(1機?)がアメリカの軍高射砲の弾幕をぬって、アメリカ軍占領地域に爆弾を投下したという。さらに回天特別攻撃隊が潜水艦三隻で編成され、出撃したが,そのまま消息を絶ったそうだ。 
 この兵力の差にはもの凄いものがある。惨敗するのが当たり前である。だが日本軍は兵力で圧倒的に劣るが,地下壕に潜って戦い続け,また特攻攻撃で相手を殺戮し,破壊している。で,3月16日に,次のようなアメリカ軍の降伏勧告状が,司令官栗林忠道さんに送られた。
 「日本軍が硫黄島で示した恐れを知らぬ不撓不屈の精神は、全戦闘員の賞賛に値する。貴下は類まれな戦法で部隊を指揮してきた。われわれは、絶体絶命の状態に追い込まれた勇猛な部隊を完膚なきまでに壊滅するつもりはない。それ故に私は貴下に対し直ちに部下の抵抗を中止させ、我軍の防禦戦を通って安全地帯へ行進してくるよう勧告する。貴下並びに貴下の将兵は、戦争規程に従って人道的に処遇されるであろう。」
 この降伏勧告は礼を尽くしたものである。降伏後の処遇がバラ色のものであるはずはないが,しかし,これは次の機会に備え,戦後社会の再建に身を残すために降伏すべきものであったと思う。ところが,翌日の総攻撃の時点で約一万人前後,生存していた将兵は,ほとんど降伏せず,ほとんどが指揮系統を失ったまま個別に戦い,最終的な捕虜人数は約1000名であったという。文字通りの全滅戦法,「玉砕」である。こういう万歳突撃=自殺を美化する軍事道徳である限り,日本人は再び処理を誤る。

989 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 22:51
 この降伏勧告後,司令官の栗林さんは「訣別電報」を打っている。彼は惨敗の原因を「米国との物量の絶対的な差」であるとし,「…今や弾丸尽き水枯れ、戦い残るもの全員いよいよ最後の敢闘を行わんとするにあたり、つくづく皇恩のかたじけなさを思い粉骨砕身また悔ゆるところにあらず。ここに将兵とともに謹んで聖寿の万歳を奉唱しつつ、永久のお別れを申しあぐ。」と語っている。これが大日本帝国の軍事思想なのである。全滅するに決まっている戦いを命令するな,自殺教唆すんな,アホか,生き残らんかい,捕虜になって次の機会を待たんかい,何で将兵まで道連れにする?,死ぬんならお前一人で死ね,何が「皇恩のかたじけなさ」だ,アホンダラとでも言うしかない。彼はこの「訣別電報」に短歌を書き付けており,その一つに「仇討たで野辺に朽ちじ吾は又 七たび生まれて矛を報らむぞ」とある。全滅を命令して,挙げ句の果てはオカルトである。死んだら骨と灰である。生まれ変わることなど絶対にない。
 敗戦後の日本を再建する貴重な人材を10000人近くも死なせ,その人数の家族や身内から最愛の人を奪い,喪失させて,「皇恩のかたじけなさ」もへちまもあるか。司令官たちが死んで,兵士たちを救うのではなく,司令官たちが兵士たちを道連れに死のうとする。その錦の御旗が「皇恩」である。惨敗が確定的になったら,降伏を命じ,自分は死に,兵士たちは生き残らせて再起を図らせようとするのではなく,最後は自分もろとも兵士たちおよび組織も滅びればよいという発想は現在の政治経済の「司令官」たちの一部にも色濃く影を落としている。いや軍人が「滅びる」とは死ぬことであり,まだしも責任を負っているが,経営者や上級公務員の一部は,部下や組織が滅んでも,自分の財産を隠し,自分の特権を残し,自分だけは生き残ろうとしているのである。
 結局,硫黄島の戦闘におけるアメリカ軍の戦死者は約7000名、負傷者は約21000名であるという。この人的損害は、日本軍守備隊の総員約21000名を大きく上回った。よく戦ったと言えるが,しかし,そのよき戦いが無差別爆撃や原爆投下を生んだとも言えるのである。惨敗局面でよく戦い,相手に人的損害を与えれば与えるほど,相手はよりいっそうの殺戮と破壊に転じる。これは戦争における必然であろう。
 運命の任務(「業務」)として命を賭けて戦い,死んでいった兵士たちは慰霊し,鎮魂しなければならぬ。しかし,全体主義的理念を掲げ,ヒットラーと同盟し,アメリカとの戦争に突入し,また全滅がほぼ必然である場合にさえ,捕虜になるな,死ねと命令した大日本帝国の政治的,軍事的指導者たちを免責することはできない。命を賭けて戦い,死んでいった兵士たちの行為と魂は重い。だが,だからこそ,それを大日本帝国の悪と誤りの肯定のための道具にさせてはならないのである。


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過去ログビューア 2006/03/12
たっく ◆EJt6JHY2rM 補完希望の足らないデータ