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近代、日本の発達ほど、世界を驚かしたものはない。
- 970 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 22:09 ↓
- 先生質問!
ちんこが痛いのですが、どうすればいいですか?
- 971 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 22:34 ↓
- 一ヶ月かからずに1000レスを達成したら、ツクちゃん始まって以来の(かつ、最速1000スレが立つまでは唯一の)快挙になっちまうよ。
コピペに釣られるバカ共、自制しろよ!
- 972 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 22:37 ↓
- >>970
チン個をさすっておきなさい
- 973 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 22:40 ↓
- >>971
1000レスいったらなんかいけないことあるの?
- 974 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 22:45
- 『ユダヤ人を助けた日本人と大日本帝国』
大阪市立中央高校 赤野達哉
*コンセプトは、自虐的になりがちな人権教育の場で、大日本帝国がどのようにユダヤ人問題を扱ったかを、実証的に検証し、ナチス=ドイツと我が国の違いを明確化するところにある。
*本来、この読み物と同時に写真資料などを用いるが、著作権などの関係でここには紹介できないことをお断りしておく。
*拙いものであるが、『教科書が教えない歴史』を用いれば、同じパターンで、自虐的でない人権学習教材はいくらでも作ることが可能である。
◆ ◆ ◆
さて、第二次世界大戦勃発直後、ドイツとソ連という二匹の猛獣の間でポーランドが分割されたことで、生命の危機にさらされていたのが、ポーランド在住のユダヤ人たちであった。「アウシュビッツ強制収容所」がポーランドにあったことでもわかるように、ナチス=ドイツのユダヤ人狩りの手は、占領下のポーランドにも及んできた。そこで、ユダヤ人たちは三々五々、当時かろうじて独立を保っていたリトアニアに逃れてきた。しかし、やはり伝統的に反ユダヤ主義のソ連が、ここにも侵略の手を伸ばし、併合が間近となってしまった。彼らはユダヤ人にドイツ圏への退去を命じるだろう。そしてその後は、強制収容所が彼らを待っている。当時、他のヨーロッパ諸国で彼らを受け入れる国はない。仮にあったとしても、ソ連やドイツの影響下にある通過国がビザを発給するわけもない。進退窮まった彼らは、一九四〇(昭和一五)年七月、カウナス(当時リトアニアの首都)にあった日本領事館に押し寄せた。日本の通過ビザを得るために……。
なぜ日本を通過せねばならないのか? 彼らの多くは、上海へ逃れようとしていた。西へ向かえばドイツがいる。そこで、シベリア鉄道でソ連領を東へ横断した後、ウラジヴォストクから敦賀を経て、神戸、横浜などから上海へ渡しか方法はなかった。だから彼らは日本の通過ビザが必要だったのだ。日本領事館の責任者は、領事代理の杉原千畝(すぎはら・ちうね)であった。
杉原は本省にビザ発給の許可を求めたが、本省の許可を得られず、逡巡したあげく、ユダヤ人難民のために、全て手書きで六〇〇〇枚ものビザを発給したという。
- 975 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 22:46
- このように杉原は、本省命令に逆らって、独断で、自分の良心に基づいてビザを発給したとされていたが、最近の研究では、本省と杉原の間の往復電報は、既に日本政府が決定していた「ユダヤ人対策要綱」(ユダヤ人を公正に扱うことを定めている)に基づく、事務的な問答が行われていたようであり(平成一〇年三月一〇日付『産経新聞』)、外務省が杉原に対して、ユダヤ人への通過ビザ発給を拒絶させようとしたわけではなかったようである。
いずれにしても、杉原の行為は、大いに評価されるべきではあるし、実際、彼はイスラエル政府から一九八五(昭和六〇)年に「正義の異邦人」の称号を贈られて。しかし、見落としてはならないのは、人種差別排斥を国是としていたわが国が、ドイツから要求されていたユダヤ人排斥を拒絶していたという事実である。政府は友好国・ドイツからのの抗議を無視した。また、満州国でも同様の措置がとられていたのである。
ナチス=ドイツと、わが国の戦時中の政策を同一視する愚考がまかり通っているが、一民族を(戦争と関係なく)抹殺しようとしてそれを実行したドイツと、彼らを諸外国人と同様に扱ったわが国とは、全く異なる歴史を歩んできたことがわかるはずである。 ※この資料に使用した写真は全て、杉原 幸子『六千人の命のビザ』による。
問1 この資料を読むまで、戦前のわが国の人種差別(人権)に対する考え方は、どのようなものだと思っていましたか。
問2 当時の国際情勢を踏まえて、あなたが外務大臣であれば、ユダヤ人難民問題に関してどのような措置を採ったでしょうか。想像して書いて下さい。
問3 この資料を読んで、どのように思いましたか。感想を自由に書いて下さい。
- 976 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 22:47 ↓
- 1000!
- 977 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 22:48
- さて西部さんは現代の日本国および日本人のほぼ全体に対して,深刻な厭世と絶望を感じているのであった。私にも現代の日本国に関する怒りというものはある。だが,それは全体に対するものではない。その怒りは部分的であり,具体的である。なぜ酒鬼薔薇聖斗や宅間守などに対する厳しい予防や懲罰(死刑だけが懲罰なのではない)が追求されないのか?,なぜ日本国の国境,国民を守るための軍事が軽視され続けるのか?,なぜ公務を私物化し,特権階級として振る舞う一部の上級公務員たちが放置され続けるのか?,なぜ公的な責任を負担せず,単なる私有財産保護に耽る一部の経営者たちが放置され続けるのか?などなどの問いにおける怒りである。私の,佐々淳行さん,猪瀬直樹さん,木村剛さんなどに対する共感はそのあたりの怒りを共有できるからこそである。
私は普通に暮らしている日本人に怒りを感じたことはない。毎年じゃがいもを育てては我が家に送ってくれる田舎のおばあちゃん,無愛想だが,ていねいに治療しいろいろと説明してくれる歯医者さん,マニュアルに従ってだが,買い物をするたびに「ありがとうございました」と両手を前で軽く合わせてくれるスーパーの店員さん,とりあえず必ず「ごくろうさまです」と声をかけてくれ,頼んだ仕事はきちんとしてくれる職場の警備や事務の人たち,雨の日も風の日も欠かさず新聞や郵便を配達してくれる人たち,その他その他,「片隅を照らす」というより,自分の周辺の,事物を制御し,他の人間たちと誠実に交換し,「自分の周辺を暖め養う」人たちこそ,くに=社稷の宝であると思う。
- 978 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 22:48
- だが,西部さんにはくに=社稷への思いはなく,西部さんの怒りは日本人のほぼ全体を対象としている。西部さんには,少年の頃,情動的な万引きをして普通の人に迷惑をかけ,社稷の秩序を危うくしたという意識がなく,また自分の絶望と厭世などいうものによって日米安保条約に反対して,くにを危うくしたという意識がない。
さらに西部さんの回想から,彼の日本および日本人観を抜き出してみよう。
西部さんは北海道で中学一年生の頃,「教師の引率で」,ジョン・ウェイン主演の「硫黄島の砂」という映画を見に行ったそうだ。「日本兵が艦砲射撃で焼かれる場面や,日本兵の骸骨や死体を山ほどの実写映像で見せつけられ,最後に米海兵隊が摺鉢山に星条旗を立てて勝利を宣言する。その瞬間,本当にびっくりしたのは,一緒に観ていた五百人のほとんどが拍手喝采したことです。『何だこれは』と思いました。」
で,この経験を西部さんは次のように総括している。「私はといえば,そのとき不良ではあったけれども,同胞である日本兵が次々倒れていくのを観ていささか粛然とした気持ちで,画面を正視できずにうなだれざるを得なかった。ところがわが同級生は一斉に拍手喝采ですよ。日本軍は悪の軍隊で,正義のアメリカ軍に懲らしめを受けて滅びることでめでたし,めでたしと,すでにして学校教育ではそうなっていたんですね。」「こんな経験があって,『平和主義』『平和教育』の欺瞞に私は少年時代から見当がついていた。」
西部さんは,「米海兵隊」が「星条旗を立てて勝利を宣言」した瞬間,一緒に観覧した500人の日本人中学生が「拍手喝采」したことに驚き,不快を表明している。西部さんは「同胞である日本兵」の惨敗に,「いささか粛然とした気持ちで,画面を正視できずにうなだれ」た。「日本軍は悪の軍隊で,正義のアメリカ軍に懲らしめを受けて滅びることでめでたし,めでたし」とは何だと怒っている。
- 979 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 22:48 ↓
- >>976
フライング。
- 980 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 22:48
- で,何が問題なのか?。私は「硫黄島の砂」なる映画は見ていないけれども,以前,テレビで放映されていたアメリカの戦争ドラマ「コンバット」はずっと見ていた。それは虚構の世界のことでもあり,また,ユダヤ人抹殺,周辺国家侵略,ナチス独裁翼賛体制,自由の圧殺という悪の帝国ドイツと自由と民主主義のアメリカの戦争という設定でもあり,さらに,見ているうちにアメリカ軍部隊のサンダース軍曹への身内感覚が生成されることもあり,私は,サンダース軍曹の部隊が勝つたびに「ドイツ軍は悪の軍隊で,正義のアメリカ軍に懲らしめを受けて滅びることでめでたし,めでたし」と思っていたことは間違いない。
「硫黄島の砂」では,このドイツ軍が日本軍に入れ替わっていただけである。「拍手喝采」した人たちは日本人でありながら,アメリカ人にアイデンテティを感じ,その勝利に高揚を感じた。戦争は根源的に2つの社会運営法の争いとして見るべきものである。もし大日本帝国の日本より,自由と民主主義のアメリカの社会運営法が優越しているのならば,アメリカの勝利に対する「拍手喝采」はまんざら否定すべきものではないかも知れないのである。
たしかに,この「拍手喝采」には少なくとも日本兵とアメリカ兵が殺し合い,大量の日本兵とアメリカ兵が命を失ったことへの悲しみはない。戦争における殺人が違法性を阻却されるとしても,行為の構成として殺人が行われたことへの不快感,憂鬱のようなものはない。私は不戦主義ではないけれども,不戦主義,平和主義の世論を作るには,戦争の双方的な殺戮と破壊の凄まじさを訴えるしかないのに,一方の勝利に「拍手喝采」するというのは,戦争の安易な肯定しか生まないのに,日教組は何をしていたのだと思う。
むろん,私も「コンバット」を見ている時,ドイツ兵の死,弾丸が命中し,のけぞり,もんどりうって倒れるドイツ兵に何の感応もなかった。ヒットラーの社会運営法を嫌悪するがゆえに,その「業務」を遂行するドイツ兵に全くアイデンテティを感じていなかったからである。しかも,それは虚構の世界のできごとであり,またドイツ人に対する身内感覚もなく,ドラマもその死んでいくドイツ兵を個人として認識するようには作られてはいなかったからである。ドイツ人,日本人とアメリカ人の双方に関して,破壊と殺戮の目の当たりの現実をこれでもか,これでもかと見せつけることがない。これが戦争映画の一つの問題点である。
- 981 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 22:49
- 西部さんは,無批判に大日本帝国を肯定し,アメリカの自由と民主主義を否定するために,戦争における目的,2つの違った社会運営法の衝突という構造が見えず,しかも,戦争がどう転んでも相互の破壊と殺戮であることが見えないのである。
そして,西部さんは,西部さんや同級生たちと同じ日本人が,アメリカ人に負けたのに,「拍手喝采」するとは何事だと怒るのである。
西部さんはこの「拍手喝采」が日教組の教師の率先拍手によって誘導されていたという話を紹介しているが,つまり,戦後の日教組の「自虐史観」,日本軍=悪,アメリカ軍=正義という理念を否定し,お前ら,同胞たる日本人が負けてうれしいのか,屈辱感はないのか,同胞たる日本人が死んでうれしいのか,喪失感はないのか,それでも日本人かと叫びたいわけである。
だが,ある戦闘場面を見て,日本人か否かだけを評価の基軸にすることはバカげていないか?。日本人同士の戦闘場面はどう評価するのだ?。全共闘と民主青年同盟の鉄パイプによる対決,戦闘は?。安保全学連と機動隊の対決,戦闘は?。2.26青年将校と他の陸軍部隊との対決,戦闘は?。河井継之助の長岡藩兵と官軍の戦闘は?。徳川家康と石田三成の関ヶ原の戦いは?。これ以上並べるまでもないであろう。日本人同士の対決,戦闘になったら全く無効な評価の基軸など使い物にはならない。つまり,日本人のDNA,大和魂などとわめいている連中はほとんどバカなのである。
- 982 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 22:49
- もう一度繰り返す,戦争には,ある社会運営法の保持,導入,移植などという目的があり,それこそ根源的なものである。しかも戦争は互いの破壊と殺戮であり,平時なら犯罪であるものをどう扱えばいいのかということが必ずつきまとう。単に日本兵とアメリカ兵が戦った,どっちが勝った,どっちが負けた,どっちがより多く殺されたかなどという問題ではないのだ。
戦争はスポーツの試合と違う。人が大量に死に,物が大量に壊される。負ければ,社会運営法が一変する可能性が高い。サッカーのワールドカップが終わる。祭りが終わって空しいということはあろうが,誰も死ぬわけではなく,何かが壊されるわけでもない。ブラジルが優勝しても,日本その他の国がブラジルの属国になるわけでもなく,日本の社会運営法が何も変化するわけでもない。
だが,戦争は違う。ヒットラーのドイツが負ければ,ユダヤ人抹殺,周辺国家侵略,ナチス独裁翼賛体制,自由の圧殺という悪しき社会運営法,国際関係への姿勢が解体される。そこではドイツ軍=悪,連合軍=正義という等式が成り立っていた。これを西部さんが認めないわけはない。連合軍の中にはもう一つの悪である旧ソ連全体主義が含まれていたが,政治というものは一筋縄ではいかないものである。悪と手を組んで,もう一つの悪と戦うなんて常識ではないか。悪を一つ減らせば,それは一つの進化なのである。むろん,もう一つの悪がその過程で膨張しすぎないように注意すべきではあろう。で,とにかく,ドイツ軍=悪,アメリカ軍=正義という等式そのものは成立するわけである。
- 983 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 22:49
- とすれば,一般的には日本軍=悪,アメリカ軍=正義という等式が成立しても,不思議ではない。もちろん,ある現場の兵士たちは戦闘「業務」を遂行しているだけであり,何の悪でもない。しかし,社会運営法,国際関係への姿勢を比較すると,相対的に日本のほうが全体主義の悪であっただろう。神聖不可侵で世襲の統治権力のある天皇VS選挙で選出され,ジョークのネタにしても懲罰されない大統領。虎の威を借る狐が「君側の奸」となる天皇制VS支持勢力を多数派にしなければ統治できない大統領制。大日本帝国憲法第29条の,「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」というみみっちい言論の自由VSアメリカ憲法修正第一条の,言論,出版の自由を奪ういかなる法律の制定も許さないという宣言。大日本帝国憲法第19条の,「日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得」という公務員になる権利の平等というみみっちい平等VSアメリカの導入した日本国憲法第13条の「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」という公共性と対になった全面的な権利(機会)の平等。ヒットラーのドイツと同盟した日本VSヒットラーのドイツと戦ったアメリカ。もうこれだけでも,アメリカの社会運営法の,諸個人にとっての優越,暮らしやすさは明白であろう。日本軍の兵士諸個人の罪では全くないが,軍として見れば,日本軍=悪,アメリカ軍=正義という等式が成立するのである。
もちろん,だからといって,命を失った兵士たちの映像を目の前にして,「拍手喝采」などすべきではない。しかし,大日本帝国の悪はあくまでもはっきりと確認されるべきである。大日本帝国に比較すれば,アメリカがその憲法を強制した日本国ははっきりと正義である。問題は基本的に,アメリカが日本を戦争の全くできない国家にしようとして導入した第九条だけなのである。そして,これも実のところ,アメリカが,次の機会に日本が更なる軍事大国として現れることを恐れた結果であって,むしろ日本人は,アメリカを恐れさせた自分の潜在的な軍事的な力を誇るべきなのである。で,アメリカとの同盟を保持して,九条を改正すれば済むことである。
この社会運営法という観点から言えば,日本は負けるべきであった。負けるほうがよかった。ちょうどヒットラーのドイツが負けるほうがよかったように。それで問題がないのである。
スポーツの試合なら,お前ら,同胞たる日本人が負けてうれしいのか,屈辱感はないのか,同胞たる日本人が惨敗してうれしいのか,喪失感はないのか,それでも日本人かと言ってもよい。しかし,戦争はスポーツではない。スポーツの試合なら,勝っても負けても,暮らしやすさが変わるわけではない。「同胞」だ,同じ日本人だとなんぼ叫んでもたいした害はないのである。
ただし,仮にスポーツの試合と同じだと仮定しても,負けた,悔しい,負けた,悔しいという情動に沈殿するのは,勝つという本来の目的自体を破損する。怒りでも,悔しさでも,それをバネとして,勝つための技術を合理的に追求するのでなければ,何の意味もない。なぜ負けたのか,たとえば硫黄島でなぜ大量に兵士の人命が失われたのか,どうすれば予防できたのか,どうすれば勝てたのかなどを考察しなければ無意味なのである。チョーむかつく,悔しーいっと繰り返すだけでは無駄であり,それで自分の内部の情動がいよいよ固着して,そのうちお前はむかつかないのか,日本人のDNAがないんだ!とか,あなたは悔しくないの?大和魂がないんだわとか,たわごとを言い始めることになるしかない。勝敗を善悪にすりかえ始めるのである。
- 984 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 22:50
- 団体単位としての日本人の勝ち負けに,日本人の大多数は程度の差はあれ,多少,情動を動かされるであろう。しかし,その情動に耽溺すれば,最も大切な社会運営法という問題を忘れ,同時に,日本が勝つための技術合理主義,日本の破壊と殺戮をいかにして最小限にするかという追求を放棄することにもなるのである。
西部さんは言う。「私の父は出征した世代より少し上で,そのために生き残ったことを恥じていたように思います。罪の意識を持って憂鬱な戦後を送り,やがてガンで死んでしまった。」一人の人間の自己史とその決断と思えば,重いものではあるが,こういう情動的な民族主義は間違っている。生き残ったら,日本人の普通の暮らしの建設のために活動すればよい。アメリカの自由と民主主義よりも,ナチスの全体主義に親近感を持ち,アメリカと同盟するどころか,アメリカとの戦争を始めた戦前の日本の指導者たちを呪い殺せばいい。上にも述べたように,戦争中の戦闘行為は基本的に無罪であり,また,軍事指導者の戦略が死の確率を高めたり,低めたりはするが,そのうえで,いったん戦闘が始まれば,誰かが生き残り,誰かが死ぬのは,さまざまな偶然の合成の結果である。兵士たちの誰にも罪はない。西部さんの父親の「罪の意識」は思い込みである。
その思い込みは重いものではあるが,そう思い込んだら,そういう結果になるしかないだろうと悟達するしかない。こんなに敗北や生き残りの「罪の意識」に耽溺する人ばかりだったら,戦後の日本はとっくに滅びていた。私の父親を一つの典型として,日本は負けたんだ,何を言っても仕方がない,与えられた環境の中で,自分流に世に出て,家族にめしを食わせていくしかないと思って元気に生きた者のほうが多数派だからこそ,日本は復興したのである。
さて,では硫黄島の戦闘に即して,互いの破壊と殺戮としての戦争の問題点を考察してみよう。それは太平洋戦争における一つの戦闘である。戦闘は破壊と殺戮であり,より大きく破壊し殺戮し,相手の戦闘意志を打倒するか,ほとんど全滅させるかすれば勝ちである。平和時なら,それは互いに殺人と建造物破壊の犯罪を繰り返しているのであり,双方とも犯罪者として拘束,懲罰すべき対象となる。戦闘における殺戮と破壊の違法性を阻却することができるとすれば,国内においてもそうであるように,正当防衛,緊急避難,および犯罪者を懲罰するなどの正当業務行為の場合だけである。
「コンバット」で戦争における殺人に疑問を示す若い兵が何度か登場することがあったが,それに対して,サンダース軍曹が「殺さなければ殺されるからだ」と言ってけりを付けていたのも,その考え方なのである。
刑法には,正当行為(第35条 法令又は正当な業務による行為は,罰しない。),正当防衛(第36条 急迫不正の侵害に対して,自己又は他人の権利を防衛するため,やむを得ずにした行為は,罰しない。),緊急避難(第37条 自己又は他人の生命,身体,自由又は財産に対する現在の危難を避けるため,やむを得ずにした行為は,これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り,罰しない。)の3つの違法性阻却事由が述べられている。「殺さなければ殺されるから,殺すのだ」という論法は,これに準拠しているのである。
戦場において,敵兵は基本的に自分たちを殺戮し破壊する意志をもって現れる。敵兵の中にたとえ殺人をしたくないと思っている兵士がいたとしても,大多数は殺戮と破壊の意志をもって現れるのである。業務として与えられたことに従っているだけにせよ,自分自身,強い動機をもっているにせよ,あるいは殺戮と破壊を嫌悪しているにせよ,最終的に相手を殺戮し破壊する意志を選択し,決断して,兵士は戦場に現れる。もちろん敵兵に対抗し,攻撃したからといって,殺戮と破壊を免れられるとは限らない。しかし,攻撃すれば,免れられる可能性が生じる。もし自分たちが敵を殺戮し,破壊しなければ,ほぼ必然的に殺戮され,破壊されることになるだけである。で,「殺さなければ殺されるから,殺すのだ」と言うしかないのである。
戦争は殺戮と破壊である。その究極的犯罪性はいかんともしがたい。しかし,好き好んで戦争をするのでない限り,戦争はそこに「急迫不正の侵害」や「自己又は他人の生命,身体,自由又は財産に対する現在の危難」があり,「自己又は他人の権利を防衛」し,「危難」を「避けるため」に,「やむを得ず」行われるのである。
- 985 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 22:50 ↓
- まもなくここは 乂1000取り合戦場乂 となります。
\∧_ヘ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
,,、,、,,, / \〇ノゝ∩ < 1000取り合戦、いくぞゴルァ!! ,,、,、,,,
/三√ ゚Д゚) / \____________ ,,、,、,,,
/三/| ゚U゚|\ ,,、,、,,, ,,、,、,,,
,,、,、,,, U (:::::::::::) ,,、,、,,, \オーーーーーーーッ!!/
//三/|三|\ ∧_∧∧_∧ ∧_∧∧_∧∧_∧∧_∧
∪ ∪ ( ) ( ) ( ) )
,,、,、,,, ,,、,、,,, ∧_∧∧_∧∧_∧ ∧_∧∧_∧∧_∧∧_∧
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- 986 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 22:50
- 兵士は「急迫不正の侵害」に対して防衛し,「自己又は他人の生命,身体,自由又は財産に対する現在の危難」を回避するために,政府の命令や「法令」に従った「業務」として戦闘し,違法性を阻却されるのである。
ここで,正当防衛と緊急避難の但し書きの部分について少し触れておこう。正当防衛については「防衛の程度を超えた行為は,情状により,その刑を減軽し,又は免除することができる。」,緊急避難については「その程度を超えた行為は,情状により,その刑を減軽し,又は免除することができる。」という但し書きがある。つまり,正当防衛と緊急避難は過剰になってはいけないと言っているのである。過剰になれば,刑の減軽はあるとしても,犯罪であると言っている。これが戦争犯罪に該当する。戦争は互いの破壊と殺戮であるが,それが過剰になれば戦争犯罪になるという論理がここに含まれている。逆に,そのことは戦争中の虐殺などということを安易に言ってはいけないということをも意味する。戦争中の行為が戦争犯罪かどうかは,一つ一つ,過剰であったかどうかを識別しなければならないということである。安易に扱えば,もともと戦争それ自体が相互の殺戮と破壊なのだから,何でも虐殺になりかねない。注意すべきである。
さて,硫黄島では日本兵はアメリカ兵に惨敗し,ほぼ全滅するまで戦い,「玉砕」した。アメリカ兵も日本兵も,違法性阻却事由をもって戦った。ともに罰せられるいわれがない。平和時に殺戮と破壊が犯罪に該当しても,戦争時に敵兵に対してはその違法性を阻却される。繰り返すが,平和時には破壊と殺戮は犯罪である。だが,引き分け的に和睦して双方が戦闘意志を放棄するとか,敗者が降伏して戦闘意志を放棄し,それに伴って勝者も戦闘意志を放棄するとかいうことがない限り,破壊と殺戮は続く。「玉砕」するまで戦おうとすれば,相手は「殲滅」するまで戦おうとする。当たり前の話である。
硫黄島での戦闘は,双方ともに違法性を阻却された正当な戦闘業務である。勝とうが負けようが,それは双方無罪の戦いなのである。
- 987 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 22:51
- むろん人間個人にとって生命および生活は個人が個人たる根拠であり,これを殺戮し破壊すること,その殺戮と破壊を賭けることは好ましくない。つまり戦争は可能な限り,選択しないほうがよい。だが,始めてしまえば,あるいは,終わらなければ,続けるほかはないのである。
だから,西部邁よ,硫黄島の日本兵の惨敗を見て,思うべきことはただ一つ,惨敗が決定的になったら降伏せよということである。降伏しなければ,「殲滅」されるのは事柄の必然なのである。
太平洋戦争が,社会運営法という基本から言えば,アメリカが勝つべき戦争であったということと,一つ一つの戦闘でアメリカが勝ったら万歳ということとは意味が全く違う。
ある戦闘における大量の兵士の死は,彼ら個人の生の終わりであるのみならず,その家族や身内における最愛の個人の喪失である。彼らの生を断固として尊重しなければならない。硫黄島の守備隊が押し寄せるアメリカ軍と戦闘しても,惨敗し,全滅するしかないと予測できたのなら,その撤退を支援すべきであった。「生きて虜囚の辱めを受けず」という倫理を兵士に強制していたのなら,それを修正して,降伏し捕虜になることを許容すべきであった。兵士の生命は国家のものではなく,その兵士個人のものであり,その家族,身内のものである。守るべき国とは,諸個人とその家族,身内の普通の暮らしの集合体である。全滅を回避させ,可能な限り,多くを生き残らせ,普通の暮らしに戻し,普通の暮らしを続けさせるというのが,戦争における国家の最も重要な使命である。国家がその使命を負わなければ,そもそも戦争する意味もないのである。
戦前の日本の軍事思想はここでも間違っていた。最後の一兵まで戦え,「玉砕」せよ,捕虜になるな,死ぬまで戦えなどという軍事思想は「人で無し」の軍事思想なのである。それは人間が個人ではなく,臣民であった大日本帝国の社会運営の一つの現れなのである。生き残れ,死に急ぐな,死んだら悲しむ者がいる,今降伏しても次の機会があるという軍事思想こそ,自由と民主主義の軍事思想なのである。
- 988 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 22:51
- 私がこの映画を見ていたら,おそらく,なぜ硫黄島の守備隊を撤退させなかったのだ,なぜ圧倒的な火力を見抜いて降伏しなかったのだというような感想を抱くと思う。兵士は臣民なのではなく,血の通った個人,他の人とも心の血を通わせる個人なのである。惨敗しそうなら,逃げよ,戦っても殺されそうなら,捕虜になれ。それは大日本帝国の軍事道徳ではなかったが,現在,最強の軍事大国アメリカの軍事道徳なのである。アメリカの優越はここでも明白である。
さて,西部さんは硫黄島で圧勝したアメリカ軍が,惨敗した日本軍に虐殺紛いのことをしたようなニュアンスを漂わせている。これについて触れておきたい。
「日本兵が艦砲射撃で焼かれる場面や,日本兵の骸骨や死体を山ほどの実写映像で見せつけられ,」という部分である。
硫黄島「玉砕」があったのは,昭和20年2月のことであった。その頃すでに,アメリカ軍はサイパン、グアムなどを制圧してB29爆撃機による日本本土への長距離爆撃を開始していた。そこで本土防衛のために,大本営は硫黄島に総数約21,000名を配置し,島内に全長18kmにも及ぶ地下壕を作ったそうである。アメリカ軍は艦船800隻、航空機4,000機、総数25万人を投入して,上陸作戦を開始し,まずB−29によって空爆し,硫黄島沖に集結した艦隊によって艦砲射撃したそうである。その当時,まだ神風特別攻撃隊(5,6機?)の体当たり攻撃には効果があり,空母「サラトガ」(約30人が戦死)を損傷し,「ビスマルク・シー」(約200人が戦死)は沈没したという。また,アメリカ軍の上陸後,日本の海軍航空隊の一式陸上攻撃機(1機?)がアメリカの軍高射砲の弾幕をぬって、アメリカ軍占領地域に爆弾を投下したという。さらに回天特別攻撃隊が潜水艦三隻で編成され、出撃したが,そのまま消息を絶ったそうだ。
この兵力の差にはもの凄いものがある。惨敗するのが当たり前である。だが日本軍は兵力で圧倒的に劣るが,地下壕に潜って戦い続け,また特攻攻撃で相手を殺戮し,破壊している。で,3月16日に,次のようなアメリカ軍の降伏勧告状が,司令官栗林忠道さんに送られた。
「日本軍が硫黄島で示した恐れを知らぬ不撓不屈の精神は、全戦闘員の賞賛に値する。貴下は類まれな戦法で部隊を指揮してきた。われわれは、絶体絶命の状態に追い込まれた勇猛な部隊を完膚なきまでに壊滅するつもりはない。それ故に私は貴下に対し直ちに部下の抵抗を中止させ、我軍の防禦戦を通って安全地帯へ行進してくるよう勧告する。貴下並びに貴下の将兵は、戦争規程に従って人道的に処遇されるであろう。」
この降伏勧告は礼を尽くしたものである。降伏後の処遇がバラ色のものであるはずはないが,しかし,これは次の機会に備え,戦後社会の再建に身を残すために降伏すべきものであったと思う。ところが,翌日の総攻撃の時点で約一万人前後,生存していた将兵は,ほとんど降伏せず,ほとんどが指揮系統を失ったまま個別に戦い,最終的な捕虜人数は約1000名であったという。文字通りの全滅戦法,「玉砕」である。こういう万歳突撃=自殺を美化する軍事道徳である限り,日本人は再び処理を誤る。
- 989 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 22:51
- この降伏勧告後,司令官の栗林さんは「訣別電報」を打っている。彼は惨敗の原因を「米国との物量の絶対的な差」であるとし,「…今や弾丸尽き水枯れ、戦い残るもの全員いよいよ最後の敢闘を行わんとするにあたり、つくづく皇恩のかたじけなさを思い粉骨砕身また悔ゆるところにあらず。ここに将兵とともに謹んで聖寿の万歳を奉唱しつつ、永久のお別れを申しあぐ。」と語っている。これが大日本帝国の軍事思想なのである。全滅するに決まっている戦いを命令するな,自殺教唆すんな,アホか,生き残らんかい,捕虜になって次の機会を待たんかい,何で将兵まで道連れにする?,死ぬんならお前一人で死ね,何が「皇恩のかたじけなさ」だ,アホンダラとでも言うしかない。彼はこの「訣別電報」に短歌を書き付けており,その一つに「仇討たで野辺に朽ちじ吾は又 七たび生まれて矛を報らむぞ」とある。全滅を命令して,挙げ句の果てはオカルトである。死んだら骨と灰である。生まれ変わることなど絶対にない。
敗戦後の日本を再建する貴重な人材を10000人近くも死なせ,その人数の家族や身内から最愛の人を奪い,喪失させて,「皇恩のかたじけなさ」もへちまもあるか。司令官たちが死んで,兵士たちを救うのではなく,司令官たちが兵士たちを道連れに死のうとする。その錦の御旗が「皇恩」である。惨敗が確定的になったら,降伏を命じ,自分は死に,兵士たちは生き残らせて再起を図らせようとするのではなく,最後は自分もろとも兵士たちおよび組織も滅びればよいという発想は現在の政治経済の「司令官」たちの一部にも色濃く影を落としている。いや軍人が「滅びる」とは死ぬことであり,まだしも責任を負っているが,経営者や上級公務員の一部は,部下や組織が滅んでも,自分の財産を隠し,自分の特権を残し,自分だけは生き残ろうとしているのである。
結局,硫黄島の戦闘におけるアメリカ軍の戦死者は約7000名、負傷者は約21000名であるという。この人的損害は、日本軍守備隊の総員約21000名を大きく上回った。よく戦ったと言えるが,しかし,そのよき戦いが無差別爆撃や原爆投下を生んだとも言えるのである。惨敗局面でよく戦い,相手に人的損害を与えれば与えるほど,相手はよりいっそうの殺戮と破壊に転じる。これは戦争における必然であろう。
運命の任務(「業務」)として命を賭けて戦い,死んでいった兵士たちは慰霊し,鎮魂しなければならぬ。しかし,全体主義的理念を掲げ,ヒットラーと同盟し,アメリカとの戦争に突入し,また全滅がほぼ必然である場合にさえ,捕虜になるな,死ねと命令した大日本帝国の政治的,軍事的指導者たちを免責することはできない。命を賭けて戦い,死んでいった兵士たちの行為と魂は重い。だが,だからこそ,それを大日本帝国の悪と誤りの肯定のための道具にさせてはならないのである。
- 990 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:10 ↓
- 1000
- 991 : 姉妹スレ :2003/05/29(木) 23:17 ↓
- 現代、日本の衰退ほど、世界を驚かしたものはない。
http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=599&KEY=1054183519&LAST=100
- 992 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:38
- >>980-989
駄レス。観念論でしかなかった。失敗した。
- 993 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:42 ↓
- >>992
>駄レス
何言ってんだ?コピペじゃねーか。
- 994 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:43
- だから、コピペが失敗した。コピペしなきゃよかった。
- 995 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:44 ↓
- コピペに釣られて1000達成するバカは誰だろう
- 996 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:44
- <Q6>
昭和12年に日本が中国と戦争をした時に、日本軍が中国の首都の南京で30万人もの 中国人を殺したそうですが、本当ですか。
<A6>
嘘です。
それは南京大虐殺と呼ばれて宣伝されている事件のことですが、最近では研究が進んで きて嘘だとわかってきました
1、どうして日本軍が中国の首都の南京を攻めたのですか。
中国軍が上海で戦争をしかけて、日本と戦争になったからです。
中国に上海という都市がありますが、昭和12年(1937年)当時の上海には租界と いうフランスやイギリスやアメリカが主権を持つ地域がありました。上海にはフランス 軍やイギリス軍やアメリカ軍や日本軍も駐留していました。その頃にいくつかの事件が あり日本と中国の仲が悪くなってきたので、中国は上海ふきんに兵力を増強しました。 日本も上海にいた数万人の日本人を守るために兵力を4,000人に増強しましたが、中国 軍は150,000人もの大軍でした。
そしてとうとう中国軍が攻撃を開始し、また中国軍機も上海を爆撃して日本と中国との 間で戦争が始まりました。最初のうちは日本軍は苦戦し続けました。なぜなら兵力が少 なかったし、中国軍はドイツ軍事顧問団の指導ですっかり戦争の準備を整えていたから です。しかし、日本軍もだんだんと兵力を増強し、苦戦を打開するために杭州湾という ところに大軍を上陸させました。すると背後をつかれた上海ふきんの中国軍は退却を始 め、日本軍は中国軍を追撃して首都の南京に迫ったのです。
その当時に主に日本軍と戦っていたのは現在の中国を支配している中国共産党の軍隊で はなく、現在は台湾を支配している国民政府の軍隊でした。当時の中国はいくつもの勢 力がそれぞれ中国各地を支配していて、その最大の勢力が国民政府軍で、この頃の中国 共産党軍はその中でも小さな勢力でした。だからここで中国というのは国民政府のこと です。
2、当時の南京の人口はどのくらいだったのでしょうか。
日本軍が南京を占領する直前の人口は20万人で、占領後1月で25万人に増えまし た。
戦場が南京に近づくにつれ、多くの南京市民は避難して市内に残っているのは貧しい難 民だけになりました。陥落前の南京には22人の欧米人が残っていて、そのうちの15 人が国際委員会という会をつくりました。彼らは南京市内に4平方キロに満たない広さ の安全区という地域を設定して、ほとんどの民間人をその地域に収容しました。上海の 戦闘でフランス人のジャキーノ神父が安全区を設定して上海市民に戦争被害が及ぶこと を阻止できたので、南京の欧米人もその真似をしたのかもしれません。
南京大虐殺があったと主張する人たちは日本軍占領直前の南京の人口は50万人と述べ たりしますが、それにはちゃんとした根拠はありません。当時の資料で人口に関するも のは約130件ほどありますが、この資料からは占領直前の南京の人口は20万人くら いだったことがはっきりと浮かび上がります。また人口分布に関する当時の資料は50 件以上ありますが、この資料からは民間人のほとんど全部が安全区にいたこともわかり ます。
もちろんこの数字は人口調査をしたものではないので、おおざっぱな数字です。しか し、重要なのは昭和12年12月の日本軍の占領後に人口の減少がないことです。人口 の減少は当時の資料にはどこにも記録されていません。逆に日本軍の占領後は、1ヶ月 以内に人口が5万人増えています。例えば、当時の国際委員会の外国人たちは難民に食 料を配給しようと努力していたので、南京の人口が日本軍の占領前は20万人くらいで 占領後に25万人になったという事実をつかんでいて記録しています。国際委員会の人 口に関する記述は記録日や記録者が異なったものが三ヶ月間にわたって何回も記録され ていますが、この数字は常に一貫しています。
- 997 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:44 ↓
- お前もチェックしてんじゃねーか
- 998 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:45
- 3、虐殺を目撃した人はいるのですか。
当時の資料では南京市内で虐殺を見た人はいません。
特に南京大虐殺のように国際政治や思想闘争の焦点になった事件では、何十年後に作ら れた資料では、記憶違いや後日の情報や政治や思想の影響に左右されたり、または意図 的に資料が作られたりします。だから、このような問題ではその当時に記録された資料 かどうかがとても大事です。
当時の南京在住の国際委員会の欧米人で虐殺を実際に見た証言はほとんどありません。 その欧米人たちはもともと中国側と縁が深く中国人に親しみを持った人たちで、国民政 府から依頼されたり、そのエージェントと連絡をとって日本を非難する原因を作るような 人たちもいました。そのため彼らは手あたりしだいに日本軍の犯罪を記録し抗議してい ます。しかし、その彼らも南京大虐殺どころか、日本軍による市民の殺害は見てはいま せん。見たのはただ2件のみで、その2件とも違法な殺害とはいえないものです。
そのうちの1件はマギー神父が東京裁判で証言した事例です。国際委員会のメンバーの マギー神父は、難民のいる安全区を自由に歩き回っていました。そのマギー神父は東京 裁判で南京大虐殺の証人として日本軍の暴虐を延々と訴えます。しかし、その裁判で彼 は「実際に見たのですか」と質問されたのです。するとマギー神父が実際に見た殺人 は、警備中の日本兵に呼び止められて逃げ出した中国人が撃たれた1件だけでした。
もし、市民に対する虐殺があったとするなら、それは南京市民のほとんど全部がいた安 全区の中であったとしか考えられません。しかし、安全区を管理して怪しいできごとは ないかと歩いたり車で走り回っていた国際委員会の外国人たちは誰一人として実際には 虐殺を見ていないのです。そこで地獄のような大虐殺が本当に何週間も続いていたのな ら、大虐殺を見ていないはずはありません。
国際委員会の代表のドイツ人ラーベのように、後に日本軍が数万人を虐殺したと述べた 人もいます。彼はドイツ政府へは政治的な主張でそう報告しましたが、イギリス大使館 には虐殺は数百人だと、日本大使館には49人の虐殺があったと異なった数の報告をし ています。しかし、彼は実際には一件の殺人も目撃してはいません。ラーベもそうです が、国際委員会の欧米人たちはもともと日本に対して悪意を持っていたのかもしれませ ん。
そのため彼らは、強姦だとか盗難だとかと聞いた話を確認もせずに日本軍の犯罪として 組織的に集め記録し抗議しています。しかし、たとえその全部が本当だとしても大虐殺 の情景とはほど遠いものです。彼らは、クーラーボックスが盗まれたとか、茶碗や皿が 盗まれたとか、そういうことまでも日本軍のしわざとして重大事件のように記録し抗議 しているような状況です。もちろん民間人の大量殺害に対する記録や抗議はしていませ ん。繰り返しますが、当時の南京の欧米人が記録した約980件の事件の中で伝聞でな い殺人は2件だけなのです。
- 999 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:45
- 4.日本が戦争に負けた昭和20年(1945年)の南京の様子はどうですか。市民が 大虐殺を口々に訴えたり、日本人に復讐をしたりしたのですか。
そういうことはありません。
現在の日本人や中国人と違って、日本が敗戦した当時の南京市民(中国人)も南京に住 んでいた日本人も、南京大虐殺があったという認識はほとんど持っていませんでした。 戦後かなり後になってから宣伝が盛んになり多くの日本人や中国人が南京大虐殺を信じ てしまったのです。
日本が戦争に負けた後で、中国は東京裁判に提出する南京虐殺の証拠を集めるために、 南京の日本軍の犯罪を告発するように中国人に呼びかけました。しかし、当時は南京で の日本軍による残虐行為を申し出る者は「甚だ少く」、「否認する者」もいて、結局 翌年の1月に東京裁判の証拠として提出できた証言は1件だけでした。そのため、裁判 中も中国側は証言集めに非常な努力をして11件の証言を裁判に間に合わせて形だけは なんとか作りました。しかし、今日の目で落ちついて見ればそれらは日本軍が南京市内 で大虐殺をやったと証明できるような証言でもなく、ちゃんとした検討に耐えうるもの でもありません。
日本軍の占領後の南京には一万数千人の日本人がいて中国人に交じって住んでいた人も 多かったのですが、当時は南京大虐殺などということを聞いた人はいません。昭和20 年の南京には一万人以上の日本人がいて、敗戦のために日本人は中国当局によって市内 の一ヶ所に集められそこで半年ほど生活しました。しかし、敗戦後の南京の日本人たち は虐殺の復讐を受けることもなく、中国当局から南京大虐殺ということを聞かされるこ ともありませんでした。彼らが南京大虐殺ということを知ったのは、戦後に日本に帰っ て、後になって南京大虐殺を宣伝する本やマスコミに接してからです。
南京にあった日本軍の総司令部は中国軍に降伏した後に、一年以上にわたって中国側と の連絡や交渉の窓口として南京で活動しましたが、その間に南京大虐殺の問題が中国側 からもち出されたり、それによって両者の関係が悪化することはありませんでした。当 時の中国の指導者たちは南京大虐殺を本気で主張してはなく、裁判に関してのみのパー フォーマンスととらえていたようです。
また、その司令部の日本軍人の一人は敗戦後の南京市内を毎日散歩していましたが、危 害を加えられることなどありませんでした。日本軍の多くの部隊も敗戦後に南京周辺を 経由しそこから揚子江を下り日本に向いましたし、南京市内で下水掃除などの労働に従 事した日本兵もいます。日本兵は降伏して武器を持っていないので中国人から馬鹿にさ れることもありましたが、当時は南京大虐殺ということを聞かされたり市内で復讐され ることはありませんでした。
- 1000 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:45 ↓
- ヤタ!朕が1000げっとだ!!お前等朕にひれ伏せ!クソ共が!
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/\ /\ /神\/../
/ /\ \(´∀` )./
())ノ__ ○二○二⌒/../
/ /||(二ニ) (___/../ 几l
γ ⌒ /|V||彡Vミ/⌒_ノ二二ノl0
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朕は神なり!朕は神なり!朕は神なり!朕は神なり!朕は神なり!朕は神なり!朕は神なり!
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>>1001へ 1000狙いもコピペかよ、氏ね(ププ
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>>1003へ コピペ厨氏ねよ(ププ
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- 1001 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:45 ↓
- 1000げと
むなすぃ
- 1002 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:45
- 5、南京大虐殺の証言の多くは戦後かなり後になって作られたものですか。
そのとおりです。
証言は、それが『いつ記録されたものか、本当かどうかの検討ができるか』という2点 がとても大事です。日本人の中にも南京大虐殺を目撃したとか虐殺したという証言をし た人もいました。しかし、これまで本名で証言をした人は例外なくすべて嘘であったこ とが確認されています。例えば、元軍人であれば同じ部隊の人がまだ生きていたりした ので、周囲の人の証言や記録を調査すれば、彼は南京にいなかったとか作り話であると いうことなどが判明します。
そのため、最近では日本人に関しては匿名の証言が作られるようになりました。また、 中国人の証言の多くは中国政府(中国共産党)が南京大虐殺の宣伝に力を入れ始めた以 後に作られた(記録された)ものです。しかも、証言はその証人が本物か、証人は実際 に当時の南京にいたのか、内容は真実かなどの検討が可能であって初めて意味を持つの です。
みなさんも本や被害者だという人の証言をうのみにするのはやめて、自分が裁判官に なったような気持ちで自分の目で証拠(当時の記録)を確実に検討してみてください。 そうするといわゆる南京大虐殺は、実体のないものだということがわかります。証言に ついては、その証言がいつ記録されたのかをまず確認しなければなりません。例えば、 もしあなたが、匿名やその場にいたかどうかも証明できない人の、しかも事件から何十 年後にされた証言だけで、犯罪者とみなされたら納得できるでしょうか。
- 1003 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:46
- 6、当時の南京では実際にどういうことがあったのですか。
戦争で多くの兵士が戦死しました。また、軍服を着ていなかった中国兵の中には逮捕 後に処刑された人もいました。
東京裁判の時に中国側から南京虐殺の最も重要な証拠として埋葬記録が提出されました が、その記録では女性や子供の遺体は0.3%にすぎません。そして死体の収容場所の ほとんどが城外の激戦のあった場所でした。これは死者は兵士の戦死者であって、民間 人の被害は少なかったという事実を裏づけてます。
また、中国軍の兵士は戦闘に負けると軍服を民間人の服に着替えて南京市内の安全区に 入ったので、日本軍は彼らを逮捕しその一部を処刑しました。これは当時の国際法でも 問題ありません。軍人が戦闘地域で軍服を着ないで逮捕されたら捕虜になる権利はな く、処刑されても文句は言えないのです。
なぜなら軍人が軍服を着ずに行動すれば民間人と兵士との区別がつかなくなり、結局は 民間人がむやみに殺される結果を招くことになるからです。彼らを逮捕するために日本 軍は歩兵第七連隊という部隊が4日間だけ昼間に安全区の捜索をしました。安全区内の 捜索は将校の指揮の下にまとまって行なわれ、兵隊や下士官が独自に行動することは許 されませんでした。
その他には、南京市の郊外の幕府山というところで捕虜を護送する途中に暴動が起り数 多くの捕虜と少数の警備の日本兵が死ぬという事件などもありました。
- 1004 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:46
- 7、でも、多くの人は南京大虐殺があったと信じているようですが。
そのとおりです。
現代の中国人の多くは屠殺記念館や抗日記念館や国定の歴史を学んで、南京で30万人 の市民が日本軍に虐殺されたと信じています。また世界の多くの人々もそのように信じ ています。また、日本人も30万人虐殺はおおげさでもなんらかの虐殺があったと信じ ている人が多いのです。
しかし、今の日本では研究はかなり進んでいて、当時の南京で民間人の老若男女に対す る虐殺があったということは、学問的には証明が不可能になっているといってよいで しょう。当時の写真やフィルムも虐殺を証明するようなものはひとつもありません。虐 殺に見えるような写真が数枚ありますが、それらは作られた写真か写真の説明を書き替 えているものだということがわかっています。逆に虐殺がなかったことを推測させる写 真やフィルムはそれこそ無数といってよいほど数多く残っています。ちゃんと検討され た虐殺の証言もありません。
現在では、虐殺を宣伝する人たちは、軍服を民間の服に着替えた中国兵の処刑や、捕虜 を護送中の事故などを議論して南京事件があったと主張し、その一方では南京大虐殺を 民間人の無差別大量殺害のイメージで宣伝したりします。また、南京大虐殺を上海から 南京までという気の遠くなるような空間に広げて虐殺があったと主張する学者もいま す。もちろんそれは証明したり検討したりできるようなきちんとした話ではありませ ん。
また、虐殺がなかったという状況証拠に反論するだけの研究者もいます。それにもかか わらず、南京大虐殺があったと主張する人たちの多くは、ナチスのユダヤ人虐殺と並ぶ ようなものとして南京大虐殺を宣伝しようとしています。そして残念ながら現在のとこ ろその宣伝は成功しているのです。
《もっと調べたい人のために》
参考文献
「南京虐殺」の徹底検証 東中野修道 (展転社)
「ザ・レイプ・オブ・南京」の研究 藤岡信勝 東中野修道 (祥伝社)
「南京虐殺」への大疑問 松村俊夫 (展転社)
再審「南京大虐殺」 竹本忠雄 大原康雄 (明成社)
南京「虐殺」研究の最前線 東中野修道 編著 (展転社)
南京事件の総括 虐殺否定の論拠 田中正明 (展転社)
「南京事件」日本人48人の証言 阿羅健一 (小学館文庫)
「南京事件」の探求 北村稔 (文春新書)
- 1005 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:46
- <Q5>
2002年の小泉首相の訪朝をきっかけに、多くの日本人が北朝鮮に拉致さ れていたことが明らかになりました。
ところが、「日本が朝鮮を統治していた時代に、日本もたくさんの朝鮮人を『強制連 行』したのだ、それにくらべれば、拉致問題などは小さな問題だ」という意見を聞き ました。昔は日本も朝鮮人を拉致するようなことをしたのでしょうか?
<A5>
正しい歴史を知ることが、今、わたしたちを取り巻く問題に直接かかわって くる、というよい例です。正しい歴史を知っていれば、このようなおかしなことを言 われても、すぐにきちんと反論できるのに、学校は何をしているのでしょう。
・「強制連行」というプロパガンダ用語とイメージ操作
まずは「強制連行」という言葉のトリックについて説明しましょう。
この言葉からイメージするのは、どのようなものですか?現在の日本の拉致被害者が 証言するような、たとえば海岸を散歩しているときに、いきなり殴られて、大きな袋 をかぶせられ、船で連れていかれる、といったものでしょうか?これは明らかに拉致 であり、暴力的な「人さらい」と言っていいですね。
そして、中学校の教科書を見ると「強制連行」の例として「警察官や役人が土足で家 に上がり、寝ている男を家から連れ出すこともありました」とか、「町を歩いてる者 や、田んぼで仕事をしている者など手当たり次第、役に立ちそうな人は片っ端から、 そのままトラックに乗せて船まで送り、日本に連れてきた。」といったことが書いて あります。もしも、これが本当に行われていたことであるならば、拉致と同様、「人 さらい」であり、完全に犯罪であるといわざるをえません。しかし、こうした「奴隷 狩り」のようなことは実際に行なわれたのでしょうか?
実はこれらの「証言」と呼ばれる話をくわしく調べてみると、「証言」者が連れ出さ れた、と言っている時期がまったくありえない年代であり、歴史的事実とは、かけは なれたものであったことが証明されました。まったくありえない物語、つまり、ずい ぶん後になって、何らかの目的・意図をもってつくりあげた「フィクション」=嘘で あると分かったのです。現に、これらのエピソードは平成14年版の教科書からは共 に削除されています。
そもそも、明治43年(1910)の日韓併合後、朝鮮半島では警察官の半数以上、 村の村長(朝鮮では面長といいました)、その上の郡守はほとんど全員が現地の朝鮮 人でした。「日本国民」となった朝鮮人は日本の政治に参加し、衆議院議員にも東京で当選 し、貴族院議員にも任命されるなど、国会議員としてきちんと活躍していたのです。 それにもかかわらず、朝鮮半島で「奴隷狩り」のようなことが行われていたというな らば、大騒ぎになるはずです。
なお補足しますと、朝鮮では日本人も朝鮮人も選挙権がなく、内地では日本人も朝鮮人も選挙権があったのです。
もちろん、多くの朝鮮人が日本に来て、働いていたことは事実です。でも、それは「 強制連行」などという「犯罪」をイメージさせる言葉で表現されるようなものだった のでしょうか。
だいたい、この「強制連行」という言葉そのものが、戦後20年以上経ってから、嘘 の「証言」=「偽証」をでっちあげてまで、日本を非難するために作られた「造語」、 いわゆる「プロパガンダ」用語です。
では、そのような非難・攻撃を意図した言葉ができる以前、もっと言えば、多くの朝 鮮人が日本に渡ってきた当時、もっともっと限定して、彼らが「日本国民の義務」と して日本に動員された時には、それはどのように呼ばれていたのでしょうか? 答えは「徴用」(ちょうよう)です。
「徴用」とは、国家の非常時であった昭和14年(1939)から徐々に日本国民に 課せられた義務であり、健康な青年男子は「徴兵」で戦場に行き、残った国民は国の 定める重要な産業に従事しました。
それも「徴用」という、「国民の義務」として、朝鮮人労働者を集めたのは、日本が 戦争に負ける前年の昭和19年(1944)の9月になってからのことでした。しか も、すぐ翌年の昭和20年(1945)の3月には日本と朝鮮の連絡船がストップし てしまったので、実際はわずか7ヶ月あまりの期間です。では、終戦当時、日本に2 00万人いたと言われる朝鮮人はどのようなかたちで渡ってきたのでしょうか。
- 1006 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:47
- ・朝鮮人労働者の日本渡航 「出稼ぎ」と「募集」・「官斡旋」・「徴用」
日韓併合が行なわれた明治43年(1910)以来、朝鮮人の日本への移住者は年々 増え続け、日本列島内に住む朝鮮人は大正10年(1921)末には約3万8千人も いました。そして、昭和2年(1927)末には約16万5千人と増加し、昭和13 年(1938)末には79万9千人です。つまり、この28年の間に、日本に働き場 所を求めて、自由に渡ってきた朝鮮人たちが、80万人近くもいたのです。日本政府 が朝鮮人に日本に行って働け、と命令したわけではありません。
それどころか、当時は、朝鮮人がたくさん日本に移住してくると、日本人の仕事をう ばわれてしまうことや、言語・風俗のちがいなどによるさまざまな社会問題があるた め、きちんとした就職先や生活の見通しを持たない朝鮮人の渡航を、日本政府はきび しく制限していたのです。日本への渡航を希望する場合には、かならず証明書を必要 とし、就職先や滞在費を持たない朝鮮人の渡航を認めませんでした。
丁度今日、中国人や東南アジアの人が、不法に入国しないようにしているのと同じです。 それでも、今見たように80万人近くの人が出稼ぎにやってきていたわけです。これ を「強制連行」などという言葉でよぶのは、まちがいであるということは明らかです ね。
その後、昭和13年(1938)になると、日本人の青年が戦争に行ってしまうこと により、国内では労働力が足りなくなってきました。そこで、働き手をおぎなうため、 日本人は大人から子どもまで工場などではたらくことになりました。
それを法律で定めたのが「国家総動員法」といい、国家の非常時に必要に応じて、国 民を「動員」できるようにしたのです。 そして昭和14年(1939)4月にできた「国民徴用令」では、日本人のうち15 歳から45歳の男子、16歳から25歳の女子が、国民の義務として、国の定める仕 事につくようになりました。
でも、この時点では、「徴用」されるのは、日本人男女に限られており、朝鮮人はま だ「徴用」の対象にはなっていません。
日本人男女が「徴用」され、工場や炭鉱ではたらきはじめた昭和14年(1939) になって、日本政府は朝鮮半島でも、労働力を「募集」することを解禁しました。そ れ以前、日本内地の企業は朝鮮半島で従業員を募集することは禁じられていましたが、 非常時における国内の労働力不足に、新しい人材を求めることを政府が許可したので す。 もちろん、これはあくまでも「自由募集」であり、決して首に縄をつけて連れてくる ようなものではありません。
ところが、それぞれの企業がリクルートをはじめると、企業どうしの競争がはげしく なったり「誇大広告」にひっかかる人もでてきました。これをみて、朝鮮総督府は「 職業安定所」のようなものをつくり、企業の求人と働き手をつなぎ、トラブル防止に 努めました。
昭和16年(1941)12月の日米開戦をはさんで、戦争に行く日本人男性が多く なるにつれ、国内の労働力不足はますます深刻になってきました。
そこで、昭和17年(1942)になると、今までの自由な「募集」から、決められ た人数を割り当てて集める「官斡旋(あっせん)」という形をとるようになりました。 これは会社の事業主が朝鮮総督府に必要な人員を申しいれ、総督府が道(日本の県に あたります)に割り当て、道は郡、面に人員の割り当てを行う、つまり地方ごとに必 要な人数を募集するというシステムです。
一見、「強制」に近いようですが、これを拒否したとしても罰則はありませんでした ので、日本に渡ってきたあと、もっと収入の良い働き場を求めて、逃げ出し、別の職 場で働く人もいました。たとえば、ある朝鮮人は「官斡旋」の制度によって日本に来 ましたが、なじめなかった職場を辞めて、朝鮮人が経営する土木会社に再就職し、そ の後もきちんと食糧の配給を受けています。 また、約1〜2年の契約期間が切れたあとは、日本に残っていても、同じ日本国民と して参政権などの権利もありました。
- 1007 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:47
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- 1008 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:47
- ・朝鮮人労働者の賃金
ところで、彼ら朝鮮人労働者は、まるで奴隷のように、ただ働きをさせられていたか のように思われていますが、はたらいた分の賃金はきちんと払われています。炭坑や 鉱山、土木事業などは、きつい仕事であったため、いやがる人もいましたが、その分、 報酬はかなりよかったので、進んで希望した人もいたほどです。
たとえば、昭和19年(1944)頃の九州の炭坑での賃金は1日4円〜8円(平均 5円)で、これにいろいろな手当がついて月収は150円〜180円、勤務の成績の よいものは200円〜300円です。
はたらいたお金は朝鮮の親元へ送金したり、貯金したりして、だいたい平均すると、 朝鮮人労働者の送金は30円〜50円程度でした。 ちなみに、当時、巡査の初任給が月額45円、事務系の大学卒の初任給が75円、上 等兵以下の兵隊(軍人の約8割)の平均俸給が10円弱ですから、相当な高額だった ことが分かります。
さて、いよいよ昭和19年(1944)9月、朝鮮人にも日本人と同じ「徴用」が行 われることとなりました。このころといえば、もう敗戦の1年前、日本にとってはこ れ以上ない非常時です。日本人は男の子も女の子も12歳から「徴用」されて、さま ざまな場所ではたらいていました。
「徴用」なら拒否することもできないのだから「強制連行」と言ってもいいのではな いか、といえば、全国みんな「強制連行」だらけになります。 日本人は、それこそ働き盛りの青年が戦争に行ってしまっていますから、12歳の子 どもまではたらいていたのです。日本人男性が「徴兵」によって戦場に行くのも、日 本人の子どもが「徴用」されて工場に行くのも、すべて「強制連行」といいますか? 韓国は今現在も「徴兵」制度を維持し、男子はかならず軍隊に入りますが、これを「 強制連行」と呼ぶ人は誰もいません。
戦争末期という非常時には、日本人なら誰もが皆何らかのかたちではたらいていたの です。
「日本人なら皆」この前提は大切です。ここまでこの文章で使ってきた「朝鮮人」と いう言葉も、正しくは「朝鮮人」ではなく、「朝鮮に住んでいる日本国民」であり、 当時の言葉で言えば「外地人」「半島人」「半島出身者」の「日本国民」ということ になります。 ですから、国民の義務としての「徴用」が朝鮮人におよぶのは自然な流れでした。
それでも、昭和14年(1939)から、すでに15歳の男の子、16歳の女の子に 対して「徴用」がはじまっていた日本人よりも、戦争末期の昭和19年(1944) になるまで「徴用」されなかった「外地」の人は、まだ特別な配慮がされていたとい えるでしょう。
それよりも、何よりも日本政府や企業の関与した「官斡旋」「徴用」とは別に、自分 の意思で、それこそ「一旗あげるために」出稼ぎに来た朝鮮人が、いかに多かったか を忘れてはなりません。その数字と例をあげてみましょう。
- 1009 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:47
- ・出稼ぎ渡航者と「強制連行」された人が一緒の船に?
まだ、自由な「募集」段階の昭和15年(1940)、企業の「募集」に応じた朝鮮 人渡航者は5万3千人(厚生省統計)でした。しかし、なんと同じ昭和15年の朝鮮か らの渡航者の総数は38万5千人です。つまり、企業が「募集」した以外に約33万 人が日本に渡航しているのです。募集人員の7倍近くの人たちは日本に職を求めてや ってきた出稼ぎ渡航者です。
このような、正規な「募集」でリクルートされた人数よりも、自分の意思で自由に出 稼ぎに渡航した人数が大幅に上まわるという事実は、ずっと変わりませんでした。
しかし、こうした自由な出稼ぎ労働者を放っておけば、本当に人員が必要な企業に、 必要なだけの人数を採用することができません。そこで、正式な「募集」に応じた者 以外は、日本政府が旅費を負担して「強制送還」していましたが、その費用も馬鹿に ならなかったといいます。
ちなみに昭和14年(1939)から昭和17年(1942)までの4年間で、約2 万人が摘発され、朝鮮半島に送還されています。「強制」というなら、日本に「連行 」してきた方ではなく、「送還」した方だったというのが事実です。ずいぶんイメー ジが変わってきました。
ところで、企業がリクルートしたり、政府が関与しない場合、つまり「募集」や「官 斡旋」に応じたのではなく、個人的に出稼ぎに行く場合は、きびしい規制を潜り抜け ていくことになります。それでも、日本に行きたいと思うならば、密航ブローカーに、 相当高額の手数料を支払ってまで渡航しなくてはなりません。
そこで「募集」がはじまったあと、政府が渡航費用を負担するこの制度をちゃっかり と利用する人々が増えてきました。 たとえば、いったん「募集」に応じたものの、何らかの理由で渡航をとりやめた人間 の戸籍謄本をもらいうけてすり替わったり、出発の人員点呼の時、応募者がそこにい ないと、代わりに勝手に返事をして、うまく集団にもぐりこんだり、という荒技も使 われました。
また、「募集」に応じたふりをして渡航の権利をもらい、日本に着いたあとすぐに、 すきを見て逃走すれば、費用をかけずに日本に渡ることができるため、こうした渡航 者が後をたちませんでした。
ようするに、企業や政府が「募集」「斡旋」した人々、昭和19年9月以降には「徴 用」した人々がいたと同時に、それを圧倒的に上まわる大量の出稼ぎ渡航者があふれ かえっていたのです。「募集」「官斡旋」「徴用」というものが、もし「強制連行」 という「奴隷狩り」のようなものであるというならば、無理やり日本に「連行」され る人たちと、自分で高額の旅費を払ったり、密航までして出稼ぎに行く人たちとが、 同じ船に乗り合わせていたという、おかしなことになってしまいます。
- 1010 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:48
- ・朝鮮人渡航者の証言
在日朝鮮人で、元朝鮮総連幹部の金光煕氏の手記にはこう記してあります。
「両親は南朝鮮の慶尚北道金泉郡という地方の出身だった。私が1941年(昭和1 6)の生まれだから、日本に来たのは1939年(昭和14)か1940年(昭和1 5)だろう。父の家は貧しい小作農だった。日本に来たのは、そのほうがまだ食える、 という程度の理由であったらしい。村役場で『工員募集』の貼り紙を見つけ、父はす ぐさま応募した。釜山の港から船に乗って下関に渡る。東京で生活の足場を築いたあ と、母を呼び寄せた。そこで生まれたのが私だった。」
また、姜壽煕という人は、昭和17年に面長(日本の村長にあたる)と駐在所の所長か ら「日本に行け」と言われて日本にやってきた人ですが、こう証言します。
「日本は天国だと思っていました。村から日本に行った人が帰ってくると、洋服を着 て中折れ帽子を被って革靴を履いているんです。親は親で、『うちの息子は日本から 帰ってきて、革靴を履いている』と自慢していました。…その頃は、朝鮮では村一番 の金持ちの子どもでも革靴など履けなかったのです。…ですから、『日本に行け』と 言われたとき、そんなに抵抗感もなかったのです。」
さらに、李斗煥という人も同じ頃に「斡旋」を受けています。 「役所に呼び出されて『日本へ行ってくれ』と言われた。いやとも言えないしな。ま あ正直いえば嬉しかったの。日本に来たくてもなかなか来られないんだから。韓国に あっても、仕事ないし、百姓ぐらいだから。おれだけじゃなくして、日本に来たがっ てたの、大勢いたんだ」
こうしてみると、無理やりトラックに乗せられて日本に連れてこられたり、寝ている ところを襲われて、といった「奴隷狩り」のごときイメージがくずれてきました。
- 1011 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:48
- >>1007最高!
- 1012 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:48
- ・現在の在日韓国・朝鮮人は「強制連行」されてきた人たちの子孫なのか?
最後に、今現在、日本にいる在日韓国・朝鮮人は、すべてといわないまでも、ほとん どが「強制連行」されてきた人たちの子孫だと思っている人が多いことについても、 ひとこと言っておかなければなりません。
終戦当時、昭和20年(1945)に日本に住んでいた朝鮮半島出身者は約200万 人でしたが、そのうち、「徴用」などで単身来日していた朝鮮人は、家族が故郷にい ることもあって、ほとんどが敗戦とともに帰りました。占領軍の命令によって、日本 政府が運賃無料の引き揚げ船を用意し、優先的に帰国させたのです。一方、自分の意 思で日本残留を希望した約60万人の人たちというのは、すでに家族も呼び寄せて生 活の基盤が日本にある人たちで、ほとんどが一旗揚げるために出稼ぎに来た人々とい えます。
戦後約30年経った昭和49年(1974)、日本政府は、在日韓国・朝鮮人に対し て、彼らがどういった事情で日本に来たのか、調査をしました。
このとき、日本にいた在日韓国・朝鮮人は約63万人、そのうち昭和16年(194 1)から昭和20年(1945)9月1日までに来日したのは15193人だったと いいます。
昭和16年といえば、まだ自由な「募集」でしたね。村役場の貼り紙を見て応募して きた金光煕氏のおとうさんと同じ段階です。生活が落ち着いて、奥さんを朝鮮から呼 び寄せ、子供も日本で生み育てていました。
昭和17年というのは「官斡旋」が始まり、姜壽煕さんや李斗煥さんが村長(面長) さんから「日本に行ってこい」と言われたころ、そして、昭和19年9月からは義務 としての「徴用」の時期に入ります。
その間に来た人々のうちで、昭和49年当時も日本に住んでいたのは約1万5千人。 しかも昭和16年以降だからといって、さきに見たように政府・企業が関与した以外 の、もっと多くの出稼ぎ渡航者がいたことを思い出さなくてはなりません。昭和15 年(1940)の「募集」人員に対して約7倍の自由な出稼ぎ渡航者がいたことは憶 えていますね。
また、昭和20年の統計でも、日本内地ではたらいている朝鮮人で、企業や政府が関 与した正規の労働者と「自由労働者」(当時、正規な動員以外の労働者をこう呼びま した)の割合は1:7であったといいます。
つまり昭和49年段階で日本に住んでいた、在日韓国・朝鮮人63万人のうち、日本 政府・企業が関わった昭和16年以降の渡航者は1万5千人、さらにそこから自由意 思での出稼ぎ渡航者数を差し引けば、仕方なく日本に来た朝鮮人というのは全体のう ちのごくわずかなのです。
このことからも、自主的な希望ではなく、「徴用」され、仕方なく日本に来た朝鮮人 で、戦後も日本に残ったという人の数は、もっと少なくなるでしょう。
なぜなら、いやいや日本に来た人たちが、引き揚げ船に優先的に乗れる権利を放棄し てまで、敗戦して焼け野原になった日本に残る理由もありませんし、それを止める人 など誰もいませんでしたから。
最後まで読んでいただいて、朝鮮人が「奴隷狩り」のようにさらわれ、ぎゅうぎゅう の奴隷運搬船に詰め込まれて、ただ同然でこきつかわれていたような、イメージは吹 き飛んだと思います。
そして、今、日本にいる在日韓国・朝鮮人を、そのような「奴隷狩り」の犠牲者の子 孫だと同情的に見るのは、かえって失礼なことです。彼らのおじいさんたちは、貧し いなかで海外雄飛の夢を抱き、海を渡った勇気ある人々であり、そのまいた種を日本 で根付かせた功労者なのです。 そして、長い歴史の中の一時期を同じ国民として一緒にはたらき、ともに戦ってくれ た人々であることも忘れないようにしたいものです。
北朝鮮が、工作員を使って、日本人をさらっていった国家的犯罪である拉致問題と、 過去の朝鮮人労働者の日本渡航が同じだなんて、少しでも勉強すれば、すぐに分かる ことです。うっかり、だまされないように、きちんと正しい歴史を勉強しておきまし ょう。
《もっと調べたい人のために》
参考文献
自由主義史観研究会編『教科書が教えない歴史』4・産経新聞社・平成9年(199 7)
杉本幹夫『植民地朝鮮の研究』展転社・平成14年(2002)
黄文雄『歪められた朝鮮総督府』平成10年(1998)
- 1013 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:48
- <Q4>
オランダが、日本との戦争中に受けた被害について、補償を要求しているようですが、そうした戦後処理はもう終わっているのではなかったのでしょうか?
<A4>
西暦2000年は、日本とオランダの修好400周年の節目にあたるということで、両国では数々の記念行事が計画されています。それは、1600年(慶長5年)にオランダ船リーフデ号が偶然、日本に漂着し、その乗組員が徳川家康と会見したときを起点としています。この両国の歴史的な出会いは、関ヶ原の戦いの半年前のことと考えるとイメージしやすいでしょうか。そして、その後、外国との交易が制限された江戸時代にあっても、オランダとの交流は長崎の出島を通じて続けられ、西洋事情や技術、医学などの「蘭学」は、日本でも多く受容されてきました。今でも私たちの身の回りにはオランダ由来の風習や言葉、食べ物などがたくさん残っています。
しかし、そんな友好の歴史に水を差すような、報道が飛び込んできました。オランダが、第二次世界大戦中の日本の行為を天皇に謝罪させるよう、要求してきたというのです。それと併せて、戦争犠牲者への個人補償を求める声も高まっているといいます。
すでに両国が戦って50年以上が経ち、さらに講和条約、賠償などの戦後処理が済んでからも40年以上が経っています。それにもかかわらず、今もなお、このような不当な要求をするオランダ人のメンタリティーには疑問を持たざるを得ません。それとともに、これに毅然とした対応ができない日本側の不甲斐なさにも大きな問題があると言わなければならないでしょう。
この際、ここで、第二次世界大戦中に、日本は何をして、そしてそのあと、何をしてこなかったのか、きちんと考えておく必要があるようです。
1942(昭和17)年3月、日本はオランダの植民地であったインドネシア(蘭領東インド)に進攻し、わずか8日間の戦闘でオランダ軍を降伏させました。(詳しくはQ3、インドネシア編を参照のこと)
この結果、350年の長きにわたって、インドネシアを支配してきた30万人のオランダ人のうち、軍人4万人と民間人9万人が抑留所に収容されることになったのです。
彼らを収容した施設は、かつてオランダ人自身がインドネシア人従業員のために作った宿舎をそのまま利用することが多くありました。この皮肉な運命に、オランダ人抑留者たちは口々に「われわれ自身がここに入ることになると前もって分かっていたら、こんなにひどくて不潔な建物にはしておかなかった。」と語り、今まで奴隷同然に扱ってきたインドネシア人用の宿舎に入れられた、そのこと自体が、我慢のならない屈辱であったといいます。つまり、自分たちがされたのなら屈辱でしかないことを、現地人には平気でしてきたという矛盾が、この台詞によく表れています。
一般のインドネシア人労働者の宿舎でさえ、こうした状況なのであれば、オランダの植民地支配からの独立を訴えて、拘留されたインドネシア人の運命は、もっと悲惨であることは簡単に想像ができます。そして、その予想通り、オランダの過酷な統治に耐えかねたインドネシアでは、多くの独立運動家が立ち上がっては抑留され、拷問や虐待などで死亡してゆく人、処刑される人が後を絶ちませんでした。しかし、戦後になって、運良く生き延びることのできた、インドネシア人元抑留者がオランダ政府に起こした損害賠償請求に対して、オランダ政府が謝罪をしたり、償いをしたという話は全く聞きません。
しかし、こうしたオランダの事例を挙げて相対化したところで、「オランダもやっていたから日本がやっていても仕方がない」などと正当化しようとしているわけではありません。ただ、オランダ側が、あたかも日本人だけが残虐な行為をし、自分の国はまったく手を汚していないかのように、素知らぬふりを決め込んで、被害者然としているのは、公平感に欠くとは思いませんか。オランダは一体、何をしてきたのか、オランダにそんなことを言う権利があるのか、半世紀も前の決着した問題を今さら持ち出すならば、自国の行いについても、もう少し思いをいたすべきでしょう。
- 1014 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:49
- 考えてみれば、敗戦国にだけ戦争犯罪があって、戦勝国にはまったくないかのように、“正義”の名で裁いた東京裁判はじめ、各地での戦犯裁判は報復以外の何ものでもありません。しかし、現実に、同じ戦争犯罪をしても戦争に勝った国はまったく裁かれず、謝罪もしません。連合国軍による日本人捕虜の虐待や過酷な強制労働などはいうまでもなく、非戦闘員の民間人を大量殺戮した原爆投下、無差別都市爆撃の犯罪性は、すでに国の内外で指摘されていますが、彼らが罪に問われることは全くないのです。。
わたしたちが知っておかなければならないのは、日本は戦争に負けたために、戦争犯罪を裁かれることになったのだということ、決して日本だけが戦争犯罪を犯したから、裁かれたわけではないということです。
そして、戦後多くの人々が捕虜の虐待や強制労働を課したという罪で、BC級戦犯裁判にかけられ、1000人以上が処刑されてゆきました。さらに約500人が終身刑、約3000人が有期刑に服役し、彼の地で亡くなった人も少なくはありません。この中には多くの冤罪が含まれていましたが、敗戦国としては、その不当を訴えることも出来ず、彼らは従容として刑に服しました。ちなみに、オランダは連合国中で、もっとも多い226人の日本人を処刑台に送っています。
また、オランダとの終戦処理は1951年のサンフランシスコ講和条約と1956年の二国間賠償協定を結んだ結果、日本は、軍人捕虜に対する補償と民間人への見舞金など、当時の換算で約48億円(現在の価値になおせば、1400億円を超える)を支払い、決着させました。これは、敗戦後の貧しかった日本にとって、決して安い額ではありません。
なお、その二国間協定(日蘭議定書第三条)にはこう記されています。
「オランダ王国政府は、同政府又はオランダ国民が、第二次世界大戦の間に日本国政府の機関がオランダ国民に与えた苦痛について、いかなる請求をも日本国政府に対して提起しないことを確認する」
つまり、現在オランダがさらなる「戦争犠牲者への補償」を求めることは、日本国政府の賠償はすべて終了し、オランダ側はいかなる請求も提起しない、というこの協定を意図的に無視しているのです。それにもかかわらず、いまだに謝罪や賠償を要求してくるのは、法治国家として、はなはだ不当なことなのだ、いう認識がわたしたちにはあるでしょうか。
しかも、敗戦国日本の天皇に対しては謝罪を要求しておきながら、オランダの国王は350年もの間、過酷な植民地支配を続けたインドネシア国民に対しては一言の謝罪もせず、金銭的賠償にも一切応じていません。
今から5年前の1995年、オランダ女王がインドネシアを訪問した際にも、謝罪はおろか「植民地支配は互恵的であった」とのスピーチをして、インドネシア人民を憤慨させました。
それどころか、オランダはインドネシアの独立を許すにあたっては、まずその代償として、インドネシアはオランダに対して60億ドルを支払うこと、オランダ人がインドネシアに所有してきた農場などの土地財産は保全すること、スマトラ油田を開発するのにかかった費用は弁済することなどをインドネシアに要求してきたのです。これがオランダの350年間にわたる植民地支配の決算の仕方でした。
インドネシアに与えた被害には目をつむるばかりか、ビタ一文も支払わず、それでいて自分が植民地に置いてきた資産は、きっちりと取り立てる、そうした一方で、オランダが受けた被害には必要以上に敏感です。
最近も、オランダ政府は、日本軍が戦時中にオランダ人の資産を奪った疑いがあるといって調査を行ないました。結果、そのような事実は全くなかったことが証明されたのですが、そのさい、逆にオランダ側が、日本人の資産を「凍結」という名で没収したことはまったく顧みられることはありませんでした。もちろん私的財産の没収は国際法違反ですが、日本はこの資産の返還を要求することも許されず、一切放棄させられました。これをダブルスタンダードと言わずに何と表現すべきなのでしょうか。
こうしたオランダ人の身勝手な態度とその原因を明らかにしたのが、さきごろ日本でも翻訳出版された『西欧の植民地喪失と日本/オランダ領東インドの消滅と日本軍抑留所』(草思社 1998年刊)という本です。著者は、自身も少年時代を日本の抑留所で過ごした経験のあるオランダ人、ルディ・カウスブルックという著名な評論家です。彼は、元抑留者たちによる執拗な日本弾劾は、自分たちオランダ人が350年間にわたって享受してきた“優雅”な植民地支配を、突然“醜い劣等人種”によって打ち砕かれたことへの屈辱感からきていると分析しています。
- 1015 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:49
- そして、この“白人の楽園”喪失の怨みからくる彼らの歪んだ心理を「蘭領東インド抑留所シンドローム」と呼び、それを痛烈に批判しました。ちなみに「蘭領東インド抑留所シンドローム」というのは、この本の原題でもあり、優越感と犠牲者意識によりかかって「事実を見ようとしない症候群」を表現した彼の造語です。その主張の骨子を本書より抜き出して、紹介しておきましょう。
「日本軍抑留所を体験したオランダ人がいまだに耐えがたいとするものは何かというと、自分たちより“劣等の人種”に恥をかかされたということなのだ。他の白色人種にやっつけられたのならまだしも、“非西洋の侵略者”に征服されるとは、これこそ耐えられないことなのである。
植民地体制というものは、われわれは“非西洋の”民族より優れているという考え方にあぐらをかいて、優れた者が劣る者を支配するのは当然の権利としている。ところが自分たちは畏敬の念をもって見られ、劣等のアジア民族に君臨する無敵の支配者だとうぬぼれていた東インドのオランダ軍は、思いがけずもアジア民族にあっけなく粉砕される─8日間持ちこたえただけで、羽根のように吹き飛ばされるという不面目な壊滅ぶりだった。そして突然、自分たちは優等人種だという大いなる自負も偽りと欺瞞でしかなかったというオランダ人の本性がさらけだされる。いまや立場の変わった日本人は、機会あるごとにそれをオランダ人に思い知らせることに余念がなかった。(中略)これが東インドから引き揚げたオランダ人にはひじょうに“耐えがたい”ことなのである。」(92〜93頁)
あろうことか、自分たちよりも劣っているはずの日本人によって、そうした「人種差別的偏見」を否定され、白人も有色人種も何ら変わらない、ということを教えられたことが許せないことであり、このシンドロームは本国にいたオランダ人には顕著ではないといいます。
それは、「今日の時代においては、犠牲者たることを礼賛する、ある種の崇拝の風潮が生じ」ているが、しかし「日本に攻撃されたのはオランダ人であるが、彼らは本国にいたのではなく、戦争の舞台となったインドネシアに武力侵入して植民地化し、軍事支配の上にあぐらをかいていたのである。こうした事情のために、東インドのオランダ人の“犠牲者という身分”を証明するのは容易ではなかった。彼らの戦後の幾多の歩みは、自己の潔白を装った姿での、完璧な犠牲者という身分にしがみつくための戦いであった、と見ることができよう。犠牲者という身分にしがみつくためには、“誇張する”と“否定する”の二つの手段が考えられる─自分が耐え忍ばなければならなかった苦しみは誇張し、自分が他人にあたえた苦しみは否定する、ないしは軽く見せようとする。そして、両戦術とも、東インドのオランダ人によってひじょうな熱の入れ方で実践されたのである。」(10〜11頁)
このため、「われわれオランダ人は、過去四十年間もの長きにわたって(1986年執筆当時─引用者注)日本人に対する不満を延々と述べつづけてきているが、こういった(オランダ人の現地人に対する残虐な扱いが20頁にわたって記述されているのを承けて─引用者注)自分たちの悪弊が日本人の振る舞いとはちがっているとでも思っているのだろうか。泰緬およびパカンバル鉄道施設工事の犠牲者数はどうのこうのとか、虐待は云々とか、隅から隅まで調べ上げて、犠牲者名簿や追悼の書を出版したが、自分たちが手を下して殺害したり、虐待して死に追いやったりしたインドネシア人には心を砕くこともなく、彼らの名前は、永遠に誰の知るところでもない。私がひじょうに怒りを覚えるのは、ウィレム・ブランツのように、自分たちの暗黒の過去を知りすぎるほどよく知っていながら、日本軍抑留所(ブランツも私も入っていた抑留所では、オランダ人のしたような戦慄すべき行為はおよそ見られなかった)でひどいあつかいをうけたと激しく怒りたっては、あっぱれな嘘を長年にわたって言いつづけてきた者がいるということである。」(119頁)
- 1016 : 1007 :2003/05/29(木) 23:49
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- 1017 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:51
- ここに登場したウィレム・ブランツとは、オランダ統治時代の現地紙「デリ新聞」の編集長で、この「デリ新聞」とは1926年に「すべてのインドネシア民族主義者は、裁判にかけるまでもなく銃殺に処するべきだ。」と主張した新聞だということです。(107頁)
この本には、著者が調べ上げた、読むに耐えないインドネシア人への暴行、虐殺の数々が記されていますが、ここではオランダ人の残酷さを強調するのが目的ではありませんので、あえてここで紹介はしません。
ただ、日本人だけが残虐な民族であるかのように言い立てているオランダ人には、はっきりとそうではないということを言わなければなりませんし、また、オランダと違って少なくとも、日本人はそれに対する賠償も、非行を犯した者の処罰も済ませてきたということだけは強調しておきたいものです。
インドネシアのマスコミは、5年前にオランダ女王を迎えるにあたって、このような意見を載せました。
「日本政府は、1958年に賠償と援助で8億ドルを出してくれた。ハッタ副大統領は“日本軍はインドネシア独立の恩人だから、賠償という名称は不適当だ。独立達成を記念する祝賀金として戴く”と言っていた。日本政府が3年半の占領の分として8億ドル払ってくれたのだから、オランダは350年分の賠償として800億ドル支払うべきだ。それに独立戦争の死者は80万人だから、一人当たりの補償金を1万ドルとすれば80億ドル、10万ドルとすれば800億ドルになる。つまり、オランダは最低1600億ドルぐらいは支払うべきである。その前に、まず女王に謝罪してもらいたい。」
なるほど、日本とオランダをいちばん公平に見ることができるのは、インドネシアの人々なのかもしれません。
さて、ここまで見てくれば、半世紀前、日本が何をして、そして何をしてこなかったのかはもう明らかでしょう。戦時中にしてしまったことは、たとえ不公平な裁きであったとしても、甘んじてその結果を受け止めてきました。戦犯という名で刑に服し、命で償い、貧困の中で巨額の賠償金を支払ってきた、これが、してきたこと、あるいは果たしてきたことです。
一方、してこなかったこととは、日本政府が、教育の場などを通じて、先人の償いの事実をわたしたち国民に教えてこなかったということです。確かに、日本人の感覚としては、あまり、大きな声で「もう、これだけのカネを払ってきている」などと言うのは憚られることではあります。
だからといって、今また、「日本は戦後処理を怠ってきた」などというプロパガンダに屈し、金銭的要求に応じてしまうというならば、あのとき、戦犯の汚名を着せられ、償いのために、と黙って、日本の平和の人柱になった1000人以上の人の命は、一体何だったのでしょうか。この人々の死は無駄だったというのでしょうか。
日本国民は、“怨み”で誇張された一方的宣伝しか知らされてこなかったために、そのあまりの無知のゆえに、金銭的要求に応じるべきだという一部の声に抗しきれないでいるのです。あたかもそれに同情し、応えてあげることが、良心的であるかのように。
これはまさしく政府の責任です。今からでも遅くはありません。政府は「戦後処理は講和条約で決着済み」などという、血の通わない一片の言葉で終わらせるのではなく、講和条約を結ぶために文字通り血も流し、あるいはそれを結んだ結果、わたしたちが何を果たしてきたのかを、よく説明しなければなりません。
日本人は愚かではないはずです。真実を知ることさえできれば、不毛な戦後賠償論は、たちまち消えていくでしょう。言い換えれば、日本人自身が不当な要求を招いているのです。オランダに限らず、あちこちの国がその無知につけ入って、法外なお金を巻き上げようとしていることを、わたしたちはもっと自覚しなければならないのです。
- 1018 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:53
- <Q3>
日本はこの間の戦争のことでアジアに、あまりよく思われていないと聞きましたが、本当にそうなのでしょうか。
<A3>
みんなが想像しているアジアっていったいどこでしょう?ひとくちにアジアといっても、たくさんの国々があります。このさい“教科書が教えないアジア”少し考えてみる必要がありそうです。ここではアジア各国の日本観を紹介してゆきますので、見たい国の国旗をクリックしてみてください。
インドネシアの国旗 インドネシア
日本軍政時代の3年半については、オランダ、チャイナ、アメリカなど、戦勝国の学者や、欧米に留学して日本が嫌いになった人々は、悪い面ばかりを誇大にあげつらっている。しかしそれでは全体を語ったことにはならない。
アラムシャ第三副首相
マレーシアの国旗 マレーシア
この国に来られた日本のある学校の先生は「日本軍はマレー人を虐殺したに違いない。その事実を調べに来たのだ」と言っていました。私は驚きました。「日本軍はマレー人を一人も殺していません。」と私は答えてやりました。日本軍が殺したのは、戦闘で闘った英軍や、その英軍に協力したチャイナ系の抗日ゲリラだけでした。
ラジャー・ダト・ノンチック元上院議員
ミャンマーの国旗 ミャンマー(旧ビルマ)
アジア人の前衛たる日本人は、自らの社会経済的進歩と教育の発達のみを求めて闘いを進めたのではない。インド・ビルマ・チャイナ・フィリピン・スマトラなどにおいて、政治的にも経済的にも足かせをはめられて抑圧されていた人々のために闘ったのである。
ビルマ独立義勇軍
インドの国旗 インド
欧米諸国は日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自分らのアジア侵略の正当性を誇示する目的であったにちがいない。日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、退廃に流れていくのを、私は平然と見過ごす訳にはゆかない。誤られた彼らの宣伝を払拭せよ。誤られた歴史は書き換えられなければならない。
ラダ・ビノード・パル極東国際軍事裁判判事
の国旗タイ タイ
日本のおかげでアジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母胎をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。こんにち東南アジア諸国民が、米・英と対等に話ができるのはいったい誰のお陰であるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。12月8日は我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して、重大決心をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。
ククリット・プラモード元首相
- 1019 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:53
- インドネシア編
こんな歌を知っていますか?インドネシアで50年間歌い継がれてきた「祖国防衛義勇軍(PETA=ペタ)マーチ」です。
“アジア、すでに敵に向かい、蜂起せり 己を捨てて全力を尽くす
連合国を粉砕せんと 玉散ることもいとわず
進め 進め 義勇軍 アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ
古きアジア 不幸に苦しむ 烈しき圧制に 幾世紀も忍ぶ
大日本 雄々しく立てり アジアを救い 我らを守る
進め 進め 義勇軍 アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ…”
だ…大日本?!なんだか、聞いてるこちらがこそばゆくなってしまうような歌詞ですが、これはいったいどういうことでしょうか?
じつは350年間の長きにわたって、オランダの植民地にされてきたインドネシアが独立を勝ち取ったのは、昭和17年(1942)3月の日本軍進攻がきっかけでした。350年間の過酷で計算されつくした植民地政策によって、有色人種であるアジア人は白人の支配を脱することは不可能だと思いこまされていました。しかしそこに白人よりも小さな身体の日本人が突然やってきたかと思うと、なんとたった9日間の戦闘でオランダ軍は全面降伏してしまったのです。自分達と肌や髪の色の同じ小柄な日本人が、絶対にかなうはずもないと思っていた白人をあっという間にやっつけてしまったのです。この様子を目の前で見たインドネシアの人々は、そうだ!自分達もやればできるんだという勇気を持ったのでした。現地の人々に大歓迎された日本軍は、オランダによって流刑されていたインドネシア独立運動の指導者スカルノとハッタを獄中から救出し、日本軍への協力を求めました。こうして昭和20年8月に日本が敗戦するまでの3年半、オランダ時代とはまったく違う軍政が実施されました。詳しくは後に掲げる参考文献にあたってほしいのですが、ここではインドネシアの中学3年用の歴史教科書から引用してみましょう。
「日本の占領は、後に大きな影響を及ぼすような利点を残した。第一に、オランダ語と英語が禁止されたので、インドネシア語が成長し、使用が広まった。日本軍政の3年半に培われたインドネシア語は驚異的発展をとげた。第二に、日本は青年達に軍事教練を課して、竹槍、木銃によるものだったとはいえ、きびしい規律を教え込み、勇敢に戦うことや耐え忍ぶことを訓練した。第三に、職場からオランダ人がすべていなくなり、日本はインドネシア人に高い地位を与えて、われわれに高い能力や大きい責任を要求する、重要な仕事をまかせた。…」わたしたち日本人にはまったく教えられていませんが、インドネシアの子供達はこういうふうに、このあいだの戦争について習っているのです。ちょっと驚きですね。
- 1020 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:54
- しかし独立を約束した日本が連合国に敗れたとたん、またもやイギリス軍、ついでオランダ軍がインドネシアを再占領するために戻ってきたのです。ところがインドネシアの人々はもう以前のインドネシア人ではありませんでした。自分達の力で独立を目指して戦う勇敢な戦士となっていたのです。そしてスカルノとハッタは連合軍が来る前に、昭和20年(1945)8月17日午前10時、多くの民衆の見守るなか、独立宣言文を読み上げたのでした。ちなみにこの宣言文の日付けは「17-8-‘05」と記されています。「’05」とは、これまた誰も知らないでしょうが、「皇紀」または「神武紀元」といって日本が使っていた暦に基づいています。西暦(西洋の暦)はキリストの誕生を元年としますが、「皇紀」は初代の神武天皇の即位の日を元年としています。どちらも神話、伝説上のことですから、正確であるわけはないのですが、「皇紀」によると昭和20年は「2605年」にあたります。その下2ケタをとって「‘05」。なんて聞くとまたまた驚きですが、今もジャカルタのスカルノ、ハッタ記念公園(独立宣言広場)に行けば、この宣言文がレリーフになってスカルノとハッタの銅像のまんなかにあるので誰でも見られます。さあ、そのとき、なあんにも知らなかったら赤っ恥でしたねえ。ハネムーンやサーフィンで大人気のバリ島ではなんと!いまでも「皇紀」カレンダーが売っているそうです。“ほんとはこの国のこと、よく知らなかった・”とかのんびりしたこと言ってる場合ではありませんね。
さて話を戻しますが、独立を目指すインドネシアにとっては日本敗戦後のこれからが死闘でした。日本軍による3年半の軍事訓練を受けたとはいえ、近代的兵器で武装したイギリス、オランダなどの連合軍にそう簡単に勝てるわけがありません。敗れた日本軍の兵士たちはこの状況を見て、独立を約束しながら果たせなかったという責任感もあったでしょう。多くの人が現地に残り、インドネシアの民衆の先頭に立って戦い、その半数以上が彼の地の土となりました。このインドネシア独立戦争は連合国を相手に4年間も続き、死者80万人という犠牲を払いました。そして命を捧げた日本兵はインドネシア独立の英雄として、ジャカルタ郊外のカリバタにある国立英雄墓地に丁重に祀られています。
こうした歴史的事実からインドネシアの独立記念日では、インドネシアの服装の男女2名になんと!日本兵の服装をした1名を加えて3名で、国旗を掲揚します。もちろんこれは独立を支援した日本軍に敬意と感謝を表しているのですが、こんなことは日本では全く知られていませんね。
そして戦後賠償の問題でも、交渉にあたった国会議長のアルジ=カルタウイナタ氏は日本軍が創設した祖国防衛義勇軍(PETA)の大団長だった人なので、日本軍がインドネシア独立のためにいかに努力したかを肌身にしみて知っていました。そこで彼は岸信介首相に対して「独立のお祝いというつもりで賠償金をください。日本が悪いことをしたから賠償しろというのではありません。」と言っていますし、当時のインドネシアでは「むしろ日本に感謝使節団を送るべきだ」という声もあがっていたといいます。 さて、もうこれで冒頭の歌が半世紀にわたって歌われているという理由は分かっていただけたと思います。今もしもあなたに、ちょっと照れくさいような笑みが浮かんでいたら、それが「誇り」というものかもしれません。
●もっと詳しく知りたい人には
名越二荒之助編『世界から見た大東亜戦争』展転社
ASEANセンター編『アジアに生きる大東亜戦争』展転社
上坂冬子『南の祖国に生きてーインドネシア残留日本兵の現在』文芸春秋
ビデオ『独立アジアの光−東南アジアの歴史と現代−』Tel 03-3476-5695
をお勧めします。
- 1021 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:54
- マレーシア編
1991(平成3)年12月、マレーシアのコタバルを首都とするケランタン州政府は、日本軍の上陸50周年を記念して特別式典を開催し、さらに戦争博物館を設立しました。その館長でケランタン州副知事のロザリー・イソハック氏はこんなふうに言っています。
「1991年、私達は日本のコタバル上陸50周年を祝いました。これがケランタン、つまり当時のマラヤにとって、意義ある出来事であったからです。ここコタバルは、日本軍最初の上陸地です。私は、戦争博物館の館長として記念行事を担当しましたが、多くの人がこの重要な出来事を、長く記憶に留めていただきたいと願っています。」
マレーシアの人々が祝う1991年から50年前といえば、1941(昭和16)年の12月。しかし、わたしたち戦後世代の日本人にとっての昭和16年12月8日は“戦争を始めた日”としてなんとなくマイナス・イメージを持たされているのではないでしょうか?そこで語られるのはアジアへの侵略であったり、現地住民の虐殺といったことばかりだったのではないのでしょうか。しかし当のマレーシアでは日本軍の上陸を祝って記念式典が行われていたのです。こんな重要なこと、私たちはまったく知らされていません。これは一体どういうことなのか、なぜ日本軍のマレー上陸がマレー人に祝福されるようなことなのか、やはり知っておかなければ恥かしいことですので、ここで少し勉強しておきましょう。
1941(昭和16)年12月、日本軍は真珠湾のアメリカ軍艦隊を攻撃すると同時にマレーシアに上陸し、さらにマレー沖のイギリス東洋艦隊に攻撃をしかけました。ことにイギリスの誇る世界最新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスという2隻を航空機による爆撃で撃沈したことは、世界戦史上、前例のないことでした。この衝撃的な知らせを受けた当時のイギリス首相チャーチルは「戦争の全期間(第二次世界大戦)を通じて、わたしはそれ以上の打撃をうけたことはなかった。いかに多くの努力と希望と計画が、この2隻の軍艦とともに沈んでしまったか。ベッドのなかで寝返りを打ち、身もだえするわたしの心にこのニュースの持つ恐ろしさがしみこんできた。」(チャーチル『第二次大戦回顧録』)と書いています。
そして、150年以上にわたるイギリスの植民地支配に苦しめられていたマレー人は半島を進撃する日本軍を心から歓迎し、食糧を提供し、ジャングルの地理案内をし、軍需物資の運搬まで手伝ってくれました。当時、16歳だったラジャー・ダト・ノンチック元上院議員はこう言います。「私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声を上げました。敗れて逃げてゆくイギリス軍を見たときに、今まで感じたことのない興奮を覚えました。日本軍は永い間アジア各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないとあきらめていたアジアの民族に、驚異の感動と自信を与えてくれました。」このような現地の人々の支援もあって、日本軍は60日間の激戦の末、イギリス軍のアジア最大の要塞、シンガポールを攻略します。1942年(昭和17)2月15日、ついにイギリス軍は降伏し、150年におよんだイギリスのマレー支配は終わりを告げたのです。フランスのドゴール将軍はこの日の日記に「シンガポールの陥落は白人植民地主義の長い歴史の終焉を意味する。」と記していますが、本当に歴史的な日であったといえるでしょう。
- 1022 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:54
- さてイギリス軍を追い払ったあと、日本軍はマレーの青年教育に力を注ぎました。1942年5月15日、シンガポールに「昭南興亜訓練所」を開設し、マレーのすべての民族から優秀な青年を招いて心身共に訓練をしました。これはのちにマラッカの「マラヤ興亜訓練所」に引き継がれ、1000名を越える卒業生を送り出します。この卒業生の大半がマラヤ義勇軍、マラヤ義勇隊の将校となり、マレーシアの独立と、その後の新しい国づくりの中核となりました。ノンチック氏は言います。「新国家マラヤ連邦の建国の基本策と具体策は当時のマレー人青年の日本グループによって進められたと言っても過言ではありません。あの当時の国家計画庁本部は、昭南、マラヤの両興亜訓練所や日本に留学した南方特別留学生の同窓会の雰囲気でした。」
また、日本の軍政部がそれまで西欧人専用だったクラブやプールなどを、肌の色にかかわりなく一般に開放するなどの政策をとり、「民族の平等」を掲げたことは、マレーの人々の間にあった白人に対するコンプレックスを取り除き、“自分たちの祖国を自分たちの国にしよう”という独立心を目覚めさせました。
しかし、その3年8ヶ月後の1945年8月15日、日本軍は連合軍に降伏してしまいます。その結果、またイギリス軍が再びマレーを占領し、植民地にするために戻ってくるのですが、マレー人は以前の従順なマレー人ではなくなっていました。
マラヤ大学の副学長のウンク・アジス氏は「日本軍がもたらした『大和魂』のような考え方をもつことは、独立のためにどうしても必要でした。日本軍政下の訓練の結果、日本が降伏した後、英国人が戻ってきて植民地時代よりも悪質な独裁的制度をマレーシアに課そうとしたとき、人々は立ち上がったのです。」と言い、またマレーシア外務省情報センター所長のニック・モハマド氏は「これまで独立なんて考えたこともなかったので、徐々に植民地にされたのですが、日本の軍政下で反植民地主義に目覚めたのでした。民族意識は若者に影響を与え、彼らはもはや怠けてはいませんでした。皆、立ち上がったのです。これまでになかった大変貴重な3年と8ヶ月の経験でした。」と言っています。
これで冒頭で紹介したような、日本軍のマレー上陸50周年記念行事が行われたことの意味をお分かり頂けたのではないでしょうか。それにしてもマレーシアの人々が日本を恨んでいるなどと、誰が言い出したのでしょう。
実はこれにはちょっと複雑な問題があるのです。例えば、こんな話を耳にしたことはないですか?マレーに進軍した日本兵が、赤ん坊を放り投げて銃剣で突き刺した、などという恐いハナシ。これはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』と『死の家の記録』に出てくるトルコ兵の話を日本兵の仕業とされてしまったもので、全く事実でないことはマレーの人々も証言しています。しかし、日本兵を悪く言い立てる人は確実にいるようですがそれは一体どうしてなのでしょうか。
- 1023 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:55
- ノンチック氏は言います。「先日、この国に来られた日本のある学校の教師は、『日本軍はマレー人を虐殺したにちがいない。その事実を調べに来たのだ。』と言っていました。私は驚きました。『日本軍はマレー人を一人も殺していません。』と私は答えてやりました。日本軍が殺したのは、戦闘で闘った英軍や、その英軍に協力したチャイナ系の抗日ゲリラだけでした。」
マレーシアというのは複雑な民族構成で成り立っています。それはマレーが良質の錫を産出することからイギリスがこの錫を採取するための労働力として大量のチャイナ系の人々を移住させたからなのです。そしてそののちイギリスとマレー人の間にあって経済活動を握り、搾取階級となったチャイナ系、いわゆる華僑の人々はイギリスを駆逐し、自らの利益を剥奪してしまうような日本軍の進撃を喜びませんでした。むしろその権益を守るために、イギリスに協力して抗日ゲリラ活動を行ったのです。また支那事変以来、日本と本国が戦争状態にあったことも作用したでしょう。これらの理由からイギリス軍の敗北、撤退を喜んだマレー人と、それを快く思わない華僑の対日観には大きな開きがあることを充分知っておく必要があります。
現在のマレーシアにおいてもマレー人と華僑の比率は45%対35%で、その華僑が経済界の実権を握っており、発言権も強い状況にあります。こうした植民地時代からの華僑の経済独占は戦後になっても続き、経済進出を閉ざされたマレー人との民族間の対立は、時として多数の国民の血を流すことさえありました(1969年の5.13事件など)。ですから戦争中に華僑の利益を抑制し、マレー人に機会を与えようとした日本が嫌われてしまったのも無理はありません。日本軍を残虐であったと言い立てる声が大きく聞こえてきたのもそのためだったと言えますが、マレー人は冒頭で紹介したように、けっして反日などではなく、日本軍の上陸を意義あることとして記念するような行事を行っているのです。いかがでしょう?今度の休みにはコタバルを訪れてみたい気持ちになりませんか?きっと私たちをあたたかく迎えてくれることでしょう。
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- 1024 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:55
- ミャンマー(旧ビルマ)編
“♪守るも攻むるも鋼鉄の 浮かべる城ぞ頼みなる
浮かべるその城日の本の 皇国の四方を守るべし
まがねのその艦日の本に 仇なす国を攻めよかし♪”
この歌を知っている人いますか?歌詞は知らなくってもメロディーを聴けば誰でも分かる、実はこれ軍艦マーチなんです。“軍艦マーチ”??という人も、パチンコ屋さんで威勢良くかかっている曲って言えば、分かってもらえるんではないでしょうか。
このような説明をしなければならなくなってしまったこの曲は、日本が戦争に負けるまでは海軍の誇りであった名曲でした。しかし、今ではなんだか情けない役割にされています。ところが驚くなかれ、この曲が今でも誇りとともに演奏される名誉ある存在でいられるのは、遠くミャンマーの“国軍記念日”という晴れ舞台なのです。
ミャンマーでは3月27日の国軍記念日になると、全国のミャンマー国軍が首都ヤンゴンに集まって盛大なパレードを繰り広げるのですが、なんと!このパレードはいきなり日本のこの“軍艦マーチ”から演奏し始めるのです。続いてミャンマーの軍楽隊は“歩兵の本領”“愛馬進軍歌”など昔の日本の歌を次々と演奏して、パレードを続けていきます。これはいったいどういうことでしょう?
実はミャンマー(旧ビルマ、1989年に国名を変更。それ以前を記す場合はビルマと表記。)は「日本人より日本を愛する国」といわれるほどの親日国家なのです。どうしてかって?ここミャンマーでは政府の高官からジャーナリストに至るまで、こう言います。「ミャンマーが今日あるのは、日本のおかげです。日本のおかげで、英国の圧制を逃れ、独立をすることができた。われわれは深く日本に感謝しているのです。」
お世辞…?!でも何も自分たちの国の記念日にお世辞で“軍艦マーチ”はないでしょう。ということで、国際理解のため、私たち日本人もここでミャンマーについて勉強しておきましょう。
ビルマは19世紀に三度にわたってイギリスの攻撃を受け、ついに1886年にイギリスの植民地とされ、そのとき既にイギリス領であったインドの一州に組み込まれてしまいました。ビルマの国王夫妻はイギリス領スリランカに流刑され、その地で死亡。王子は処刑され、王女はイギリス軍の士官の従卒に与えられてしまいます。
- 1025 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:55
- その後の悲劇をバー・モウ元首相はこう書いています。「外国人による搾取は上層から下層まで、あらゆる方面で暴虐さを加えていた。巨大イギリス企業は上等の部分をすべて独占し、インド人と中国人の商人たちがそれに続いて中級の部分をほとんど手に入れてしまっていた」(バー・モウ『ビルマの夜明け』)
そしてビルマ人はというとチーク材の切り出しなどの重労働にこきつかわれました。現在もミャンマーでは先端の尖っていない鎌や包丁が売られていますが、これは植民地時代、イギリス人に抵抗する武器にならないようにした名残だといいます。こんな悲惨な状況を一転させたのが日本軍の進攻、また日本によるビルマ独立志士たちの育成でした。
話は今から100年前、日本で言えば明治時代にあたります。日本は膨張を続けて南下を推し進めるロシアを相手に、国を挙げて戦いをしました。日露戦争(1904〜05)です。
当時、アジアの国々はほとんどがヨーロッパの白人諸国の支配下に置かれ、植民地とされていました。先に紹介したようにビルマも例外ではありません。誰もが、アジアの小国、日本の敗戦を予想していましたが、それを裏切って世界最強の軍事大国ロシアに陸と海で勝利をおさめました。有色人種であるアジアの国が白人をやっつけてしまった知らせを聞いた他の有色人種たちは歓喜し、こぞって日本に学び始めます。
その中の一人にビルマの僧オッタマがいました。オッタマ僧正は抗英独立運動をおこなって投獄されたこともある人物で、日本にやってきたのは1907年のことでした。彼は3年間日本に滞在して取材した内容を『日本』という本にまとめ、ビルマで発刊しています。その中で「日本の興隆と戦勝の原因は明治天皇を中心にして青年が団結して起ったからである。われわれも仏陀の教えを中心に青年が団結、決起すれば、必ず独立を勝ち取ることができる。」「長年のイギリスの桎梏からのがれるには、日本にたよる以外に道はない。」と主張したのです。その後もオッタマは、ビルマの完全自治を要求する運動を起こし、イギリス政府によって投獄されるなど、何度も投獄、出獄を繰り返し、ついに1939年に獄死してしまいます。残念ながら日本と協力して立ち上がったビルマ青年の活躍を見ることは出来ませんでしたが、その反イギリス精神は独立の志士たちに受け継がれていきました。
- 1026 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:56
- この若き志士たちこそ、のちに「ビルマ建国の父」と呼ばれるオン・サンたちタキン党の青年たちでした。オン・サンとは当時の表記ですが、現在ミャンマーで活躍しているアウン・サン・ス−・チー女史のお父さんに当たる人です。
そして1930年代後半に、彼らタキン党を中心に反イギリス運動は国民的盛り上がりを見せますが、イギリスは独立運動の大弾圧を始め、志士たちの多くが逮捕、投獄されてしまいます。これを逃れたオン・サンは独立蜂起のため日本への亡命を決意するのです。
一方、同じ頃イギリス・アメリカは日本への敵視政策を取り、日本と敵対関係にあった蒋介石軍に多大な軍用物資の援助をおこなっていました。それを運ぶ道程がイギリス領ビルマを通って中国に入るビルマルート、いわゆる“援蒋ルート”でした。早く蒋介石との戦争状態を終わらせたい日本にとっては、このビルマルートを遮断することが不可欠の問題となってきたのです。
そこで日本はビルマ青年たちを支援し、イギリス勢力を追放するため、ビルマ独立を達成しようとしたのです。
1940年、日本陸軍は鈴木敬司大佐をビルマに派遣、オン・サンらを救出し、大佐の故郷である浜松に亡命させます。そして、鈴木敬司大佐を機関長としたビルマ独立のための「南機関」が誕生するのです。
「南機関」の活動計画は、独立運動の中核となるビルマ人志士30人を、ひそかに日本に脱出させ、彼らに武装蜂起に必要な軍事教育をすること。その教育訓練の終わったビルマ人志士を、再びビルマに潜入させ、反イギリス運動を起こし、ビルマ独立政府の樹立を宣言すること。蒋介石を支援するビルマルートを遮断することにありました。
このときの彼らこそ後にビルマの独立と建国の英雄として仰がれる「ビルマ30人志士」になるのです。
1941(昭和16)年、大東亜戦争の開戦とともに、タイのバンコクで30人志士を中心に「ビルマ独立義勇軍」が結成されました。日本軍による厳しい訓練を受けた青年たちは独立ビルマを象徴する孔雀の旗を掲げて、ビルマ独立を誓い合ったのです。
義勇軍の司令官には青年たちが心から慕う鈴木敬司大佐が就任しましたが、オン・サンの提案で鈴木大佐は純白のビルマの民族服=ロンジー姿で白馬にまたがり、ビルマ民衆の前に登場します。これはビルマの伝説で、イギリスに滅ぼされたアラウンパヤー王朝最後の王子が、いつかかならずボモージョ(雷帝のこと)となって、白馬にまたがり、東の方角からやってくる。そしてイギリスの支配からビルマを解放してくれるというボモージョ伝説を演出したものでした
もちろんビルマ民衆は歓喜して彼ら義勇軍を迎え、その協力もあって3ヶ月で首都ラングーンを陥落させ、イギリス軍を敗走させてしまいます。そして日本の軍政を経た後の1943年8月1日、ビルマはついに独立を宣言したのです。
そのとき外相に就任したウー・ヌーは次のように演説しました。「歴史は、高い理想主義と、目的の高潔さに動かされたある国が、抑圧された民衆の解放と福祉のためにのみ生命と財産を犠牲にした例をひとつくらい見るべきだ。そして日本は人類の歴史上、初めてこの歴史的役割を果たすべく運命づけられているかに見える。」
しかし日本と同盟を結んで米・英に宣戦布告したビルマにも、日本の敗戦が色濃くなってきた頃、日本と離れてイギリスと結ぶべきだとの声が高まってきます。日本と一緒に敗戦国になって、再びイギリスに占領されるのを怖れたのです。それまで日本とともに闘ってきた30人志士たちも動揺します。バー・モウやボー・ヤン・ナインは日本を裏切らず、ミン・オンという青年にいたっては日本を裏切ることは恩義に欠けるとして自決してしまいました。
- 1027 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:56
- けれどもオン・サンは「反日に立つのは、ビルマを生き残らせるための唯一の方法」であるとバー・モウに手紙を書き、1945(昭和20)年3月、ついに日本に反旗をひるがえすのです。この決断によって、日本軍はビルマから撤退し、代わりにイギリス軍が戻ってきました。
再び植民地支配を目指すイギリスに対してオン・サンは日本軍に育てられた10万人の義勇軍を率いて、イギリスと独立交渉をします。もう昔の従順なビルマ人ではなかったのです。
そしてついに1948年1月4日、イギリスのアトリー内閣が独立を承認し、ビルマはようやく独立を達成したのです。しかしこの席にオン・サンはいませんでした。この5ヶ月前に政敵の銃弾に倒れていたからです。
その20年ののち、バー・モウは『ビルマの夜明け』と言う著書を発表し、この本がイギリスでも出版されることになりました。このとき「ロンドンタイムス図書週報」1968年5月23日号ではこの本について次のように紹介しています。「ビルマを長い植民地支配から解放した者は誰か。それはイギリスでは1948年、アトリー首相の労働党内閣だということになっている。しかし、バー・モウ博士はこの本の中で全く別の歴史と事実を紹介し、日本が第二次世界大戦で果たした役割を公平に評価している」とし、序文の一部を引用しています。
それは「真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった」というバー・モウの歴史観を現した一文でした。
日本では決して語られることのない歴史が、ここミャンマーではしっかりと語り継がれています。彼らが植民地支配を脱する契機となった国軍記念日のパレードが、日本の“軍艦マーチ”で始まるなんて、ちょっと感動的ではないですか?
そしてこうした両国の友好の歴史を知ったことで、ミャンマーに親しみを感じるきっかけになったら、歴史を学ぶ意味が大いにあると思いませんか?
●もっと詳しく知りたい人には
深田祐介『最新東洋事情』1995年版 文芸春秋
名越二荒之助編『世界から見た大東亜戦争』展転社
ASEANセンター編『アジアに生きる大東亜戦争』展転社
田中正明『アジア独立への道』展転社
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- 1028 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:56
- インド編
1945年(昭和20)8月18日、台湾の台北空港で「天皇陛下と寺内さん(寺内寿一・南方総軍総司令官)によろしく」という言葉を残して、日本と共に戦ったインドの英雄がこの世を去りました。日本の敗戦から3日後のことでした。
その人の名はスバス・チャンドラ・ボース、インドの独立運動の指導者「ネタージ(指導者)」と呼ばれ、現在でもインドで尊敬を集めている有名な人物です。
しかし、その彼の墓が、日本の蓮光寺というお寺にあることは、日本でもあまり知られていません。
また、カルカッタにある彼の邸宅を改装したボース記念館では、彼の残した演説や、彼が指揮したインド国民軍の愛唱歌の入ったテープが販売されていますが、愛唱歌のなかには、なんとヒンズー語で歌われた日本の歌「愛国行進曲」が収められています。
さらに、ボースがインド人民に向けて訴えた演説の一節をご紹介しましょう。「…大東亜戦争開始以来、歴史に較べるもののない日本軍の勝利はアジアのインド人に感銘を与え、自由獲得の戦いに参加することを可能にした。日本政府は単に自己防衛のために戦うだけでなく、英米帝国主義のアジアからの撲滅を期し、さらにインドの完全な独立を援助するものである。いまやインド国民軍は攻撃を開始し、日本軍の協力を得て、両軍は肩を並べ、共同の敵アメリカ・イギリスの連合国に対し、共同戦線を進めている。外国の侵略の軍隊をインドから駆逐しない限り、インド民衆の自由はなく、アジアの自由と安全もなく、英米帝国主義との戦争の終結もない。」(1944.3.20自由インド放送より)このボースの演説内容に驚かれる方も多いことでしょう。無理もありません。私たちの多くは、先の大戦をアメリカ・イギリスなどの自由主義・民主主義陣営と、自由を抑圧するドイツ・日本のファシズム陣営の戦いであったと教えられてきたからです。しかし、ボースはここではっきりと、アメリカとイギリスを「帝国主義者」と呼び、その「侵略の軍隊」をアジアから追い出さなければ、アジアの自由はないのだと言っています。
このようなアジアの声を、またインドと日本の深い友好の関係を知らない日本人が多いのではないでしょうか?
- 1029 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:57
- そこで、ここではインドの人々と日本人が協力して、自由と独立を勝ち取った歴史を紹介したいと思います。
インドは17世紀初めより、ヨーロッパの植民地主義の標的となり、最終的にはイギリスのたび重なる侵略によって、ついにムガール王朝が滅ぼされ、イギリスの植民地とされてしまいました。イギリスの略奪的経済搾取は、土地の収奪、自給自足農業の破壊、当時世界一を誇ったインド綿製品の破壊にとどまらず、過酷な重税を課しました。インド民衆は食糧不足などにより、18世紀にベンガル地方で1000万人、19世紀には南インドで1500万人が犠牲になったといわれています。
このようななか、インド人に驚きと勇気を与えたのが、日露戦争(1904〜05)における日本側の勝利でした。日露戦争とは、当時は白人に支配されるのが当然と思われていた有色人種の小国日本が、白人の軍事大国ロシアに対し、大方の予想を裏切って大勝利を収めた世界史上初めての戦いです。この勝利の報は多くの有色人種に感銘を与えました。後年、インドの初代首相ジャワハルラル・ネルーは「日本が大国ロシアを破ったとき、インド全国民は非常に刺激され、大英帝国をインドから放逐すべきだという独立運動が全インドに広がったのだ。」と言っていますが、事実、この勝利をきっかけに、植民地化されていたアジアから、多くの独立運動家が日本にやってきました。彼らは独立運動を徹底的に弾圧する宗主国の追っ手をのがれて、日本にかくまわれ、白人支配者から独立する機会を狙っていたのです。
そして、1941年(昭和16)12月8日、日本がアメリカとイギリスに宣戦布告をすると、インド人の同志たちは「インド独立連盟」を東京で旗揚げし、翌年には東南アジア各地に散らばっていたインド独立運動家を集めてインド独立を誓う「東京会議」を開くなど、日本はインド独立闘争の拠点となりました。
ところで、あまり知られていないことですが、この戦争で、日本が戦っていたイギリス軍の兵隊のうち、約7割は、イギリス植民地で徴発されたインド人の兵士だったのです。いわゆる「英印軍」と呼ばれたインド人兵士たちでした。
ですから、植民地化されたアジア諸国からヨーロッパ勢力、特にイギリスを追い出すためには、インド人兵士がイギリス軍兵士として、宗主国イギリスのために戦うのをやめさせなければなりません。
- 1030 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:57
- そのため、日本政府は、インドの独立を全面的に支援するため、藤原岩市少佐を中心とした十名足らずの「F機関」という組織を作りました。
「F機関」という名は、フジワラ・フリーダム・フレンドシップの頭文字をとって、こう呼ばれたのですが、彼ら機関員はその言葉通り、命がけで日本とインドの共闘を訴えました。イギリス植民地マレー半島の戦場で、イギリス側に立つインド人兵士たちに「インド独立のために、日本と共にイギリスと戦おう。」と降伏を呼びかけていったのです。
最初は半信半疑だったインド兵たちも、F機関員たちが敗残兵である自分たちを差別することなく、一緒のテーブルを囲んで、食事をする事に驚きを隠せませんでした。イギリス軍にいたときは、仲間同士であるはずのイギリス人兵士とインド人兵士が同じ部屋で食事をすることすら考えられなかったのです。
さらに藤原機関長は、日本軍が占領したマレー半島の治安維持を、なんと投降してきたばかりの、彼らインド人捕虜に任せたのです。先程まで、敵味方に別れて戦っていた自分たちを、全面的に信頼してくれている…、この申し出にインド人兵士は驚くと同時に、大変感動したといいます。
降伏してきたインド人兵士たちは、率先して日本軍の先頭に立ち、次々と同胞に降伏を呼びかけてゆきました。こうして、投降インド兵の数は、どんどんふくれあがり、最終的には5万人というインド兵が、イギリス軍を裏切って投降してきたのです。
ここに、インド人による、インド独立のための、インド人の軍隊「インド国民軍(INA)」が誕生しました。さて、一方、冒頭で紹介した指導者(ネタージ)、スバス・チャンドラ・ボースは、どうしていたのでしょうか?彼は、この時イギリスと敵対していたドイツに亡命し、独立運動を展開していました。しかし、ドイツ首脳はヨーロッパのことしか頭になく、しかもインドがイギリスから独立することは、少なくともあと150年は不可能だと考えており、ボースを落胆させてしまいます。
ドイツでの独立闘争の可能性を断たれたボースは、日本が英印軍を組織し始めたことを知り、インド独立闘争のための協力は日本に求めるべきだと判断して、ドイツから日本に行くことを決意します。
そして、ついにボースは、彼の到着を待つ1万5千名のインド国民軍兵士の前に姿を現します。1943(昭和18)年7月5日のことでした。
この日、彼はインド国民軍兵士たちに向かって、2時間近くにおよぶ大演説をおこないました。「同志諸君!兵士諸君!諸君の合言葉は『デリーへ!デリーへ!』である。われわれの任務は、イギリス帝国最後の墓場、古都デリーのラール・キラに入城式をおこなう日までは終わらないのである。…われわれはこれより、デリーに向かって進軍する。チェロ・デリー!(征け、デリーへ!)チェロ・デリー!(征け、デリーへ!)」
ボースがこう叫んだとき、国民軍兵士ばかりでなく、この演説を見に来ていた、2万のインド民衆も、声をそろえて「チェロ・デリー!チェロ・デリー!」と唱和し、その場の熱狂は最高潮に達しました。
この翌月、8月1日には日本によって、ビルマが独立を達成し、バー・モウが首相に就任しました。(詳しくはビルマ編を参照。)ボースはこの独立祝典に出席し、同じくイギリスの圧政に苦しめられていたビルマ民衆の万歳の声を聞き、日本が独立の約束を果たしたことに感銘を受けました。イギリスはインドと交わした約束を何度も破ってきたからです。第一次大戦の時にも、インドに自治を許すという餌をまいて、イギリスへの戦争協力を強いておきながら、まったく果たされませんでした。その苦い経験を振り返りつつ、眼前で歓呼するビルマ民衆の姿に、ボースは近い将来のインド民衆の姿を重ね合わせていました。
ところが、このときすでに日本軍は、勢いを盛り返してきた連合軍の猛反攻に遭い、ガダルカナルからの撤退を余儀なくされるなど、戦局に不安の影が差し始めていました。
しかし、ボースはインド国民軍の司令官に就任すると同時に、自由インド仮政府の主席となり、独立政府を組織します。そして、ただちにイギリス・アメリカに宣戦を布告したのです。
悪化する一方の戦局を打開するため、日本軍とインド国民軍が、最も悲劇的な戦いとして名高いインパール作戦に勝負を賭けたのは、その翌年、1944年(昭和19)3月のことでした。この戦いでは、多くの将兵が命を落とし、生き地獄だとさえ言われました。そのため、現在の歴史家の多くは、このインパール作戦を、おろかな、無用の戦いであったと言います。
しかし、本当にそうなのでしょうか?
- 1031 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:57
- この戦いで敵方として戦った、イギリス軍東南アジア総司令部司令官マウントバッテン大将は回想記のなかで、こう記しています。「かつて不敗を誇った日本軍も半年の死闘に衣服や靴もボロボロとなり、ささえるものは不屈の精神力だけであった。日本軍はインパールにおいて、ついに敗れたが、そこには何かが残った。それは歴史学の権威トインビーがいみじくも喝破したとおりである。すなわち『もし、日本について、神が使命を与えたものだったら、それは強権をわがもの顔の西欧人を、アジアのその地位から追い落とすことにあったのだ』」(ルイス・マウントバッテン『ビルマ戦線の大逆襲』)
「何かが残った…」その「何か」については、インドの民衆たちがいちばんよく知っています。
インパール手前15キロのロトパチンという村では、村民たちが自主的に作った日本兵の慰霊塔があり、毎年、日本兵の供養が続けられています。ロトパチン村の村長は「日本兵は飢餓の中でも勇敢に戦い、この村で壮烈な戦死を遂げていきました。この勇ましい行動はみんなインド独立のためになりました。私たちはいつまでもこの壮烈な記憶を若い世代に伝えて行こうと思っています。そのため、ここに日本兵へのお礼と供養のため、慰霊祈念碑を建てて、独立インドのシンボルとしたのです。」と語っています。
また、激戦地となったコヒマに住むナガ族は、そこに咲く可憐な花に「日本兵の花(ジャパニーズ・ソルジャーズ・フラワー)」という名を付けています。この花は非常に生命力が強くて、少々のことでは枯れることがなく、しかも群生して仲良くいっせいに咲き始める野草です。このような花の性質が、死闘のなか、弾薬も尽き、ボロボロになりながらも、みんなで力を合わせて、敵に立ち向かっていく、そんな日本兵のすがたに重ね合わせられ、名付けられたのだということです。コヒマの人々は、花に名を刻み、日本兵が倒したイギリス軍の戦車を今も勇気のシンボルとして大事に保存しています。
インパール作戦は決して無駄ではありませんでした。確かに、あまりに多くの犠牲を払いはしましたが、「何か」、つまりインドの独立という大きな歴史を残したのです。このように遠く離れた地で、今でも日本人に感謝してくれている人々がいるということは、祖先がわたしたちに残してくれた大きな財産だといえるでしょう。
このあと、賭けた勝負にも敗れた日本軍はさらなる撤退を続け、ついに1945(昭和20)年8月15日に連合軍に対して降伏をしてしまいます。
日本の敗戦後も、起死回生の望みをかけたチャンドラ・ボースは、寺内寿一南方総軍司令官の計らいで、ソ連に亡命する途中、不運な飛行機事故に遭い、とうとう伝説の人となってしまいました。享年48歳、最後まで、インドの独立に命を懸けた生涯でした。
- 1032 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:58
- その後、ボースのもとで共に独立をめざして戦ってきたインド国民軍(INA)兵士たちには、過酷な運命が待っていました。勝者イギリスが、ボースの指導したインド国民軍の将兵1万9500名を、イギリス国王に対する忠誠に背き、敵に通謀し、利敵行為をおこなったという「反逆罪」で軍事裁判にかけることになったのです。イギリスはこの「反乱」を、セポイの反乱(1857)以来の大不祥事と考え、これを厳罰に処し、見せしめにすることによって、これから先のインド統治を揺るぎないものにしようとしたのでした。イギリスは決して、植民地支配をやめようとは思っていなかったのです。しかし、この愛国者であるインド国民軍を「反乱軍」だとして裁くという措置に、インド全土では2年間に及ぶ大規模な反乱がつづきます。イギリスも軍隊を派遣し、徹底的な弾圧につとめるなど、流血の惨事があちこちで起こりました。さらに、イギリス軍によって、拘留されていた国民軍兵士たちの監獄からは、ボースの決めた国民軍の合言葉「チェロ・デリー!チェロ・デリー!」の声が、毎日響き渡りました。インド民衆も、「愛国の英雄を救え!」「INA全員を即時釈放せよ!」と叫びながら、警戒厳重な監獄にデモ行進をし、監獄の内と外で、「チェロ・デリー!」の大合唱が起きました。ついに1947年5月、イギリスは軍事裁判の中止をやむなく決定、8月にはインドの独立を認めざるを得なくなりました。
こうして、インドが200年もの長きにわたるイギリスの植民地支配を脱したのは、この日を夢見たチャンドラ・ボースの死後、2年目の夏のことでした。
その後も、インドは、敗戦にうちひしがれた日本に対して、厚い友情を示してくれました。
敗戦国を裁く極東軍事裁判では、連合国側が日本を弾劾しつづけるなか、ただ一人、インド代表のパール判事だけが日本の無罪を訴えたことはあまりにも有名です。
また、インドはサンフランシスコ講和会議への参加を拒否しました。それは、勝者=連合国側の、日本に対する懲罰的な条約に反対してのことであり、日本に対する賠償も放棄しています。それどころか、インド独立運動家で、戦後、国会議員になったマハンドラ・プラタップ氏は「日本に対してこそ賠償を払うべきだ」という「逆賠償論」を主張しました。
いかがでしょうか?こうしたアジアの声をもっと聞いてみたいとは思いませんか?先入観を拭い去り、歴史の事実を掘り起こせば、彼らの声はもっと聞こえてくるでしょう。
わたしたちの祖先が、命を懸けて築いてくれた友好と信頼という財産を、大切に受け継ぐためには、こうした政治的に作られたのではない、歴史認識を持つことが必要なのです。
●もっと、詳しく知りたい人には
名越二荒之助編『世界から見た大東亜戦争』展転社
ASEANセンター編『アジアから見た大東亜戦争』展転社
田中正明『アジア独立への道』展転社
田中正明『パール博士の日本無罪論』慧文社
藤原岩市『F機関』原書房
国塚一乗『印度洋にかかる虹』光文社
を、おすすめします。
- 1033 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:58
- <Q2>
同じ敗戦国ドイツが行なった個人補償の方が評価されているようですが、実際はどうなのですか。
<A2>
ドイツとはよく比較され、負い目を感じている人もいるようですので、今のうちにはっきりとさせておかなければなりません。そもそもこれは二つの誤解から出発しています。誤解その1は、日本とドイツが戦争中に犯した罪は同じであると思われている点、誤解その2は、日本が行なった国家賠償よりドイツの個人補償の方がすぐれていると思われている点です。
まず誤解その1について説明しましょう。確かに日本とドイツは第二次世界大戦で同盟国であり、同じ年に連合国側に敗戦したというような共通性があります。しかしドイツが犯し、裁かれた罪は、通常の「戦争犯罪」ではありませんでした。「戦争犯罪」というのは戦闘に伴って起きうる犯罪で、古今東西、戦争をした国は勝ち負けを問わずに犯しているものです。例えば捕虜の迫害や民間人の殺傷などを指し、これらの和解のために「講和」があるのです。ちなみに“勝てば官軍”の言葉どおり、米、英など連合国側の「戦争犯罪」は一切不問に付されています。
さてこれに対してドイツの犯した罪は、これら通常の「戦争犯罪」とは区別して「人道に対する罪」と呼ばれます。「人道に対する罪」とはナチスの特殊な人種差別思想に基づいて「劣等民族」であるとされた民族を絶滅しようとしたこと、あるいはドイツ人であっても障害者や病人など「劣等な遺伝子を持つ」とされた人々を強制的に安楽死させたり、不妊・断種手術を行なったりしたこと対する罪を言い、これにより600万人のユダヤ人が殺害されたことはあまりにも有名です。この他にも50万人のジプシーや200万人のポーランド人、それ以上といわれる旧ソ連人を殺害する一方で、外国から容姿の美しい少年少女を拉致し、ドイツ民族として育成するなどしていました。つまりナチスドイツはその独自の基準に照らして美しい者、秀でた者は人種的に生き、悪しき者、劣る者は地上から抹殺すべきであるという思想によって大量殺戮をしたという罪を負っているのです。
- 1034 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:58
- そして重要なのはこうした一連の政策が戦闘行為によって生じたものではないということです。なぜならば戦闘に投入しなければならない兵員や武器等を運ぶのに必要な車両が不足している時期に、ヨーロッパの各地から敵対している訳でもないユダヤ人をガス室に運ぶなどということは、軍事的利益とは相反しているからです。
そこで誤解その2とも関連しますが、日本で評価の高いドイツの個人補償は通常の「戦争犯罪」ではなく、この「人道に対する罪」に対してのみに支払われたもので、「戦争犯罪」に関してはドイツはまだ賠償を行なっていないのです。
一方、日本は戦争をして敗北したために「戦争犯罪」を裁かれることになりました。しかし日本には国の政策として組織的に民族抹殺(ホロコースト)を行なったという事実はなく、通常の「戦争犯罪」について国家として賠償し「講和」を結んだのです。つまり日本には国家賠償以外に個人補償を行なわなければならないような「人道に対する罪」がないのであって、日本とドイツのこの大きな違いはしっかり認識しておかなければなりません。
次に誤解その2、すなわち国家賠償よりも個人補償の方がすぐれているように思われていることについてですが、通常、国際法や国際慣例による戦後処理とは講和条約とそれに伴う戦勝国と敗戦国間の賠償で終了します。日本の場合で言えば、サンフランシスコ講和条約と個別の二国間条約で決着していることは、〈Q1〉で説明した通りです。ところがドイツでは「戦争犯罪」に対する賠償はまだ始まっていないのです。なぜならば戦後ドイツは東西に分断されてしまったので、戦後処理の開始はドイツ統一まで棚上げされていたからです。ですからドイツが今までに支払ってきた個人補償とは、通常の戦時賠償とは全くの別問題であり、むしろそれは世界の常識である国家賠償以前の問題というべきなのです。ちなみにドイツが統一された1990年以後になって、戦勝国から「戦争犯罪」に対する賠償の請求が始まりました。
このように国家賠償と個人補償のどちらがすぐれているかという比較は非常にナンセンスなことなのですが、教科書や新聞などではこの論法がまだよく見受けられます。活字になっていることは事実だと思いがちですが、もう一度自分自身の頭で考えて教科書にだってツッコミを入れられるぐらいになりませう。
●もっと詳しく知りたい人には
西尾幹二『異なる悲劇 日本とドイツ』文芸春秋
『歴史を裁く愚かさ』PHP研究所
をお勧めします。
- 1035 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:59
- <Q1>
先生が、日本は戦後補償をきちんと行なっていないように言っていましたが、新聞ではもう賠償は済んでいると書いてありました。本当はどうなのですか。
<A1>
こういう質問、絶対あるはずだと思っていました。教科書を見ても、とても賠償が終わったようには書いてありませんからね。まさに“教科書が教えない戦後賠償”についてお答えしましょう。
昭和20(1945)年、敗戦国となった日本は7年間の占領期間を経た後の昭和26年に、サンフランシスコ条約を結んで連合55国ヶ国中48ヶ国と講和をしました。この条約とそれに続く個別の国との協定で、戦争で日本が与えた損害に対して賠償を行なうことを約束し、ここから戦後処理が始まったのです。
例えばフィリピンには賠償約1980億円、借款約900億円、インドネシアには賠償約803億円、借款約1440億円を支払っています。この他、別表にあるように、賠償、補償の総額は約3565億5千万円、借款約2687億8千万円で併せて6253億円にのぼります。これ以外にも事実上の賠償として、当時日本が海外に保有していた財産はすべて没収されました。
それは日本政府が海外にもっていた預金のほか鉄道、工場、建築物、はては国民個人の預金、住宅までを含み、当時の計算で約1兆1千億円に達しています。
現在の経済大国、日本ではなく、戦後のまだ貧しい時代に、時には国家予算の3割近くの賠償金を約束し、きちんと実行してきていたのです。ちなみに昭和30年のスチュワーデスの初任給は7000円でした。
さて最近、韓国から個々人に補償を要求する動きが新聞やテレビで報じられていますが、これについても一言ふれておきましょう。
- 1036 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:59
- 昭和40(1965)年、日本と韓国は日韓基本条約を結び、日本は無償で3億ドル(約1080億円)、有償で2億ドル(約720億円)、民間借款で3億ドルを支払いました。そこで、日本が韓国内に持っていた財産を放棄することも含めて「両国民の間の請求権に関する問題が 完全かつ最終的に解決された」としたのです。民間借款を除いた5億ドルだけでも、当時の韓国の国家予算の1.45倍にあたる膨大な金額です。韓国はこのお金の一部を「軍人・軍属・労務者として召集・徴集された」者で死亡したものの遺族への補償に使いましたが、大部分を道路やダム・工場の建設など国づくりに投資し「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を遂げました。韓国は日本から得たお金を個人補償として人々に分配することよりも、全国民が豊かになることを選び、それが成功したのです。そして韓国のとったこの行動は韓国自身が決めたことですから、出した日本がその使い道にあれこれ言うことはできません。
ですから現在、日本政府に個人補償を訴える韓国人はこうした事実を知らなければなりませんし、私たち日本人も貧しかった中で、一生懸命働いて賠償要求に応じてきたという事実を知っておかなければなりません。こういうたった30年ほど前の努力を知らない若い世代ほど、“日本は金持ちになったのだから出し渋らず払えばイイ”などと無責任な発言をするのです。一方、30〜40年前に膨大な償いを課せられた60歳以上の人々は、これに反対するのは当然のことなのです。
歴史を知るのは大事なことですね。
そして知らないことはコワいことですね。
●もっと詳しく知りたい人には
岡田邦宏著 『「戦後補償論」はまちがっている』
日本政策研究センター刊(500円)
をお勧めします。
- 1037 : 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:59
- これまでの賠償実績 国 名 賠 償 額 当時の政府予算
ビルマ
(ミャンマー) 賠償720億円(1955〜65)
借款180億円(1955)
無償援助504億円(1963)
借款108億円(同上)
1兆182億円(1955)
3兆442億円(1963)
フィリピン 賠償約1980億円(1956〜76)
借款900億円(1956) 1兆692億円(1956)
インドネシア 賠償803億円(1958〜70)
※賠償は日本の対インドネシア債権637億円を棒引き
借款1440億円 1兆3315億円(1958)
ベトナム 賠償140億4000万円(1959〜64)
借款59億7600万円 1兆4950億円(1959)
1兆7431億円(1960)
カンボジア 15億円供与(1959)
ラオス 10億円供与(1958)
マレーシア 約29億4000万円無償供与(1967) 5兆1130億円(1967)
シンガポール
モンゴル 50億円無償資金援助(1977) 29兆598億円(1977)
スイス 補償約11億円(1955)
スペイン 補償約20億円(1957) 1兆1867億円(1957)
スウェーデン 補償約5億円(1958)
デンマーク 補償約3億円(1955)
補償約4億2300万円(1959)
オランダ 補償約36億円(1956〜60)
韓 国 1080億円無償協力(1965)
720億円有償協力(同上)
1080億