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近代、日本の発達ほど、世界を驚かしたものはない。
1006 名も無き筑波大生 :2003/05/29(木) 23:47
・朝鮮人労働者の日本渡航   「出稼ぎ」と「募集」・「官斡旋」・「徴用」

日韓併合が行なわれた明治43年(1910)以来、朝鮮人の日本への移住者は年々 増え続け、日本列島内に住む朝鮮人は大正10年(1921)末には約3万8千人も いました。そして、昭和2年(1927)末には約16万5千人と増加し、昭和13 年(1938)末には79万9千人です。つまり、この28年の間に、日本に働き場 所を求めて、自由に渡ってきた朝鮮人たちが、80万人近くもいたのです。日本政府 が朝鮮人に日本に行って働け、と命令したわけではありません。

それどころか、当時は、朝鮮人がたくさん日本に移住してくると、日本人の仕事をう ばわれてしまうことや、言語・風俗のちがいなどによるさまざまな社会問題があるた め、きちんとした就職先や生活の見通しを持たない朝鮮人の渡航を、日本政府はきび しく制限していたのです。日本への渡航を希望する場合には、かならず証明書を必要 とし、就職先や滞在費を持たない朝鮮人の渡航を認めませんでした。
丁度今日、中国人や東南アジアの人が、不法に入国しないようにしているのと同じです。 それでも、今見たように80万人近くの人が出稼ぎにやってきていたわけです。これ を「強制連行」などという言葉でよぶのは、まちがいであるということは明らかです ね。

その後、昭和13年(1938)になると、日本人の青年が戦争に行ってしまうこと により、国内では労働力が足りなくなってきました。そこで、働き手をおぎなうため、 日本人は大人から子どもまで工場などではたらくことになりました。
それを法律で定めたのが「国家総動員法」といい、国家の非常時に必要に応じて、国 民を「動員」できるようにしたのです。 そして昭和14年(1939)4月にできた「国民徴用令」では、日本人のうち15 歳から45歳の男子、16歳から25歳の女子が、国民の義務として、国の定める仕 事につくようになりました。

でも、この時点では、「徴用」されるのは、日本人男女に限られており、朝鮮人はま だ「徴用」の対象にはなっていません。
日本人男女が「徴用」され、工場や炭鉱ではたらきはじめた昭和14年(1939) になって、日本政府は朝鮮半島でも、労働力を「募集」することを解禁しました。そ れ以前、日本内地の企業は朝鮮半島で従業員を募集することは禁じられていましたが、 非常時における国内の労働力不足に、新しい人材を求めることを政府が許可したので す。 もちろん、これはあくまでも「自由募集」であり、決して首に縄をつけて連れてくる ようなものではありません。

ところが、それぞれの企業がリクルートをはじめると、企業どうしの競争がはげしく なったり「誇大広告」にひっかかる人もでてきました。これをみて、朝鮮総督府は「 職業安定所」のようなものをつくり、企業の求人と働き手をつなぎ、トラブル防止に 努めました。
昭和16年(1941)12月の日米開戦をはさんで、戦争に行く日本人男性が多く なるにつれ、国内の労働力不足はますます深刻になってきました。
そこで、昭和17年(1942)になると、今までの自由な「募集」から、決められ た人数を割り当てて集める「官斡旋(あっせん)」という形をとるようになりました。 これは会社の事業主が朝鮮総督府に必要な人員を申しいれ、総督府が道(日本の県に あたります)に割り当て、道は郡、面に人員の割り当てを行う、つまり地方ごとに必 要な人数を募集するというシステムです。

一見、「強制」に近いようですが、これを拒否したとしても罰則はありませんでした ので、日本に渡ってきたあと、もっと収入の良い働き場を求めて、逃げ出し、別の職 場で働く人もいました。たとえば、ある朝鮮人は「官斡旋」の制度によって日本に来 ましたが、なじめなかった職場を辞めて、朝鮮人が経営する土木会社に再就職し、そ の後もきちんと食糧の配給を受けています。 また、約1〜2年の契約期間が切れたあとは、日本に残っていても、同じ日本国民と して参政権などの権利もありました。


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過去ログビューア 2006/03/12
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