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近代、日本の発達ほど、世界を驚かしたものはない。
- 1 : 名も無き筑波大生 :2003/04/30(水) 14:41
「近代、日本の発達ほど、世界を驚かしたものはない。この驚異的発展には他の国と異なる何ものかがなくてはならぬ。
果たせるかな、この国、3千年の歴史がそれであった。この永い歴史を通じて、一系の天皇を戴いたという比類なき国体を有することが
、日本をして今日あらしめたのである。私はいつも世界上のどこか一カ所位、このような尊い国がなくてはならぬと考えていた。
何故なら世界の未来は進むだけ進み、その間幾度びも争いは繰り返され、最後に戦に疲れる時が来る。
その時人類は必ず誠の平和を求めて世界的盟主をあげねばならぬ時がくる。
この世界盟主なるものは、武力や金の力ではなく、凡ゆる国の歴史を抜き越えた最も古く又尊い家柄でなくてはならぬ。
世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。それはアジアの高峰日本に立ち戻らねばならぬ。吾々は神に感謝する。
天が吾々に日本という尊い国を作って置いてくれた事を
アインシュタインが大正11年(1922)初来日の時に残した言葉
- 2 : 名も無き筑波大生 :2003/04/30(水) 14:52
- 重複スレです。
http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=599&KEY=1031831874&LAST=100
- 3 : 名も無き筑波大生 :2003/04/30(水) 15:05
- これほんとだよ
- 4 : 名も無き筑波大生 :2003/04/30(水) 17:03
- ただ、第2次大戦の前だろ。第2次大戦後、アインシュタインは、日本をどう思っていたかな?
- 5 : 名も無き筑波大生 :2003/04/30(水) 17:20
- 別にいいイメージはかわらんだろ
むしろ大東亜共栄圏やユダヤ人保護の点でプラスイメージがついたかもね
- 6 : 名も無き筑波大生 :2003/04/30(水) 18:13
- アインシュタインはユダヤ人だし、ホロコーストが本当か嘘か知らんが、
ドイツはユダヤ人を強制収容所に入れていたんだから、そのドイツと
同盟を結んでいた日本ってことを考えれば、、
- 7 : ガ :2003/04/30(水) 18:13 ↓
- また憶測でモノをいい
- 8 : 名も無き筑波大生 :2003/04/30(水) 18:22
- >>7
実のあること言えねーなら帰れ
- 9 : 名も無き筑波大生 :2003/04/30(水) 20:02 ↓
- >この世界盟主なるものは、武力や金の力ではなく、凡ゆる国の歴史を抜き越えた最も古く又尊い家柄でなくてはならぬ。
>世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。それはアジアの高峰日本に立ち戻らねばならぬ。吾々は神に感謝する。
>天が吾々に日本という尊い国を作って置いてくれた事を
このあたりなんか論理もへったくれもないな。ただ「好きだ!」といってる芸能人ファンと同じだ。
アインシュタインが言ったからって内容はデンパだと思うぞ。
- 10 : 名も無き筑波大生 :2003/04/30(水) 20:12 ↓
- >9
同意。多分これを聞いた日本人の主観が混じってるね。
「アインシュタインがこんなことを言ったんだぞ!」
って国内向けに内容を改ざんして発表すれば受けはいいわ、
国威は発揚されるわでね。
国の政策としてはもちろんドイツと同盟を結んではいたけれど、
「八紘一宇」という言葉がただのプロパガンダでは無かったことは
日本のユダヤ人政策を見れば明らかだよなぁ。
ユダヤ人をドイツと同盟国である日本が受け入れたのだよ。
- 11 : 名も無き筑波大生 :2003/04/30(水) 20:16
- 632 :泣きました :03/04/30 05:17 ID:bijjy9wV
トルコの話と
http://www.geocities.co.jp/MotorCity-Rally/5425/Japan-Turkey.swf
ユダヤ人の話
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog260.html
昔の人は素晴らしかった。
- 12 : 名も無き筑波大生 :2003/04/30(水) 20:20
- 軍靴の音が聞こえてきます。気持ち悪いスレですね。
- 13 : 名も無き筑波大生 :2003/04/30(水) 20:27
- >>12 ( ´,_ゝ`)プッ
- 14 : 名も無き筑波大生 :2003/04/30(水) 21:07
- 過去の栄光にすがること程、惨めなことはない。
プロジェクトXなんて、「昔、日本が躍進していた時代」を懐かしんでいるにすぎん。
今の中国・韓国のパワーに日本は遠く及ばない。
- 15 : 名も無き筑波大生 :2003/04/30(水) 21:14
- >>14
まあ確かに未来を見つめることは大切だけど
ここまで拡大した日本の経済が中国・韓国みたいな途上国並の割合で発展するってことは
難しいんじゃないかな?
- 16 : ゆ [なんて当たり前のこと言ったら怒られますかね] :2003/04/30(水) 21:31
- 良いところをきちんと誉めて、悪いところをやはりきちんと直す。
これ進歩する文明の基本。
全面崇拝も全面否定も発想としては今一歩です。
- 17 : 名も無き筑波大生 :2003/04/30(水) 23:40
- 最近、愛国愛国と喧しいことで・・・
- 18 : 名も無き筑波大生 :2003/04/30(水) 23:59
- 愛国心を否定したがる人もな
- 19 : 名も無き筑波大生 :2003/05/01(木) 01:47
- 反省が足りないスレですね。
- 20 : 名も無き筑波大生 :2003/05/01(木) 06:46
- >>19
( ´,_ゝ`)プッ
- 21 : 名も無き筑波大生 :2003/05/01(木) 08:44
- 中国が本当に発展してると思ってる>14はあまりに無知。
あんなのTVに写ってる部分だけ。
- 22 : 名も無き筑波大生 :2003/05/01(木) 11:54
- 日本の発展がすごかったのはわかるけど、
>>1に書いてあることを真に受けて大感動しちゃうヤツはまずいぞ
- 23 : ガ :2003/05/01(木) 12:09
- 近代日本の発展は脅威だが現代日本の凋落振りも脅威だと思う。
- 24 : 名も無き筑波大生 :2003/05/01(木) 12:19
- >>23
凋落してるのは、日本だけじゃない。
- 25 : 名も無き筑波大生 :2003/05/01(木) 12:21 ↓
- なんか下を見るのが流行ってるなw
- 26 : ゆ(L.eKHfWI) :2003/05/01(木) 12:37 ↓
- 上を見る勇気がありませんから仕方がないですね
- 27 : 名も無き筑波大生 :2003/05/01(木) 12:52
- そんなに騒ぐほど凋落してないだろ。GNPなんかは。
問題は、年金とか、国債とかだろ
- 28 : 名も無き筑波大生 :2003/05/01(木) 13:58
- 上だ下だ言ってないで、
個々の問題に冷静に対応していきましょう
- 29 : 名も無き筑波大生 :2003/05/01(木) 17:30
- 政治のことを言ってるんじゃないか?
- 30 : 名も無き筑波大生 :2003/05/01(木) 21:56
- 『日の丸ー。最高だ。こんなに美しい国旗、他にないよ。
どんなに苦しくても、膝が痛くても、日の丸をつけていると思うと頑張れる。
本当に不思議。これまで何度もそんなことがあったね。
ユニフォームの日の丸。スタンドで揺れる日の丸。日の丸が目にはいると、
こんなところで諦めていいのかって、また闘志が湧いてくるんだ。
日の丸をつけて、君が代を聞く。最高だ。武者震いがするもの。体中にパワーが
みなぎってくる。でも、日本の選手の中にはそうじゃないヤツもいる。
不思議でしょうがないよ。
日の丸をつけるって、国を代表するってことだよ。選ばれた選手にしか与えられ
ないものじゃない。国を代表して戦うって、スゴイことなんだよ。それを忘れて
いるんじゃないかって思う。
ワールドカップを見てみろよ。みんなあんなに必死になって戦うのは、国の代表
だからだろ。国を愛し、家族を愛し、仲間を愛しているからだろ。日本はそこん
とこから外国に負けている。自分のためだって?
そんなの当たり前じゃない。じゃあなぜ、もっと大きいものを背負わないの?
オレ、日の丸背負ってなかったら、あんなに頑張れなかったよ。ドーハの時、
オレは38歳。あのクソ暑い中で、そんなオジサンが全試合、それもほとんど
フル出場。練習だって若いヤツらと同じメニューをこなしてたんだ。自分のため
だけだったら、とっくに辞めてたよ。』
サッカー元日本代表・ラモス瑠偉
- 31 : 名も無き筑波大生 :2003/05/01(木) 22:27
- 『吉野家ー。最高だ。こんなに美しい牛丼屋、他にないよ。
どんなに苦しくても、膝が痛くても、吉野家の牛丼を食ってると思うと頑張れる。
本当に不思議。これまで何度もそんなことがあったね。
秋葉原の吉野家。つくばで揺れる吉野家。吉野家が目にはいると、
こんなところで諦めていいのかって、また闘志が湧いてくるんだ。
ギョクを付けて、ねぎだくを頼む。最高だ。武者震いがするもの。体中にパワーが
みなぎってくる。でも、日本の素人の中にはそうじゃないヤツもいる。
不思議でしょうがないよ。
ねぎだく大盛りギョクを食うって、店員にマークされるってことだよ。選ばれた
吉野家通にしか食べられないものじゃない。牛丼をねぎだくにして食うって、
スゴイことなんだよ。それを忘れているんじゃないかって思う。
吉野家オフを見てみろよ。みんなあんなに殺伐として食うのは、吉野家通
だからだろ。吉野家を愛し、牛丼を愛し、2chを愛しているからだろ。すき屋はそこん
とこから吉野家に負けている。ミニ丼2つだって?
そんなの当たり前じゃない。じゃあなぜ、もっと大きいものを食わないの?
オレ、吉野家行ってなかったら、あんなに頑張れなかったよ。ドーハの時、
オレは38歳。あのクソ暑い中で、そんなオジサンが全食、それもほとんど
ねぎだく大盛りギョク。間食だって若いヤツらと同じメニューをこなして
たんだ。すき屋だったら、とっくに辞めてたよ。』
吉野家通元日本代表・ラモス瑠違
- 32 : 名も無き筑波大生 :2003/05/02(金) 00:31
- 最近2ちゃんもつくちゃんも嫌韓・嫌中レスが多くてうんざりする。
必死に下に見ようとする姿が痛々しい。。
- 33 : 名も無き筑波大生 :2003/05/02(金) 00:59
- ??これ読んで中国や韓国を嫌ってるように見えるんだ
自分の国誉めるのって他国を否定することなんだ、ふーん
- 34 : 名も無き筑波大生 :2003/05/02(金) 04:46
- みんな中国も韓国も好きだよ
- 35 : 名も無き筑波大生 :2003/05/02(金) 04:57
- 上とか下とか、そんなことは関係ない。
ただ、曲がったことが許せないだけ。
中国、韓国は、日本的価値観と相矛盾している所が多々ある。
- 36 : 名も無き筑波大生 :2003/05/02(金) 14:30
- アインシュタインは最高だ
- 37 : 名も無き筑波大生 :2003/05/02(金) 16:21
- >>35
矛盾、すなわち「曲がったこと」ですか・・・なんだかなぁ
- 38 : 名も無き筑波大生 :2003/05/02(金) 16:51
- >>37
比較的、日本の方が曲がってないということだ。わかるか?
- 39 : 名も無き筑波大生 :2003/05/02(金) 17:24 ↓
- >>38
それは日本人から見たときの判断かもしれない。
- 40 : 名も無き筑波大生 :2003/05/02(金) 19:20
- >>38
なんか、まあ学生時代はそんなもんですな。
- 41 : 名も無き筑波大生 :2003/05/02(金) 20:11 ↓
- >>35
つーかさ、性格の合わない友人みたいなもんだと思えばよいじゃん
お前は、自分の事を100%理解してくれる人としか付き合わないわけじゃ
あるめえ?
- 42 : 名も無き筑波大生 :2003/05/02(金) 20:21
- 中国、韓国と我慢して付き合うより、台湾とかシンガポールとかベトナムとか
東南アジアで気が合うところと付き合うほうがいい。
- 43 : 名も無き筑波大生 :2003/05/02(金) 21:18
- >>42
現実問題として韓国は経済やコレからの展望がそこそこあるので切るのはもったいない
中国は当然きるわけには行かない
その辺で台湾とかとはアレだよなあ、、
でもインドネシアやベトナム、マレーシア、その他アジア諸国と仲良くするのはいいだろうね
- 44 : 名も無き筑波大生 :2003/05/02(金) 21:34
- >>43
韓国って有望か??一度、経済破綻したじゃん。
一度あることは二度あるかもよ。マスコミが騒ぐほど有望とは思えん。
- 45 : 名も無き筑波大生 :2003/05/02(金) 21:42
- でもたしか一人当たりGNPが日本の1/4はあるっしょ>韓国
- 46 : 名も無き筑波大生 :2003/05/02(金) 21:57
- 2002 1アメリカ合衆国10,365.8 2日本3,935.6 3ドイツ1,974.5 4イギリス1,547.9 5フランス1,408.1b 6イタリア1,167.3 7カナダ715.0 8スペイン639.3 9メキシコ633.5 10韓国470.4 11オランダ416.8 12オーストラリア411.4 13スイス269.5a 14ベルギー246.1 15スウェーデン239.3 16オーストリア202.0 17ノルウェー190.9 18トルコ186.8a 19ポーランド181.1 20デンマーク171.6 21ギリシャ131.1 22フィンランド130.8 23ポルトガル119.7 24アイルランド116.0 25チェコ共和国68.9 26ハンガリー63.6 27ニュージーランド57.5 28スロバキア23.3 29ルクセンブルグ20.3 30アイスランド8.7
- 47 : 名も無き筑波大生 :2003/05/02(金) 21:58
- >>46 見づら!
ttp://web.hhs.se/personal/suzuki/o-Japanese/ne01.html
↑まぁ10分の1くらいあるわなヽ(´ー`)ノ
- 48 : 名も無き筑波大生 :2003/05/02(金) 22:00
- 正確には8分の1くらいか。
- 49 : 名も無き筑波大生 :2003/05/02(金) 22:00
- あ、一人あたりか。。
- 50 : 名も無き筑波大生 :2003/05/02(金) 22:02
- え?普通、一人当たりで考えないだろう。。
一人当たりだったら、確か、ルクセンブルクが世界一位だったはず。
- 51 : 名も無き筑波大生 :2003/05/02(金) 22:26 ↓
- 一人当たりだったら日本は過去に米を抜いたことがあるぞ
- 52 : 名も無き筑波大生 :2003/05/02(金) 22:39
- 収入は今のままで韓国に移住したい…
- 53 : 名も無き筑波大生 :2003/05/02(金) 22:41
- >>52 そして、苦労するんだろ。あの風習に耐えられるかねぇw
- 54 : 名も無き筑波大生 :2003/05/02(金) 22:47
- 民族の誇りがどうのなんて無駄な方面にエネルギー食われなきゃ
もっとイケるはずなのに>韓国
- 55 : 名も無き筑波大生 :2003/05/02(金) 23:19
- >>54
ビンボーだったころにはそれしか国をまとめる方法がなかったんだよ
- 56 : 名も無き筑波大生 :2003/05/02(金) 23:39
- >>55
なら、そろそろ脱皮してほしい頃だよね。
冷静に見てもちょっと勿体ない気が。
- 57 : が :2003/05/03(土) 00:37
- 文化的には中国を親として朝鮮半島が兄。その恩は感じております。
- 58 : 名も無き筑波大生 :2003/05/03(土) 01:47
- 100年ちょっと前の日本:
「んもう、お兄ちゃんったら何いつまで鎖国してんのよ!きょうびお父さんの
真似ごとなんかしてやっていけると思ってるの?今、流行りの最新流行は
富国強兵。これ。富国強兵万世一系。これ最強。しかしこれをやると列強から
目をつけられるから今必死で防いでるのにお兄ちゃんの腰抜け!開化党弾圧
して喜んでる場合じゃないでしょう!んもう鉄道もないし不便ったらしょうが
ないしほらロシアに分割統治されてもいいっていうの?妹に迷惑かけるなんて
最低ね!もういい怒った!もうお兄ちゃんの面倒はあたしが見る!いい?今から
お兄ちゃんはあたしのものなんだからね!」
嗚呼強し、偉大なる妹の国、日本。
- 59 : 名も無き筑波大生 :2003/05/03(土) 08:01
- >>57 ( ´,_ゝ`)プッ だったら任那日本府は?兄をいじめる弟か?
- 60 : 名も無き筑波大生 :2003/05/03(土) 08:38
- >>59
だから妹だって
- 61 : 名も無き筑波大生 :2003/05/03(土) 08:51
- >>57
ここにもァホがいるな。
大陸や半島でかつて文明・文化を担った人々は列島に渡ってきたのだよ。
- 62 : 名も無き筑波大生 :2003/05/03(土) 09:41
- つうか、朝鮮の殺し文句だろ。「朝鮮が兄。日本が弟。」って。
左翼がはやってたころに、はやってた言葉だろうなぁ。
歴史を調べれば調べるほど、日本が兄だということがわかるわけだが。
- 63 : 名も無き筑波大生 :2003/05/03(土) 09:46
- 世界で一番偉い人って誰でしょ?
判りやすく言えば、世界で最も権威のある人。
もっと砕けて言えば、世界で最も地位が高い人。
ぶっちゃけて言えば、皇帝が一番偉い。 以下法王、王様、大統領、首相の順に続く。
一覧にするとこんな感じ
天皇陛下(emperor)≧ローマ法王(Pope)>英国女王(Queen)> アメリカ大統領etc(president)>日本国首相etc(premier)
っつーわけで、天皇陛下が一番偉い。と、まで言わないが、
世界で2トップのうちの一人なのよ。いや、マジで。
そんな訳でエリザベス女王だって天皇陛下と同席するときは上座を譲るし、
当然アメリカ大統領だって空港へホワイトタイで出迎えます。
ちなみにアメリカ大統領がこの歓迎の仕方をするのは、天皇陛下とローマ法王と英国君主のみ。
アメリカ大統領に最敬礼させられるのはこの3人のみといったほうが判りやすいか?
ついでに言うと現存する最古にして最後の皇帝。
文化的にも世界遺産並。
そんな偉い人が国を行き来するもんだから、皇室外交っていうのは、
外交官1000人分の威力があるとか言われるわけです。
- 64 : 名も無き筑波大生 :2003/05/03(土) 09:47
- 昭和五十六年二月二十三日、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世はローマ法王
として初めて来日しました。この時、法王は慣例を破って皇居に天皇陛下
を訪ねられました。と言いますのが、法王が外国を訪問してその国の元首
や首相に会う時は、この方々が法王を訪ねて会いに来るのが慣例となって
いるとのことで、法王の皇居訪問は前例のないことでその世界で物議をか
もしたようでした。その時、法王は、御身を捨ててマッカーサー元帥の前
に立たれた天皇を称えて自らの陛下訪問の意義を説いたそうです。
- 65 : 名も無き筑波大生 :2003/05/03(土) 10:20
- ぶっちゃけていえば、校庭が一番偉い。以下体育館、中庭、校門、渡り廊下、教室の順に続く。
- 66 : 名も無き筑波大生 :2003/05/03(土) 10:28 ↓
- 偉くはないけど、埼京は離れのボットン便所れす。
- 67 : 名も無き筑波大生 :2003/05/03(土) 11:04
- 新たな未来は謝罪をすることから始まります。
しっかり過去の清算を済ませてからでないと、このスレ自体が本末転倒になります。
- 68 : 名も無き筑波大生 :2003/05/03(土) 11:32
- >>66
リア消の頃「見て、肛門」とかやってたのを思い出しまつた
- 69 : 名も無き筑波大生 :2003/05/03(土) 11:59
- だから謝罪も賠償もすべてすんでいるツーのに、、、
- 70 : ゆ :2003/05/03(土) 12:12
- 精算って言葉がね…ダメなんですよ
- 71 : 名も無き筑波大生 :2003/05/03(土) 12:30 ↓
- 在日は国に帰ればいいのに。
- 72 : 名も無き筑波大生 :2003/05/03(土) 13:11
- 在日は国に帰ればいいのに。
帰化人は国に帰ればいいのに。
渡来人は国に帰ればいいのに。
蝦夷は北に帰ればいいのに。
縄文人は南に帰ればいいのに。
弥生人は大陸に帰ればいいのに。
…誰もいなくなっちまったぜ、おい。
- 73 : 名も無き筑波大生 :2003/05/03(土) 15:00
- >>67 pu..
- 74 : 名も無き筑波大生 :2003/05/03(土) 17:00
- そのアメリカ人の目からみて、日本文化は「cool」らしい。
中央公論5月号の特集、「日本文化立国論」の中に、「世界を闊歩する日本のカッコよさ」
というレポートが収められている。著者であるダグラス・マッグレイは、2001年、
ジャパン・ソサエティーのフェローシップで訪日し、このレポートを書いた。
原題「Japan’s Gross National Cool」が表す通り、彼は「ある国のカッコよさ、
つまり大衆に与える文化的影響力は、GNPと同様、その国のパワーとして認知されるべきではないか」と説き、
日本は既にその分野の超大国となっていると指摘する。
この分析は、10年以上前に政治学者のジョセフ・ナイが「ソフトパワー」という言葉を使って説いた理論の
延長線上にある。アメリカが世界中でコカ・コーラやジーンズを売り、ナイキのスニーカーを流行らせ、
ハリウッドの映画を見せる時、彼らは単に物を売っているのではない。
文化という媒体は、力を持てば、受け手の好みや考え方、価値観にまで深く影響を及ぼすことができる。
アメリカはそのことを自覚しているし、長年にわたり、その力を戦略的に伸ばしてきた。
では、日本はどうか。アニメやポケモン・グッズやキティーちゃんが欧米で人気を高め、
日本食、日本製電子機器やゲームが海外でももてはやされ、日本人建築家やデザイナーたちが
次々に認知度を上げている現在の状況を、日本人は自分達の国力として認識しているだろうか。
日本は、外国文化を吸収し、模倣し、変形させ、自分たちの文化の中に取り入れることを古くから
得意としてきた。でも、日本人が日本で生み、育ててきたものの中には、外国人が憧れ、
真似したくてもできないと感じているものが数多くある。
その魅力に一番無頓着なのは日本人自身ではないだろうか。
http://mytown.asahi.com/usa/news02.asp?c=14&kiji=224
原文
National Cool (By Douglas McGray)
http://www.foreignpolicy.com/issue_mayjune_2002/mcgray.html
- 75 : 名も無き筑波大生 :2003/05/03(土) 19:12
- (´ー`).。oO(どうして>>1みたいな人ってコピペばっかりするんだろう)
- 76 : 名も無き筑波大生 :2003/05/03(土) 19:27
- しらん
- 77 : 名も無き筑波大生 :2003/05/03(土) 19:28
- 別に1みたいな人じゃなくてもコピペする。俺は1じゃないが。
- 78 : 名も無き筑波大生 :2003/05/03(土) 19:35
- >>75
なんか権威がほしいんだよ
「ほら、あの○○だって日本がすごいって言ってるぞ!」
「あの雑誌だって、日本はすごいって言ってるぞ!」
要するに、誰かに誉められたいタイプ
自己顕示欲の強いタイプ
ただし、誉められるのは自分でなく日本。日本というキャラクターを持つ
一国家が誉められているのを、
「日本はすごい!=日本人である自分はすごい!」と自己投影、錯覚して
悦に浸ってる。だから、本質的には、コピペすることによって
「俺はすごいんだ!」とみんなに知らしめたがっていると云うのが正直なところ。
- 79 : 名も無き筑波大生 :2003/05/03(土) 19:38
- どうでもいいが、そういう話があったのは事実だ。
- 80 : 名も無き筑波大生 :2003/05/03(土) 19:51
- >>79
嘘だと思っちゃいない
俺の話では、嘘かどうかは問題ではない
- 81 : 名も無き筑波大生 :2003/05/03(土) 19:52
- >>80
論旨がずれてる。このスレの趣旨は、1の人間性を考えることじゃない。
- 82 : 名も無き筑波大生 :2003/05/03(土) 20:16
- >>81
すべては、
「どうして>>1みたいな人ってコピペばっかりするんだろう?」という問いに
対し、真剣に答えを考えた結果達した結論だ
たしかにスレの趣旨から脱線してはいるが
まあ、ということはこのスレにとって無意味なレスであるわけだから、
まともに相手にせずに、流してくれ
- 83 : 名も無き筑波大生 :2003/05/03(土) 20:59
- 過去に対する反省が全く無いので、ここは糞スレです。
気持ち悪いプライドが前面に押し出され、過ちを認める潔さが感じられません。
- 84 : 名も無き筑波大生 :2003/05/03(土) 21:13
- >>83
韓国の人々はベトナムに対してどれほどの反省の心を持っているのですか
中国の人々はチベットに対してどれほど反省の心を持っているのですか
- 85 : 名も無き筑波大生 :2003/05/03(土) 21:40
- >>83 ( ´,_ゝ`)プッ
- 86 : 名も無き筑波大生 :2003/05/04(日) 00:10
- 「んもう、お兄ちゃんったら反省ばかり要求して。
反省だけなら猿でもできるんだぞっと」
- 87 : 名も無き筑波大生 :2003/05/04(日) 02:33
- 他人が反省していなければ私も反省しなくていいのです。
- 88 : 名も無き筑波大生 :2003/05/04(日) 04:09
- >>87
その考えは個人的には好きじゃないな。
道徳や倫理ってのはそういう考えを戒める為にある。
- 89 : 名も無き筑波大生 :2003/05/04(日) 04:56
- 日本に謝罪してもらったりすることで国家のアイデンティティを保つ、という
やり方はあんまりよろしくないと思うな。かりに何か別な理由で、アイデンティティが
ぜひ必要であるとしても。だってそうだとしたら、日本という悪役がいなければ
韓国は韓国たり得なかった、ってことになるじゃん?ウリナラマンセってのは
そんな相対的な問題だったのかい。もっと誇るものが別にあるでしょうが。
朝鮮半島には朝鮮半島の独自の伝統がもちろんあったんだし、そのなかで成立
してきた国家が前世紀はじめの数十年間、日本と同じ国として発展してきた
という歴史はたしかな事実だ。それを不満というなら日本(今の日本国はかつての
大日本帝国じゃないというなら、第二次大戦で日帝に勝って朝鮮半島を「解放」
した連合国側でもいい)としてはたとえば日本が併合以降朝鮮半島に国家レベルで
さんざ投資して前近代的だった社会水準を曲がりなりにも近代国家の末席くらい
にまで引き上げてやった分をかわりに請求したっていいんだ。でも今の日本は
そんなこと要求しない。俺も要求したくない。たりめーだ。そこまで吝嗇じゃねえ。
朝鮮人=日本人として扱って朝鮮独自の文化と伝統を蔑ろにしてきたことくらい
後ろめたさは感じてるさ。だから言わねーんだよ。恥と美徳の日本文化を舐めて
もらっちゃ困る。ま、日本としては何かケチつけられたらとりあえず謝るって
ことさ。それが日本だから。ただ、謝ってもらうのをいいことにあることないこと
いちゃもんつけて回るってのは、近代国家の態度としてどうかねと思わんでもない。
曲がりなりにも朝鮮半島の近代化の片棒担いだ国の人間としては、そのへんを
どうしても気にしてしまうんだな。
ま、日本の「すぐに謝っちまう」癖もどうか、っていう話はあるけど、それはそれだ。
- 90 : 名も無き筑波大生 :2003/05/04(日) 12:47
- 本当に何度見ても気持ち悪いすれだなぁ。
- 91 : 名も無き筑波大生 :2003/05/04(日) 16:21 ↓
- どこを縦読み?
- 92 : 名も無き筑波大生 :2003/05/04(日) 18:20
- >>90
ええ、全くもって>>1の文章は気持ちが悪い。
読点が行頭にきてるし、鈎括弧が閉じてないし…
- 93 : 名も無き筑波大生 :2003/05/04(日) 19:51
- 最近の筑波もずいぶん馬鹿になったなぁ。
まぁ、この釣堀なかなか楽しいから良いけど。
- 94 : 名も無き筑波大生 :2003/05/04(日) 23:44
- 釣ったなら責任もって食えよな。
- 95 : 名も無き筑波大生 :2003/05/04(日) 23:56 ↓
- リリース禁止だ
- 96 : 名も無き筑波大生 :2003/05/05(月) 03:57
- コピペにも興味があればここまでマジレスがつきまくる
つくちゃんの文化はかなりいいと思うよ
- 97 : 名も無き筑波大生 :2003/05/05(月) 10:15
- >>93
何がどう馬鹿なのか説明せよ
- 98 : 名も無き筑波大生 :2003/05/05(月) 12:37 ↓
- 頭がすごく馬鹿
- 99 : 名も無き筑波大生 :2003/05/05(月) 12:45
- >>97
釣られているお前が馬鹿
- 100 : 名も無き筑波大生 :2003/05/05(月) 12:48
- >>98-99
馬鹿
- 101 : 名も無き筑波大生 :2003/05/05(月) 13:43
- >>98-100
馬鹿
- 102 : 名も無き筑波大生 :2003/05/05(月) 14:50
- >>97=100
キモスレをキモスレと見抜けないものは(以下略
- 103 : 名も無き筑波大生 :2003/05/05(月) 14:56
- まったりつくちゃんで気持ち悪い日本論語るスレはここか?
オナニーもほどほどにしておけよ。
- 104 : 名も無き筑波大生 :2003/05/05(月) 17:04
- >>103
キモイ
- 105 : 名も無き筑波大生 :2003/05/05(月) 17:26 ↓
- >>103
いいえ
- 106 : 名も無き筑波大生 :2003/05/05(月) 20:58
- マスターベーションスレッドですね。
ここは、過去に対する反省・謝罪が無く、賠償の言葉すら出てこないのは残念です。
- 107 : 名も無き筑波大生 :2003/05/05(月) 20:58 ↓
- 賠償美津子
- 108 : 名も無き筑波大生 :2003/05/05(月) 21:45
- >>106
過去はどこまでさかのぼればいいのでつか?
- 109 : 名も無き筑波大生 :2003/05/05(月) 21:47
- >>106 気持ち悪い
- 110 : 名も無き筑波大生 :2003/05/05(月) 21:48
- >>106
何に対して反省・謝罪しなければならないのでしょうか?
そしてなぜ私がしなければならないのですか?
- 111 : 名も無き筑波大生 :2003/05/05(月) 22:02 ↓
- >>67>>83>>106
これだけ繰り返されてんだから遊ばれてるって気づけよ
- 112 : おもいきり溯ってやったぞ :2003/05/06(火) 02:47
- >>106
爬虫類は両生類に謝罪しる!
- 113 : 名も無き筑波大生 :2003/05/06(火) 09:54
- ↑サルが何を言うか(w
島国根性丸出しだな(w
- 114 : 106 :2003/05/06(火) 10:05
- 皆さん すみません。
実は釣り氏でした。 今回初めて釣りなるものをしてみたんですが
・・・漏れには釣りは無理みたいです。
>>110さんのような熱い人の真剣さが漏れには辛過ぎます。
- 115 : 名も無き筑波大生 :2003/05/06(火) 10:18
- はいはい、騙らないでください。偽者。
- 116 : 114 :2003/05/06(火) 10:48
- 皆さん、すみません。
実は偽物でした。今回初めて名前欄に入れてみたんですが
…漏れには名無しさんが似合っているようです。
>>115さんのような熱い人の真剣さが今日みたいな晴れの日にはうざすぎます。
- 117 : 名も無き筑波大生 :2003/05/06(火) 10:49
- お、謝罪スレになってきたぞ
- 118 : 116 :2003/05/06(火) 11:02
- 皆さん すみません。
実は包茎でした。 今回初めて剥こうとしてみたんですが
・・・漏れにはズルムケは無理みたいです。
>>113さんのような風通しのいい人のさわやかさが漏れには辛過ぎます。
- 119 : 名も無き筑波大生 :2003/05/06(火) 12:14
- とにかく謝罪と賠償、これが新しい未来への第1歩となります。
- 120 : 名も無き筑波大生 :2003/05/06(火) 12:18
- とにかく日本の偉大さの確認、これが新しい未来への第1歩となります。
- 121 : 名も無き筑波大生 :2003/05/06(火) 12:38
- >>106=114=116=118
釣られすぎ。(w
お前一人で大漁だよ。
- 122 : 名も無き筑波大生 :2003/05/06(火) 12:59
- >>106に>>108-110が釣られてるんですよ
- 123 : 名も無き筑波大生 :2003/05/06(火) 13:00
- >>121
>>106=114=116=118←これが同一人物なわけないだろ
- 124 : 名も無き筑波大生 :2003/05/06(火) 13:10
- >>119
>>120
お前らみたいな盲目的なやつが一番現実に対応できないやつらなんだ
- 125 : 名も無き筑波大生 :2003/05/06(火) 13:14
- >>124
どっちもネタ
- 126 : 名も無き筑波大生 :2003/05/06(火) 13:19
- −−−−−−−−−− 終了 −−−−−−−−−−−
- 127 : 名も無き筑波大生 :2003/05/06(火) 13:33
- −−−−−−−−−− 反省 −−−−−−−−−−−
- 128 : 名も無き筑波大生 :2003/05/06(火) 13:42
- −−−−−−−−−− 山折 −−−−−−−−−−−
- 129 : 名も無き筑波大生 :2003/05/06(火) 13:45
- −−−−−−−−−− キリトリセン −−−−−−−−−−−
- 130 : 名も無き筑波大生 :2003/05/06(火) 14:00
- −−−−−−−−−− 謝罪と賠償 −−−−−−−−−−−
- 131 : 名も無き筑波大生 :2003/05/06(火) 14:02
- −−−−−−−−−− ユタバカニシナイデヨ! −−−−−−−−−−−
- 132 : 名も無き筑波大生 :2003/05/06(火) 15:48
- −−−−−−−−−− 軍靴の足音・右傾化阻止 −−−−−−−−−−−
- 133 : 名も無き筑波大生 :2003/05/06(火) 16:34
- −−−−−−−−−− 感動を ありがとう カスども −−−−−−−−−−−
- 134 : 名も無き筑波大生 :2003/05/06(火) 18:11
- −−−−−−−−−− 朝日新聞は日本の良心 −−−−−−−−−−−
- 135 : 名も無き筑波大生 :2003/05/06(火) 18:31 ↓
- >>129以降は微塵も面白くないな
- 136 : 名も無き筑波大生 :2003/05/06(火) 22:36
- >>134
http://live2.2ch.net/test/read.cgi/news/1049195393/
- 137 : 名も無き筑波大生 :2003/05/07(水) 01:57
- −−−−−−−−−− >8 −−−−−−−−−−−
- 138 : かちゅ〜しゃで :2003/05/07(水) 01:58
- 色が付いちゃった(´・ω・`)
- 139 : 名も無き筑波大生 :2003/05/07(水) 22:03
- 最近、この糞スレほど、右翼をオナニさせたものはない。
- 140 : 名も無き筑波大生 :2003/05/07(水) 22:27
- そして>>139は左翼のオナニ以外の何者でもない
- 141 : 名も無き筑波大生 :2003/05/08(木) 01:15
- 近代、140ほど、必死に釣られるものはいない。
- 142 : 名も無き筑波大生 :2003/05/08(木) 01:17
- 近代、俺のチンポほど、世界を驚かしたものはない。
- 143 : 名も無き筑波大生 :2003/05/08(木) 01:22
- 最近、>>141ほど>>140に釣られたものはない
- 144 : 名も無き筑波大生 :2003/05/08(木) 01:45
- 近代、140=143の自作自演ほど、分かりやすいものはない(プ
- 145 : 名も無き筑波大生 :2003/05/08(木) 06:58
- 近代、144ほど必死なレスを見たことはない。
- 146 : 名も無き筑波大生 :2003/05/08(木) 09:44
- あまり知られてないが、
教育基本法は本来、教育勅語の存在を前提とし、
教育勅語とワン・ セットの形で作られたものであった。
教育基本法には道徳教育の理念が欠如しているが、
それは教育基本法の起草者が教育勅語を肯定し、
道徳教育の理念として教育勅語をあてにし
教育基本法と教育勅語との役割分担を考えたからである。
私たちは國の宝である子供たちのために、
教育基本法を改正するか、教育勅語を復活せねばなるまい
- 147 : 名も無き筑波大生 :2003/05/08(木) 09:45
- 明治政府は国民教育に途方もない予算をつけた。
教育を受ける子弟も賢明に学業に励んだ。
明治政府の成功はその相乗効果。
でもその背景には江戸時代の教育の普及があった
こともわすれてはならない。
それは即ち長い時間をかけて日本人がはぐくんだ
文化の結晶であった。そのおかげで今の日本がある。
- 148 : 名も無き筑波大生 :2003/05/08(木) 11:50
- あ教教教そ道教私教
- 149 : 名も無き筑波大生 :2003/05/08(木) 13:03
- >>148はよほど臭いものにフタをして済ませようとしたいらしいぞ。
- 150 : 名も無き筑波大生 :2003/05/08(木) 15:23
- 最近チョッパリオナニーネタ食傷気味だったんだよ。
- 151 : 名も無き筑波大生 :2003/05/08(木) 15:31
- チョソキタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!!!
- 152 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 13:25
- ギネスブックにも載ってる。
伝承では神武天皇が初代だが、学術的には第10代の崇神天皇
が初代といわれています。
それでも、3世紀とかの時代だからいかに古いかが分かる。
全体的な古さでは中国にはかなわないが、中国の皇室は
何度も交代してるしね。
しかも、皇室は伊勢神宮と同じくいにしえの朝廷の儀式を今に伝える
重要な伝統文化の継承者。
本来ならば重要無形文化財保持者に認定されるくらいの
貴重な文化財の保持者なのに、何故天皇反対論者はそのことが分からないのだろう。
- 153 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 13:26
- 連合国最高司令官マッカーサー(Douglas MacArthur, 1889-1964)には、
あの勇敢な日本軍が、陛下のお言葉によって昭和二十年八月十五日に、
ぴたりと戦争を止めたことが腑に墜ちなかった。
世界の歴史を見れば、戦争に完敗した国の「王」は亡命または自殺
または人知れず不運な人生を終え、「王家」は途絶える、それが常識である。
「一体全体どのような目的で、天皇は全国巡幸を計画したのか」とGHQはいぶかった。
彼らの頭をよぎったのは、天皇がゲリラを暗に励ます、ということ。
天皇陛下の行幸には二名の憲兵(MP Military Police)が護衛を名目に監視役として、
ごく近くに付き添った。
ところが、GHQの予想に反して、日本国民は陛下を熱狂してお迎えした。
一方ではゲリラの可能性はまったくなかった。
これを見てGHQは再び驚いた。
昭和二十二年六月七日に陛下が(宿泊された)大阪府庁をお出ましになるときからGHQは、
占領軍の威力を日本国民に見せつけるために、装甲自動車を配備した。
ところが、日本国民は「米兵までが天子さまを大事にする」と言って喜んだ。
日本と言う国は(どこまで人がいいのか)わからない、と欧米の知識人は思った。
天皇陛下の全国巡幸は、アメリカ占領軍の指示で一時中止された。
- 154 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 13:29
- (参考)
歴代天皇
http://www.logix-press.com/scriba/index/tn-index.html
- 155 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 13:32
- 何が『そして唯一のエンペラー』だボケ野郎。
聖徳時代の時代から皇帝とは隔絶するために、
天皇というようにしたのに、
皇帝と天皇の違いもしらない欧米人達のしようする
英語表記にすることに何の意味があるのか、
万世一系の天皇陛下だ!
- 156 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 16:55
- 伊勢神道と国家神道の違いや背景をおしえてください
- 157 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 17:15
- オナニー書き込み連発だなぁ(w
気持ちよさそうだね
- 158 : 実に興味深い :2003/05/09(金) 17:26
- 実に興味深いスレッドだ。
経済が崩壊しつつある日本。韓国の台頭によって生じるコンプレックスを、
- 159 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 17:35
- >>158
日本経済は崩壊してないが、崩壊していると仮定しても、
韓国という朝鮮半島ですら小さいのに、さらにその半分でしかない小国を
対抗馬としてあげる時点で、チョソだとわかる。
中国とか言うならまだしも。
帝国主義時代、それ以前でも、朝鮮を日本に並ぶほどの国と
みなしたことはない。
中世とかでも、三国って言ったら、日本と支那と天竺でしょう??
- 160 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 17:39
- チョソ認定してる時点で韓国への意識が過剰ということは分かる・・・
韓国人留学生に友達いるか?>>159
- 161 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 17:40
- 釈迦に説法でしょうけれども、我が国は漢字をとりいれたが、そのまま使ったわけではない。
従来からあった話し言葉を書きあらわす際に当て字として使ったわけで、漢字を都合良く取り入れて、ある種道具のように
その漢字の成り立ちも含めて理解し、使いこなしたわけだ。漢字を使ってるだけで支那の言語圏や文明圏に
取り込まれたわけではない。
和魂洋才という言葉があるが、昔は和魂漢才といってたそうだ。
- 162 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 17:46
- 外国に住んでいるせいで「民族」という意識が強いのか、どうかは知らんが、少なくとも天皇は「日本国の象徴」なので「日本民族の象徴」とも「日本国民の象徴」とも法律にも書かれていない。
つまり、代々日本を(実質的にでは無いにしろ)支配していた天皇はイメージ的に(象徴的に)
日本=「天皇が頂点にたつ国」というわけだ。
つまり、日の丸を見て、
日の丸=「日本の国旗」と認識するようなものだろう。
長年の支配の結果、しみついたイメージ。それが歴史なのだ。
ようするにミカンは何色?と聞かれオレンジ色と答えるようなもの。実際には、蒼いミカンだってあるのにな。
つまり、現実的認識を、法律でしめしたダケの話しだ。
- 163 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 18:19
- このスレ理系多そう
- 164 : 実に興味深い :2003/05/09(金) 20:04
- 実に興味深い。やはり、釣りえさは韓国との比較に限りますね。
159は面積の比較で、韓国の劣位を言わんとする点、馬鹿丸出しです。
「経済が崩壊しつつある日本。中国の台頭によって生じるコンプレックスを(以下略」
こうしておけば159も納得ですね。
- 165 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:06
- 経済規模の比較としても、韓国より中国だろうが。あほらし。
- 166 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:07
- 釣り人が多いなー
- 167 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:09 ↓
- >>163
そのわりにはだれもかちっとしたデータを持ち出さないね。
- 168 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:13
- >>167
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6199/
- 169 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:13
- >>167
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6199/
- 170 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:14 ↓
- いや・・・データだけ出されてもどうコメントして良いのやら。
- 171 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:18
- 東郷平八郎は、肉じゃが(この人が考案)と
T宇戦法(トウゴウターン)で有名ですが。
特にトウゴウターンは海外でも有名だそうです。
トルコでも日本の東郷平八郎をトルコを支配したロシアを
やっつけたと言うことで今でも語られているそうです。
まぁ、細かいことはともかく肉じゃがは美味いから
東郷平八郎は偉大だ。
- 172 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:22
- アメリカ合衆国ダグラス=マッカーサー元帥
昭和25年10月 ウェーク島にてトルーマン大統領と会談中の会話
「東京裁判は誤りだった」
小堀桂一郎編『東京裁判 日本の弁明』より
GHQ(日本進駐連合国軍総司令部)最高司令官 ダグラス=マッカーサー元帥
昭和26年5月3日米国上院軍事外交共同委員会での証言
「(中略)日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。
彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如してゐる。
そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在してゐたのです。
もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、
一千万から一千二百万の失業者が発生するであらうことを彼ら(日本政府・軍部)は恐れてゐました。
したがつて彼らが戦争に飛び込んでいつた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだつたのです」
- 173 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:23
- フランス大統領シャルル・ドゴール 『白人の植民地主義の終焉』
「シンガポールの陥落は、白人の植民地主義の長い歴史の終焉(しゅうえん)を意味する」
参考資料 : オリヴァー・リトルトン生産相(英保守党内閣)の証言(昭和十九年六月)
「米国が戦争に追込まれたというのは、歴史を歪曲するも甚だしい。米国が余りひどく日本を挑発したので日本は真珠湾攻撃の止むなきに至ったのだ」
インド国会議員にしてインド独立運動家 マハンドラ・プラタップ
「(連合国は)日本に対してこそ賠償を払うべきだ」
- 174 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:24
- フィリピン独立記念での演説 パルガス フィリピン大使
「しかし、大日本帝国は軍政を最終的に撤廃し、フィリピン共和国の独立を承認するというこのうえない形で、その高邁な精神と理念を証明した。
帝国はその全ての誓約と宣言を誠実に守り、フィリピン国民が憲法を制定し、
自らの文化と伝統に調和する国家を樹立する最大の機会を開いたのである。
大東亜において日本帝国はあまりに激しく、あまりに不当に圧政暴虐の侵略者として非難されているが、
その寛容と自由の実践は世界も驚くであろう。日本は帝国であったが一つの共和国を認め、まさにその樹立に参画した」
- 175 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:25
- 孫文
「ベルサイユ講和会議で、日本は五大国の一員として席に着いた。
日本はアジア問題代弁者だった。他のアジア諸国は、日本をアジアの「先頭馬」として認め、その提案に耳を傾けた。
白人人種にできることは日本人にもできる。人間は肌の色で異なるが知能に違いはない。
アジアには強い日本があるから、白人人種はアジアのいかなる人種も見下すことはできない。」
日本の台頭は大和民族に権威をもたらしただけではなく、アジア全民族の地位を高めた。
- 176 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:25
- マレーシア マハティール首相
黄文雄(台湾の評論家)著「罠に嵌った日本人」より
「日本の戦争責任を問うならば、それより以前、非人間的な支配と収奪をつづけた欧米の宗主国の責任はどうなるのか。
日本が来たことで植民地支配から解放され近代化がもたらされた」
- 177 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:25 ↓
- もうちょっと考えてからコピペしなさい。
- 178 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:26
- 韓日人協会理事長 鄭時東
「第二次世界大戦を日本国民は団結してよく戦った。それが契機となってアジア諸国はすべて独立した。
この偉業は将来誰も否定できなくなるであろう。
そして注目すべきことは、あれほど戦っていた日本が敗戦と決まれば、整然と矛を収めたことである。
この見事な収拾ぶりは世界の驚きであった。 」
- 179 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:27 ↓
- 所詮貴様は借り物でしか戦えない男だということか?
- 180 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:29
- 初代ビルマ首相バーモウ 『ビルマの夜明け』より
「真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、
真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった」
- 181 : 実に興味深い :2003/05/09(金) 20:29
- 実に興味深い。
このスレノ書き込みの特徴である、排他性、ナルシズム、マスターベーション、勘違い
どれも「島国根性」という言葉にリンクします。
- 182 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:30
- >>181
自分も島国人
- 183 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:30
- マジでコピペ好きだな、こういう香具師は・・・
- 184 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:32
- どいつもこいつも立派なこと言えるわけがなし
コピペ元ネタ拾ってくる能力があるだけまし
- 185 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:33 ↓
- どうでもいいけどさ、それらのどこが日本のためになったわけ?
寺の鐘とかまで没収して、国内を疲弊させて、
そんなことする国のどこがいい国なわけ?
少しぐらい想像力があるなら今それをやられると思ってみなよ。
- 186 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:33
- 米国太平洋艦隊司令長官ニミッツ元帥
「この島を訪れるもろもろの国の旅人達よ。故郷に帰ったら伝えてくれよ。
この島を守るために、日本軍人は全員玉砕して果てた。その壮絶極まる勇気と祖国を想う心根を!」
マレーシア ラジャー・ダト・ノンチック元上院議員(1941年当時16歳)
「日本軍がもたらした『大和魂』のような考え方をもつことは、独立のためにどうしても必要でした。
日本軍政下の訓練の結果、
日本が降伏した後、英国人が戻ってきて植民地時代よりも悪質な独裁的制度をマレーシアに課そうとしたとき、人々は立ち上がったのです。」
- 187 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:35 ↓
- ついでにいうと出典が明らかにされてないものをやたら貼りまくるのはおろかだよ。
いつもそうやって論文かいてんの?
- 188 : 実に興味深い :2003/05/09(金) 20:36
- 実に興味深い。
一部のマイノリティな発言を必死に探し出し、それを組み合わせて脳内で、
我流の歴史を作る。なんてクリエイティブな人達だ。必死さが伝わり、笑いが止まらない。
- 189 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:38
- <“悪の帝国”=大日本帝国=フセイン・イラク帝国>
“悪の帝国”大日本帝国は、“正義の味方”アメリカを中心とする連合軍に
完膚なきまでに叩きのめされ、壊滅した。
その結果、圧政に苦しんでいた日本国民は、軍部や右翼ファシストたちの手から解放された。
国民を苦しめ続けた軍部、右翼ファシスト、そしてその協力者たちは“戦犯”として裁かれた(東京裁判)。
国民の人権・自由が保障されない封建的な大日本帝国憲法は“破棄”され、
国民主権・基本的人権の保障・平和主義を謳う近代的な“日本国憲法体制”が新しく発足した。
このように、アメリカを中心とする連合国との戦争に日本が負けたから、
日本国民は今日に至るまで自由と平和と豊かさを享受しているのである!
すべて、アメリカを中心とする連合国のおかげであることを日本国民は忘れてはならない!
アメリカなどに対する感謝の気持ちを日本国民は忘れてはならない。
アメリカ万歳!!
東京裁判史観万歳!!
日本国憲法体制万歳!!
ちなみに、イラクの戦後復興は、“日本占領”をモデルとするらしい。
とすれば、“イラク版東京裁判”の下で“戦犯”が裁かれ、
“イラク版日本国憲法”が制定されるのであろう。
その結果、イラク国民は、今後永遠に自由と平和と豊かさを享受してゆくことであろう…。
- 190 : 実に興味深い :2003/05/09(金) 20:39
- 実に興味深い。
コピペを必死に貼り付けている彼は、
必死になればなるほど、呆れた目で見られることに気づいているのだろうか?
私はこのような、日本人の勇気やら大和魂がどうのこうのという発言を見ても
なんら日本がすばらしかったと思えません。
- 191 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:40
- 当時、著名な国際法学者で、後に最高裁判所長官となった横田喜三郎は、その回想録
『私の一生』で「わたくしは、この裁判(東京裁判)を正当であると固く信じ、それを
強く支持した。すでに戦争中から、太平洋戦争を侵略戦争であると信じていた。むし
ろ、ずっとさかのぽって、満州事変から、日本の軍事行動は、自衛行為ではなく、侵賂
的行為であると見ていた。戦争に負けたことは、過去の侵略行為を清算し、これから平
和政策をとるために、かえって幸いである。その清算の意昧で、侵略戦争の責任者は、
厳しく処罰されなければならない。本来ならば、日本自身で処罰すべきである。連合国
が処罰するというなら、それをよく理解し、支持しなければならない」と述べている。
このように東京裁判は勝者の裁きであることを百も承知の上で、それを前向きに評価す
べきだとした日本人は決して少なくなかったのだ。
また東京裁判は、日本の民衆が知る由もなかった戦争や軍部の実態なり真相なりを、白
日の下にさらけ出すという大きな役割をはたしている。法廷には、検察、弁護側双方か
ら膨大な重要史料と無数の証言が提出された。これらの裁判史料はアジア太平洋戦争の
経緯を検証する上で貴重な手がかりとなるものばかりである。もしも東京裁判なかりせ
ば、私たちは未だに戦争の真実に迫れずにいたに違いない。
ところが『プライド』は、こうした東京裁判の本質を全然描こうとせず、その矛盾点ば
かりをあげつらっていくのである。
- 192 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:40 ↓
- 所詮匿名掲示板では筑波大生といえどもこの程度か・・・
- 193 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:40
- アジア太平洋戦争で日本軍が中国でおこなった南京大虐殺は、東京裁判で初めて暴露さ
れ、なにも知らされていなかった日本人に大きな衝撃をあたえたのだった。ところが
『プライド』はこの事実を真っ向から否定しにかかるのだ。
東京裁判の法廷では、検察側立証段階で、当時南京に滞在していて日本軍の蛮行を目撃
したり聞いたりした外国人四人と、直接被害を受けた中国人五人が次々と立って証言し
た。その他、十数人の宣誓口供書が朗読され、多くの証拠書類も提出された。こうした
おびただしい証拠をつきつけられて、弁護側はほとんど手の打ちようがなく、その反証
は弱かったことが裁判の真実であった。
だが『プライド』では、マギー牧師、ウイルソン医師という二人の外国人証人が虐殺の
模様を語る場面をごく短く出したあと、弁護人が「証人の証言はすべて伝聞に基づくも
のではないか」と反撃する場面をクローズアップするといったやりかたをとるのだ。ま
た許伝音という中国人証人の登場を描く際、証人に一言も喋らさず、ただ伊藤弁護人が
「あなたは日本軍が一般市民を無差別に殺したと言うが、殺されたのは市民を装った中
国軍兵士ではなかったのか」と怒りを露わにして激しく追求する場面だけを描いてみせ
るのだ。
それだけではない、東條が清瀬弁護人に向かって「わが皇軍の兵士たちが、兵隊でもな
い支那人を、女や子供まで、見境なく、手当たり次第に殺しまくったなどと、誰が信じ
られると思うか」と言って、無念のあまりハラハラと落涙する場面もこの後に出してく
るのだ。つまり『プライド』は子供騙しみたいな手練手管で、南京大虐殺なんかなかっ
たと主張してやまないのだ。
- 194 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:41 ↓
- 誤字があるものを貼り付けないでくださいよ
- 195 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:41
- 『プライド』ではわざとふれることを避けているが、インド本国では、独立運動の指導者
ガンジーにしてもネルーにしても、中国に侵略した日本軍の姿を見て、日本軍を侵略者、
ファシストと規定していたのである。ガンジーはもしも日本軍がインドに侵攻してきた
ら、徹底的に戦わねばならないと国民に呼びかけていた。またネルーは中国人民解放軍を
支援していたのだった。更に日本軍の協力を得て、インドの独立を画策したチャンドラ・
ボースにしても、常にインド国民軍が日本軍の傀儡軍にされることを恐れていたのである。
- 196 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:41
- 今度はアメリカ万歳のコピペかよ(w
- 197 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:41
- ところでパール判事であるが、アジア太平洋戦争における日本の立場を擁護し、A級戦犯
全員を無罪とする長文の判決文を書くために、日夜ホテルに閉じこもって精進する。しか
し、彼が心血を注いで書き上げた判決文は法廷では少数意見として無視され、朗読すらさ
れずに裁判は終結してしまうのだ。怒り狂ったパールはホテル客室のバスタブに満たした
冷水を、何杯も何杯も頭からひっかぶって、階下の部屋まで水浸しにしてしまう。映画は
かような場面を次々と打ち出して、パール判決にこそ日本の正義が描き出されていたの
に、東京裁判は理不尽にもそれを葬ったと観客に印象づけるのだ。
こうして『プライド』は、東京裁判を全面的に否定し、アジア太平洋戦争の侵略性を隠蔽
するために、パール判決を過大に評価し賞揚するのだが、これは右翼グループの常套手段
である。元来、パール判決は長大、かつ晦渋で全文を読破するには、かなりの根気がい
る。私が読んだところでは、パール判決には、日本軍の中国における残虐行為を指摘して
いる箇所があるのだ。ところが右翼はこういうところは無視して、自分たちに都合のいい
ようにパール判決を利用しているのだ。
要するに『プライド』のような時代錯誤的な映画が出現したことは、昨今の日本の逆行
的な情勢の忠実な反映に他ならないのだ。大東亜戦争肯定論という歴史修正主義の映画版
なのだ。
- 198 : 実に興味深い :2003/05/09(金) 20:42
- 実に興味深い。
コピペだけで、自分の意見は一切無し。典型的な思考停止の例です。
こういう思考停止が、日本国民を悲劇に陥れた過去を知っているのだろうか?
- 199 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:47
- TRAGIC DECEPTION 日米・開戦の悲劇〜誰が第二次大戦を招いたのか
ハミルトン・フィッシュ/岡崎久彦 監訳 より
いかに日本を挑発するか
コーデル・ハル国務長官の広範な回顧録は、当然のごとく日本に対する最後通牒に関するハ
ル自身およびルーズベルトの責任を隠蔽するために、非常に偏ったものとなってはいるが、歴
史的情報の宝庫であるといえよう。
この最後通牒に言及するにあたっては、ルーズベルトがパールハーバー攻撃を”恥ずべき行
ないの日”と呼んだことにちなみ、”恥ずべき”最後通牒と呼ぶのが適切かと思われる。
ハルの回顧録は、十一月二十五日のホワイトハウスにおける重大な会合についてさえ触れて
いない。
スティムソンの日記によれば、この会合で協議された唯一の問題は、いかにして日本を操作
し、煽動し、刺激して、もって日本に先に手を出させるかであった。その翌日、ハル長官は、
暫定協定、すなわち日本が受け入れ可能であった九十日間の休戦案を廃棄し、野村吉三郎駐米
日本大使に”恥ずべき”戦争最後通牒を手交した。これは、パールハーバー後になるまで発表
されず、発表時には注目されるところとならなかった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
当時、一般の米国人も知らなかったとはいえ、そもそもアメリカ(ルーズベルト)が先にこち
らから手を出させるように仕掛けてきた結果の対米開戦なのに、それに対する報復?だから原
爆投下(正義の名の下に行われた人体実験)、民間人を狙った空襲も、日本人捕虜や民間人に
対する残虐行為も許される?
- 200 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:47 ↓
- >>198
えーとあなたに投げかけるべき言葉はどうやらなさそうです。
自覚がないなら滝にでもうたれてきなさい
- 201 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:51
- >>199
ドイツ、米国、ロシアの教科書比較(80年代の教科書が主)
日本の原爆投下に関しての教科書では、ロシアは自国の牽制と書き、
ドイツは他国(特にロシア)の牽制と、原爆投下以前に日本はロシアに和平を申しこんだが
こたわられ、降服が分かっているのに米国は実験の為に投下したと書いています。
米国は投下しなければ、100万人犠牲者が出たであろうと書いています。
勝てば官軍でしょう。
- 202 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 20:52
- 本土決戦やってりゃ、ベトナム戦争で見せたアメ公の腰抜けぶりが
20年早く見れただろうな。大日本帝国が徹底抗戦を貫けば、アメリカ
が日本を占領することは ”絶対に!” 不可能だった。もちろん、
戦後日本の急速な復興もなかったかもしれないが、祖国に誇りを持てなく
なった現状を考えれば、徹底抗戦後、誇り高き自力復興を目指した方が
良かったかもしれん。例え何年かかっても。
- 203 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 21:00
- >>202
武器も食料もないのにどうやって戦うのか教えてください。
- 204 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 21:02
- >>203
サムライ魂とハラキリカミカゼで闘うのです。
- 205 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 21:02
- 我々の前には洋々たる希望が開けつゝある。太平洋と東亜を、英米の搾取から開放する
大東亜共栄圏の建設が武力戦の進展と共に急速に緒につかんとしてゐるのである。
この広域に雄飛する未来の日本の姿を描くとき、我々は日本民族の生き甲斐を感じ、
皇国の歴史を祝福せずにはゐられない。
併しながら建設への道は荊の道であり、戦ひの道である。遠大な希望に眩惑され、
或ひは眼前の功をあせつて小成に安んじてはならない。「もうこれでゴムは大丈夫だ、
油は来るだらう、生活も楽になるに違ひない」といふやうな安易な考へを抱く者ありとすれば、
大東亜戦争の究極の目的を解しない近視眼である。事実この広域には我々の使ひ切れぬ
資源があり、これを開発することは必要である。勿論さうせねばならないが、
現にそれだけであつてはならない。究極の目的はこの地を米英の支配から解放し、
東亜の新秩序を樹立し、枢軸国と力を合せて世界の新秩序、世界の平和を
確立せんとする戦であつて、それまでは決して矛を収めない覚悟を以て望まねばならない。
- 206 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 21:03
- つーかソ連にも攻め込まれて半分共産圏になってたと思うぞ
- 207 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 21:05
- ばーか。ソ連も日本占領はムリっつってんだよ。アフガンで見せた腰抜けぶりが
30年早く見れただけ。勉強しな、ボクちゃん?
ヲマエのような米帝の奴隷のことだ。先祖は代々オカマか淫売だろう?さっさと
日本国籍放棄して、アメリカで先祖の後を継げ。少しでも世間の役に立ちたいと
思うなら、ヲマエは膝を抱えて何もするな、何もしゃべるな。w
- 208 : 203 :2003/05/09(金) 21:05
- >>206
それを忘れていた。分裂国家になっていた可能性もあるんだね。こわやこわや
- 209 : 203 :2003/05/09(金) 21:06
- >>207
ばっちり北方領土を占領されてる国の国民がなにを偉そうに・・・
- 210 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 21:07
- 国民諸君、同胞諸君
日本は、われらの祖国日本は、本日実に重大なる運命の中に突入したのであります。
真に皇国の興廃を賭して万里の波涛を開拓せんとする苦難の道へ突進したのであります。
昭和十六年十二月八日は、日本国民の、永遠に忘るべからざる日となりました。
日本の存在する限り、従つて世界の存在する限り、その歴史の上に堅く刻み込まるゝ日と
なりました。アジア十億の民が、アジアの運命決定の日として、否、ひとりアジアのみならず、
世界の全人類が、ひとしく新らしき歴史創生の日として、永遠に記憶する日となつたのであります。
本日、米国及び英国に対し、畏くも宣戦の御詔勅が渙発せられたのであります。
今や御聖断が下つたのであります。帝国は英国とは本日午前一時半に、米国とは午前三時半に、
それぞれ完全に戦闘状態に入つたのであります。先刻東條内閣総理大臣は烈々たる信念と
凛々たる決意とを以て、一身を捧げて決死報国を誓はるゝと共に、
国民各位に天業翼賛の誠を求められたのであります。
私は、この人類が歴史を有して以来の一大回天の今日、
今こゝに襟を正し身を潔め、宣戦の大詔を下し給へる上御一人の大御心を拝察しつゝ、
日本が今次、米英両国に対し戦を宣するの真に止むを得ざりし所以を愬へ、
一億国民と共にその時の正に到れるを喜ばんとするものであります。
- 211 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 21:15
- >>1-210
http://sizuka.tripod.co.jp/okumura.htm
- 212 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 22:16 ↓
- ウザイ>実に興味深い
- 213 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 22:24
- >>212 禿げ堂
- 214 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 22:27
- >>198は思考が停止しています。再起動後スキャンディスクを実行してください。
- 215 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 22:52
- HOW MANY FILES?(>>1-214)
- 216 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 22:59 ↓
- コピペ厨は最近小林よしのりの(断じてクラウゼヴィッツではない)の戦争論
を読んで洗脳されたのでしょう。
- 217 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 23:00
- >>216( ´,_ゝ`)プッ
- 218 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 23:02
- その通り。
先天的に自虐史観を植え付ける教育は「洗脳」とはいえないからな。
- 219 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 23:03
- >先天的に自虐史観を植え付ける教育は「洗脳」とはいえないからな。
詭弁ですね
- 220 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 23:07 ↓
- >>217
( ´,_ゝ`)プッとしかいえないなんて、まさか図星?!
- 221 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 23:10
- >>220
修行が足りません。
- 222 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 23:24 ↓
- >>221
それしか言い返せなかったのか。かわいそうだな。
- 223 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 23:27
- >>220
その程度の発想しかできない浅ましさを笑っただけ。
- 224 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 23:29 ↓
- >>220
( ´,_ゝ`)ポッ
- 225 : 実に興味深い :2003/05/09(金) 23:32
- 実に興味深い。
私のレスに一言も反論できず、うざいの一点張り。
日本の右傾化もやがて、論理抜きの問答無用の方向に進むのでしょうな。
212のように。まさに思考停止の典型ですね。
彼が大学生でないことを祈ります。
こういうやり方が過去に何度日本人を災いへと導いたか。
- 226 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 23:48
- >>225
>こういうやり方が過去に何度日本人を災いへと導いたか。
何回災いに導いたのか?
そして、何回目が、何の災いだったのか?
- 227 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 23:51 ↓
- >>223
発想が浅いのかもしれませんが、知識も信念もなくコピペでしか主張できない人を
見ていると自然にそう感じられたのですよ。にわか知識とにわか洗脳にやられちゃってるなー
という感じ。まあ、かくいう私は別に左なわけじゃないですが。
- 228 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 23:53
- >>227
そのコピペは、単なる釣りのためにやってるのかもしれないじゃないですか?
そこが浅いのでは?
- 229 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 23:54 ↓
- 単なる釣りだとしたらよほど暇人だなあ。別にいいけどね。
- 230 : 実に興味深い :2003/05/09(金) 23:54
- >>227
あなたいいですね。
コピペでしか主張できないのは、まさににわかですね。
彼らはとにかく挑発に乗りやすいです。だからこのスレは非常におもしろい。
- 231 : 227 :2003/05/09(金) 23:56 ↓
- 即レスが付く!いいね!
- 232 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 23:57
- >彼らはとにかく挑発に乗りやすいです。だからこのスレは非常におもしろい。
そう断定できる根拠はどこにも見当たりませんが???
- 233 : 名も無き筑波大生 :2003/05/09(金) 23:58
- >>230
それよりあなた>>226の質問に、まだ答えてませんよ。
- 234 : 実に興味深い :2003/05/09(金) 23:58
- >>228
あなたの主張はちょっと違うと思いますよ。
コピペを使って釣りをする人間、使わないで釣りをする人間、
釣り師として上級なのは後者だと思いますよ。
にわか人間は、思考が停止し、すぐ言葉で反論できないからコピペで必死になるのです。
- 235 : 名も無き筑波大生 :2003/05/10(土) 00:00
- >>234
それよりあなた>>226の質問に、まだ答えてませんよ。
- 236 : 名も無き筑波大生 :2003/05/10(土) 00:01
- >>234
同意。
- 237 : 名も無き筑波大生 :2003/05/10(土) 00:01
- ↑まさに釣られてんだよ。食い付き良すぎるぞ。
- 238 : 237 :2003/05/10(土) 00:02
- 235に対してね。236じゃないよ
- 239 : 237 :2003/05/10(土) 00:02
- こうして次の日になってしまったわけだが・・・
- 240 : 名も無き筑波大生 :2003/05/10(土) 00:03 ↓
- 釣りという言葉は、議論を封殺して勝ち負けをあいまいにするためにも使えるなあ
- 241 : 金はあるヤツから巻き上げるに限るのよ! :2003/05/10(土) 00:07
- 不景気不景気とみんな言っているけど、実は前の世紀に日本人が働いて働いて
貯め込んだお金は千四百兆円ほどもあるのよ。嘘じゃない。インターネットで
調べればいい。銀行は千四百兆円分の利息をまかなうのがイヤで、低金利に
してるくらいだ。(おかげで年金を銀行に預けて、利息で暮らしていたお爺ちゃん
お婆ちゃんが困っている)。
問題はその千四百兆円が、なぜ貯め込まれたままになっているのかということだ。
- 242 : 名も無き筑波大生 :2003/05/10(土) 00:08
- >>240
「釣り」という言葉が使われるときの意図の多くは曖昧にするため。
- 243 : 名も無き筑波大生 :2003/05/10(土) 00:10
- 「釣りはいらねえぜ、親父」
「あんたは今までの議論を曖昧にしたいのかね」
- 244 : 237 :2003/05/10(土) 00:11
- このスレ、楽しいです。つくだいせい基本まじめなんだね。
- 245 : 名も無き筑波大生 :2003/05/10(土) 00:20
- >>244
つくだいせいは基本真面目だし、こんなとこに来てるやつらはある意味もっと真面目。
- 246 : 名も無き筑波大生 :2003/05/10(土) 10:34
- 佐々淳行の「東大落城」で秦警視総監が東大紛争の解決を先帝に報告
しに行ったとき賜ったお言葉が確かこんな感じだった。
当時は赤色革命が絵空事ではない状況で、日本の学生運動は世界の
耳目を集めるほどだった。当然、それを鎮圧したことを御喜びになられて
いると思っていたが、
「死者は出たか」
「いえ、死者は双方ともに出ておりません」
「そうか、それはなによりであった」
というやり取りで先帝は学生運動を鎮圧したことにはほとんど触れなかったという。
秦警視総監は佐々氏に、陛下にとっては警官も学生もご自分の子供のようなもので
この騒ぎも兄弟喧嘩のような感じで見ておられたのだろうと語っている。
不敬な輩がなにを書こうが陛下にとっては反抗期の子供がだだをこねてるようにしか見えまい。
- 247 : 名も無き筑波大生 :2003/05/10(土) 10:58 ↓
- だから出典は?
そんなもんいくらでも偽造できる。わかってコピペしてんの?
- 248 : 名も無き筑波大生 :2003/05/10(土) 11:13
- 出典:佐々淳行「東大落城IV〜巴里は萌えているか〜」(民明書房)
- 249 : 名も無き筑波大生 :2003/05/10(土) 11:26 ↓
- ふ〜ん、突っ込んで欲しい?
- 250 : 実に興味深い :2003/05/10(土) 11:42
- 246は実に興味深い書き込みだ。
一連の書き込みに対する反論になぜか天皇を持ち出す、不可解な書き込み。
自分で思考することができなくなると、遂にはこういう他人がどうこうとういう、
書き込みに終始していますのですね。
民明書房・・・ここはどんなソースでも出てくる有名な(以下略
- 251 : 名も無き筑波大生 :2003/05/10(土) 11:44
- >>250( ´,_ゝ`)プッ
- 252 : 名も無き筑波大生 :2003/05/10(土) 11:50
- >>251
かわいそうに
- 253 : 名も無き筑波大生 :2003/05/10(土) 11:53
- 近代、日本の発達ほど、世界を驚かしたものはない。
- 254 : 名も無き筑波大生 :2003/05/10(土) 11:55
- 251は典型的な方ですなぁ。
- 255 : 名も無き筑波大生 :2003/05/10(土) 11:58
- >>254( ´,_ゝ`)プッ
- 256 : 名も無き筑波大生 :2003/05/10(土) 12:02
- とりあえず251の彼女の有無が評価を分けるだろうな。
- 257 : 名も無き筑波大生 :2003/05/10(土) 12:04
- >>251
とりあえず、明日勇気をもって外に出てみよう。
そして、月曜からちゃんと大学行くようにしようよ。がんばろう!
- 258 : 名も無き筑波大生 :2003/05/10(土) 12:12
- >>257
いいこというな。
- 259 : 名も無き筑波大生 :2003/05/10(土) 12:14
- >>257
よく言った!感動した!
- 260 : 名も無き筑波大生 :2003/05/10(土) 13:08
- >>247
書いてあるじゃん、ソースの意味わかってるか?
- 261 : 名も無き筑波大生 :2003/05/10(土) 13:16
- >>230
それよりあなた>>226の質問に、まだ答えてませんよ。
- 262 : 名も無き筑波大生 :2003/05/10(土) 15:49 ↓
- >>260
ほんとだ。スマソ。でも『』じゃなくて「」だったから見逃してしまったんだわ。
これって論文?
- 263 : 名も無き筑波大生 :2003/05/10(土) 17:56
- 例の浅間山荘の指揮官が書いた本かな?
- 264 : 名も無き筑波大生 :2003/05/10(土) 18:00
- http://www.asahi-net.or.jp/~VU5I-NW/book01.htm
あの人って有能な警察官なんだろうけど、何つーか書く本屋やパフォーマンスがすごいよな、、
まあそこが面白い所なんだろうけど、人によってはキモガラレそう
- 265 : 名も無き筑波大生 :2003/05/10(土) 19:52 ↓
- > 251は典型的な方ですなぁ。
ということにしたいのですね。
- 266 : 名も無き筑波大生 :2003/05/11(日) 00:11
- 日中戦争での帝国陸軍は55勝1敗1分けだったと思います。蒋介石も「惨勝であった」
と唇を噛み締めていたとか。アメリカは日本を徹底的に潰した結果、中国全土を共産化
にした揚句、ソ連まで生かし、ついには朝鮮戦争、ベトナム戦争に導いたのです。
おまけに台湾には蒋介石を落として台湾人を不幸にしました。あぁこれがアメリカの
望んだ事?おかげで日本は隣国に一党独裁国家を二つも抱えることになり最悪の結果
になりました。アジアの平和を乱すのは間違い無くお隣のテロ国家と軍事大国です。
- 267 : 名も無き筑波大生 :2003/05/11(日) 00:13
- http://members.tripod.co.jp/nishinom/human/ha/pakuchonhi.html
韓国の朴正煕大統領も満州軍歩兵第八団の団長副官として
1944年半ばの大陸打通作戦の熱河省討伐作戦に参加していた。
さすが南雲校長をして「半島出身ではあるが、精神においては完全
に日本人である。岡本生徒のように天皇陛下のためにたてまつり、
忠誠心のあつい者は日本人にも稀である」と言わしめただけはある。
朴正煕少尉(打通作戦当時)は韓国人も日本人も認めた勇者だ。
あの人も中国のナラズ者ゴロツキチンピラ卑怯者集団を
あいてに勇猛果敢に奮闘し、陸軍中尉にまで出世した。
大陸打通作戦の大義はあの朴正煕大統領でさえも認めていたのだ。
- 268 : 名も無き筑波大生 :2003/05/11(日) 00:58
- もうここまで来ると、266,277は釣りだな。
昨日からあれだけ、頭が悪いとか思考停止とか非難されながら、
真剣にこんなコピペ転載しつづけるのは本当の馬鹿だよ(w
とおいしいえさに食い付く俺。
- 269 : 名も無き筑波大生 :2003/05/11(日) 01:16 ↓
- とりあえず>>277のがんばりに期待しよう。
- 270 : 名も無き筑波大生 :2003/05/11(日) 08:40
- まぁ、釣りとか、釣りじゃないとか考えずに、
楽しく議論しましょうよ。
- 271 : 名も無き筑波大生 :2003/05/12(月) 15:49
- aa
- 272 : 名も無き筑波大生 :2003/05/14(水) 09:55
- afo
- 273 : 名も無き筑波大生 :2003/05/14(水) 14:25
- いくらコピペにマジレスする文化のつくちゃんでも糞コピにはレスが着かないなあ
- 274 : 名も無き筑波大生 :2003/05/14(水) 15:43
- >>273
という、レスが着いた。
- 275 : 名も無き筑波大生 :2003/05/14(水) 15:45
- アフリカや新大陸やオセアニアを侮辱する発言>>1
- 276 : 名も無き筑波大生 :2003/05/14(水) 15:51
- アフリカならわかるが、新大陸とかオセアニアを侮辱するとは??
- 277 : 名も無き筑波大生 :2003/05/14(水) 15:53
- >世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。
ってあるからね。アジア以外は全部、という意味
- 278 : 名も無き筑波大生 :2003/05/14(水) 17:04
- eurup+asia=eurasia
って知ってた?
- 279 : 名も無き筑波大生 :2003/05/14(水) 17:44 ↓
- 初耳だ。
- 280 : 名も無き筑波大生 :2003/05/14(水) 22:24 ↓
- >>1はアインシュタインが言うことは、何でも信じる典型的なミーハー。
- 281 : 名も無き筑波大生 :2003/05/17(土) 20:55
- >>280はアインシュタインが言わなくても、我が国が偉大であることを知らない無知な人間。
- 282 : 名も無き筑波大生 :2003/05/17(土) 21:56 ↓
- 〃───、
/ _____)
/ /´ (_ _)ヽ
||-○-○-|
|(6 ゝ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|ヽ θ ノ < >>281はウヨク!
ヽ|\_/ \_________________
⊂二 ̄⌒\ ______.ノ │ (⌒)ヴィシッ!!
)\ ヽ //::::::::|-、 ,-/::::::ノ ~.レ-r┐
/__ )/ │::::::::| /:::::ノ__ | .| ト、
//// / | /::::::::::::| 〈 ̄ `-Lλ_レ′
///(/ │ ││:::::::::::|/::: ̄`ー‐---‐′
((/ │ │/:::::::::::::::::::::::::::;;;;;;;;;;│
│ .│:::::::::::::::::::::::::;;;;;;;;;;;│
- 283 : 名も無き筑波大生 :2003/05/17(土) 22:21
- ウヨクは日本にとって本家本元である。
- 284 : 名も無き筑波大生 :2003/05/17(土) 22:45 ↓
- 〃───、
/ _____)
/ /´ (_ _)ヽ
||-○-○-|
|(6 ゝ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|ヽ θ ノ < >>288はヘルニア!
ヽ|\_/ \_________________
⊂二 ̄⌒\ ______.ノ │ (⌒)ヴィシッ!!
)\ ヽ //::::::::|-、 ,-/::::::ノ ~.レ-r┐
/__ )/ │::::::::| /:::::ノ__ | .| ト、
//// / | /::::::::::::| 〈 ̄ `-Lλ_レ′
///(/ │ ││:::::::::::|/::: ̄`ー‐---‐′
((/ │ │/:::::::::::::::::::::::::::;;;;;;;;;;│
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- 285 : 名も無き筑波大生 :2003/05/17(土) 22:48 ↓
- 糞スレあげんなよ。もうオナニし尽くしたろ(w
- 286 : 名も無き筑波大生 :2003/05/17(土) 22:57 ↓
- 〃───、
/ _____)
/ /´ (_ _)ヽ
||-○-○-|
|(6 ゝ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|ヽ θ ノ < >>285はサヨク!
ヽ|\_/ \_________________
⊂二 ̄⌒\ ______.ノ │ (⌒)ヴィシッ!!
)\ ヽ //::::::::|-、 ,-/::::::ノ ~.レ-r┐
/__ )/ │::::::::| /:::::ノ__ | .| ト、
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- 287 : 名も無き筑波大生 :2003/05/18(日) 23:52
- このスレは永久保存版だ。常時ageておく必要がある。
- 288 : 名も無き筑波大生 :2003/05/19(月) 11:25
- みんな あがれ!! ふらののなだれこうげきだ!!
- 289 : 名も無き筑波大生 :2003/05/20(火) 20:05
- http://cnn.co.jp/science/CNN200305200020.html
ノーベル賞物理学者、アルバート・アインシュタインの科学論文や手記の電子データを
提供するウェブ・サイトが19日、公開された。米カリフォルニア工科大学とイスラエル・ヘブライ大学が
共同公開するもので、アインシュタイン直筆の論文、日記や政治的発言など3000点以上を、画像データとして収録している。
同サイトのアドレスは、http://www.alberteinstein.info/index.html
- 290 : SARS :2003/05/20(火) 20:10
,-― ー 、
/ヽ ヾヽ
/ 人( ヽ\、ヽゝ
.| ノ ⌒,, ⌒,,`l
| / (o) (o) |
/ヽ | ー ー | 誰も大阪から逃げられへんで!
| 6`l ` , 、 | これは有事や。
ヽ_ヽ 、_(、 _,)_/ 会員だけはボート乗せたる!
\ ヽJJJJJJ
)\_ `―'/
/\  ̄| ̄_
( ヽ \ー'\ヽ
- 291 : 名も無き筑波大生 :2003/05/20(火) 20:26 ↓
- >>285
お前にとって糞スレじゃないものは何なんだ?
- 292 : 名も無き筑波大生 :2003/05/20(火) 21:44
- それより>>289の方がすごいってことに、誰も気が付かない??
- 293 : 名も無き筑波大生 :2003/05/20(火) 21:47
- 285じゃないが。
>>291
糞スレじゃないものは、良スレと、スレじゃないもの全て。以上。
- 294 : 名も無き筑波大生 :2003/05/20(火) 21:53
- >>293
それより>>289の方がすごいってことに、誰も気が付かない??
- 295 : 名も無き筑波大生 :2003/05/20(火) 22:04 ↓
- >>293
中間はないのね・・・
- 296 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 19:21
- 日本国民は戦後、現代史上最大の変革を行ってきた。
日本国民は見事な意志力と学ぼうとする熱意、優れた理解力を発揮して、
戦いの跡に残された灰の中から個人の自由を尊厳を至高とする高い精神を築き上げた。
…日本が今後のアジアの動向にきわめて有益な影響を及ぼす事は十分に期待できる。
その証拠に日本国民は最近、国外からの戦火と不安と混乱の試練を見事乗り切っただけでなく
国内でも共産主義の膨張を押さえながら急速な進歩を成し遂げたのである。
…私は日本ほど安定し、秩序を保ち、勤勉である国、
日本ほど人類の前進の為に将来建設的な役割を果たしてくれるという希望の持てる国を他に知らない。
1951 04 19 米議会、ダグラス・マッカーサー
- 297 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 19:21
- C・A・ウィロビー将軍(米・GHQ第二参謀部長)
この裁判は歴史上最悪の偽善だった。
こんな裁判が行われたので、自分の息子には軍人になることを禁じるつもりだ。・・・
(なぜ東京裁判に不信感を持ったかと言えば)日本が置かれていた状況と同じ状況
に置かれたならば、アメリカも日本と同様戦争に訴えていたに違いないと思うから
である。(東京裁判終結後、離日の挨拶に訪れたレーリング判事に対する言葉)
「The Tokyo Trial ando Beyond」ベルト・ファン・A・レーリング
もしわれわれが日本人を挑発しなかったなら日本人から攻撃を受ける
様なことはなかったであろう。
--ハーバート・フーバー(米・元大統領)
まともで教育のある人々がなぜパールハーバーを攻撃する
道を選んだのか。
こういうことを理解せずに、ただそれを非難する人々がいる。
彼らこそが戦争をもっとも起こしやすい人々なのだ。
当時の日本の指導者たちをモンスターにしたり、日本の置かれた
悲劇的な立場を考えもせずに発言する人々を英雄視したりしても、
何の解決にもならない。
解決どころか、このような態度そのものが問題なのだ。
ジョージ・フリードマン教授(米・ディッキンソン大学)
- 298 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 19:22
- ヘレン・ミアーズはこう言っている。
「民主主義国は自分たちの「利益」が脅かされているとみれば、中国でひんぱんに
武力を使った。満州事変における日本の武力行為はそれ以上のものではなかった」
日本製品は巧妙な関税障壁によって、欧米の遠隔支配地にも容易に入れない
ように、輸入が規制されていた。日本が不公平と差別に憤るのは当然だった。
大東亜共栄圏構想は、ヘレン・ミアーズが言っているように、「日本がアジア
を自由経済から切り離すことを企図したものではない。日本は自分たちの周囲
に築かれた障壁を破って、自分たちの域内に人と物を自由に流れ込ませようと
した」のである。
- 299 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 19:24
- ◆日本参戦の背後にソ連工作「ハル・ノート」
(1999/8/22の産経新聞からの引用です)
米に強硬提案提示
米国の対日最後通告「ハル・ノート」を作成したルーズベルト政権の財務次官、
ハリー・デクスター・ホワイト氏が実はソ連スパイだったことがわかったこと
で、「米国の対日政策の背後にソ連工作があった」というショッキングな事実
が明るみにでた。
当時の日本はいずれ参戦せざるを得ない状況にあったとの見方はあるが、参戦の
過程にソ連の工作があったという事実は歴史解釈の見直しを迫るものだ。
ホワイト氏がハル・ノートの原案を作成したことは、ニューヨーク郊外にあ
るルーズベルト大統領記念図書館に残されたホワイト氏作成の対日強硬提案か
ら明らかにされている。
しかも、そのホワイト案をモーゲンソー財務長官がルーズベルト大統領に提案し、
より穏健なハル国務長官の対日妥協案を押しのけることになったというエピソー
ドも四五年にスタートした米議会真珠湾攻撃調査委員会で明らかになっている。
だが、経済専門のホワイト氏がなぜ米外交を左右するほどの影響力を行使する
ようになり、しかも、対日強硬案を作成した意図は何だったのかという疑問が
残されてきた。
ホワイト氏とハル・ノートをソ連工作が結んでいたという解答は、
VENONA資料によるスパイ活動の証明とともにソ連NKVD(人民内務
委員部=後のKGB)工作員で、後のKGB高官、パブロフ氏の退役後の回
顧録が埋めることになった。
同回顧録によると、当時のソ連指導部は、日本の軍事的脅威を取り除くため
に米国の対日参戦を早急に進める「スノウ作戦」にとりかかっており、その
作戦に最も重要な役割を果たしたのがルーズベルト政権内で最も影響力のあ
るホワイト氏だった。
パブロフ氏はホワイト氏と四一年五月にワシントン市内のレストランで接触し、
米国が日本に対し中国および満州からの撤退、さらに日本軍の所有する武器の
三分の二を米国に売却しなければならないとする提案を早急に作るよう指示した
という。
実際、その指示どおりの強硬なハル・ノート原案が同年六月に作成されている。
当時、米国は対日禁輸などいわゆるABCD包囲網を展開し、日本は追いつ
められた状況だったが、その一方で、平和解決のための日米交渉が続けられた。
また、日本側でも宣戦やむなしとの強硬意見の一方で、米との妥協を求める声
もあったのである。
米側の交渉当事者であるハル国務長官も対日宣戦は避けられないだろうが、ま
だ時期尚早とし、あの時点での強硬な提案には消極的だったことが回顧録で明
らかにされている。
そうした中、日本側でさえ驚いたほど強硬な「ハル・ノート」が提示された
ことが歴史上の謎(なぞ)とされてきたが、VENONA資料などによってソ連
の存在が明らかにされ、新たな歴史解釈の必要性がでてくると考えられる。
ヒッケンルーパー上院議員
では五番目の質問です。中共(赤化支那)に対し海と空から封鎖してしまえという
貴官の提案は、アメリカが太平洋において日本に対する勝利を収めた際のそれと同じ
戦略なのではありませんか?
マッカーサー軍司令官
その通りです。太平洋において我々は彼らを迂回しました。我々は包囲したのです。
日本は八千万に近い膨大な人口を抱え、それが四つの島のなかにひしめいているのだ
ということを理解していただかなくてはなりません。その半分近くが農業人口で、後
の半分が工業生産に従事していました。
潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまでに接したいづれ
にも劣らぬ優秀なものです。歴史上のどの時点においてか、日本の労働者は、人間は
怠けているときよりも、働き、生産している時の方がより幸福なのだということ、つ
まり労働の尊敬と呼んでもいいようなものを発見していたのです。
これほど巨大な労働能力を持っているということは、彼らには何か働くための材料
が必要だということを意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有していました。
しかし彼らは手を加えるべき原料を得ることが出来ませんでした。
日本は絹産業以外には、固有の産物は何もないのです。彼らは綿がない、羊毛がな
い、石油の産出がない、錫がない、ゴムがない。その他実に多くの原料が欠如してい
る。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。
もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生
するだろうことを彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった
動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。
- 300 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 19:29
- パート1・386 :トルーマンの挨拶 :02/02/28 23:36 ID:ZytENCch
今後、われわれの間に勝者と敗者の区別を一切なくして、
お互いに平和を希求する仲間同士になるために、すべての
悪意と憎しみをすてさろうではないか。
今から半世紀前の1951(昭和26)年9月4日、サンフランシ
スコのオペラハウスで開かれた講和会議で、51カ国の代表を
前に米国大統領トルーマンはこう挨拶した。この講和会議にお
いて、米国は日本に国際社会での「威厳と平等と機会」とを与
えようとしていた。条約の作成者、米国のジョン・フォスタ
ー・ダレスは、これを「和解と信頼の講和」と呼んだ。
トルーマンの挨拶をわずか6年間のポツダム宣言の次のよう
な一節と比較して見ると、日本に対する見方が180度変わっ
ていることが分かる。
日本国国民を欺瞞し之をして世界征服の挙に出づるの過
誤を犯しめたる者の権力及勢力は永久に除去せられざるべ
からず
もっとも、このような寛大な講和方針に反対の国があった。
ソ連である。ソ連代表グロムイコは、千島列島と樺太南部を日
本が侵略によって奪取した事を非難し、講和条約は大戦末期に
米英ソがヤルタ秘密協定で取り決めた樺太の返還と、千島列島
の移譲を含めるべきだと要求した。
ソ連の主張に対して、吉田茂首相は最後の受諾演説において
次のように反論した。
千島列島、南樺太の地域を、日本が侵略によって奪取し
たというソ連の主張には、承服しかねます。これらは日本
の降伏直後の昭和20年9月20日、一方的に、ソ連領に
収容されたもので、歯舞、色丹諸島もソ連軍に占領された
ままであります。
講和会議の半年前、51年3月に米国が作成した草案では、ヤ
ルタ秘密協定通り、「日本国は、ソ連に対し千島列島を引き渡
す」と記されていた。ソ連はこの点については異論はなかった
が、日本における米軍駐留などの点に強く反対したため、米国
は自らが希望するような講和条約にソ連が参加する可能性はな
いと見限った。
そして米国全権フォスター・ダレスは、日本に千島、樺太南
部を放棄させる一方で、その帰属先を故意に空白にしておく、
という変更を草案に施した。これは北方領土問題を日本とソ連
の間の諍いの種として残しておくための巧妙な仕掛けだった。
グロムイコは、あくまで樺太返還、千島移譲を含めるよう講
和条約条文の変更を要求したが、それが通らないと知ると、調
印を拒否した。
ソ連が第2次大戦中の日本敵視政策のままであったのに対し、
アメリカは明らかに対日認識を変えていたのである。1949年
12月に蒋介石は台湾に逃れ、中国大陸は共産主義の手に落ち
た。1950年6月には、北朝鮮の侵攻により朝鮮戦争が始まり、
10月には中国が加担して、アメリカを中心とする国連軍と激
しい戦闘を繰り広げた。
- 301 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 19:30
- この頃、アメリカでは、"We fought the wrong enemy."
(我々は戦う相手を間違えていた)という言葉が人口に膾炙し
ていた。日本と戦ったのは誤っていた、という認識である。
日本を大陸から駆逐したものの、アメリカは共産主義勢力に
中国大陸を奪われ、さらに朝鮮では自ら血を流して戦わなけれ
ばならない羽目に追い込まれた。
今日われわれは、日本人が韓満(朝鮮、満州)地域で半
世紀にわたって直面し背負ってきた問題と責任を自ら背負
い込むことになったわけであります。他人が背負っている
時には、われわれが軽蔑していた、この重荷に感じるわれ
われの苦痛は、当然の罰であります。
戦後、米国国務省の要職についたジョージ・ケナンはこう主
張して、ルーズベルト政権がとった「ソ連と協力し、日独を叩
く」という政策を根本的に批判した。日本が戦前果たしてきた
共産主義の防波堤という役割を、日本を駆逐したために、アメ
リカが自ら担わなければならなくなった、という反省である。
日本に再軍備を許し、この重荷を共に担う友邦にしようとい
うのが、アメリカの講和条約における方針であった。サンフラ
ンシシコ講和会議はすでにこうした米ソ冷戦の戦場であった。
米ソの冷戦は日本国内にも持ち込まれ、全連合国との全面講
和を主張する社会党勢力と、西側諸国を中心とする多数講和を
めざす吉田内閣との対立となっていた。
全面講和を主張する南原繁・東大総長を吉田茂首相は「曲学
阿世(真理をまげた学問によって世におもねる)」と批判した。
アメリカがソ連と対立し、中国と戦っている時に、両陣営を包
含した全面講和が実現する見通しはなかった。全面講和が実現
しない限り、いつまでも占領されたままで良いのか、という疑
問に対しては、全面講和派は沈黙していた。
米国を中心とする多数講和によって日本は西側陣営に立つこ
とになるが、社会党はそれを阻止するために、全面講和という
実現可能性のない空想をぶつけて、それを阻止しようとしたの
であった。
しかし国民の大多数が、多数講和に賛成していたことは、条
約調印を済ませて帰国した吉田首相の支持率が、朝日新聞の調
査で58%と戦後最高に達したことでも示されている。国民は
一刻も早い占領状態からの解放、すなわち独立と国際社会への
復帰を望んでいたのである。
講和条約とは、戦争後の国家間の一種の手打ち式であるから、
領土、賠償、戦争犯罪などについて、和解合意するものである。
それゆえに今日問題となっている戦時捕虜の補償問題や、「A
級戦犯」を祀った靖国への参拝問題などは、このサンフランシ
シコ講和条約での枠組みに戻って考えねばならない。
たとえば、「講和条約で日本は東京裁判を受諾している以上、
首相はA級戦犯を合祀している靖国神社に参拝すべきでない」
という意見がある。条約第11条には東京裁判や連合国での
「戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、・・・これらの法廷が課した
刑を執行するものとする」とあり、A級戦犯を合祀した靖国参
拝は「裁判受諾」に違反する行為だという。
しかしこの「裁判を受諾し」というのは日本語原文のみの表
現であり、英語原文では受諾したのは"Judgements"、すなわち
「判決」である。仏語、スペイン語原文でも同様の表現になっ
ている。これは日本政府が判決にしたがって、刑の執行を継続
することであり、「裁判」全体、すなわちそのプロセスや判決
理由についてまで同意したという意味ではない。佐藤和男・青
山学院大学名誉教授は昭和61年の国際法学会でこの点を当代
一流の国際法学者たちと議論したが、すべての外国人学者がこ
の見解に同意したという。
そもそも講和条約が和解の当然の帰結として、アムネスティ
(国際法上の大赦)、すなわちすべての戦争犯罪の責任を免除
することは国際法学会の通説であり、この11条自体がこの長
い歴史を持つ慣習に逸脱したものだという強い批判があった。
- 302 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 19:31
- 講和条約条文はその後、赦免、減刑などは判決を下した国
(東京裁判の場合は、判決に加わった国の過半数)が決定する
と定めている。我が政府はこの11条を誠実に順守して、国民
4千万人にものぼる釈放請願署名と、社会党を含めた圧倒的多
数による国会決議をもとに各国と交渉し、服役中の同胞救出を
実現したのである。
ちなみに、メキシコ代表は次のように東京裁判そのものに同
意しない旨の発言を行っている。アルゼンチン代表も同様の発
言をしている。
われわれは、できることなら、本条項[講和条約第11
条]が、連合国の戦争犯罪裁判の結果を正当化しつづける
ことを避けたかった。あの裁判の結果は、法の諸原則と必
ずしも調和せず、特に法なければ罪なく、法なければ罰な
しという近代文明の最も重要な原則、世界の全文明諸国の
刑法典に採用されている原則と調和しないと、われわれは
信ずる。
もう一つは賠償問題である。わが国は講和条約、および、そ
れに基づいた2国間条約で北朝鮮、中華民国以外の国とは賠償
を完全に済ませている。連合国や占領下にあった国々に対して
支払った賠償や準賠償(無償経済協力)、贈与、借款、在外資産
の引き渡しなどの総額は、当時の金で一兆円を超える。
たとえば、米国政府は、日本軍捕虜となった元米兵に対して、
抑留1日1ドルの補償を行った。この総額はどんなに多く見積
もっても17百万ドル程度であるが、一方で米国政府は約5千
万ドルの在米日本資産を接収している。この上で、講和条約で
は「戦争遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた
連合国及びその国民その他の請求権・・・を放棄する」(第1
4条b)と取り決めたのである。
一部の元米兵が、第二次大戦中に日本軍の捕虜として強制労
働させられた事で、日本企業を相手取って損害賠償請求訴訟を
相次いで起こしているが、日米政府とも「講和条約で決着ず
み」との姿勢を変えていない。
ドイツの場合は、ユダヤ人虐殺などに対する個人補償が中心
で、国家賠償もしておらず、講和条約も結ばれていない。この
隙をついて、強制労働被害者がドイツ企業などに補償請求の裁
判を起こし、100億マルク(約5千8百億円)をドイツ政府
と企業が接伴するという和解に至った。しかし日本のように講
和条約による決着がないため、今後さらに追加訴訟されないと
いう保証がなく、企業による支払いは難航している。日本はこ
の点で、ドイツなどよりはるかにきちんとしたけじめをつけて
いるのである。
- 303 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 19:31
インドネシアは、オランダの再侵略と戦い、1948年にようや
く独立を達成した。58年に日本との賠償協定が成立したが、イ
ンドネシア側では「経済力がないので助けてほしい」という声
とともに、一部には「独立できたのは、日本軍が軍隊(PET
A)を作ってくれ、戦後も日本人が残って独立運動に参加して
くれたからだ。むしろ日本に感謝使節団を送るべきだ」という
声も出た。
賠償交渉で来日したアルジ・カルタウィナタ国会議長は、岸
首相に「独立のお祝いというつもりで賠償を払ってください。
日本が悪いことをしたから賠償をくれというわけではありませ
ん。」と言った。さらに戦後の日本の国民生活を見て「こんな
にひどい貧乏な日本からお金を貰うのは辛いなぁ。しかしこの
働きぶりなら日本は必ず一流の国になると思うのでまず私たち
を助けてください」と語った由。
結局、賠償、戦時中の債権放棄、新たな借款などで総額8億
ドル近くの金額となった。当時の日本の輸出が100億ドル程
度の時で、日本中が顔面蒼白になったと言われたが、わが国は
世界銀行などの援助に頼りながらも、こうした賠償をきちんと
済ませてきたのである。
こうして戦後処理のけじめをつけたサンフランシシコ講和条
約会議であったが、国際社会に復帰する日本を温かく迎える声
もあった。セイロン(現スリランカ)のJ.R.ジャヤワルダ
ナ蔵相は次のように演説した。
アジアの諸国民はなぜ、日本が自由になることを切望し
ているのか、それは、アジア諸国民と日本との長きにわた
る結びつきのゆえであり、また、植民地として従属的地位
にあったアジア諸国民が、日本に対して抱いている深い尊
敬のゆえである。往事、アジア諸民族の中で、日本のみが
協力かつ自由であって、アジア諸民族は日本を守護者かつ
友邦として、仰ぎ見た。私は前大戦中のいろいろな出来事
を思い出せるが、当時、アジア共栄のスローガンは、従属
諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インド
ネシアの指導者たちの中には、最愛の祖国が解放されるこ
とを希望して、日本に協力した者がいたのである。
よってセイロンは日本に賠償を求めない、とジャヤワルダナ
蔵相は述べた。同様の趣旨でインド、ラオス、カンボジアなど
が賠償請求権を放棄した。
講和会議3日目の7日午後8時から吉田茂首相が、受諾演説
を行った。「日本人も日本全権も、この条約を欣然受諾するも
のであります。」
翌8日、参加48カ国のあとで、日本全権団が登壇して調印
すると、会場に掲げられていた参加国の国旗群に混じって日の
丸が揚げられた。日本が再び国際社会に迎えられた瞬間である。
見上げる全権団の目が涙にうるんだ。
翌・昭和27(1952)年4月28日、講和条約が発効して、戦
争状態は正式に終結し、占領から解放されて、わが国は独立を
恢復した。この時に昭和天皇は次の2首を詠まれている。
風さゆるみ冬は過ぎてまちにまちし八重桜咲く春となりけり
国の春と今こそはなれ霜こほる冬にたえこし民のちからに
終
- 304 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 19:40
- ↑感動した。特に、あんな貧しい戦後に、黙々と働いて賠償金を払った昔の人は偉い。
- 305 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 19:41
- 東京裁判における最終弁論で、
ウィリアム・ローガン弁護人(担当 被告人 木戸幸一)
題名「日本は挑発せられ、自衛の戦争に立ちたるものなり」
最終弁論は、パリ不戦条約の起草者、F・B・ケロッグ国務長官の議会発言を引用して
行われた。
「F・B・ケロッグ国務長官は、上院においてこう述べられた。
地上の何人にも、ある国家が避けられない問題、自衛と侵略者について定義を下すことは
困難です。そこで私は、次の結論に達したのであります。国にとり唯一の確実な道は自国
の主権内で不当なる攻撃と自衛とを自ら判断して世界の世論に答えることです。
長官のこの言葉を引用したのは、この偉大かつ、博識なアメリカ人が極めて率直に、一国家が
自国の自衛権の有無を国が遭遇している状勢の上に立ち判断するのが当然の権利と認めた事を
簡単かつ明瞭に示すためでした。」
ローガンは同時に、ケロッグが経済封鎖は、戦争行為とみなしていたことを指摘し、最後にこう
付け加えた。
「彼らは、日本国を愛しました。そして、彼らの決定は、祖国にとって生きるか死ぬかの決定で
した。彼らは祖国を愛しました。そして、決定をしなければならない地位にありました。我々
はこの裁判をされる方にちょっと彼らの立場になって、考えてくださいとお願いします。その
立場にたったら愛国者として他の決議をすることが出来るでしょうか。」
- 306 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 19:42
チェスター・W・ニミッツは、日本軍による真珠湾攻撃後に更迭されたキンメルの後任として、
アメリカ太平洋艦隊司令長官に任命された。
開戦直後から終戦に至る全期間、米海軍の太平洋方面の最高指揮官を努め、
延べ5千隻の艦船、1万5千機の飛行機、2百万の将兵を統率して、米国に勝利をもたらした。
そのニミッツ提督が尊敬してやまなかった海軍軍人が、皮肉にも敵国日本の東郷平八郎元帥であった。
日本敗戦後の9月2日、ニミッツはアメリカ合衆国の全権の一人としてミズーリ艦上で、日本降伏受託書に署名した。
彼は調印式の前日、東郷元帥が日本海海戦を指揮した旗艦三笠が、どんな様子になっているか、
気になって自分自身で確かめるため、横須賀に赴いた。
そこに見たのは、荒れ果てた三笠の姿であった。
東郷元帥を尊敬するものの一人としてその時のことを、ニミッツは後に「文芸春秋」に寄稿した文章の中でこう述べている。
管理人の話では、真鍮や銅の付属品は戦争中に軍需資材として、全部取り除かれたとのことだった。
そのほかに歴史的価値ある部分がどさくさに持ち去られた跡もみられた。
東郷元帥を尊敬するものの一人として、昔から有名なこの軍艦が、これ以上荒らさるべきでないと思い、
私は米海兵隊に命じて歩哨(営門などの警戒・監視に任ずる兵)を立て、三笠を破損したり、歴史的な物品を持ち去ることを防ぐことにした…
しかし、その後も続いた三笠の荒廃にふれて、この有名な軍艦がダンスホールに使用されたとは嘆かわしい…
どういう処置をとれと差出がましいことはいえないが、 日本国民と政府が全世界の海軍々人に賞賛されている東郷提督の思い出をながらえるため、適切な方法を講ずることを希望する…
この一文が原稿料に価するならば、その全額を東郷元帥記念保存基金に私の名で寄付させてほしい…(「文藝春秋」昭和33年2月号)
ニミッツの訴えに刺激されて、日本人の間にも三笠保存の動きが急速に盛りあがり、昭和33年11月、三笠保存会設立準備委員会の創立となった。
ニミッツは米海軍を督励して、横須賀にあった廃艦一隻を日本に譲渡し、スクラップにして得た約3千万円を三笠の復元に充てさせた。
かくして36年5月、「記念艦三笠」が蘇った。
昭和60年、横須賀市は市制80年を記念して、三笠周辺の大改造を行い、「水と光と音の三笠公園」が完成した。
昭和62年5月24日、「三笠保存会」は公園の完成にあわせて、「日本海海戦80周年記念行事」を挙行した。
そのメイン行事として、三笠艦内の講堂で記念式典が挙行された。
式典では海上幕僚長はじめ、アルゼンチン大使、トルコ大使、イギリス大使、駐日米海軍司令官の祝辞があった。
いずれも三笠の栄光を讃え、日露戦勝の歴史的意義を強調する内容だった。
JR横須賀駅から車で5分程度の白浜海岸に、今も「記念艦三笠」は停泊している。
艦内は、日本海海戦当時の内装が復元され、東郷元帥の起居した部屋には、小さなベッドまである。
日本海海戦の状況が何枚もの油絵で描かれていて、その中には、
海に漂うロシア水兵達を日本海軍のボートが懸命の救助作業を行っている情景もあり、往時の武士道精神を偲ばせる。
船内の一室には、ニミッツ提督の写真と、自筆の手紙が飾られ、三笠保存の功績が顕彰されている。
(公園内の売店では、フィンランドの企業が東郷元帥を顕彰して売り出した「東郷ビール」が今も販売されている。)
- 307 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 19:42
(略)東郷と固い握手をしていたアメリカの少尉候補生
である。
東郷のすぐれた戦略、忍耐、名将ぶりに魅入られたチェ
スター・ニミッツは昭和9年の東郷の国葬にも来日して
出席した。
そして三度目、マッカーサーとともに東京湾の日本の
降伏調印式にやってきた。
ニミッツは東郷から学ぶべきものを多く学んで、日本を
破った。
ニミッツは「三笠」が敗戦後荒廃しているのを歎き、その
保存に気を遣う一方で、戦災で焼けたあとの東郷神社の
再建に「太平洋海戦史」(自著)の日本版印税を寄付した。
東郷はネルソンのように世界的にたたえられるべき存在
だとニミッツは思っていたのである。
筆者は鹿児島に住んでいたとき、米、英の軍艦が鹿児島
に入港すると、必ず東郷の墓前に花束をささげるのを見て
感銘したものである。
「秋山真之」神川武利
- 308 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 19:49
- ■1.われわれ黒人は日本に最大の敬意を払う■
全米1200万の黒人が息を飲んで、会議の成り行きを
見守っている。
1919年、パリ講和会議。第一次大戦の惨禍を再び繰り返すこ
とのないよう、国際連盟創設のための議論が進められていた。
米国の黒人たちが注目していたのは、国際連盟規約に「人種平
等の原則」を入れるという提案を掲げて参加した日本であった。
日本の全権使節団がパリに向かう途中、ニューヨークに立ち
寄った時には、「ボストン・ガーディアン」紙の編集長モンロ
ー・トロッターなど、黒人社会の指導者4人が、「世界中のあ
らゆる人種差別と偏見をなくす」ことに尽力してほしい、と嘆
願書を出した。自国のウィルソン大統領が講和会議の議長役を
するというのに、それをさしおいて、わざわざ日本の使節団に
嘆願したのである。
われわれ(米国の)黒人は講和会議の席上で「人種問
題」について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬
意を払うものである。
全米黒人新聞協会が発表したコメントである。人種差別に苦
しむアメリカ黒人社会は、有色人種でありながら世界の大国の
仲間入りした日本を、人種平等への旗手と見なしていた。
[1,p71-76]
しかし、本誌52号[a]で紹介したように、日本の提案は16
カ国中、11カ国の賛成票を得たが、議長であった米国大統領
ウィルソンの「全会一致でない」という詭弁によって退けられ
た。ウィルソンは、人種平等を盛り込んだ連盟規約が、米国南
部や西部の議員たちの反対で、批准されるはずのない事を知っ
ていたのだ。
アメリカの黒人は、自国の政府の措置に怒り、全米で数万人
もの負傷者を出すほどの大規模な暴動が続発した。
■2.茶色い男たちのパンチが白人を打ちのめし続けている■
アメリカの黒人社会が、日本に期待をかけるようになったの
は、日露戦争の時であった。白人の大国に、有色人種の小国が
独立をかけて、果敢な戦いを挑んでいる、と彼らは見た。
米国黒人として最初の博士号をハーバード大学でとった黒人
解放運動の指導者W・E・B・デュボイスは、ヨーロッパに
よる支配から有色人種を解放してくれる可能性のもっも高い国
として、日本を支持した。
日本が勝てば、やがて「アジア人のためのアジア」を声高に
叫ぶ日が来るだろう。それは、彼らの母なる大地アフリカに同
じような声がこだまする前兆となる、と米国黒人の指導者たち
は考えた。黒人紙「インディアナポリス・フリーマン」は次の
ような社説を掲載した。
東洋のリングで、茶色い男たちのパンチが白人を打ちの
めし続けている。事実、ロシアは繰り返し何度も、日本人
にこっぴどくやられて、セコンドは今にもタオルを投げ入
れようとしている。有色人種がこの試合をものにするのは、
もう時間の問題だ。長く続いた白人優位の神話が、ついに
今突き崩されようとしている。
日露戦争は、有色人種は白色人種に決して勝てない、という
ヨーロッパ人による世界侵略の近代史で生まれた神話を事実と
して否定してみせたのである。[1,p53-66]
- 309 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 19:50
- ■3.黒人と日系移民の「連帯意識と共感的理解」■
1920年代に本格化したアメリカへの日系移民に対して、黒人
たちは温かく接した。「フィラデルフィア・トリビューン」紙
は、次のように述べた。黒人たちは日本人を心から尊敬してい
る。同じ『抑圧された民族』であるのもかかわらず、「自分た
ちのために一生懸命努力する」日本人の態度は見習うべきもの
である、と。
カリフォルニアのオークランドでは、黒人発行の新聞に日系
人がよく広告を出した。「ミカド・クリーニング」、「大阪シ
ルク工業」等々。逆に日系人の新聞には、黒人への差別やリン
チを非難する記事がたびたび登場した。
ロサンゼルスの日系病院の医師のうち、二人が黒人だったこ
とについて、「カリフォルニア・イーグルス」紙は次のように
述べている。
ほとんどの病院が黒人に固く戸を閉ざしている昨今、日
系人の病院がどの人種にも、門戸を開放していることは本
当に喜ばしい限りである。同じ人種の医者に診てもらうこ
とができる安心を患者は得ることができるのだから。
黒人を差別しない日本人というイメージは、このようなメデ
ィアを通じて、またたく間に西海岸に広まった。「連帯意識と
共感的理解」、この言葉が両者のつながりを示すのによく用い
られた。[1,p82-89]
■4.日本人を救え■
1923年の関東大震災の報に接したある黒人は「シカゴ・ディ
フェンダー」紙に「アメリカの有色人種、つまりわれわれ黒人
こそが、同じ有色人種の日本人を救えるのではないか」と投書
し、それを受けて同紙はすぐに日本人救済キャンペーンを始め
た。
たしかに我々は貧しい。しかし、今、お金を出さなくて
いつ出すというのか。
同紙の熱心な呼びかけは、多くの黒人の間に浸透していった。
万国黒人地位改善協会は、「同じ有色人種の友人」である天皇
に深い同情を表す電報を送り、また日本に多額の寄付を行った。
「シカゴ・ディフェンダー」紙のコラムニスト、A・L・ジ
ャクソンは、長い間白人たちの専売特許だった科学や商業、工
業、軍事において、飛躍的な発展を遂げようとしていた日本が、
震災で大きな打撃を受けたことにより、黒人もまた精神的な打
撃を受けた、と分析した。日本人は「それまでの白人優位の神
話を崩した生き証人」だったからだという。[1,p82-86]
- 310 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 19:50
- ■5.日本のエチオピア支援■
1936年のイタリアによるエチオピア侵略に対して、アメリカ
の黒人たちは、アフリカ唯一の黒人独立国を「最後の砦」とし
て支援しようとした。アメリカ政府の消極的な姿勢に比べて、
日本が国際連盟以上にエチオピア支援を訴えた事は、アメリカ
の黒人たちの心を動かした。
「シカゴ・ディフェンダー」紙は、日本の宇垣一成大将が、
「イタリアとエチオピアの争いでは、日本は中立になるわけに
はいかない」「エチオピアの同胞を助けるためには、いつでも
何千という日本人がアフリカに飛んでいくだろう」と明言した
ことを伝えている。
「ピッツバーグ・クリア」紙は、エチオピアに特派員を送り、
エチオピア兵が日本でパイロット訓練を受けたこと、戦闘機の
提供まで日本が示唆していたことを特ダネとして報じた。
そして何よりも黒人たちを感激させたのは、エチオピアのハ
イレ・セラシェ皇帝の甥、アライア・アババ皇太子と日本の皇
族・黒田雅子女史の結婚の計画であった。これは実現には至ら
なかったが、日本がエチオピアとの同盟関係に関心を寄せてい
た証拠であった。シカゴ・ディフェンダー紙は「海を越えた二
人の恋は、ムッソリーニによって引き裂かれた」と報じた。
[1,p96-103]
■6.日本での「忘れがたい経験」■
1936年、黒人運動の指導者デュボイスは、満州に1週間、中
国に10日間、日本に2週間滞在して、「ピッツバーグ・クリ
ア」紙に「忘れがたい経験」と題したコラムを連載した。
デュボイスが東京の帝国ホテルで勘定を払っている時に、
「いかにも典型的なアメリカ白人女性」が、さも当然であるか
のように、彼の前に割り込んだ。
ホテルのフロント係は、女性の方を見向きもせずに、デュボ
イスへの対応を続けた。勘定がすべて終わると、彼はデュボイ
スに向かって深々とお辞儀をし、それからやっと、その厚かま
しいアメリカ女性の方を向いたのだった。フロント係の毅然と
した態度は、これまでの白人支配の世界とは違った、新しい世
界の幕開けを予感させた。
「母国アメリカではけっして歓迎されることのない」一個
人を、日本人は心から歓び、迎え入れてくれた。日本人は、
われわれ1200万人のアメリカ黒人が「同じ有色人種で
あり、同じ苦しみを味わい、同じ運命を背負っている」こ
とを、心から理解してくれているのだ。[1,p109-118]
さらに、この旅で、デュボイスは日本人と中国人との違いを
悟った。上海での出来事だった。デュボイスの目の前で4歳く
らいの白人の子どもが、中国人の大人3人に向かって、どくよ
うに言った。すると、大人たちはみな、あわてて道をあけた。
これはまさにアメリカ南部の光景と同じではないか。
上海、この「世界一大きな国の世界一立派な都市は、なぜか
白人の国によって支配され、統治されている。」それに対して、
日本は、「有色人種による、有色人種の、有色人種のための
国」である。
- 311 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 19:50
- ■7.日本人と戦う理由はない■
日米戦争が始まると、黒人社会の世論は割れた。「人種問題
はひとまず置いておいて母国のために戦おう」という意見から、
「勝利に貢献して公民権を勝ち取ろう」、さらには「黒人を差
別するアメリカのために戦うなんて、馬鹿げている」という意
見まで。
デュボイスは、人種戦争という観点から捉え、「アメリカが
日本人の権利を認めてさえいれば、戦争は起こらなかったはず
だ」とした。
黒人たちは、白人が日本人を「イエロー・バスタード(黄色
い嫌な奴)」、「イエロー・モンキー(黄色い猿)」「リト
ル・イエロー・デビル(小さな黄色い悪魔)」などと蔑称をさ
かんに使うことに、ますます人種戦争のにおいをかぎつけた。
アメリカは日本兵の残虐行為を理由に、「未開人」という日
本人イメージを広めようとやっきになっていた。それに対して、
「ピッツバーグ・クリア」紙は、ビスマーク沖での海戦で、ア
メリカ軍は多数の日本の艦船を沈めた後、波間に漂っていた多
くの日本兵をマシンガンで皆殺しにした、本土爆撃ではわざわ
ざ人の多く住んでいる場所を選んで、大人から赤ん坊まで無差
別に殺した、さらに「広島と長崎に原爆が落とされた時、何万
という人間が一瞬にして殺された。これを残忍と言わずして、
何を残忍と言おう」と主張した。
軍隊の中でさえ差別に苦しめられていた黒人兵たちにとって、
白人のために、同じ有色人種である日本人と戦わなければなら
ない理由は見いだせなかった。ある黒人部隊の白人指揮官は、
隊の95%は戦う気力がまったくない、と判断を下した。黒人
兵の間では、やりきれない気持ちがこんなジョークを生んだ。
墓石にはこう刻んでくれ。白人を守ろうと、黄色人種と
戦って命を落とした黒人、ここに眠ると。[1,p120-140]
■8.日系人強制収容を黙って見過ごすのか?■
大戦中、日系移民は、米国の市民権を持っている人々までも、
強制収容所に入れられた。米国の黒人は大きな衝撃を受けた。
第一に、日系アメリカ人だけが収容され、ドイツ系もイタリ
ア系も収容されなかったのは、あきらかに人種偏見のせいでは
ないか、という点。第二に、アメリカの市民権を持っている日
系人さえもが強制収容されるなら、黒人にも同じ事が起こる可
能性がある、という点であった。
11万5千人もの人々(日系人)が、一度にアメリカ人
としての自由を奪われるのを、われわれ黒人は黙って見過
ごすというのか。
ロサンゼルス・トリビューン紙のコラムニストが全米黒人向
上協会に呼びかけ、協会の代表はそれを受けて、次のような決
議文を提出した。
われわれは人種や肌の色によって差別され、アメリカ人
としての当然の権利を侵害されることには断固として反対
していかねばならない。
戦後、黒人社会は、収容所から解放されて戻ってきた日系人
を歓迎し、温かく迎えた。彼らは、日系人のために仕事を探し
たり、教会に招いたりしてくれた。[1,p140-152]
■9.歴史上、日本人が持ち得たもっとも、親しい友人■
[1]の著者、レジナルド・カーニー博士(黒人史専攻)は次
のように我々日本人に呼びかけている。
歴史上、日本人が持ち得たもっとも親しい友人、それが
アメリカ黒人だった。・・・この本を読んでいただければ、
日本の政治家や知識人たちが黒人を差別する発言を繰り返
したときに、なぜ黒人があれほどまでに怒り悲しんだかを、
心から理解してもらえるはずである。
かつて、黒人から同じ有色人種として敬われていた日本
人。そんな日本人が、今ふたたび、その尊厳と親愛の念を
取り戻せることを、私は心から祈って止まない。おごりの
ない、謙虚な日本人−それが私の願いである。[1,p26]
- 312 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 21:17 ↓
- もう、あなた、最高です。
- 313 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 23:07
- 勉強になりますた。
- 314 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 23:34
記念艦三笠とニミッツ提督
名越二荒之助著、展転社刊、
「世界に生きる日本の心」より
------------------------------------------------------------------------
甦った三笠とその公園
横須賀には、世界に誇るべき記念艦三笠があります。
申すまでもなくこの記念艦は栄光の戦艦・三笠であります。
日露風雲急を告げる頃、英国の西海岸にあるバーロー港のヴィッカース社で
建造されたものです。
進水は明治三十二年。 (写真:新装なった三笠記念艦と東郷元帥の銅像を
前に−著者中央、高千穂商科大学のゼミ学生とともに)
三笠は日露開戦と共に、連合艦隊司令長官・東郷平八郎大将の旗艦として、
旅順要塞戦、黄海の海戦で活躍しました。
特に、明治三十八年五月二十七日の日本海海戦では、三十八隻のバルチック
艦隊のほとんどを爆破するという文字通り空前の大勝利を収めました。
その後三笠は、大正十五年以来、横須賀の白浜海岸に、記念艦として永久
保存されていました。
記念艦三笠は、イギリスの「ビクトリー号」(トラファルガー海戦勝利の記
念艦、ネルソンが艦上で戦死。
現在英国海岸のポーツマス軍港内に保存)、アメリカの「コンスティテュー
ション号」(仏革命、ナポレオン戦争、独立戦争で活躍。現在ボストン造船所
に保存)と共に、世界三大記念艦の随一に数えられていました。
(中にはこのほかに、ロシア革命の時、冬宮を砲撃したソ連のオーロラ号
〈現在レニングラードのネヴァ川に保存〉を挙げる人もある)。
横須賀市は市制八十年を記念して、三笠周辺の大改造を行い、「水と光と音
の三笠公園」として再生させました。
「三笠保存会」もその完成にあわせて、「日本海海戦八十周年記念行事」を挙行
しました。
昭和六十二年五月二十四日(日)、記念行事の当日は、海軍関係者をはじめ
熱心な三笠ファンが全国から集まり、横須賀市民も多数参加し、盛沢山な記念
行事が同時並行的に行われました。
日本海海戦をテーマとした懸賞論文募集、大学生対象の弁論大会、書道展、絵画
展、演奏会、儀使隊のドリル実演、東郷元帥銅像ヘの献花式、講演(豊田穣氏)等々。
その中でもメインは、三笠艦内の講堂で挙行せられた記念式典でした。
式典では海上幕僚長はじめ、アルゼンチン大使、トルコ大使、イギリス大使、
駐日米海軍司令官の祝辞がありました。
いずれも三笠の栄光を讃え、日露戦勝の歴史的意義を強調する内容でした。
特に横山和夫横須賀市長が祝辞の中で、「今こそ日本はZ旗を掲げるべき時」
と述べたことと、海軍長老・保科(ほしな)善四郎元参議院議員〈九十六歳〉が、
「三笠は見事に復活した。しかし魂を入れなければ、三笠も形骸に過ぎない」と、
激情をこめて訴えたのが、印象に残りました。
保科長老〈元中将〉が、「三笠に魂を入れよ」と述べたのは、現在の我が国
の教科書で、日露戦争を記述するに当って、反戦主義者ばかりを登場させ、東郷も
三笠も載せない現状を憂えたものか、それとも戦後三笠が荒廃し、外国人が激怒し
屈辱の時代を指したものか、恐らくその両方であったでありましょう。
我々は過去の歴史を書くに当たって、栄光の記録ばかりを見るのではなく、屈辱の
姿も描かなければ、生きた歴史とはいえません。
栄光の史実には「喜び」を、失敗の事実には「涙」を、屈辱の経験には「憤激」を
もって接することによって、生きた歴史となるのであります。
この栄光の旗艦三笠に忘れてはならない屈辱の時代があったのです。
この屈辱時代を、再び繰り返さぬよう、末代までも語り継がなければならないの
であります。
- 315 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 23:35
- 三笠の屈辱時代
大東亜戦敗戦と共に、我が国は連合国の占領下に置かれました。米、英、ソ、
中国等で結成された極東委員会で、三笠の保存をめぐって激論がかわされたこと
がありました。
ソ連代表テレビヤンコ中将は、「ロシアを負かした三笠を保存するとは何事か。
スクラップにして直ちに海中に投棄せよ」と主張しました。
それに対して米・参謀部長・ウイロビー少将は、ソ連の記念艦オーロラ号や、
ヴィクトリー号、コンスティテューション号の例を出し、日本国民の記念物を
破壊して反感を買うことは避けるべきだと、主張しました。
テレビヤンコはいきりたちましたが、横須賀占領の実権は米海軍にあり、三笠
は廃棄を免れました。
その後三笠は米軍監視下に置かれ、心ない米兵によって艦内の目ぼしい記念品
は持ち去られました。
やがて二十三年一月九日、米海軍基地の司令官は、(ソ連ヘの気兼ねもあってか)
艦橋、マスト、砲塔、煙突を四月一日までに除去の上横須賀市による教育事業に
転用することを許可しました。
横須賀市は民間に払い下げて、文化的に経営することを考え、かねてから申請
していた湘南振興会社(代表・橋本道淳)に、マスト等の撤去作業を請負わせました。
湘南振興では撤去作業が終ると、艦内で米軍相手のキャバレー的な風俗営業を始
めました。
東郷長官室はキャバレー・トーゴーとなり、加藤友三郎や秋山真之参謀等のいた
参謀長室は、カフェになったといいます。
やがて昭和二十五年、朝鮮動乱が始まると、艦内の鉄、銅、真鍮等、目ぼしい
ものは殆んど売却して暴利をむさぼったと聞きます。
当時はまだ敗戦による虚脱状態から抜けきれず、市も政府も、三笠の荒廃に目を
向けようとはしませんでした。
中村虎猪(とらお)氏と英人ルービン氏
日本人で最初に三笠復元にたちあがったのは中村虎猪氏(元海軍大佐)でした。
氏は昭和三十年五月、復元を公約して市会議員に当選。湘南振興会社の駆逐を申
し入れ、政府にも働きかけ、地元の日刊「南神新聞」にも記事を連載する等努力
を重ねました。
三笠保存の声は、外国人の間からも挙がりました。
最初に口火を切ったのは、昭和三十年春、日本を訪れたジョン・S・ルービン氏
でした。
氏はイギリスの貿易商で、三笠がイギリスのバーロー・イン・ファーネス造船所
で建造されていた時、現地で宝石商、時計商を営んでいた人でした。
三笠の乗組員が、この人の店を訪れてから親しくなり、ルービン氏もまた自分の
住む町で三笠が造られたことに愛着と誇りを持つようになりました。
三笠が完成しバーロー港を出てから五十七年目の昭和三十年の夏、氏は商用が
あって、七十五歳の老体にもかかわらず、元気に来日しました。
その時彼が再会のよろこびに胸をおどらせながら、まづ第一に訪れたのが、横須
賀の三笠でした。
しかしそこで見た三笠は前述の通りの無残な姿に荒れはてていたのでした。
ルービン氏は憤然として帰り、直ちに一文を、ジャパン・タイムズ紙に寄稿
しました。
「何という日本人は忘恩の国民なのだ。戦い敗れると、ツシマの英雄トーゴーと
ミカサのことも忘れてしまったのか。
神聖なるミカサが丸裸となり、ダンス・ホールやアメリカ兵相手の映画館になっ
たのを黙ってみているのか。何たる日本人は無自覚であることか」
この原稿は同年の九月二十日の紙上にのり、たちまちアメリカ人、オーストラ
リア人から反響があり、彼らは「ミカサの復活こそ、日本国民の精神復興の試金
石であるべきだ」と説きました。
- 316 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 23:35
- 米・二ミッツ元帥の激励
やがて昭和三十一年になると、元情ロ報局総裁であった下村海南氏(当時八十
二歳)が、三笠の荒廃ぶりを確かめて、『軍艦三笠」という小冊子を書き上げ、
各方面に配布しました。
これらを受けて軍事評論家の伊藤正徳氏が、「戦艦三笠の栄光と悲惨」を翌三十
二年「文藝春秋」(八月号)に書き、これがその年の読者賞を獲得しました。
翌三十三年になると、「文藝春秋」〈二月号〉の随筆欄に、「三笠と私」と題
するニミッツ元帥の文章が載りました。
ニミッツは、日露戦争直後東郷提督と会ったことがあり、以来東郷元帥を尊敬し、
東郷戦法によって日本帝国海軍を全滅させたといわれる米・大平洋艦隊司令長官
であります。
そして日本敗戦後の九月二日、アメリカ合衆国の全権の一人としてミズーリ艦上
で、日本降伏受託書に署名した人物でもあります。
彼は調印式が行われる前日、三笠が、どんな様子になっているか、気になって
自分自身でそれを確かめるため、横須賀に赴きました。
その時のことを元帥はこう述べています。
「---管理人の話では、真鍮や銅の付属品は戦争中に軍需資材として、全部取り
除かれたとのことだった。そのほかに歴史的価値ある部分がどさくさに持ち去ら
れた跡もみられた。東郷元帥を尊敬するものの一人として、昔から有名なこの軍
艦が、これ以上荒らさるべきでないと思い、私は米海兵隊に命じて歩哨(営門な
どの警戒・監視に任ずる兵)を立て、三笠を破損したり、歴史的な物品を持ち去
ることを防ぐことにした…」
「この有名な軍艦がダンスホールに使用されたとは嘆かわしい…」
「どういう処置をとれと差出がましいことはいえないが、日本国民と政府が全
世界の海軍々人に賞賛されている東郷提督の思い出をながらえるため、適切な方
法を講ずることを希望する…」
「この一文が原稿料に価するならば、その全額を東郷元帥記念保存基金に私の
名で寄付させてほしい…」〈「文藝春秋」昭和三十三年二月号)
これ等に刺激されて、日本人の間にも三笠保存の動きが急速に盛りあがり、
昭和三十三年十一月三笠保存会設立準備委員会の創立となりました。
ニミッツは米海軍を督励して、横須賀にあった廃艦一隻を日本に譲渡し、スク
ラップにして得た全約三千万円を三笠の復元に充てさせました。
かくして三十六年五月、復元は実を結びました。これが今見る「記念艦三笠」
の姿であります。
以上の事実関係の中から、我々は重大なことを学ばなければなりません。
たしかに戦後三笠復元について努力した日本人はありました。
しかし恥かしながら、外国人から指摘されなかったら、こんなに早く、見事に
復元することはなかったかも知れません。
ともかく現在三笠とその周辺は、戦前以上に立派なものに再建されました。
しかし小中高校の教科書(「新編日本史」を除く)には、相変らず三笠も東郷も
出てきません。
日本人は公平な目で見ることができなくなり、自らの力で、自分を処理する能
力を欠いていたのでしょうか。
日本人の意識を正常化するためには、外圧に頼るよりほかないのでしょうか。
例えばイギリスあたりに頼んで
「栄光の戦艦三笠は、イギリスで作ったものである。東郷元帥もイギリスで
七年間学んだ。このようにイギリスと関係が深く、世界的に評価されている
ものを教科書で教えないとは何事か。教科書を書き直せ」
と、サッチャー首相あたりに柳眉を逆だてて貰わなければならないのでしょうか。
あるいはニミッツ元帥を墓場から呼び出して、もう一度「文藝春秋」に次のよ
うな一文を寄せて貰うのがよいかも知れません。
「日本に対して内政干渉がましいことはいえないが、全世界の人々に賞讃されて
いる東郷元帥や三笠が、日本の教科書で教えられないとは嘆かわしい。
現在の教科書が書かないのなら、新しい教科書会社を設立されたらどうであろうか。
拙著『太平洋海戦史』の印税はささやかだが、会社設立に役立ててほしい…」
自己の任務を忠実に果たした人々の物語を読むのはいつも沛
然とした感激を伴ってしまいます。
この有名艦”三笠”−貴国最大の海軍士官である東郷提
督の旗艦−を復旧するために拠金された愛国的な日本人の
皆様へ。その大尊敬者である弟子より心からの祝福をこめ
て。
米国海軍元帥 C.W.ニミッツ
(昭和36年5月27日ー日本海海戦56周年)
- 317 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 23:39 ↓
- ここしばらく書き込み無いと思ってたら、一生懸命オナニソース探してたんだな。(w
こんだけ見つけたらさぞ気持ちいいだろ?何回絶頂に達した?
- 318 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 23:40
- ↑今の教科書はおかしいよ。やっぱり。
- 319 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 23:41
- ■1."Father Nogi"■
1913(大正2)年2月、ニューヨークで "NOGI"と題する本が
出版された。そのわずか5ヶ月前、明治天皇の崩御(ほうぎょ、
亡くなること)とともに、自刃した乃木大将を描いた本である。
自刃と共に、一気に書き上げ、急いで出版したものである。
著者はスタンレー・ウォシュバン。日露戦争中、シカゴ・ニ
ュースの記者として乃木大将の第3軍に付き添った人物である。
乃木大将の参謀長を務めた一戸(いちのへ)少将は後にこの本
の存在を知って、涙を流さんばかりに喜んで、こう語ったとい
う。
ウォシュバンという男は当時27,8歳の愉快な青年で
あった。非常に乃木さんを崇拝したばかりでない。Father
Nogi と呼んで、父のごとくに思っていたようだが、果た
してこういうものを書いていてくれたか。
後に軍神として祀られた乃木大将は、米国青年の眼にどう写
ったのだろうか?
■2.毎朝手元に届けられる死傷者の名簿■
明治37年8月19日、乃木希典大将率いる第3軍は、旅順
要塞への総攻撃を開始した。バルチック艦隊が到着する前に、
港内に逃げ込んだ敵艦を撃滅しなければならない。しかし最新
の技術をもって築城した要塞は、第3軍決死の総攻撃にもびく
ともせず、戦死者累々の有様であった。この時の乃木大将の様
子をウォシュバンは次のように描く。
しかし毎朝手元に届けられる死傷者の名簿を見て、将軍
がどれ程心胸の疵(きず)を深めたかは疑うべくもない。
一週は一週、一月は一月と、この恐怖の月日が長引いて行
く間に、将軍の変化は非常なものであつた。心労痛苦の皺
が、縫い目のように顔面に刻まれ、気色悠揚とした時でも、
新しい皺が創痕のように深く目立っていた。
・・・新任長官として第九師団を編成した時には、下士
官の姓名までいちいち覚えてしまったという人である。手
ずから撫育して多年統率の任に当っていた、我が児のごと
き第九師団は、今や旅順ロ攻撃軍の中心となって、難戦苦
闘を極めた点においては、出征軍中恐らくその右に出づる
ものはあるまい。
乃木の長男・勝典(かつすけ)は第2軍に属し、5月27日、
遼東半島上陸直後の戦いで戦死。次男・保典(やすすけ)も1
1月30日、第3軍の歩兵少尉として戦死してしまった。
- 320 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 23:42
■3.祝賀の陰の涙■
旅順要塞が陥落したのは、ようやく翌38年1月1日であっ
た。日本軍の犠牲は死者1万5千、負傷者4万4千人に上った。
将軍はたちまち全世界の視聴を一身に集める人となった。
文明国民として、将軍に賛美を呈せぬものはなく、新聞と
いう新聞は、ことごとく将軍の肖像を掲げ、でたらめの伝
記までも書き立てた。ドイツ皇帝は祝電を送り、勲章を贈
った。
しかし、乃木大将はこれにどう応えたか。一副官はウォシュ
バンにこう語った。
旅順口が陥落して、私たち幕僚が皆祝賀に耽(ふけ)っ
ていると、いつの間にか閣下の姿が見えない。もう退席し
てしまわれたのだ。行って見ると、小舎の中の薄暗いラン
プの前に、両手で額を覆うて、独り腰かけて居られた。閣
下の頬には涙が見えた。そして私を見るとこういわれた。
今は喜んでいる時ではない、お互いにあんな大きな犠牲を
払ったではないか。
降将ステッセルとの水師営(すいしえい)の会見は有名であ
る。各国特派員が写真撮影を求めたが、敵将に恥をかかせるこ
とは日本の武士道が許さないとして、「会見後、我々が既に友
人となって同列に並んだ所を一枚だけ許そう」といい、ステッ
セル以下と肩を並べて写真に収まった。
■4.「午後は少し忙しい。」■
5月、第3軍は満州に進出し、司令部は人口5万の町・法庫
門に居を構えた。従軍記者はウォシュバンを含め、3名に減っ
ていた。石と泥土で建てられた、何の飾りもない小さな家を乃
木大将は住居としており、門に歩哨が立っているのと、将軍達
がときおり内庭を行き来しているのを除けば、他の同じような
住宅と区別はつかなかった。
ある日の午後、ウォシュバンはコリヤズ週刊新聞記者のバリ
ーとともに乃木大将の住居を訪れた。いつものように閑談を伺
ったり、一服の茶をふるまってもらうためであった。将軍は大
長靴を脱ぎ、大きな腕椅子に正座して、茶をすすり煙草を喫し
て、法庫門の生活などを4,50分ほど語り合った。ウォシュ
バンには、この時ほど、将軍がくつろいで見えた時はなかった。
やがて、将軍はこう言った。「今日はこれで失礼します。
午後は少し忙しい。ミスチェンコの兵が、我が軍の連絡を絶つ
ために、襲撃しようとしていますから。」
ウォシュバンが後で知ったことだが、この時、わずか1千人
しか防御のいない第3軍司令部にミスチェンコ少将率いるコサ
ック騎兵約1万が接近していた。乃木大将が「少し忙しい」と
言ったのは、大至急、味方の兵力を集めることであった。夕刻
には万全の準備が整った。
私たち二人が乃木大将の許に悠々と茶を喫していた時は、
あに図らん、ちょうどこの戦闘準備の最中であったのだ。
- 321 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 23:42
■5.忘れてならぬことは、敵が大不幸をみたことである。■
東郷提督率いる連合艦隊がバルチック艦隊を撃滅した翌日、
夕刻7時に司令部において祝杯を上げることとなり、ウォシュ
バンも招待された。乃木大将が「万歳」を叫ぶと、満座これに
応じて、たちまち野砲斉発のような轟きとなって、「万歳」の
声が四壁を揺るがした。
乃木大将は微笑を浮べて冷ややかに見渡す。その微笑も
やがては消えて、なかば厳粛になかば悲痛の面持となる。
将軍は右手を挙げる。満堂再び沈静する。一同体を傾けて
将軍の一語をも聴き漏らさじとする。将軍の言葉は、翻訳
によると大要左のごとくである。
我が聯合艦隊のため、我が勇敢な海軍軍人と、東郷提督
のために、祝盃を挙げるのはこの上ないことだ。天皇陛下
の御稜威(みいつ)によって、我が海軍は大勝を得た。し
かし忘れてならぬことは、敵が大不幸をみたことである。
我が戦勝を祝すると同時に、又我々は敵軍の苦境に在るの
を忘れないようにしたい。彼らは強いて不義の戦をさせら
れて死に就いた、りっばな敵であることを認めてやらねば
ならない。それから更に我が軍の戦死者に敬意を表し、敵
軍の戦死者に同情を表して、盃を重ねることとしよう。
乃木大将の本色実にここに在る。・・・
■6.乃木大将のアキレス腱■
ウォシュバンらが、乃木大将の戦功を語るにシーザーやナポ
レオンなど歴史上の偉人に比較しようとすると、将軍はいつも
迷惑そうな面持ちで、「アメリカの諸君は大変お上手だから」
と言って、直ちに話題を転じてしまうのが常であった。
しかし、遂に乃木大将のアキレス腱を見つけた。それは詩歌
であった。バリーは、通訳が英語に訳した将軍の詩歌の詩情と
典雅な表現に動かされて、適当な英語の韻律を与えようと、苦
心を続けた。
他の手段によってその名誉心に訴えようとしても、将軍
は毫(すこ)しも動ずることがないが、作詩の讃評を聞く
時のみは、小児のように夢中になっていた。バリー君が翻
訳して、しかも佳作となったものを齎(もたら)して、原
詩の情調に適する韻律選択の苦心を語る時、恍惚(こうこ
つ)として両眼を閉じて傾聴する将軍の面影が、髣髴(ほ
うふつ)として今なお眼前に浮んでくる。バリー君は将軍
の著想を表すのに、シェークスピアの韻律が適するか、又
はスウィンバンのが適するか、それを決めるのが困難だと
言って説明した。・・・そして彼が将軍の作品を論評する
時、将軍は始終ポンチ(漫画)人形のように嬉しそうに見
えた。
- 322 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 23:42
- ■7.暁天の星■
9月、日露講和が成立してウォシュバンらは帰国することと
なった。出発の前夜、送別の小宴が開かれた。乃木大将は体調
が悪く、欠席とのことであった。
宴が終りに近づいた時、にわかに入ロの戸が開いた。一同起
立して不動の姿勢をとったと思うと、戸ロの方に乃木大将が立
っている。
覆いがたい憂愁に打ち曇ったその時の顔色は、忘れよう
としても忘れることはできない。・・・将軍は微笑だにも
漏らさず、しずしずと食卓の上座まで来て、私たちと握手
を交換し、切れるような日本語で従卒を呼んでシャンペン
の盃を取った。再ぴ私たちに向って、淋しいながらも温和
な色を浮べて、左のような意味を述べた。
「・・・今諸君の我が軍を去られるに当って、一言を呈せ
ずにはいられない。しかし訣別の辞を呈しようとするので
はない。願わくはお互いの友情を、永久に黎明(れいめい、
夜明け)の空に消ゆる星のごとくにあらしめたい。暁天
(ぎょうてん、夜明けの空)の星は次第に眼には見えなく
なる。しかし消えてなくなることはない。我々は諸君に会
わず、諸君も我々に逢うことがないにしても、各々何処か
に健在して、互いに思いを馳せることであろう」
言い終って将軍は盃を揚げる。一同もまた黙々として盃
を揚げた。やがて将軍は幕僚をふり返って、少しく意気を
起して「万歳」を叫んだ。人々例によってこれに応じた。
この懐かしい叫びは三度鳴り渡った。将軍は再び握手を交
換して、またしずしずと入口の方へ去った。振り返って一
座を見渡し、微笑を浮べて型のごとき挙手を行い、急に転
じて出て行ってしまった。
これが我々の親愛なる老将軍乃木の見納めであった。
■8.別れ■
翌朝、ウォシュバンらは、一戸少将以下、6名の幕僚に見送
られて、法庫門を出発した。行くこと一マイル、郊外に出ると、
一戸少将は馬を停め、こう言った。
「日本人は、友人と袂(たもと)を分かつことを好まない。
私も今告別の詞(ことば)などは申さない。ただ私たちは
此処(ここ)に馬を駐めているから、諸君は途の曲るとこ
ろまで行ったら、振り返ってこちらを見て下さい。私が手
をふったら諸君も手をふって下さい。それをお互いの別れ
としましょう」
私たちはそのまま馬を進めたが、胸迫って涙を抑えるこ
とができなかつた。永い間生活を共にしてきた軍人たち、
今は友愛の情切なるものもできているのである。法庫門か
らの奉天街道が、渓(たに)の細路に通ずる地点に達する
まで一マイルは十分あって、そこから細路が東へ東ヘと迂
回して行く。その地点に達した時、かねての注意に随って
振り返って見た。遥か彼方に騎馬の群が見えていた。私た
ちは手をふった。肥えた黒馬に跨(またが)った姿に白く
ひらめくものが見える。それは一戸老の手巾(ハンカチ)
を振っているのである。
これがいよいよ日本帝国の第三軍との別れとなったのだ。
- 323 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 23:43
- ■9.過去数百年伝来した理想の実現のために生きた人■
明治天皇崩御の後を追って、乃木大将自刃の報がアメリカに
達した時、この事件がアメリカの国民の間で実にわけの解らぬ
事件とされているのを見て、ウォシュバンは憤り、一気呵成に
この本を書き上げた。
吾人(われら)遠く欧米に在るものよりみれば、這般
(しゃはん、このたび)の行為は聞いてだに戦慄すべきこ
とであろう。しかし乃木大将を知って、いささか将軍の理
想を解し、先帝(明治天皇)に対する崇拝の赤心(まごこ
ろ)を解するものよりみれば、何ら怪しむべきことに非
(あら)ず、ほとんど自然の進退とするほかはない。・
・・
乃木大将にとっては、天皇は日本帝国の権化(ごんげ、
象徴)であり、最後に生命を天皇に捧げるのは、すなわち、
日本帝国に捧げることであった。将軍既に自己の事業の終
われるを感じ、疾(はや)くにも平安静寂の境に入るべき
ことであったとして、その機会を熱望していたのである。
・・・
見地かくのごとしとすれば、必ずまず将軍の絶対無二の
立脚地を認めなければならぬ。そは、旅順口の戦勝者とし
てに非ず、奉天戦の英雄としてでもない。ただ本務遂行の
ために生き、過去数百年伝来した理想の実現のために生き
た、単なる人としてである。
乃木大将はかくのごとき人であった。
- 324 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 23:47
- きちんと読む奴もういないだろうな
- 325 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 23:50
- A米上院議員ハミルトン・フイッシュの証言
「日本は、フイリッピンおよびその他のいかなる米国の領土に対して
も、野心を有していなかった。しかしながら、ひとつの国家として、
日本はその工業、商業航行および海軍のための石油なしに存立できなかった。
非常な平和愛好家である首相の近衛公爵は、ワシントンかホノルルに
来てもよいからルーズベルト大統領と会談したいと、繰り返し要望していた。
彼は、戦争を避けるためには、米国側の条件に暫定協定の形で同意する意思
があったが、ルーズベルトは、すでに対日戦、およびその帰結としての対独戦
を行なうことを決意していたという理由で、日本首相との話し合いを拒否した。」
(ハミルトン・フイッシュ、『日米・開戦の悲劇』)
- 326 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 23:51
もう一つ海軍ネタ。
アーレイ・バーク米海軍大将と草鹿任一海軍中将に関するエピソード。
横須賀の連合国軍海軍司令部に赴任したバーク少将(当時)がある時、もと日
本海軍の将官だった草鹿中将が生活苦から道路工事作業者として生計を立てて
いることを風聞で知った。
仇敵とはいえ、世界三大海軍の一つである日本海軍の将官が貧しい生活をして
いることに同情したバーク少将は、自身の権限内で扱える食料品を草鹿中将宅
へ配給することにした。
ところが、数日後、バーク少将のもとに草鹿中将が怒鳴り込んできて曰く、
「いかに生活が苦しかろうと、敵の情けを受けるいわれはない」
バーク少将は驚くとともに、落剥すれどもプライドは捨てない草鹿中将の態度
をみて、日本人に対する観点を変えた。
更に数日後、バーク少将は草鹿中将を含む海軍の元将官を3名夕食会に招待し
た。おそるおそる現れた草鹿中将等をバーク少将は大いにもてなし、はじめは
ぎこちなかった雰囲気も次第にくつろいだものになってきた。そこでバーク少
将は、
「ラバウルを攻略できていれば、私はこうして草鹿中将と夕食をともにするこ
ともなかっただろう」(注:草鹿中将はラバウル方面海軍部隊の総指揮官)
それに草鹿中将が答えて曰く、
「攻撃に来ていたバーク少将の部隊を撃滅していれば、こうやって敵に情けを
かけられることもなかっただろう」
このようなジョークの遣り取りで両者の間はうち解けた。こうしてバーク少将
と草鹿中将の間に親交が生まれた。
そして、この出来事以降、バーク少将は伝統ある日本海軍の復活、つまり海上
自衛隊の創設に際し、アメリカ側の最大の理解者、そして協力者となった。
- 327 : 名も無き筑波大生 :2003/05/22(木) 23:52
●ニューヨーク・タイムズ 1904年9月28日号より
『日本人は朝鮮との間に追加条約(第一次日韓協約)をどうやら取り決めた。
条約によって望ましい改革への道が開ける。それは朝鮮の利益にとって望ましいばかりでなく、
疑い無く日本の為にも望ましい改革である。朝鮮は日本人の財政顧問と日本の信任を受けている
外交顧問の採用を誓約している。(中略)日本人は朝鮮が進歩の名に価する進歩を達成するため
には、外にも数え切れない改革が肝要なことをよく知っている。しかしまた、この時代の朝鮮が
自発的にこれらの改革を採用する見込みのない事も、よく知っている』
●ニューヨーク・タイムズ 1905年4月29日号より
『朝鮮でいま目にする変貌の光景は素晴らしい。すでに実施された統治の諸改革は見事であり、
国民には混じりけなしの恩恵となっているが、皇帝にとってや、宦官、占い師、易者、外国人
寄生虫からなる宮廷には狼狽の種になっている』
- 328 : 名も無き筑波大生 :2003/05/23(金) 00:03
- ↑結論。事実。
- 329 : 名も無き筑波大生 :2003/05/23(金) 00:04
- 誰か要約しる
- 330 : 名も無き筑波大生 :2003/05/23(金) 00:19
- 第7章 鵞鳥のソース P.269
Source for the Gander(タイトルの意味については[抜粋]10)を参照)
[要約]
満州事変のいきさつと、欧米各国のとった態度。ここに太平洋戦争の発端がある。
[抜粋]
1)懲罰と平和の問題は、口で言うほど単純なものではない。まず第一に、満州事変に対する一般の見方が、きわめて複雑な事件を極端に単純化していることだ。第二に、一般に行われている日本非難は道義と人道を基盤にしているが、外国の侵略を押し止めるのは道義ではなく、国際法である。私たちが日本を罰する権利は、庶民感情や理想によっているのではない。超大国アメリカの工業力と軍事力を後楯にした米国務省の決定によっているのだ。
2)満州事変は、その後の日華事変同様、この複雑な状況の論理的帰結だった。韓国問題のときと同じように、大きな問題は中国での「権益」を守り、拡大しようとする西洋列強同士の対立だった。争っているのは、日本と中国ではなく、日本と欧米列強だったが、ロシア革命で状況が複雑になった。これによって中国の共産主義思想が日本の勢力拡大より大きな脅威になろうとしていたのだ。さらに問題を複雑にしたのは、アメリカの立場である。理想主義的政策を支持していたアメリカが、いまや即物的、国家主義的言葉でしか理想を語れなくなったことにいらだっていた。
3)アメリカ国内の世論は、この事件(満州事変)にそれほど関心を持っていなかったが、一応は中国を支持した。国際連盟加盟の小国はどちらかといえば中国についたが、大国の政府は態度をはっきりさせなかった。彼らにとって、問題は日本の意図だった。もし事件が日本の主張どおり、「法と秩序」を回復し、日本の「合法的財産」を守るための通常の「警察行為」なら、日本の法的立場は強い。日本は条約上の権利の枠内で行動したことになる。しかし、日本が満州併合を策しているなら事情は違ってくる。
4)アメリカと連盟がゆっくり動いている間に、満州の事態は急展開した。連盟が設置した調査委員会(リットン調査団)が満州に到着する前の1932年2月29日、満州人代表が瀋陽に集まり、中国からの独立と、独立国家満州国の樹立を宣言した。そして、リットン調査団が報告書を連盟に提出する前の1932年9月15日、日本は新しい国を独立国家として「承認」したのである。
5)しかし、日本は行きすぎたようである。1932年1月、満州事変は抗日運動が盛り上がる上海に飛び火した。上海の租界に権益を持つ各国の軍隊が警備体制についた。日中両国軍が衝突し、日本軍は中国側の拠点チャペイを攻撃した。各国は共同租界の周辺で起きたこの衝突に強い懸念を抱き、アメリカとイギリスは日本政府に抗議文を送った。何度か交渉が重ねられた結果、戦闘はやんだが、五月まで事態は収拾されず、日本軍は撤退しなかった。
6)日本にとって、リットン報告の見解は「法的」にきわめて重要である。もし、ある「軍閥政権」が外国勢力に認められたというだけで「中央政府」になれるなら、大国である日本が自分の勢力圏内にある望ましい政権を中央政府として認めてならない理由はないのだ。もし、中国の中央政府が報告で明確にされているように法的擬制なら、日本の満州も同じである、と日本は考えたのである。
7)日本がリットン報告にびっくりしたのは当然である。報告は日本の誇りを傷つけただけでなく、アジアの大国としての地位を根底から脅かすものであった。心理的衝撃は、日本は西側先進国ではないとされたことである。日本は五大国の高い席から、アジアの後進民族と同じ地位に引きずり下ろされたのである。
8)そこで日本人は、こうした非難は日本の行動に対してではなく、人種に向けられたものだという結論に行きつく。中国人もリットン報告を子細に読めば、同じ結論に達しただろう。国際連盟がリットン報告を受け入れ、連盟とアメリカが満州国を独立国として承認しなかったことから、日本は連盟を脱退した。
9)日本が満州で治外法権を放棄したことに対してもそうだ。欧米諸国が日本の行動に拍手を送ってあとに続けば、むしろ日本の侵略を非難しうる堅固で正当な論理的基盤を作れるはずだ。ところが、満州には欧米諸国の特権的地位を奪う権利はないと激しく攻撃したのである。
10)雌鵞鳥(グース)のソースは雄鵞鳥(ガンダー)のソースにもなる(訳注;西洋人に許されるなら、日本人にだって許される)のだ。
- 331 : 名も無き筑波大生 :2003/05/23(金) 00:20
- 第8章 第5の自由 P.305
The Fifth Freedom
[要約]
日本側からみた満州事変の意義とアメリカの説明、日本にとっての満州の必要性、戦後の米国(連合国)の対日政策など。
[抜粋]
1)戦争原因を考えるに当たって、私たちは人種的、思想的側面にこだわりすぎ、経済的要因を無視している。日本の視点からいうなら、この戦争はアジア民族がアジアの支配勢力として台頭するのを阻止し、米英企業のために日本の貿易競争力を圧殺しようとする米英の政策が引き起こしたものだった。
それが米国政府の意図だったという見方は、アメリカ人なら誰も認めないだろうが、実際に行われた政策と米国政府の公式説明は、まさに日本の解釈を裏付けているといわざるを得ない。
2)日本が私たちの政策を(1)イギリスを全面的に支持する、あるいは(2)自分たちには必要ないが、とにかく日本にだけは渡したくない、あるいは(3)アジアでの戦略的利益を守る、ための政策であると考えたのも当然だった。
3)政策を判断するには、常に「平和と人類の幸福」という一対の物差しが必要だ。
4)戦後日本の絶望的状況にぶつかったアメリカの政策立案者は、政策を転換し始めた。日本の再建に数十億ドルの政府借款供与が考えられている。しかし、これは国民生活を考えてのことではなく、日本を対ソ連基地にすることが狙いらしい。同時に、米国企業は対日投資の効果を考え始めているようである。連合国の政策で破産した日本に資本を投入して、アジア市場への足場を築くという考え方が出ているのだ。
- 332 : 名も無き筑波大生 :2003/05/23(金) 00:20
- 第9章 誰のための共栄圏か P.339
Whose Co-Prosperity Sphere?
[要約]
満州事変における連合国対日政策の失敗原因、日支事変さらに第二次世界大戦突入へのいきさつ、日本の立場と欧米の立場、現代への教訓など。
[抜粋]
1)私たちの目的である平和と人類の幸福を達成するための国際関係システムに向けて、私たちが指導的役割を果たせるかどうかの問題である。
満州事変に対する大国の政策の失敗原因は、はっきりしている。人道的目的というものは、パワーポリティクスの技術や特殊権益を考えていては達成できない。
2)1941年にようやくイギリス、オランダ、アメリカは対日貿易の断絶に踏み切ったが、もし1931年か1932年の時点でそうしていたら、日本は立ち往生していたはずだ。
3)戦略的に見ると、列強の政策は、(1)日本が拡張に向かわざるをえない心理的、経済的要因を強め、(2)同時に、日本が公然たる反抗を考えるほど強くなるのを助けて、失敗したのだ。
一方で、日本をイギリスの安全保障体制の一部として利用しようとする考えが、依然としてあった。日本を混乱状態にある満州地域の警察官にする。中国とロシアの緩衝材としてつかう。中国で共産革命が起きた場合に日本の力を借りる。中国の民族主義に対抗して、日本を条約国の統一を守る助けとする、という考え方があった。
4)民主主義国の倫理面での失敗はもっと深刻である。
米英二大国が1931年に満州事変に懸念を表明したとき、同時に治外法権を返していたら、不平等条約を放棄していたら、租借地と割譲地を返還していたら、自国の艦船と軍隊を撤退させていたら、満州を侵略であると厳しく断じることができただろう。
5)日本からみれば、問題はきわめて簡単だった。つまり、(1)満州に「合法的自衛」手段としての戦略拠点を確保し、(2)日本帝国圏(韓国と台湾)と満州、華北からなる経済ブロックを作って経済の安全保障を確立しようというのが日本の計画だった。そうすれば、これまでのように原材料物資と市場をアメリカ、イギリス、フランス、オランダに依存しなくてもすむ。
6)この時点までイギリスは蒋介石と日本の双方を牽制しつつ支援していたが、華北が独立を宣言し、日本と満州が共同して関税同盟と経済ブロックを結成する可能性が強まってくると、危機感を抱くようになった。イギリスは華北に大きな「権益」を持っていたから、支配的地位から降りようとはしなかった。そこで、イギリスは通貨再編成のために金融専門家、フレデリック・L・ロス卿を送り込み、銀の国有化計画を成功させて、蒋介石を外交的にも財政的にも強化した。同じころ、国民党大会初日の記念写真におさまろうとしていた汪精衛は、カメラに隠されていた銃に撃たれた。
- 333 : 名も無き筑波大生 :2003/05/23(金) 00:21
- 7)1937年11月、日本は支配地域に共産主義の侵入を許さないための「自衛手段」と称して、独伊反共条約に加盟した。
8)1941年7月、アメリカ、イギリス、オランダは共同で各統治領内の日本資産を凍結し、貿易関係を全面的に中断した。
9)日本は、戦うか、三国の条件をのんで小国に身を落とすか、の決断を迫られることになった。日本の内閣は総辞職した。近衛公が去り、東条大将がやってきて、凍結措置は戦争行為であると無造作にいい放つ。次にくるのは必然的にパールハーバーとシンガポールの攻撃である。日本にいわせれば、これは当然の自衛行為であり、「帝国の存立」をかけた攻撃だった。そして戦争を論理的に正当化する法的擬制は大東亜の解放だった。
10)1934年、日本外務省情報部長(スポークスマン)、天羽英二が新外交政策を発表した。これは日本のモンロー・ドクトリンと呼ばれ、やがては大東を共栄圏に発展して行くものだが、この政策で日本は、日本だけが極東平和の責任を負っていること、中国にいる外国勢力が平和と秩序を乱すような行動をとったり、中国と日本の間に紛争をもたらすような行動をとった場合、必要なら武力をもってこれと対決することを明らかにした。日本外務省は、中国のいかなる政府に対しても、政治的借款の供与、政治顧問の提供は、一切禁止されると述べた。
米国政府は、日本がこの政策を「モンロー・ドクトリン」と呼び、アメリカの対中南米政策になぞらえようとしていることが許せなかった。しかし、日本から見れば類似性は明白なのである。問題は、私たちが日本と中国の関係だけを考えていたのに対して、日本は中国を支配している欧米列強と日本の関係であると考えていたことにありそうだ。アメリカのモンロー・ドクトリンはヨーロッパの支配が西半球まで及ぶことに反対するものだった。
11)国際関係を考えるさい、私たちは植民地体制の持つ意味を無視しているが、これは日本の犯罪に対する態度より、はるかに広い意味で重大である。満州事変と日本の共栄圏構想を再検証すれば、なぜ旧国際連盟が平和を守れなかったかが浮かび上がってくる。そして、現在の国際連合の間違いが見えてくるのである。
12)そこで、日本人は、今日のフィリッピンがかっての満州国と何ら変わらない存在であることに気づくのである。
13)満州事変とインドネシア事変(インシデント)は驚くほど似通っている。オランダは、日本が中国で行ったことを、インドネシアで行っている。これはかって中国が非難した行動なのだ。
今日蒋介石の中国が置かれている立場は、日本が最初の教育の時に置かれていた立場と同じである。アメリカ人はこの類似性について真剣に考えてみる必要がある。
14)日本は現地住民に独立を約束した。それだけでなく、独立を保障する具体的行動を進めていた。1935年にはすでに、満州での治外法権を放棄していたし、1940年には中国に正式に約束し、1943年には中国政府に租借地を返している。大戦中日本は、実際に、占領したすべての地域に現地「独立」政府を樹立していった。
15)すべての国が、法的擬制は敵だけでなく自分たちも持っていることを認める必要がある。東アジアの原住民が信託統治、あるいは非自治地域、あるいは戦略地域の名目で欧米の行政管理下にはいるほうが、植民地や信託統治領の行政のもとにいるより好ましいと考えているとは思えない。この人々にしてみれば、戦争は単にアジア人支配者を追放したにすぎない。そして英語圏がその足場を固め、アジアに近づいたというだけのことなのだ。
- 334 : 名も無き筑波大生 :2003/05/23(金) 00:21
- 第10章 教育者たちの資質 P.381
Notes for Educators
[要約]
連合国の教育者としての適切性、日本の成功がアジアの知識人に与えたインパクト、パワー・ポリティクスに対する警鐘、イギリスの安全保障システムの評価など。
[抜粋]
1)日本と日本人の罪と罰という問題は単純ではない。確かに、日華事変の記録を普通に読めば、日本の指導部と軍隊の行為すべてが犯罪であるということができる。彼らの重大な犯罪には「情状酌量」の余地がない。彼らは残忍にも非戦闘員を爆撃した。彼らは他人の財産を略奪し破壊した。彼らは何百万の民衆に恐るべき惨禍をもたらした恐怖のの戦争の遂行者である。
しかし、日本が実際に「人類に対する罪」を犯したとしても、私たちが日本国民を懲罰するのは果たして正義だろうか。また、現在行っている懲罰が将来起きるかもしれない同様の犯罪の抑止力たりうるだろうか。答えは否(ノー)である。西洋列強が極東で行ってきたことをふり返り、戦争中の私たちの行動を認識し、私たちの現在の政策と連合国の戦争政策を日々の新聞紙上で追うならば、日本を有罪にしても民主主義諸国の罪は拭えないことがわかるのだ。日本が犯した罪は実際には何であったか、私たちが何で日本を罰しているのか、私たちがどういう根拠で罰せられるより罰する立場にいるのか、将来現れる侵略者にはたぶん理解できないだろう。
2)日本の本当の罪は、西洋文明の教えを守らなかったことではなく、よく守ったことなのだ。それがよくわかっていたアジアの人々は、日本の進歩を非難と羨望の目で見ていた。
3)政治意識を持つアジア人は日本の輝かしき成功からなにを学ぶべきか、よく理解していた。中国の革命指導者、孫逸仙(孫文)は「三民主義」の中で次のように書いている。
ベルサイユ講和会議で、日本は五大国の一員として席に着いた。日本はアジア問題の代弁者だった。他の諸国は、日本をアジアの「先頭馬」として認め、その提案に耳を傾けた。白色人種にできることは日本人にもできる。人間は肌の色で異なるが、知能には違いがない。アジアには強い日本があるから、白色人種は日本人もアジアのいかなる人種も見下すことはできない。日本の台頭は大和(日本)民族に権威をもたらしただけでなく、アジア全民族の地位を高めた。かってわれわれはヨーロッパ人がすることはわれわれにはできないと考えていた。いまわれわれは日本がヨーロッパから学んだことを見、日本に習うなら、われわれも日本と同じように西洋から学べることを知ったのである。
4)日本を見ればわかる。イギリスとアメリカに治外法権をは外してもらい、対等の主権国家として扱ってもらえるまでに45年かかった。中国はイギリスとアメリカに特権と治外法権を返上してもらい、対等の主権国家として認められるまでに104年かかった。
- 335 : 名も無き筑波大生 :2003/05/23(金) 00:21
- 5)今日、私たちが日本の韓国「奴隷化」政策を非難するのは、要するに日本の植民地経営が著しく拙劣だったからである。しかし、一般に進歩の基準とされている、病院、学校、官庁(とくに現地行政機関)に占める韓国人の割合、通信施設の整備、産業化、資源開発などの分野でみると、日本の経営は他の植民主義諸国と比べて劣っていなかったばかりか、むしろ勝っていたといえる。
6)国際問題を正しく理解するには、ヤルタ協定をもっと詳細にみる必要がある。ヤルタ協定を考える場合、(1)満州の歴史、(2)私たちがパワー・ポリティックスと「暴力と貪欲」を否定するに際して、イギリスとアメリカの政策立案者が発した高邁な宣言、(3)ヤルタの取り決めにおける中国の立場、(4)国際関係における「合法性」の概念、の諸点からみると、西洋列強が「後れた」地域を「指導」する場合の教育システムの間違いが、実に鮮やかに浮かび上がってくる。
7)もう一つの「合法性」に関わる問題がある。ヤルタ会談の時点では、ソ連は日本と戦争していなかった。そればかりでなく、日本との間で不可侵条約を結んでいたのだ。イギリスとアメリカは、具体的条件を出して、ソ連が特定の期日をもって不可侵条約を破棄するお膳立てをしていたのだが、両国代表団はそれを違法とは考えてはいないのだ。その結果として、アメリカは8月6日(1945年)原爆を投下し、ソ連は8月8日宣戦を布告、翌9日に参戦した。
8)アジア人は一連の出来事をパワー・ポリティクスの最もひどい見本と思っているはずだ。アメリカ人に、それがわからないなら自己欺瞞である。
ヤルタ会談は、パワー・ポリティクスの実習としては画期的なものである。
9)私たちが掲げる平和と人類の幸福という目的に即してこのシステム(イギリスの安全保障システム[今日ではアメリカの防衛システムだが])をみると、明らかに不利となる事実を二つ指摘することができる。
第一は、日本はイギリスとアメリカの全面的協力がなければ、軍事大国になることができなかったということである。第二はソ連に関する事実である。イギリスのパワー・ポリティクスの絶えざる刺激がなかったら、ソ連はどうだったろうか。はっきりしているのは、平和を維持し、ソ連を抑止する目的でデザインされたイギリスのシステムは、そのいずれの目的も果たせなかったということである。パワー・ポリティクスは日本とソ連ではあらかに逆噴射したのだ。
10)日本を近代的軍事・工業国家に育てる中で、いくつかのことが見落とされていた。つまり、工業化はダイナミックなシステムに向かうこと、力はさらなる力の必要と渇望を生み出すこと、そして「安全な」同盟国は力を強めることによって安全でなくなること、パワー・ポリティクスが支配する競争世界で、ひとたび覇権の拡大(あるいは「合法的」拡張)に向かうと、物資と市場を競争相手に依存しているという事実が不安感と不信感を醸成させ、より多くのものを求めずにはおかない過剰「安全性」に駆り立てること、西洋列強がコミットメントでアジアに深入りし、日本がコミットメントで満州と華北に深入りしたように、コミットメントというものは国家を追い込むものであること、が見落とされていた。
- 336 : 名も無き筑波大生 :2003/05/23(金) 00:22 ↓
- ----要約-----
オナニーネタがいっぱいあってよかった。
- 337 : 名も無き筑波大生 :2003/05/23(金) 00:23 ↓
- まず著作権の話からはじめようか。
- 338 : 名も無き筑波大生 :2003/05/23(金) 00:34 ↓
- このスレは1が私的にメモ帳として用いることになったようです
- 339 : 名も無き筑波大生 :2003/05/23(金) 00:53 ↓
- 時折入っている、合いの手ヨイショも1かなぁ・・・
合いの手自作自演((゚Д゚))ガクガクプルプル。
- 340 : 名も無き筑波大生 :2003/05/23(金) 01:30 ↓
- 作者にとっては、
1がコピペでオナニ啓蒙するよりも、
左翼がこの本買って文句たれるほうがうれしいという、
悲しい現実があるわけだが(w
- 341 : 名も無き筑波大生 :2003/05/23(金) 01:37 ↓
- 1のコピペ元。「アメリカの鏡・日本」
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/s_suzuki/book_mirror.html
いたってまともな本なのに、1のせいでここではただのオナニネタ扱いですね。
- 342 : 名も無き筑波大生 :2003/05/23(金) 02:02
- オナニーと取るやつもいる、歴史的資料の一つと取るやつもいる。
ただ>>1に書いてあることはその文章以外、何も意見が入ってないコピペ。
どういう受け取り方をし、どう反応するかでその人の考えや立場がわかる好例スレ
- 343 : 名も無き筑波大生 :2003/05/23(金) 02:09
- まぁ、どうせ>>327あたりが気に食わない奴が、けなしてるんじゃないの??
- 344 : 名も無き筑波大生 :2003/05/23(金) 11:06 ↓
- 1=342=343
とりあえず下げろ。こんなことは普通に筑波大生は知ってんだよ。
だから、お前みたいなにわかを煽って楽しんでるのを気付かないのか?
- 345 : 名も無き筑波大生 :2003/05/23(金) 11:12
- アイゼンハウアー大統領
「私は非常に大きい間違いをした、ある大統領の名前を挙げることができる。ルーズベルトは自分の信念や行動しか認めない、極めて自己中心的な人物である」
昭和三十年一月十七日当時の上院外交委員長ウオルター・ジョージ民主党上院議員と交わした会話の録音テープより
「(ルーズベルト)大統領の望まれる日本をして米国への先制攻撃を実行させる為、太平洋をカラにして全艦隊をハワイに引き上げました。
本日より10日後に迫った日本の攻撃を行わせるため、12月7日当日はレーダーを停止し海門を開け、日本の攻撃をいささかも妨げることはありません」
米海軍太平洋艦隊司令長官ハズバンド・E・キンメル1941年11月27日打電文より
「(ルーズベルト)大統領が希望される日本軍による先制攻撃を実行させるためのマニラでの準備を全て完了しました。
日本軍がパールハーバーに向かうのを一切妨げることはありません」
米陸軍極東部隊司令官ダグラス・マッカーサー1941年11月28日打電文より
以上は、米国人ロバート・B・スティネット著「真珠湾の真実−ルーズベルト欺瞞の日々」の中の米国公文書の一節である。
今から60年前、米国は石油の禁輸などあらゆる手段を使って日本を参戦へと追い込むべく謀略の限りを尽くしたが、
公表された公文書は当時のルーズベルト大統領を表看板とした影の世界政府が、日本に先制攻撃をさせることによって、
アメリカ国民を第2次世界大戦へと引き込んでいった明確な証拠である。
しかし米国の歴史を根底から覆すような国家機密が同じアメリカ人によって公開されたことは評価すべきことである。
- 346 : 名も無き筑波大生 :2003/05/23(金) 11:21 ↓
- また始まったよ。(w
- 347 : 名も無き筑波大生 :2003/05/23(金) 11:24 ↓
- 近代、1のコピペほど、つくちゃんを呆れさせたものはない。
- 348 : 名も無き筑波大生 :2003/05/23(金) 11:46 ↓
- 影の世界政府って・・・・(w
- 349 : 名も無き筑波大生 :2003/05/23(金) 12:54
- つかこうへいの「広島に原爆を落とす日」でも読んでおけ>>345
- 350 : 名も無き筑波大生 :2003/05/23(金) 14:29 ↓
- しんじゅくのきょうかいでしゅうかいがひらかれ
そしてまたあくむのようなせかいがはじまるだろう。
きゅうせいしゅはせいぎのためにたちあがるが
あんさつされてしまうだろう
- 351 : 名も無き筑波大生 :2003/05/23(金) 15:57
- >>350
お前はホクロノ巡査だな
- 352 : 名も無き筑波大生 :2003/05/23(金) 18:22
- 近年>>344ほど必死だった者はない
- 353 : ↑まじでキモイ :2003/05/23(金) 19:56 ↓
- 煽りあげキモイです…せめてSAGEでください。
- 354 : ↑まじでキモイ :2003/05/23(金) 19:58 ↓
- 煽りあげマジでキモイです。勘弁してください(w
- 355 : ↑マジでキモイ :2003/05/23(金) 19:59 ↓
- 煽りage程度でキモがってるヤシってあんまり近づきたくないよね
- 356 : ↑まじでキモイ :2003/05/23(金) 20:04 ↓
- 1=355
- 357 : ↑勘違い馬鹿 :2003/05/23(金) 20:58 ↓
- 1=355
ならageるだろうに
- 358 : 名も無き筑波大生 :2003/05/24(土) 15:21
- >>352-357
君らがキモイ
- 359 : 名も無き筑波大生 :2003/05/24(土) 17:46
- このスレさいこー!!
- 360 : ↑キモイ・・・ :2003/05/24(土) 22:45 ↓
- 1がコピペにどれだけの時間を費やしたかは知らないが、下げるべき。
- 361 : 名も無き筑波大生 :2003/05/24(土) 22:51
- キモイで片付けるのは簡単だが、これらの資料は検証する価値があるのでは?
- 362 : 名も無き筑波大生 :2003/05/24(土) 22:54
- 検証する価値があるということを証明せよ。
- 363 : 名も無き筑波大生 :2003/05/24(土) 23:36
- 検証する価値があるということを証明する必要性を証明せよ。
- 364 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 01:13 ↓
- 1がコピペを集めるのにどれくらい苦労したのか知らないが、とにかく下げるべき。
- 365 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 01:26 ↓
- どうやら、とんでもない粘着にわかがスレ立ててしまったようですね。
- 366 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 01:39
- とにかく下げるって、、、、(笑)
小学生じゃないんだから、理由を聞きたいですね。
- 367 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 01:40
- 下げろと言われたら、上げたくなるのが人の性。
- 368 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 01:52 ↓
- ただの天邪鬼という(以下略
コピペだけで自分の考えが全く無い、にわか>>1はそろそろ頭を使うべき。
- 369 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 02:08
- >>368
じゃ、君が、その資料に対して、意見を述べてみては?
何番の意見に、賛成だ、反対だ、と言って。
- 370 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 02:21
- それに>>1、>>1って言ってるけど一人じゃないんだけど。
僕がコピペしたのもあるが、>>1は僕じゃないし。
- 371 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 02:37 ↓
- 20せいきのおわりに、
悪のそしきがせかいせいふくにうごきだしました。
かれらはさいしょに、おそろしいさいきんへいきでさんふらんしすことろんどんをおそいました。
次にかれらがさいきんをばらまいたのは、1970年、バンパクで有名な大阪です。
日本中がきょうふにふるえあがりました。
そして悪のそしきの次のねらいは、羽田空港でした!!
東京は、にげ場のないきょうふをあじわうこととなりました。
しかし、ほんとうのきょうふはこれからなのです!!
- 372 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 02:47 ↓
- >>369=370
いいかげんにしてよ。思考停止もはなはだしいよ。
- 373 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 03:17 ↓
- >>370
お前本当に頭悪そうだな。まず、お前のコピペの意図と意見をはっきりさせてから、
そういう偉そうなことを言うもんだぞ(w
- 374 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 04:22
- >にわか>>1はそろそろ頭を使うべき。
>>368には日本語を勉強するべき。
- 375 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 09:00
- >>372
この資料が嘘に決まってるって、決め付けてることこそ、思考停止なのでは?
- 376 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 09:01
- そもそも、何に関して思考停止なのかわからん。
- 377 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 09:24 ↓
- まじめに授業に行くか、図書館で本でも読んでまじめに勉強しなさい。
- 378 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 09:47
- 図書館には、こういうこと書いてある本ないよな。
なるべく自虐的に教えたがっているから。大学は。
- 379 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 09:55
- 朱耀翰(戦後は韓国議員)
「正義人道の仮面を被り、摂取と陰謀をほしいままにしている世界の放火魔、
世界一の偽善君子、アメリカ合衆国大統領ルーズベルト君。君は口を開けば人道を唱えるが、
パリ講和会議の序文に、(日本人が)人種差別撤廃文案を挿入しようとしたとき、
これに反対し、削除したのはどこの国であり、黒人と東洋人を差別待遇して同じ席にもつかせず、
アフリカ大陸で奴隷狩りをあたかも野獣狩りをするが如くしたのはどこの国のものであったか。・・・
しかし、君等の悪運は最早尽きた。
一億同胞なかんずく朝鮮半島の二千四百万は渾然一体となって大東亜の
聖 戦
の勇士とならなことを誓っている。 」
- 380 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 09:55
- 崔南善 「毎日申報」昭和十八年十一月二十日より 崔南善
「昔から春秋に善戦はないといわれているが、今度の戦争(大東亜戦争)を善戦
聖戦
といわずして何といえようか。
大東亜の建設、全人類の解放、主義と信念と理想を生かすための聖なる戦いに行くことはなんと快心事であることか。
日本国民としての忠誠と朝鮮男児の意気を発揮して一人残らず出陣することを願う次第である。 」
- 381 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 09:56
- 申興雨 昭和十六年十二月十日 ソウルでの決戦報告大講演会より
「祖父の代から受け継いできた黄色人種の積憤をいまこそ晴らさなければならない。
一度、決戦する以上、帝国行路のがんである敵性国家を粉砕し新東亜建設に邁進しなければならない」
李成煥(朝鮮農民運動の指導者 )
「貧欲の牙城、白人帝国主義の張本人英米をいまこそ撃滅せずには、
我等の子孫の発展を望むことはできない。」
- 382 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 09:57
- ウェン・コーエン(アメリカの詩人) 「世界がさばく東京裁判」(ジュピター出版)より
「ルーズベルト大統領が勝手に戦争を仕組み、日本に押しつけた事を知り、仰天の思いであった。
アメリカが無実の日本の指導者を処刑してしまったことに対し、一アメリカ人として心より日本人に詫びたい。
日本に行ったら、是非とも処刑場跡を訪れ、処刑された人々の霊に詫びたいと思っていたが、
今日それが実現できて、大任を果たした思いである」
- 383 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 09:57
- 米国大統領ロナルド・レーガン 1988年の発言 「沖縄タイムス」より
「米国民は戦争のなかで混乱状態にあり、
混乱の中で米国は日系人の収容という過ちを犯してしまいました」
- 384 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 09:58
親日派韓国人 朴鉄柱
「現在の日本の自信喪失は敗戦に起因しているが、そもそも大東亜戦争は決して日本から仕掛けたものではなかった。
平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後まで取り組んだ。
それまで日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。
最後はハル・ノートをつきつけられ、それを呑むことは屈辱を意味した。
”事態ここに至る。座して死を待つよりは、戦って死すべし”というのが、開戦時の心境であった。
それは日本の武士道の発露であった。日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨て身の一撃を与えた。
それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった。日露戦争と大東亜戦争ーこの二つの捨て身の戦争が歴史を転換し、アジア諸国民の独立をもたらした。
こ の 意 義 は い く ら 強 調 し て も 強 調 し す ぎ る こ と は な い 。」
- 385 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 09:59
- インドネシア アリ・ムルトポ准将
「日本はアジアの光である。
大 東 亜 戦 争 は 欧 米 人 に ア ジ ア 人 の 勇 敢 さ を 示 し た も の
で、チンギス・ハーンとともにアジア人の誇りである」
- 386 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 10:00 ↑
- だりーなー
世界史って学問はインチキと誤解に振り回されるばかりで
実質はプロパガンタ合戦の研究なんじゃねーか?
いかに事実をデッチ上げるか、って学問なら俺みたいなシロートは
結果だけ教えてもらえればいいよ。
つーか力づくで歴史を作って反論する奴を押さえ込むのが正しい歴史の作り方なんだな。
だったらどんな悪事を働いても平気じゃん。国家的犯罪?バカじゃねーの?
そんなの認める国なんて存在しねーよ。
日本も御用学者に日本正当化歴史を作らせて「異論を挟めないムード」を作っちゃえば?
戦前の社会は世界の常識的には正しかったようだな。
結論
世界史は生臭い学問。 試験の採点なんてよく出来るもんだな。
正解かどうかは政治の問題じゃねーか。
「世界史」なんて普遍的な表現ではなく「わが国の歴史認識」って名前に変えるべき
ということでスレ違いでGO!
- 387 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 10:01
関東大震災の虐殺は朝鮮人の捏造です。
もし朝鮮人が大量に虐殺されたなら、なぜ翌年には4万人もの朝鮮人が日本にやってきたのですか?
説明プリーズ。
在日朝鮮人人口動態 内務省警保局統計 他
年在日朝鮮人数 増加人口数(前年比)
1920 3万0175 1903 朝鮮で「産米増殖計画」〜1934
1921 3万5876 5693
1922 5万9865 2万3989 日本への「自由渡航制」
1923 8万0617 2万0752 関東大震災
1924 12万0238 3万9621
1925 13万3710 1万3472 再び日本への「渡航制限」〜1938
1926 14万8503 1万4793
- 388 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 10:09 ↓
- だから本読めっていってんだよ。那珂川先生の本に書いてあるだろ?
- 389 : 実に興味深い :2003/05/25(日) 11:11 ↓
- いやぁ〜お久しぶりです。
コピペ君は相変わらずマスターベーションにふけってますね。
>>387は全く論理が欠如してますね。
次の年の朝鮮人の人口が増加してる→よって前年の朝鮮人虐殺は無かった。
こういうロジックは一般的ではないですねぇ〜。本当ににわか丸出しです。
今後は私も下げさせていただきます。(w
- 390 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 11:40
- 次の年の朝鮮人の人口が増加してる→よって前年の朝鮮人虐殺は無かった。
ではなく>>389が言いたいのは
次の年の朝鮮人の人口が増加してる→よって朝鮮人は虐殺を気にしなかった
あるいは
次の年の朝鮮人の人口が増加してる→虐殺されたと気づかなかった
あるいは
次の年の朝鮮人の人口が増加してる→朝鮮人は虐殺の意味がわからなかった
だ!わかったか!まいったか!
- 391 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 12:00 ↓
- そもそも、次の年の朝鮮人渡航者数が増えると、
前の年に大量の朝鮮人が殺された事実がなくなるのは何故か?
という説明が>>387は必要だな。
- 392 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 12:04
- >>387
この資料だけでは、実際に虐殺があったのか、なかったのか?は、判断つかない。
ということでいいですか?
- 393 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 12:05
- 結論>>386
- 394 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 12:10 ↓
- マジレスさせてもらうと全然違う>>390
「3月につくちゃんが出来た→10月に図情と合併した→
よって図情合併はつくちゃんのなせる技である」みたいのはロジックとは
呼ばない、ということだ。
- 395 : 実に興味深い :2003/05/25(日) 12:21 ↓
- >>394あなた分かってますね。ありがとうございます。
A:朝鮮人が大量に殺された。
B:次の年の朝鮮人の人口が増えた。
Bという事象でAを否定したいのなら、まずAとBの相関を(以下略
- 396 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 12:24
- 朝鮮人なんかどうでもいいよ。あんなクソ民族。
- 397 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 12:25
- 朝鮮人は虐殺されてしかるべき。
- 398 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 12:28 ↑
- 朝鮮人のことになると、むきになるね。
- 399 : 実に興味深い :2003/05/25(日) 12:28 ↓
- やはりきましたね(w
>>387は自分の論理が破綻していることに気付いて、
最後はやけくそになってしまったようです。
にわかのこういう所は本当におもしろい。
これからも楽しませてもらいますよ。(w
- 400 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 12:30 ↑
- どこが、きてるの?全然きてないよ。
- 401 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 12:32 ↑
- >>399
だったら、他の資料にもコメントしたら?
いずれにせよ。>>387だけでは、虐殺があったかどうかは、判断できないよ。
- 402 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 12:33 ↑
- >>399
お前、そのコテハンうざいよ。他にも、お前のことうざいと思ってる奴いると思う。
- 403 : 実に興味深い :2003/05/25(日) 12:34 ↑
- やはりきましたね(w
>>399は自分の論理が破綻していることに気付いて、
最後はやけくそになってしまったようです。
にわかのこういう所は本当におもしろい。
これからも楽しませてもらいますよ。(w
- 404 : 実に興味深い :2003/05/25(日) 12:36 ↓
- >>401
申し訳ないが、私は意見の無いコピペにはコメントはしない。
>>387が唯一コピペ君のコメントが載っていたから遊びました。
にわかコピペ君の意見に期待してましたが、あまりに非論理的だったのでがっかりしましたよ(w
- 405 : 実に興味深い :2003/05/25(日) 12:38 ↓
- >>402ウザイと思うのならこのスレに来なければいいのでは?(w
- 406 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 12:39 ↑
- >>404
それが唯一ではないです。
- 407 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 12:40 ↑
- >>405(wって馬鹿みたいだから使わないほうがいいですよ
- 408 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 12:42 ↑
- >>405(wって馬鹿みたいなのでがっかりしましたよ
- 409 : 実に興味深い :2003/05/25(日) 12:43 ↓
- さっきから同じ人間ばかり喰いついてますね。メール欄とりあえずsageで進めましょう。(w
- 410 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 12:44 ↑
- >>409
sageで進める理由を明確に提示してください。
(wって馬鹿みたいだから使わないほうがいいですよ。
- 411 : 実に興味深い :2003/05/25(日) 12:44 ↓
- とりあえず、
朝鮮人が大量に殺された事実と次の年の渡航者数がどう関係があるのか説明欲しいところだね。(w
- 412 : 実に興味深い :2003/05/25(日) 12:46 ↓
- >>410質問に答えないあなたの方が馬鹿みたいですね(w
- 413 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 12:51 ↑
- >>411
大量に殺されたところに、あなたは、行きたいと思いますか?
そんなことは、人間の感覚の問題です。
あなたの仲間が大量に殺されたけど、それでも、そこに行きたいという
感覚の持ち主なら、それには相関関係はないと判断されてもしかたないでしょう。
>>412(wって馬鹿みたいだから使わないほうがいいですよ
- 414 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 12:52 ↑
- >>409
sageで進める理由を明確に提示してください。
- 415 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 12:59
- 2002年12月31日!!
ズーンズーンとおそろしい地なりとともに、
ついにそのきょだいなかげは、
東京にすがたをあらわしました。
原子りょく、きょだいロボット!!
さいきんをばらまきながらはかいのかぎりをつくす!!
はたして21世紀はくるのでしょうか!!
東京の・・・いや、世界のうんめいやいかに!!
- 416 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 13:03 ↑
- >>415 話をそらすな。
>>413に対する反論は?
例えば、テロが起きれば、当然、そこには危ないから旅行は控えようと
考える人が続出する。
今だって、その結果、旅行会社が四苦八苦している。
それと同じで、朝鮮人が日本で大量に殺されていたら、
そこに行くことは控えるのは普通だろ。
- 417 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 13:08
- そこに・・・9人の戦士がたちあがったのです!!
地球の平和のため、かれらはどうたたかうでしょうか!!
- 418 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 13:11 ↓
- >>416マジレス。情報の非対称性を考えたことはあるのか?
今の感覚で答えるのは妥当性を得ない。
当時の伝聞では「朝鮮人だから殺した」のではないだろ。
- 419 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 13:11 ↑
- >>417 話をそらすな。
>>413に対する反論は?
例えば、テロが起きれば、当然、そこには危ないから旅行は控えようと
考える人が続出する。
今だって、その結果、旅行会社が四苦八苦している。
それと同じで、朝鮮人が日本で大量に殺されていたら、
そこに行くことは控えるのは普通だろ。
- 420 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 13:12
- せいぼがこうりんするとき
てんごくとじごくどちらかをたずさえてくる
- 421 : 実に興味深い :2003/05/25(日) 13:16 ↓
- >>413当時の朝鮮人に、このことがどのように伝わったのかをろくに検証せず、
ただ、日本に来るのは非合理だと(w
「罪の無い朝鮮人が6000人殺された」という情報は日本人すらきちんと知っていたのですかねぇ(w
- 422 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 13:45 ↑
- http://ex.2ch.net/test/read.cgi/korea/1044081217/4-23
――関東大震災と朝鮮人――――――――――――――――――――――
関東大震災で朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだなどのデマが広まり6、7千人の朝鮮人が虐殺されたとされていますが…
【死者数】
『 死者数の調査は当然さまざまな調査で食い違いが見られるのだが、
死者数は当時の
・内務省調査で400−600人
・新聞記事の総数で1400人
震災の数年後やってきた
・朝鮮人の調査で6400人
それでこの6000人って数字だけが一人歩きしているのさ。どこを見てもわかるのだが軍隊、警察は朝鮮人を保護
する方向で働いている。デマを作った(?)のは新聞。朝鮮人を殺したのは民間の自警団。ただし震災に乗じて不穏な
活動をしていた朝鮮人がいたのも事実ワシは自業自得だと思うがのお。あ、ここで書いた死者数ってのは虐殺された
朝鮮人ね、震災死は入っているかどうか知らんけどねあと、当時、関東にいた朝鮮人は2万人程度だって左翼本です
ら書いているよ。2万のうち6000人殺されたらどうなるよ? 』『奇っ怪な事に、関東大震災の時に虐待を目撃した
のは、在日コリアだけなのですよ。当時、日本人も、在日台湾人も、中国からの留学生たちも、目撃しておらぬのですよ。
(しかも、証言者する在日コリアは,仮名を使用している)当時の警察関係者の話によれば、「混乱を恐れ、我々が真っ
先に朝鮮人を保護したのだから、そんな馬鹿な事がある筈がない」との事。まあ、戦前も戦後同様、不良朝鮮人犯罪が横
行し、朝鮮人に対する評判が極めて悪かった事は事実ですがね。韓国には「恨(ハン)」と呼ばれる気質がありましてな。
彼らは、例え自分側に原因があろうと、受けた恨みは永遠に語り継ぐと言う伝統がござる。無論、その恨みを語り継ぐに
は、誇張や湾曲や虚実を混ぜる事も必要となる訳で。』
【姜徳相(滋賀県立大学教授)】
『「関東大震災」(1975.11 中公新書)。この本の著者・姜徳相(滋賀県立大学教授)は、関東大震災に関するコリアン
の「最高権威」視されている姜徳相でありまして、この者が「軍隊・警察が朝鮮人を大虐殺した」とデマ工作を働いて来た
中心人物だと言っても間違いありません。』『姜徳相は、歴史の改竄・歪曲・捏造の第一人者です。「関東大震災」は、
その典型といったところで、原資料の歪曲、摩り替え、改竄のオンパレードですね。他でも、姜は「事実この時期(関東
大震災時)の治安責任者だった水野練太郎(注、内相)、赤池濃(警視総監)、石光真臣(第一師団長)のトリオはすべて
3.1独立運動(大正8年)の時に朝鮮で鎮圧に当たった現場の指揮官である」(関東大震災七〇周年記念行事実行委員会
編「この歴史永遠に忘れず」p143)と言っていますがこれは実は大嘘。まず、前記の3.1暴動ですが発生したのは
大正8年3〜4月でした。一方、震災当時の水野内相ですが、彼が朝鮮総督府政務総監に起用されたのは、事態が鎮定
された後の9月です。就任当日、斉藤新総督と共に爆弾テロに襲われた水野総監ですが、にも関らずハングル新聞の発行
や結社の自由を認める等、政治的自由の拡大を断行した人物でした。』『姜は、他でも資料集(姜徳相・琴秉洞編「関東
大震災と朝鮮人」1963・みすず書房)でも、水野内相談話を改竄しております。一体誰が、こんなデマ屋に滋賀県立教授
なんて地位をくれてやったのでしょうか?姜を知る、ある拉致問題の専門家は、呆れ顔で「お話にならない」という風に
だけ評していました。』(全てコピペ)
- 423 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 14:45 ↓
- 日曜日の昼間っから皆さん元気ですね。
- 424 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 15:00 ↓
- コピペおおすぎ
- 425 : 卑怯な鮮人及び左翼工作員 :2003/05/25(日) 16:34 ↑
- 【鮮人】『大日本史番外編 朝鮮』閉鎖!?【隠蔽】
1 :いいかげんにしてくださいよぼ :03/05/17 04:51 ID:xcrcRW00
知ってる人は知っている、2chから誕生した
ネット屈指の朝鮮資料『大日本史番外編 朝鮮の巻』。
博識な無名古老「ぢぢ」氏の語りに、膨大な文献資料による
近代日本と朝鮮との歴史的関わりが詳細に綴られ、
巷に跋扈する鮮人や左翼工作員達による捏造の実態をも
徹底的に暴き、多くの者の目を啓かせた。
しかし、それ故に真実を知られることを恐れた一部の反日工作員は、
ついにサイト消滅を画策し、それは現実となった。
我々心ある有志は、この貴重なサイトの復活・維持に努めなければならない。
補足はよろしく。
8 : :03/05/17 05:01 ID:HRWcMXVn
あのサイトは単なる誹謗中傷ではなく、真実の羅列だから真っ先
に攻撃されたんだろうな。あのサイトを日本人全員が読んだら
在日はおしまいだからだ。あのサイトをバックアップしてる奴は
おらんか?
http://ex.2ch.net/test/read.cgi/korea/1053114685/
- 426 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 16:35 ↑
11 : :03/05/17 05:02 ID:HRWcMXVn
あのサイトからコピペすると反応は捨て台詞ばかりで反論は
全く無かった。つまりあのサイトが真実のみを載せていた
証拠。
- 427 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 16:38 ↑
- ↑表現の自由を侵しているな。ほんとに鮮人及び左翼工作員は、最低だな。
- 428 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 16:39 ↑
- こんなことやっても無駄なのにな。
インターネットが普及し、社会が成熟すれば、必ず真実は暴かれる。
- 429 : 名も無き筑波大生 :2003/05/25(日) 22:00 ↓
- あげ続け、自作自演を繰り返している奴、どうしようもないな。
一連の流れを読ませてもらったが、論理の破綻、本質から逃げ、自分の意見0
そして、ひたすらコピペ転載・・・
確かに、今のマスコミだけでは本当の韓国・在日の実態は明らかにならないが、
お前のように支離滅裂な人間がやっても、かえって不評を買うだけだよ。
ついでに>>427
よく分からないが、根拠も無いのに朝鮮人および左翼工作員がやったとするのは・・・
- 430 : 実に興味深い :2003/05/26(月) 01:50 ↓
- >>422このコピペはあなたの敗北宣言ですね。(w
>>387で捏造という形でコメントし、それがおかしいと指摘されたら、
今度は死者の数について話をそらして、議論から逃げようとしています。(自分から仕掛けたくせにw)
「関東大震災のデマで多数の無実の朝鮮人を殺害した事実」はなんら変わりませんね(w
- 431 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 05:35 ↑
- まあ、結局どの時代も「自国の利益」にかなう行動を取っただけなんだよな
第二次世界大戦前夜も、第二次世界大戦後もそうだ
日本がインドの独立を支援したのも「自国の利益=正義」の為だ
だが、インド人にとっては日本の思惑などどうでも良い
独立できたんだから
外国の人が「大日本帝国」を評価するのは単に結果論にすぎないと思う
つまり、引っかき回してくれたから独立が早くなったと言うことだな
有る意味「大日本帝国」の統治が白人のそれと同じだけ続けば評価も激変すると思う
歴史的に見れば「台風」のように駆け抜けてくれたから「+評価」してくれる人が
居るんだなと思うが・・・
- 432 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 05:36 ↑
- 何というか・・・
「当時」の国際的情勢とかに照らし合わせると
「大日本帝国」って「特別に非道な存在」だったのか?
「大日本帝国」のやっていたと言われる「非道な行い」って
亜細亜で欧羅巴陣営が良くやっていたことではないのか?
たった一つ違うことと言えば
「大日本帝国」はボロ負けして
「何も言えない」状態になってしまった
戦勝国陣営は
勝者となり、「原爆投下」という「特別に非人道的な行為」
すら合法にしてしまったと言うこと
まあ「現在」の「道徳」というかそう言うモノに照らし合わせると
「大日本帝国」も「戦勝国」も「非道な行い」については
大差ないという気がしないでもない
現在の「状況」だって
世界政府と造って「スペースコロニー」で生まれて人生を終える時代になれば
滅茶苦茶「理不尽で非人道的」なんではないか?
- 433 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 05:37 ↑
- 1941年、それは日本が軍国主義の侵略国と呼ばれ、「悪」の烙印を米英に押されていた頃である。
1941年4月、イギリスはスエズの背後地を拡大する共に、枢軸軍の分散を計り、かつ枢軸勢力の東進を阻止しながら油田等の軍需資源を壟断せんがため、
油田管理権を獲得すべき唐突な言いがかりをつけて、イラクに向かって強圧した。イラクは、ドイツを背景としてイギリスの要求を拒絶し、
かつ民衆による反英騒擾を展開したので、イギリスは4月中旬インド部隊をバスラに派遣した。イラクは、イギリス軍とイギリス輸送船の撤退を要求し、
5月2日には、バグダッド西方百キロのハバニャにあるイギリス空軍基地を包囲して攻撃を加え始めると共に、3日には、イギリスの送油管を切断し、ケルククその他の給油所を占領した。
イギリス軍は、開戦当初は戦闘員が欠乏していて不利であったが、その後救援軍が続々到来したので、戦況は全く逆転し、またイラク軍は、装備が貧弱であるということのほかに、
寝返る部隊もあるというわけで、次第にその抗戦力を喪失し、5月31日には、イギリス軍に休戦を申し込んだ。
で、イギリス軍は、イラク制圧により、スエズの背後地を新たに付加するとともにインドの防衛を固くし、併せてトルコに対する態勢を整えたばかりか、
イラクの豊富な石油資源も自己の傘下に収め、将来枢軸軍に渡るかも知れぬという危険を予め防止したといえる。
このようなことをする国に「日本・ドイツは悪」と言う資格があるであろうか!
- 434 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 05:38 ↑
- 1941年5月、すなわち真珠湾攻撃の7ヶ月前に米軍はすでに日本爆撃の準備を整えていた。
この爆撃案の立案者であるロークリン・カリー大統領補佐官(当時)は、ソ連のスパイだった。
ハルノートは、ハル国務長官が作ったものではなかった。ハルノートを作成したのは財務次官ハリ
ー・デクスター・ホワイトであるが、こいつもソ連のスパイだった。
さらにホワイトは、は41年に成立したソ連と中国への米軍事支援を合法化した武器貸与法を強く推進したことがわかっている。
- 435 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 05:39 ↑
- 同盟国イギリスが窮地に立っているとき、ルーズベルトはなんとかして英国側にたって参戦したかった。
ルーズベルトの閣僚で、最も信任の厚かった、財務長官ヘンリー・モーゲンソーは日本を挑発し、日米開戦を理由にドイツに宣戦布告するべきと答えた。
このヘンリー・モーゲンソーはユダヤ人である。ナチスに迫害されている同胞を救いたい一心であった。
しかし、このヘンリー・モーゲンソーの周りに暗躍していたのがソ連のスパイである。
その中にはソ連のスパイである財務次官ハリ ー・デクスター・ホワイトがいた。
- 436 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 05:39 ↑
- 見方を変えれば日本帝国が「びんのフタ」の役割をしてアジアに共産主義が
拡大するのを防いでいたのも事実。
しかし、日本帝国が滅んで権力の空白状態が生じるや、共産主義が疫病のように全アジアに広まった。
中国、北朝鮮、カンボジアなど。
この共産主義禍でアジア全体で六千万人くらい無実の、普通の人々が殺されたんじゃないかな?
79は日本帝国主義とソ連共産主義をともに歴史の教訓とはせずに、優劣をつけている時点でDQN認定だと思うが
- 437 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 05:41 ↑
- 米国 アメリカン大学のリチャード・ブライトマン教授
「チャーチルは41年9月には(ユダヤ人の)大虐殺の事実を知っていたが、
42年12月、米英両政府がホロコーストについての共同声明を出すまで1年以上も黙認していた」
この発言に対し、英国ホロコースト教育財団会長のブラウンストン・ジャナー卿は
「そんなことはありえない。百歩譲ってそういう事実があったとしても、戦争の真っただ中こうしたユダヤ人を救出できるのは
国際赤十字であって英国ではなかった」
と答えた。それを聞いてブライトマン教授
「結局、英政府は反ユダヤだったんですよ。
もっと早く公表していればルーマニアやブルガリアのユダヤ人はホロコーストに遭わなくて済んだ」
- 438 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 05:42 ↑
- 中国共産党 ケ小平
「日本は中国を助けたことになっている。
・・日本が蒋介石を重慶まで押し下げてくれたので、我々は日本軍の占領地域の後方に広がった。
・・皆さん(日本)だけ責めるのは不公平だと思う。」
(『中国との友好交流二十年の感想』、三岡健次郎、平成七年、中国政経懇談会)より
- 439 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 05:42 ↑
- 「中国共産党の主たる関心は、
日本軍の攻撃によって国民政府軍が撤退したあとの地域を占領することにあったので、
毛沢東や周恩来などの中国共産党指導者たちが、日本軍との戦争に関心を持っていないことを、私は知った。」
米陸軍ウェデマイヤー将軍著『第二次大戦に勝者なし』より
- 440 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 05:43 ↑
- 「韓国は大東亜戦争では日本とともに、いや日本人として参戦した戦犯国であるというならば話はわかるが、被害者というのは事実ではない。
私たちの先祖は大東亜戦争で日本の勝利に喜んだし、アメリカの侵略に憤慨した。」
キム・ワンソプ著 親日派のための弁明より
- 441 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 05:43 ↑
- 「醜い韓国人」 朴泰赫 1993年 光文社
太平洋戦争前に、ソ連のシベリア沿海州に30万人以上の韓国人が住んでいた。
ところが、スターリンがこれらの韓国人が日ソ戦争が起こった場合に日本に協力することを恐れて、中央アジアへ強制移住させた。
スターリンは妄想にとらわれた暴君だった。カザフ科学アカデミー朝鮮民族センターの調査によると、移住する過程で12万人が死んだ。
だが、政府も、マスコミも、ロシアに対して抗議の声をあげることがまったくなく、友好的である。
- 442 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 05:44 ↑
- 元米国司法長官ロバート・ケネディ(ジョン・F・ケネディの実弟)
キューバ危機時の国家安全保障会議執行委員会において、ケネディ弟がケネディ兄(大統領)に渡したメモより
「真珠湾奇襲を決断した時の、東条首相の気持ちがよく分かる」
1962年10月、親ソ国家のキューバにソ連の核ミサイルが運び込まれた。ジョン・F・ケネディはただちに閣僚会議を開いた。
意見は空爆による先制攻撃案が優勢だった。北半球にソ連の核ミサイル基地を置くことは、アメリカにとって決して受け入れられるものではなかったのである。
1941年、ハルノートで日本に戦争か降伏かを突きつけたアメリカは、その20年後、戦争か降伏かを選ばされる立場にたたされたのだった。
ケネディ大統領が秘密録音していた会議記録「ケネディ・テープ」によると、21回の会議で「パールハーバー」という言葉が13回、出席者の口から出ている。
ケネディ政権の閣僚たちは、キューバ危機において自分たちの立場が日米戦争前夜の日本と同じ立場であることを理解せざるを得なかったのである。
- 443 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 05:45 ↑
- WW2中、海軍少佐ジャックはナチスのスパイと肉体関係を持ち、軍の機密を流していた。
ジャックは戦後、アメリカ大統領にあった。
すなわちジョン・F・ケネディである。
FBI長官フーバーは「新しいアメリカ」を作ろうとするリベラル派のケネディとは犬猿の仲であった。
ケネディは古きアメリカの化身であるフーバーを更迭しようとした。
しかし、フーバーはジャックと女スパイの関係を知っていた。
そして、フーバーが自分の秘密を知っていることをケネディは知ってこう言った。
「神様は首にできない・・・」
- 444 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 05:46 ↑
- ジョン・F・ケネディ
「リンカーンに南北戦争がなかったら、誰がリンカーンの名を覚えていただろうか」
ケネディは平和主義者と思われているが、実は相当な野心家でもあり、戦争で勝利して英雄になりたかった。
これは、ケネディがもっとも偉大な人物として尊敬するチャーチルがそのような野心家でもあったことを考慮すると少し納得できる話である。
ウィンストン・チャーチル
「ナポレオンを破ったピットになりたい」
WW2があれほどの泥沼になってしまったのは、連合国側にも問題がある。
ドイツはイギリスに、日本はシナに講和を求めていた。
イギリスとシナは講和に応じなかったのである。
さらに日中戦争があれほど広範囲が戦場になってしまったのは、満州事変のように上手く行くと思ったからだった。
しかし、その案を応援し、世論を操っていた朝日新聞の尾崎秀実はソ連のスパイだったのである。
- 445 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 05:47 ↑
- 何十万人という国民がナチスに寝返ってしまうほど酷かったソ連はまさに悪の帝国である。
アンドレ・アンドレヴィッチ・ウラソフ中将
「同志指揮官諸君!
同志ソヴィエト・インテリ諸君!
私アンドレ・アンドレヴィッチ・ウラソフ中将は、もとソ連第2突撃軍司令官兼ウォルホフ戦
正面軍総司令官代行―今はドイツの俘虜16901号である。
今回の戦争におけるわが国民のいうにいわれぬ苦しみを見、わが軍事的失敗を痛感すれば、責
任者は誰かと疑問が生じるのは当然であろう。
戦前の12ないし15年を回顧するなら、おのずと結論は出る。スターリン一味に全ての責任
はあるのだ。スターリンらはコルホーズシステムによって国土を荒廃させ、実直な数百万人を
破滅させ、1937年より38年にかけ軍の基幹を殺し、その冒険的政策により国益と関係な
き無意味な戦いを引き起こした。いま大衆の支持を失い、行政機関は崩壊し、経済は壊滅して、
彼らは国を滅ぼさんとしつつある。ドイツ軍はクリミヤを占領し、わが南西戦線を蹂躙して、
ヴォルガまで進出し、さしたる抵抗にも会わず、北カフカスを手中に収めた・・・
前線での将校の立場に希望は無い。スターリン一味は、彼らに失敗の責任をかぶせ、しかも彼
らの行動は、政治委員、政治部、NKWD(内務人民委員部)に拘束されているが、そういった連
中は軍事のことは何も知らぬ・・・」
- 446 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 05:47 ↑
- 故国では全き混沌と史上類を見ぬ崩壊が進みつつある・・・。
スターリン一味はイギリス、アメリカの援助とそこに生じるべき第2戦線に頼っている。
諸君の大半はイギリスとアメリカの政策を知っていよう―最後の一兵までロシアを戦わせ
て火中の栗を拾わせ、ドイツをロシア人によって消耗させ、その代わりにいいかげんな第
2戦線を約束するだけなのだ。
歴史をかえりみてみよ!
ロシア人民が英米の利益のために流されるのは、これが初めてではない!
スターリン一味が祖国を追い込んだ袋小路から、いかなる出口があるか?
ひとつだけある・・・。いまだ祖国を愛する者、幸福な国民を見たいと念ず
る者は、全力を挙げ手段を尽くして、万人に憎まれるスターリン体制の打
倒に努めなくてはならぬ。反スターリンの新政府を樹立し、英米の利益に
奉仕する犯罪的戦争を終え、ドイツと名誉ある和平を結ばなくてはならぬ。
それは諸君次第なのだ!
- 447 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 05:49 ↑
- ドイツ ベルリン自由大学ヴィッパーマン教授
「日本について私が理解できないことがあります。コリアンの強制売春の問題です。日本ではそれが大問題となり、コリアンに対して公式に謝罪が行われました。ドイツでは議論はありません。
これはアジア文化と結びついているんでしょう。あるいは
コ リ ア ン の 圧 力 団 体 が あ る の で し ょ う
戦争においては、これはまったくふつうのことです。例えば、フランスの軍隊も売春宿や売春婦をもちろん持っていました。
そうでなければ兵士達はホモになったでしょう。私はこの問題を理解できません」
- 448 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 05:49 ↑
- 呉善花 「反日韓国に未来はない」
「私は韓国で生まれて二十六歳まで韓国で生活していた間、村の女を軍や総督府の官憲が強制的に連行したといった話はいっさい耳にしたことがありません。
また、私が『生活者の日本統治時代』で、インタビューした植民地世代の韓国人の誰一人として、そのような光景を見たことも聞いたこともないといっていますにもかかわらず、最近になってそうした話が出るなんて、まったくおかしなことだというしかありません。
日本の左翼活動家が反日民族主義の活動家に入れ知恵して以来、「そういうことがあったらしい」「そういうことがあったに違いない」「そういうことが事実あった」というようにエスカレートしていったことは明らかです。
こうして「従軍慰安婦」問題は、女子挺身他(女性の徴用者たち)と意図的に混同させられ、
大量の女たちが「従軍慰安婦」させられた、強制連行でそうさせられた、という物語がつくられ、それがあたかも真実であるかのように韓国国内で信じられるまでになってしまったのです」
- 449 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 05:50 ↑
米国雑誌 ニューズウィーク日本版2000年4月12日号より
「殺されたのは女や子供ばかりだ。共産主義者なんかであるわけがない」と、チャウは言う。
「 韓 国 人 は 人 間 じ ゃ な い 。
目の前に現れたら、首を切り落としてやる」
ベトナムで虐殺行為を犯したのは、韓国軍だけではない。
アンリン郡から海岸沿いに北へ向かえば、68年に米軍部隊が500人以上の村人を虐殺したクアンガイ省ソンミ村がある。
それでも戦争体験をもつフーイェン省の村人の間では、米兵の評判は必ずしも悪くない。
地方公務員のファム・トゥ・サン(47)は66年のテト(旧正月)のとき、米兵と一緒に遊んだりチューインガムやキャンディーをもらったことを今も覚えている。
だが米軍はこの年、フーイェンから引き揚げ、代わって韓国軍がやって来た。
それから「67年のテトを迎えるまで、韓国軍は殺戮を続けていた」と、サンは語る。
「韓国兵に会ったら、死に出会ったも同然だった」と、
今は地元の退役軍人会の会長を務めているチャムも言う。
アンリン郡の村人によれば、韓国軍はとりわけ女性にとって恐怖の的だった。
韓国兵は残忍なやり方で女性をレイプしてから、殺すケースが多かったからだ。
- 450 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 05:50 ↑
- 大東亜戦争が正義と信じていた外国人はたくさんいる。それは当時は日本国籍だった朝鮮人である。
この志願率の高さを見よ。戦前の朝鮮人こそまさに大東亜戦争肯定派外国人である。
志願兵(朝鮮)
陸軍特別志願兵制(昭和13年4月実施)
海軍特別志願兵制(昭和18年10月実施)
学徒兵徴募(昭和18年10月実施)
における朝鮮人の志願状況
年度 採用数 応募数 倍率
昭和13年 406 2,946 7.7
昭和14年 613 12,348 20.1
昭和15年 3,060 84,443 27.6
昭和16年 3,208 144,743 45.1
昭和17年 4,077 254,273 62.4
昭和18年 6,300 303,394 48.2
徴兵(朝鮮)
昭和19年4月から開始
徴兵された人数 242,341
戦死者 2,2182
- 451 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 05:51 ↑
- 日本軍は朝鮮人を強制連行したと言われている。その説が世の中に出たのは「朝鮮人強制連行の記録」といわれている。
朴慶植 「朝鮮人強制連行の記録」に引用された「朝鮮新話」の一部分 P,70
「もつともひどいのは労務の徴用である。戦争が次第に苛烈になるにしたがつて、朝鮮にも志願兵制度しかれる一方、労務徴用者の割り当てが相当厳しくなつて来た。
納得の上で応募させてゐたのでは、その予定数に仲々達しない。そこで郡とか面(村)とかの労務係が深夜や早暁、突如男手のある家の寝込みを襲ひ、
或ひは田畑で働いてゐる最中に、トラックを廻して何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込み、その責を果たすといふ乱暴なことをした。」
しかし、この朴慶植は北朝鮮の工作員であり、彼が引用した「朝鮮新話」にはこう書いてある。
(略)トラックを廻して何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込み、その責を果たすといふ乱暴なことをした。
但(ただ)総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、上司の鼻息を窺ふ朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやつてのけたのである。
この通り、朝鮮人をトラックで強制連行したのは朝鮮人自身なのである。
朝鮮人の言うことはデタラメばかりである。
朝鮮人は日本人の671倍嘘つきである。
朝鮮人こそ旧日本軍の悪行の張本人なのである。
- 452 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 05:52 ↑
- ロシア革命はユダヤ人が起こした。
レーニン、トロツキーら中心人物はみんなユダヤ人である。
しかし、スターリンはロシア人であった。(長年グルジア人と思われていたが、ソ連崩壊によってスターリンがロシア人という証拠が見つかった)
スターリンは帝政ロシアのスパイであった。(ソ連崩壊によってスパイである証拠が見つかった)
もともとロシアはユダヤ虐殺の本場で、レーニンはロシア文化を破壊しまくり、ロシア人のアイデンティティーを奪おうとした。
ロシア人が自らをロシア人と意識するとユダヤが弾圧されるからである。
しかし、スターリンが政権を取ると、トロツキーらユダヤ・ボリシェビキは粛清され、ソ連の幹部はユダヤ人からロシア人に代わった。
現在のロシアでレーニンが伝統破壊者扱いなのに、スターリンは英雄とされているのは、ロシア人がただ単にユダヤを嫌っているだけである。
ソ連もナチスも結局は反ユダヤなのであった。
- 453 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 05:55 ↑
- これこそ公平な歴史観である。
シンガポール
ゴー・チョクトン 首相
「日本軍の占領は残酷なものであった。しかし日本軍の緒戦の勝利により欧米のアジア支配は粉砕され、アジア人は自分たちも欧米人に負けないという自信を持った。日本の敗戦後15年以内にアジアの植民地は全て解放された。」(「諸君!」平成5年7月号)
- 454 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 05:56 ↑
- 興亜院政務部興亜資料政治篇「盧溝橋事件に対するコミンテルン指令」
「あくまで局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かなければならぬ。
日本への譲歩に依(よ)って、支那の解放運動を裏切ろうとする(中国人)要人を抹殺(まっさつ)してもよい。
下層民衆階級に工作し、・・・・国民政府をして戦争開始のやむなきにたち到らしめなければならぬ。
党(中国共産党)は対日ボイコットを全支那的に拡大しなければならぬ。紅軍は国民政府と協力する一方パルチザン的行動にでなけらばならぬ。」
- 455 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 05:56 ↑
- 元パリ・マッチ特派員アルフレッド・スムラー著「日本は誤解されている」日本教文社・昭和六十三年・119ページ
「別に日本人戦犯の責任を軽減するつもりは毛頭ないが、占領地域で最も嫌われていたのは、このころ
日 本 国 籍 を 持 っ て い た 朝 鮮 人 だ っ た
ことに注意しておかなければならない」
- 456 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 05:57 ↑
「香港占領期間中、多くの朝鮮人が日本の軍服を着ていたが、一般の日本人よりも背が高く、日本の正規軍よりももっと凶暴だった。
このとき民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、ほとんど日本人の手先となって悪事を働いていた
朝 鮮 人 であった。
当時香港住民は日本軍に対するよりももっと激しい憎悪の念を彼らに抱いた」
『日本軍は香港で何をしたか』 著者:謝永光(日本軍による香港占領を体験した鍼灸医)より
- 457 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 05:57 ↑
- オランダ
サンティン・アムステルダム市長 現内務大臣
「本当に悪いのは侵略して権力を振るっていた西欧人の方です。日本は敗戦したが、その東亜の解放は実現した。
即ち日本軍は戦勝国の全てを東亜から追放して終わった。その結果、アジア諸民族は各々独立を達成した。
日本の功績は偉大であり、血を流して闘ったあなた方こそ最高の功労者です。自分をさげすむことを止め、
その誇りを取り戻すべきであります。」
(1985年日本側傷痍軍人会代表団がオランダを訪問した時、行われた市長主催の親善パーティの歓迎挨拶)
- 458 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 05:58 ↑
- スリランカ
J・R・ジャヤワルダナ 大統領
「往時、アジア諸民族の中で日本のみが強力且つ自由であってアジア諸民族は日本を守護者且つ友邦として仰ぎ見た。
当時、アジア共栄のスローガンは従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちの中には
最愛の祖国が解放されることを希望して日本に協力した者がいたのである。」
(1951年、サンフランシスコ対日講和会議演説)
- 459 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 05:58 ↑
- 現在アメリカでは、第二次世界大戦の見直しが行われている真っ最中である。
大東亜戦争の原因がルーズベルト政権の挑発行為にあったことが一次資料の公開によって明らかになり、
アメリカの正義を信じていた米国議員たちはショックを隠し切れない。
しかし米国と韓国の決定的な違いは、米国は自らの恥を白面にさらし、そのことを反省できるという点である。
米国下院、共和党D・ショート議員の演説('94・11・28)
「真珠湾攻撃に関する全てのいきさつと真実が語られ、白日の下に曝け出されるならば、
米国々民は衝撃を受け、激怒し、かつ悲嘆にくれるだろう。
彼等(米国民)の心は深い悲しみに包まれ、激しく傷つけられるだろう」
- 460 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 09:14 ↓
- みんなひまだね
- 461 : 実に興味深い :2003/05/26(月) 11:43 ↓
- あらあら>>430に反論できずコピペでごまかしですか(w
ますますドツボにはまっていく>>1さん、本当に楽しませてもらっています。
そろそろ「考える力」を身に付けたほうがよろしいかと(w
- 462 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 16:20 ↑
- >>461
最初に言っておくが、俺は>>1じゃない。
それから、あのまま進行したのは、>>422が結論だからだ。
内閣府が発表した程度、虐殺されただろう。
しかし、そこに書いてあるように、後の朝鮮人が、デマで
殺された人数を多くしたし、震災に乗じて不穏な
活動をしていた朝鮮人がいたから自業自得だろう。
戦後のどさくさにまぎれて、駅前の土地を占拠するような
モラルのない朝鮮人なら、殺されてしかるべき活動をしていた奴も
大勢いただろう。
口で言ってもわからない奴には、手で叩くしかないだろうよ。
- 463 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 16:37 ↓
- すげーな。
数百人殺しておいて「自業自得」かよ(w
さすがアジアの盟主だ。
- 464 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 16:38 ↑
- すげーだろ。
- 465 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 16:39 ↑
- 朝鮮戦争とベトナム戦争と済州島での虐殺での虐殺には負けるけどな。
少し前まで、軍事国家だった国とは、今は負けるけどな。そんな野蛮な国とはな。
- 466 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 16:41 ↑
- 朝鮮人は殺してしかるべきことをしてたんだから、仕方ないだろう。
- 467 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 16:42 ↑
- 今の日本で朝鮮から被っている被害を考えると、ご先祖様は、よくやってくれたって感じだよ。
- 468 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 16:49 ↓
- すげーな。
戦争での虐殺と震災時の虐殺を比べるとは(w
>ご先祖様は、よくやってくれた
ご先祖様による虐殺のおかげで、朝鮮が日本に文句をいう口実が増えただけなわけだが・・・。
- 469 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 16:57 ↑
- >>468
じゃ、お前が朝鮮に対し、子孫として謝ればいいだろう。
あの帝国主義時代という時代背景、それから、今以上に朝鮮人と日本人の
モラルの違いを考慮すれば、ある意味、自衛行為と言えなくはない。
今の感覚で言えば、ひどい話だと思うだろうがな。
- 470 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 17:03 ↑
- あの帝国主義時代という時代背景、それから、今以上に朝鮮人と日本人の
モラルの違いがあることを考慮すれば、ある意味、自衛行為と言えなくはない。
- 471 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 17:03 ↓
- そりゃそうだよな。「時代背景」や「モラルの違い」を考慮すれば
>朝鮮戦争とベトナム戦争と済州島での虐殺での虐殺
だって「ひどい話」じゃないもんな。
- 472 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 17:05 ↑
- ああ、モラルの違いを考慮すれば、朝鮮人は日本人に虐殺されてしかるべきだよな。
ひどい話じゃないし。
- 473 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 17:05 ↑
- 朝鮮人は日本人に虐殺されてしかるべき。
- 474 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 17:06 ↑
- 俺は、朝鮮人なんか大嫌いだよ。日本から出て行けっていつも思ってるよ。
- 475 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 17:07 ↑
- なんで嫌いなのか、理由なんか山ほどある。
一言で言えば、モラルが違いすぎるんだよ。朝鮮と日本は。
- 476 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 17:09 ↑
- とにかく>>422が結論だ。
そういう虐殺があったとしても素直に何百人殺されたと言えばいいものを、
6000とか数字を増やすようなデマを飛ばすところも嫌いだ。
そんなことされれば、謝る気もなくなるね。
朝鮮も韓国も大嫌いだよ。日本に関わるなと言いたい。
- 477 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 17:10 ↑
- もう、この話は終わりだ。もう、この話はしない。>>422が結論だ。
- 478 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 17:14 ↓
- だから自分の大学の教官の本ぐらい読みなさい
- 479 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 17:18 ↓
- メール欄「age」の人は落ち着いて1回で書き込んでください。
- 480 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 17:49 ↑
- 朝鮮は、日本のおかげで近代化できたのに、恩を仇で返す最低の国。
- 481 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 17:52
- そうなるとわからなかった日本がバカなんだよ。
- 482 : 実に興味深い :2003/05/26(月) 18:54 ↓
- いやぁ〜、退屈でくだらないコピペ本当にお疲れ様でした。(誰も読まないけどねw)
あなたがなぜ朝鮮人を嫌うのか、よく分かりました。
同時になぜあなたが、このスレで弄ばれているのかも分かる書き込みですね。(w
- 483 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 19:34 ↓
- ageで書き込んでる奴本当に駄目駄目だな。
最初は、まっとうな感覚でコピペ啓蒙しようという意図が感じ取れたが、
論理が破綻した最後は、「ただ朝鮮人を嫌い・差別している人」の書き込みになってしまったな。
もう少し、論理を勉強した方がいいな。スゲェ残念。
ここ見てる奴はこの程度のことは知っててコピペ君を遊んでるのだろう。
- 484 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:02
- >>482
なぜ嫌うのか、とは、まだ具体的には説明してないのだが。
わかったんかな?
>>483
論理を勉強って、、ワロタ
言葉だけでは、何とでも言えるよね。
- 485 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:03
- 随分と抽象的な言葉を持ち出すよな。論理って。
- 486 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:05
- 朝鮮人を嫌い・差別している人
というのは簡単だ。
なぜ、嫌われるのか?なぜ差別されてるのか?考えもせずレッテルを貼るのか。
スゲェ残念だ。
- 487 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:09
- >>483
この程度のことは、知ってるのなら、
皆が知らない観点から語れよ。
なんだ、口だけか。
- 488 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:09
- >>482
読まないなら、批判はできない。
読んで、内容を理解してこそ、批判ができる。
所詮、レッテル貼りだな。
- 489 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:13 ↓
- どうでもいいけど、ようするにかいつまんで話すだけの、
知性がないということは良くわかったよ
- 490 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:14
- >>489
じゃあ、かいつまんで話すほどの知性を君に見せてもらおうか。
- 491 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:17
- >>482
読まないじゃないだろ。読めないんだろw
- 492 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:17 ↓
- >>475は具体的な理由の一つなのでは?
「モラルの違い」って。
- 493 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:18 ↓
- あ、また。メール欄空白の人、言いたいことは1レスにまとめましょうよ。
- 494 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:19
- >>492
モラルの違いでは説明になってない。
何のどういうモラルが違うのかまで言ってないしね。
- 495 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:20
- まずさ、このスレは>>1からして差別を助長する物ではないはずだ
朝鮮人に差別的な表現を使うのは止めようぜ?
それで対立みたいな雰囲気が出来てるがそれは無駄な議論だと思う。
- 496 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:20
- >>493
貴様に、そんなことを言われる筋合いはない。
- 497 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:21
- 朝鮮人がこのスレに来るからだ。
朝鮮人がこのスレに来なければいい。
- 498 : 実に興味深い :2003/05/26(月) 20:24 ↓
- 本当に駄スレですね。論理的じゃないといわれて意味がわかっているのかな。(w
時間の浪費と知っていても、ここまで彼を大物に育てた私としてはどうしても相手にしたくなってしまう。
彼は本当に頭悪いんだなぁ、というのが感想です。君、学類は?年次は?
- 499 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:25
- >>497
君ねそう言う考えはよくないよ、なにがよくないってまず人種差別自体アレだが
そうでなくとも時代にそぐわない
- 500 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:26 ↓
- 正直、で何が言いたいの?と問いたい。かいつまんでどうぞ。
何か主張をするときはラブレターと書くように・・・
相手にきちんと考えが伝わるように文章を書くのは、最低限守るべき常識です
- 501 : 実に興味深い :2003/05/26(月) 20:27 ↓
- >>499さん、ここは下げましょう。あげているのは彼だけなんですよ。(w
- 502 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:27
- >>498
貴様に、そこまで説明する義理はない。
貴様に、育てられた覚えはない。
- 503 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:28
- >>501
なぜ下げるのか説明してもらおうか?
それから(wは、馬鹿みたいだから、やめろと言っただろ。しかも全角で。
恥ずかしくないのか?
- 504 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:29 ↓
- ありません
- 505 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:29
- >>498
人を頭が悪いと判断できるのだから、貴様は相当頭がよいのだろうな。
- 506 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:30 ↓
- /;:;:;:;:;:;:ミミ;:;:;:;:;:;:;:;:;:;`、
/;:;:;:;:彡―ー-、_;:;:;:;:;:;:;:;|
|;:;:;:ノ、 `、;;:;:;:;:;:i
|;:/_ヽ ,,,,,,,,,, |;:;:;:;:;:;! < ちょ、ちょっとまって、いま>>502が何か言った
| ' ゚ ''/ ┌。-、 |;:;:;:;:/ _.. ‐ァ=r‐''⌒゙二ニ二つ
|` ノ( ヽ ソ |ノ|/ _. -‐ '"´ l l r} } }l
_,-ー| /_` ”' \ ノ . -‐ ' "´ l ヽ 、 ヽ_ノノ
| : | )ヾ三ニヽ /ヽ、-‐ ' "´/`゙ ーァ' "´ ‐'"´ ヽ、`ーテヽJ
ヽ `、___,.-ー' | / / __.. -'-'"
| | \ / | l / . -‐ '"´
\ |___>< / ヽ
- 507 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:30
- どれだけ頭がいいのか、今ここで披露してもらおうか。
- 508 : 実に興味深い :2003/05/26(月) 20:31 ↓
- >>502ここまで「実に興味深い」というコテハンに対する反応を見てくださいよ。
あなたが、徐々に理性を失った差別主義者へ変貌する過程がしっかり観察できますよ(w
いや、化けの皮が剥がれたのかな(w
もともと意見0・論理も知性のかけらも無し。コピペけでしたからね。
- 509 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:31
- 貴様の頭のよさとやらが、見たいなぁ。
- 510 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:32
- >>508
なんだ、中傷だけか。それじゃ、頭のよさは、世間に示せないぞ。
- 511 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:32 ↓
, ,-;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:,.
\ /;:;:;:;:;:;:ミミ;:;:;:;:;:;:;:;:;:;`、 /
\ /;:;:;:;:彡―ー-、_;:;:;:;:;:;:;:;| /
|;:;:;:ノ、 `、;;:;:;:;:;:i
|;:/_ヽ ,,,,,,,,,, |;:;:;:;:;:;!
| ' ゚ ''/ ┌。-、 |;:;:;:;:/
|` ノ( ヽ ソ |ノ|/ ちょ、ちょっとまって、
| /_` ”' \ ノ いますぐに
| )ヾ三ニヽ / 証拠を探してくるから
,r----、___|`、___,.-ー'
( ,/¬--v ー-- \
/⌒ ( ] |丶 ̄ ̄ /丿 丿 ─
─ (_ _丿 ,ノ--v_\ ハ ノ ノ ─
─  ̄ ノ リ--─ー^ 八
〔 _,ノ′ヽ
,ノ'' ー--ー┘ ̄ ̄ ̄\ │
/ /  ̄\/\/ \ |
ノ /] |\ |\| \\
| / .| | ) ノ
|/′ | .| |---く
| | \ ]
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ノ ̄ ̄ ̄\
\___丿
- 512 : 実に興味深い :2003/05/26(月) 20:32 ↓
- >>509
今までのあなたの書き込みに対して、あなたがまともな返信ができていない時点で、
少なくてもあなたよ(以下略
- 513 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:33
- >>508
差別主義者というレッテル貼りか。
なぜ、差別されるのか理由も考えもしないのか。
- 514 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:34
- >>512
たかだか、インターネットでくだらない雑談してくらいで、
一体、何の頭のよさがわかるのか?いい気になるなよ。
- 515 : 実に興味深い :2003/05/26(月) 20:34 ↓
- >>513
あなたは自分自身が差別主義者ではないの言うのですね?
- 516 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:35
- >>512
なんだその(以下略ってのは、馬鹿か?貴様は。
- 517 : 実に興味深い :2003/05/26(月) 20:35 ↓
- >>514 雑談でもあなたの書き込みは酷すぎますよ(w
- 518 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:35 ↓
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◎●●●◎ ∧ ∧∧∧∧ ∧ .)∧ ∧クスクスクス
◎●ξξ●◎ ( ∧ ∧ ( ∧ ∧ ( ∧ ∧
◎●●●◎ 〜(_( ∧ ∧ __( ∧ ∧__( ∧ ∧クッ
__◎◎◎__ 〜(_( ∧ ∧_( ∧ ∧_( ∧ ∧
| 告別式会 | 〜(_( ,,)〜(__( ,,)〜(_( ,,)プププププ
/7 ̄ ̄ ̄ ̄ キヘ 〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
- 519 : 実に興味深い :2003/05/26(月) 20:35 ↓
- >>516あなたよりは(以下略
- 520 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:36
- >>515
差別主義者とは言ってないし、差別主義者でないとも言ってない。
じゃ、逆に聞くが、差別主義者の定義とは?
- 521 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:36 ↓
- 本来はさげるべきスレでもないけれど
ここまで差別的な人がいると板の雰囲気が悪くなりますからね。
しかし私は日本が朝鮮やアジアのためを思ってやって実際成果があったことも少なくない割合であったと
思います。
しかしだからといって侵略したり虐殺したことを「こちらから」差し引いて感謝しろとか
忘れろって事は無茶な話だと思います。
ただ朝鮮や中国などもそれをいいことに事実を捏造したりちょっとしつこすぎる嫌いがあるのも事実だと思います。
- 522 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:36 ↓
- 田原は勝手に出てきて勝手に死んじゃったよ・・・
- 523 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:36
- 貴様が差別主義者を定義しなければ、それに該当するかどうかはわからん。
- 524 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:38
- >>521
朝鮮に関しては、侵略ではないことぐらいは、わかってるよな。
- 525 : 実に興味深い :2003/05/26(月) 20:39 ↓
- あなたは朝鮮人を同じ人間として見ていると思えませんが・・・
- 526 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:39
- >>525
時と場合による
- 527 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:39 ↓
- ∩
| |
┌──────────────┐
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│ :::::::::::::::::::::::::;lllllllllllllllll;:;;llll::::::::::::::::::::::│<先生!こいつら直接会って戦わせた方がいいと思います
│ ::::::::::::::::::::::;lllllllllllllllllllllllll:::::::::::::::::::::::::│ \
│ :::::::::::::::::;;lll:::lllllllllllllllllll:::::::::::::::::::::::::::::│  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
├──────────────┤
│ __| | .| | │
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│ ||\ ヽ. |
│ ||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ̄ . |
│ || || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| . |
◎. || ||.. ◎
- 528 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:41
- >>524
併合だっけか?
- 529 : 実に興味深い :2003/05/26(月) 20:41 ↓
- 一方的に朝鮮人に対して偏見で凝り固まって、虐殺されてしかるべき、
などという方が差別主義者であるという意見を否定するとは・・・・
あなた自身が、あなたの嫌う朝鮮人を映し出していますよ。(w
- 530 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:42
- >>528
そう。国際法でも合法。今の世界の国際政治学者の研究からも合法。
騒いでいるのは朝鮮だけ。
- 531 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:44 ↓
.,:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;-, ,
ノ´;:;:;:;:;:;:;:;ミミ:;:;:;:;:;:;:;:;丶
|;:;:;:;:;:;:;:;彡-ー―-、_;:;:;丶
i:;:;:;:;:;;ノ , `、;:;:;|
!;:;:;:;:;:;| ,,,,,,,,,, /_丶:;|
丶:;:;:;:;| , -。┐ヽ'' ゚ `,|
ゞ|ヽ;| ゞ / )ヽ ´| <生き返ったら寝違えてしまった・・・
_,-ー.ヽ / `” ´_丶|
| : ゝ /ニ三ニ ( |、_
ヽ 'ー-.,___/ `ー-、
| | \ / |
\ |___>< / ヽ
- 532 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:44
- >>529
時と場合による
前も言ったが、戦後のどさくさにまぎれて駅前の土地を奪うような朝鮮人は
虐殺されてしかるべき。
まだ、全角で馬鹿みたいなマーク書いてるな。恥さらしめ。
- 533 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:45 ↓
- __,,,,_
/´  ̄`ヽ,
/ 〃 _,ァ---‐一ヘヽ
i /´ リ} / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 〉. -‐ '''ー {! | 出たな、田原!
| | ‐ー くー | ∠ しょ、勝負だ!
ヤヽリ ´゚ ,r "_,,>、 ゚'} \____________
ヽ_」 ト‐=‐ァ' !
ゝ i、 ` `二´' 丿 (⌒)
r|、` '' ー--‐f人_ノ ~.レ-r┐
__人|______/ /:::::ノ__ | .| ト、
/:::::: |_/又 \_ /〈 ̄ `-Lλ_レ′
 ̄`ー‐---‐′
- 534 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:45 ↓
- / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| かめはめ波ー!!
, ,-;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:,. ヽ─y────────────── ,-v-、
/;:;:;:;:;:;:ミミ;:;:;:;:;:;:;:;:;:;`、 / _ノ_ノ:^)
/;:;:;:;:彡―ー-、_;:;:;:;:;:;:;:;| / _ノ_ノ_ノ /) 三3
|;:;:;:ノ、 `、;;:;:;:;:;:i / ノ ノノ//
|;:/_ヽ ,,,,,,,,,, |;:;:;:;:;:;! ____/ ______ ノ
| ' ゚ ''/ ┌。-、 |;:;:;:;:/ _.. r(" `ー" 、 ノ
|` ノ( ヽ ソ |ノ|/ _. -‐ '"´ l l-、 ゙
_,-ー| /_` ”' \ ノ __ . -‐ ' "´ l ヽ`ー''"ー'"
| : | )ヾ三ニヽ /ヽ ' "´/`゙ ーァ' "´ ‐'"´ ヽ、`ー /ノ
ヽ `、___,.-ー' | / / __.. -'-'"
| | \ / | l / . -‐ '"´
\ |___>< / ヽ
- 535 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:46
- >>533
皇太子様のAAをくだらんことに使うな。恥さらしめ。
- 536 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:47
- >>535
それは同意
2chは嫌いじゃないけどそう言うところがどうも好きになれない
- 537 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:48 ↓
- __,,,,_
/´  ̄`ヽ,
/ 〃 _,ァ---‐一ヘヽ
i /´ リ}
| 〉
| |
ヤヽリ
__,,,,_
/  ̄`ヽ,
/ ヽ
i i
| -‐ '''ー {
| ‐ー くー |
「 ヽ ´゚ ,r "_,,>、 ゚'}
ヽ_」 ト‐=‐ァ' !
ゝ i、 ` `二´' 丿 バレましたか?
r|、` '' ー--‐f´
_/ | \ /|\_
/ ̄/ | /`又´\| |  ̄\
皇太子様はズラをご着用なさっていたようです。
- 538 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:49
- >>537
皇太子様のAAをくだらんことに使うな。恥さらしめ。
- 539 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:52 ↓
- >>532
それは外国人犯罪者である朝鮮人ですよね。
外国人犯罪者に対しての怒りは日本人としてもっともですが
虐殺されたのはそう言う人たちじゃないと思いますが。
- 540 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:53 ↓
- __,,,,_
/´  ̄`ヽ,
/ 〃 _,ァ---‐一ヘヽ
i /´ リ}
| 〉. -‐ '''ー {!
| | ‐ー くー |
ヤヽリ ´゚ ,r "_,,>、 ゚'}
ヽ_」 ト‐=‐ァ' ! <人の話を聞かない奴のいうことなんて聞く必要ないわ
ゝ i、 ` `二´' 丿
r|、` '' ー--‐f´
_/ | \ /|\_
/ ̄/ | /`又´\| |  ̄\
- 541 : 実に興味深い :2003/05/26(月) 20:54 ↓
- もうこの方は・・・もう一度自分の書き込みをよくみてください。
「無実の朝鮮人を多数殺害した歴史」は変えることはできません。
- 542 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:55 ↓
- __,,,,_
/´  ̄`ヽ,
/ 〃 _,ァ---‐一ヘヽ
i /´ リ}
| 〉. -‐ '''ー {!
| | ‐ー くー |
ヤヽリ ´゚ ,r "_,,>、 ゚'}
ヽ_」 ト‐=‐ァ' ! <結局自分で何貼ったのかだってよくわかってねーんだろ?
ゝ i、 ` `二´' 丿
r|、` '' ー--‐f´
_/ | \ /|\_
/ ̄/ | /`又´\| |  ̄\
- 543 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:55
- >>539
大震災のどさくさにまぎれて、そういうことをやった奴も中にはいただろう。
また、デマを流した朝日新聞の責任もある。
組織的にやったことはない。軍や警察は、保護に回っていた。
ある意味事故だ。従軍慰安婦も同様。まぁ、そんな言葉は存在しないが。
- 544 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:56
- つまり、国としての責任はない。個人に賠償なりなんなり求めればいいだろうが。
- 545 : 実に興味深い :2003/05/26(月) 20:57 ↓
- >>543
戦後のどさくさにまぎれて、そういうことをやった奴も中にはいただろう。(w
- 546 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:58
- 無実の朝鮮人って、、、その朝鮮人が無実ってなぜわかる?
大震災だ。非常事態だ。そういう事態で法を犯そうとしたやつだっていただろう。
そういう人間は、それなりの罰を受けるべきだろう。
- 547 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 20:58
- >>545
何がおかしい。笑っているだけではわからない。
- 548 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 21:00 ↓
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,';;;;;;;;;;;;;!::::::::::l::/ /' ,/ ヽ 'l;! !l::::!
r‐';;;;;;;;;;;;;;l:::::::::::レ ,';;::::| <推測以外で議論できないんかなぁ・・・
,,、-;''";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;l::::::::::::l ------- ___.!;;:::::l
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- 549 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 21:01 ↓
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i:::i::::l:::|::::::ハ::::::::::::;'l;' .l:;!::|::::::i 何言ってんの?
';:i!::::';::ト:ト:! ヾ、::::/_ ' リ:::r、:!
', !ト::',! ̄「厂! ゙'ヽ 「厂 ,!/`|::', ,.
N.〈i ` -‐ ′ ` ー' !_/:::::', , - 'ノ_ , 'フ
!:`:‐! ' ト::::::::::゙.、 ,' ‐- 、 ,.ク ‐- .. _
/::::::::;ヘ、 l  ̄ `i , イ .,'ヾ 、::::〉′ _二 ′ `
/:::;イ/ ` '' =_'´i 、! .i 〉、/ ,.′ , '
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',´! ` 、 , `' ーヾ! ハ'_,ィ′ / ,.' ,.':.:.;.':.:.:.:.:.:.:
_ .. '´ ヽ、 li/ / , 'l! イ \/ ./ /:.:.;.':.:.:.:.r :.、:
゙ 7 、/ ヽ ,へ /i ′|! ,!..,,_ ,.' /:.:,:':.:.:.:.:.:.:`:.く
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- 550 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 21:01
- 無実の朝鮮人が殺されたかもしれない、
しかし、朝鮮人は6000人とか嘘をほざきやがる。
そういう人間に対して、普通は謝りたいと思うか?
戦争するたびに、アメリカがその国に謝ってるのか?
馬鹿が。
- 551 : 実に興味深い :2003/05/26(月) 21:01 ↓
- >>546なぜ朝鮮人に罪をなすりつける?
大震災だ。非常事態だ。そういう事態で法を犯そうとした「日本人」だっていただろう。
これでどう?(w
- 552 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 21:01 ↓
- _ ........ _ / 〈.. -' /ノノ〉
,...::'":::::::::::::::::::::::`:..、 ヽ ヽ ` /
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i:::::::::i:::l::ハ:ハト、::::::!_ ハト:::::::!' ,' | バァ〜カじゃな〜い
|::l::::::ト::ド=〒 ' ヾ' .〒‐ ::i:;' .i |
!::〉::::', ', -‐ '' " ,  ̄` |i', _,.. ′ !
,....... -‐''" `ヽ. |:', ヾ,゙、 ,. ‐---ャ l'ヾ ヽ , '
ヽ ... _ ..,, , ヽ !:ヽ i / ,′ / ', | /
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/ , \ ', ,'::::/ヾ、、 ` = ' i´ | レ、:::', ` ` , '
./ / , ' ` / '// ', ヽ \-‐| 《. ', ` ゙、 ,.'
,. ' ' _/ ,ィ´ ',、ヽ. i, ヽ-;__ヽ!/ | , ' ./:':.‐ .. _
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lレ' ! l | i | i i ゙、 ' 、` ,.' ,.:':.:,:':.:.:.:.r:.:、:.:.:.`:.:':
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- 553 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 21:02 ↓
- >>543
それはそのとおり
土地占有朝鮮人と同様に、ドサクサで朝鮮人殺した奴らもただの犯罪者ってだけで
日本国の責任ではない。
ただそれを肯定してはいけないって事よ。
- 554 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 21:03
- >>551
そこが違うんだな。朝鮮人と日本人の違い。。
そういう思考なんだよな。朝鮮人って。。
- 555 : 実に興味深い :2003/05/26(月) 21:04 ↓
- >>554
引っかかったな。どう違うのかな?
ちゃんと日本人と朝鮮人の違いを論理的に説明してよ。(w
- 556 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 21:06 ↓
- 、-;_,〃
.;:''" ̄//, 、゙゙`-;;、
,;:" // ; ヽ ゙'':;、
,;'" ' ; ヽ ヽ、
." ヽ
,l" ゙、
.' ゙l
,' ,/ ,;" l |
," ,'| ; . ,/' | .| ,; |
| ; j | | , | | / | , /!/ |
| !゙、 | | ! ; | j / / / //イ |
| ; i | ヽj | ヽ; | |" ;//" ' |! |
| ヾ、 ヽ ヽ| | j/ | | |
| || 、;`ヽ、―;;..,, ヽ! ,,;;―''''" || | |
| | ヽ| 、、、;;;;;;;\ ,,/_;;;;;〃 / / | |
\| ゙ヽ|ゞ ̄/* ヽ; ;/;'*ヽ ;ミ // ||
| | イ "'ヾ'''''"` -゙''''"-" |ヽヽ;|! / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
`|/(| ; |/|ヽ/ < さてわたしはだれでしょう?
ヽ\| ヽ |,;;"゙゙| \____________
゙l | | 、 ,、 / /
゙;,\  ̄ / ;//
ヽ ヽ. ,/|// |"
゙'ヽ| ` - ´ |/'''"
| |
| |_
//、 ヘ\
,,,;;-―ヽ///-:_ ゙ヽ ヽ―/`''ヽ;,_
,,/ ̄ ゙'''--/ |~ヽ_゙゙''';; ―''''''''" ヽヽ/ /
- 557 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 21:07 ↓
- さっきからAA貼り付けている人はなにをしたいのですか?
- 558 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 21:07
- >>555
新渡戸稲造の武士道でも読め。
恥の精神だ。
昔の日本人は、特に、今の日本人とは違う。
- 559 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 21:08 ↓
- rー、
」´ ̄`lー) \
T¨L |_/⌒/ ← >>555(現在)
`レ ̄`ヽ〈
| i__1
_ゝ_/ ノ
L__jイ´_ )
| イ
| ノ--、 r'⌒ヽ_
ゝ、___ノ二7 /´ ̄l、_,/}:\
|ーi | l_/ /__ィ::. ゝ~_ィ´:; ,ゝ
__〉 { (T´ |1:::. \_>、};;_」
'ー‐┘ ! ` ̄''ァ一 、\ ヽ} ← >>555(結局)
〈` ̄ ̄^`¬ノ .::〔 ̄´
1 ヽ .:::レ ヽ、
|_イー-、_;;j|_:. ゝ、
__,,,... -- |. {―――‐フゝ、 〉 -- ...,,,__
_,, -‐ ´ ,r|__ト, 1ニノ ー'´ ` ‐- ,,_
, ‐ ´ └―'´ `
- 560 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 21:10 ↓
- _____
(r───-丶\
/ ヽ )
| 丶、 ヽ ||
| ー、 ーヾ ,ll∩
( | | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ゝ ィ- \_ ノノ | 結局こいつら、相手がちょこっと言ったことの
| r── | < 揚げ足取りしかしてねーから、何時間やっても結論なんかでねーよ
\____/| \__________
人\/江ヽ/\
/ \ 畑/ \
- 561 : 実に興味深い :2003/05/26(月) 21:12 ↓
- >>558
まったく説明になってないですよ。本に書いてあることをここで説明できず読めとは、お前の敗北宣言かな?
君は本を読んで説明できないのかな?だから、知性0、自分の意見0、非論理だといわれるんですよ。(w
んで、君の受け売りをもう少し聞きたいから日本人と韓国人の違いを教えてくれ。
- 562 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 21:13
- だから恥じをしってる事だって文盲か?
- 563 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 21:15
- >知性0、自分の意見0、非論理だといわれるんですよ。(w
言われない。
貴様に受け売りとか言われるような話をする必要もない。
- 564 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 21:17 ↓
- ,.イイ
/二 ゙゙̄ヽ、
,.へ ー-、 )ヽ
__l___!__,.r===ァ'<ミミ
| jハ、___ノ ヽミ}
`┬プ ゚ー、 ノ/))
i ヾ===、 } rノ ,._'フフ
,. ‐--、_ ゙、} /γ} } ィj,.-''"ノノ
,.r-=ニ二二ニ=ー---L`==',.-‐''" -'',-'
,.-''"  ̄! | _-'_ノ--っー--、-、
r' | |_ノ ,r‐''"~、 `i `!
| O O { し`ー´ j ヽ | ヽ
\ _Y" |:::::| ノ-、∠ | \
`ー‐---‐‐、───'''""ヾ | |:::::| j / | \
し r---ヽ | |:::::レ / j \
| ヽ | |:::::::j / / \
┌────┐ .| l ヽ Y::::::/ / l /へ、
│ ア ウ チ | | l ヽト::/ / l / \
├────┴─────────────────────
│どうせただの暇つぶしだろ?
└──────────────────────────
- 565 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 21:51 ↓
- 「昔の日本人」ってなんだろう。
少なくとも明治以降だとは思うが。
- 566 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 21:54 ↓
- まあ、どっちも文系ではないってことはよくわかる。
- 567 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 21:55 ↓
- それにしても彼の文章には異様に「、」が多い。
- 568 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 21:56 ↓
- と、こんなかんじで、レスしまくる、というのも、真似して、みました。
- 569 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 22:06 ↓
- で、
>>547=>>546=…
は、1人何役やってんだ?まったく。
- 570 : 実に興味深い :2003/05/26(月) 22:23 ↓
- >>566彼は文系特有の胡散臭さが全開のような印象を受けますが・・・
関東大震災の朝鮮人虐殺は捏造。理由は、次の年の渡航者数が増加したから。
↓非論理的だと批判され・・・
6000人死んだのは捏造。(完全な論点すり替え)
↓朝鮮人を多数殺害した事実は消せないよ、と言われ・・・
事故だよ。だいたい殺された朝鮮人が無実という証拠がどこにも無い。
↓何故、そこまで朝鮮人を疑うのですか?
日本人は恥を知っているからです。(朝鮮人が恥を知らないという証明は一切無し)
要するにあの人はマスターベーションをしたかっただけなのかと・・・
- 571 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 22:32
- >>570
じゃ、最後に本当のこと言うよ。
一番最初の、朝鮮人虐殺が捏造なんじゃないの?って書いた文章は、
そのコメントも含めてコピペ。
俺が考えたんじゃないの。最初が間違ってるわけ。
- 572 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 22:33 ↓
- おっ?女房役が来たぞ!
- 573 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 22:40
- これが証拠
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/whis/1049702204/107n
つうことで、この話は、おしまい。
ついでにいうと、ここのスレの大部分はこのスレからのコピペでした。。。
- 574 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 22:43 ↓
- じゃ別にここでやる必要ないじゃん。
- 575 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 22:47
- そのスレ以外から、取ってきたことも少しあるが、東郷平八郎の話とか。
- 576 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 22:51
- それと、何度も言ってるが、1は俺じゃないぞ。
- 577 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 22:53
- 2人はいるということだな。コピペしてる奴が。
- 578 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 23:25 ↓
- >>571
「俺が考えたんじゃない」から何?
A)コピペ元が間違えてただけで、俺は被害者です。
B)そんなコピペに狂った私は馬鹿です。
どっち?
- 579 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 23:28
- >>578
朝鮮人は、馬鹿ってこと。わかった??
- 580 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 23:32 ↓
- >>579=>>577=>>576=>>575=・・・
必死、ですね(w
- 581 : 名も無き筑波大生 :2003/05/26(月) 23:44 ↓
- >>580
いつまでも釣られてるお前も
- 582 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 03:16 ↓
- >>570
さすがに筑波の文系なら民族差別の無意味さを熟知してると思うのだが・・・
>>581
ここまでやられると釣りなのかどうかわからなくなる(´Д⊂
- 583 : 実に興味深い :2003/05/27(火) 11:29 ↓
- いやぁ〜おはようございます。まだ、がんばってましたね。
>>582確かに筑波のまともな文系の方にはよくない言い方でした。すいません。
彼は、にわか君の印象を受けるのでむしろ釣っているのだと思います。
>>571こういう言い訳をして君は「恥」を知らないな。(w
>>387で問題提起して、>>390、>>413、>>416、>>419での君の必死な書き込みをみる限り、
それがコピペであろうが無かろうが、君の主張であると捉えられても仕方ないと思いますが・・・
それを、なぜ「6000人は死んでない」という風に論点を摩り替えた(いずれにしてもコピペ)のでしょうかねぇ〜
結局、自分の主張が論理的に破綻して逃げただけなんですよ。(w
- 584 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 11:48
- >>585
全部、同一人物だと思ってる頭がイタイ
頭が凝り固まってるから、いくら話ししても無駄。
- 585 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 11:48
- >>583
全部、同一人物だと思ってる頭がイタイ
頭が凝り固まってるから、いくら話ししても無駄。
- 586 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 11:51
- >>583
敗北宣言だ、逃げただ、本当にお前は、感情的な言葉ばかりだな。
何が論理的だ。お前が使うような言葉じゃないよ。論理的ってのは。
- 587 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 11:54 ↓
- ぐはっ、また出たよ。
- 588 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 11:54 ↑
- 支那大陸をめぐる日米の対立
日露戦争後大陸経営を進める日本と、モンロー主義を原則とするも支那には門戸開放主義を進め大陸侵出を狙う米国とは、支那をめぐって逐次対立を深めていった。 第1次世界大戦に乗じて対支21か条要求(大正4年)シベリア出兵(大正7年)等で大陸に特殊地位を固めようとしていた日本に対し、米国はワシントン会議(大正10年)・九ヶ国条約(大正11年)等で阻止しようとした。1929年の世界大恐慌でブロック経済の趨勢が強まるとともに、資源と植民地を独占する英米本位の世界旧秩序を覆し、持たざる国の活路を開こうとする日独等の動きが強まり、共産国ソ連の増強とあいまって全世界的動乱の機運が生じてきたのであった。
1832年 当時のモンロー大統領が議会で示した外交方針
非植民主義−−欧米諸国の新規領土獲得の不同意
非干渉主義−−欧州により米大陸への干渉の排除
対欧州非干渉主義−−米国の欧州情勢への非干渉
ジョン・ヘイ国務長官が列強に申し入れた外交施策
列強は通商の機会均等と中国の領土保全を保障すべきである
- 589 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 11:55 ↑
- 満州事変以降の経緯
昭和 6年 9月18日 満州事変が勃発した。これは日清・日露の戦役における満州既得権益を確保するための
武力発動であるとともに在留邦人保護のための軍事行動であった。
昭和 7年 3月 1日 支那大陸東北4省に五族協和を標榜した満州國が独立.
同年9月15日 日本は満州國を承認し『日満議定書』が締結された。
昭和 8年 5月31日 『タンクー停戦協定』によって満州事変は一段落し兵火は収束した。
この結果日本は、満州国の国防を全面的に負担することになり
対ソ防衛の最前線に推進された。
日本は満州建国の既成事実を強化し日満支三国による東亜の新関係を建設しようとした。
しかしそれは軍閥が跋扈する後進国とはいえ、孫文の三民主義による国民革命を経て
政治的近代化を進めようとする蒋介石政府の容れるところではなかった。
昭和12年 7月 7日 全く予想しなかった支那事変 (当初北支事変と呼称)が勃発した。
政府及び軍統帥部の不拡大方針にもかかわらず、戦火は北支から中支に拡大していった。
日支両国ともに交戦権の発動は行わず国際法上の戦争状態ではなかったが、やがて
全面抗争へと発展していった。
昭和12年11月20日 大本営が宮城内に設置された。これは戦時大本営条例が廃止され
事変に際し必要に応じて設置できるようになったためである。
昭和12年12月13日 日本は首都南京を占領。
駐支独大使トラウトマンによる和平工作も企図されたが成功せず、
昭和13年 1月16日 『国民政府を対手とせず』の声明を発表、南京政府を否認し長期戦の様相を呈するに至った。
昭和13年11月30日 『日支新関係調整方針』が決定、一転して蒋介石政府を相手とする和平工作が開始された。
昭和13年12月22日 この方針に基づき『善隣友好・共同防衛・経済提携』の三原則を基調とする
『更正支那との関係を調整する基本方針を闡明(せんめい)』するいわゆる近衛声明を発表
蒋介石政府へ和平を呼びかけた。
国民党副総裁汪兆銘はこれにこたえ重慶を脱出、ハノイにおいてこの近衛声明の線にそって
和平建議を声明した。これによって一気に事変解決へと進むものと期待されたが、
予期のごとく進展せず事態は混迷を深めた。
- 590 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 11:55 ↑
- 昭和14年 1月 4日 支那事変の解決をみとどけることなく近衛内閣は総辞職した。
これは日独伊防共協定強化問題に関する閣内意見の分裂が主因であった。
昭和13年6月以降、ドイツは英仏両国をも対象とするよう主張し、
それを受け入れようとする陸軍と、これに反対する海軍・外務省との意見対立であった。
この防共協定強化問題は平沼内閣に引き継がれ最大焦点となった。海軍・外務側も
一部同意したものの、条約発動の条件その他について意見は一致しなかった。 そのころアメリカは、満州事変以降の日本の大陸政策を否認する方針をとり
政治的・経済的にも日本を圧迫する政策を強化して来た。
支那事変勃発後、米国は対日経済圧迫の先駆けとして『モラル・エンバーゴ』を発動し、
海南島占領(昭和13年2月) 天津イギリス租界封鎖問題(昭和14年6月)によって
対英米関係は一層悪化した。さらには 昭和14年 7月26日 『日米通商航海条約』を一方的に(予告通牒)アメリカは破棄したのである。
これによってアメリカは全面的対日経済断交を行いうる態勢をとった。
また日本は従来の対米依存経済を修正して、南方諸国を含めた東亜共栄圏
にわが国の生存と発展の基盤を求める要請が強まるのは自然であった。
なかでも豊富な産油量とボーキサイトやニッケルを産出する
蘭印、仏印の動向は日本にとって死活問題であった。
昭和14年 8月23日 突如として『独ソ不可侵条約』の成立が発表、
平沼内閣は『複雑怪奇』の一語を残して総辞職、防共協定問題はご破算となった。 昭和14年 9月 1日 ドイツはポーランドに進攻、ただちに英仏は宣戦を布告し第二次欧州大戦が勃発した。
阿部内閣は欧州戦争不介入の方針を採択、この欧州戦争によって支那事変の
早期解決を促進するものと期待したが、米英の援蒋政策と対日圧迫はますます
強化されていた。 一方さきに重慶を脱出した汪兆銘は、蒋介石への和平呼びかけから
自身による新中央政府樹立工作に転換しようとしていた。
秘密裡に東京に着いた汪一行は、上京に際して以下の3案を示して意向を打診した
1 日本は重慶政府/蒋介石を相手として事変解決を図る 汪兆銘は斡旋仲介を行う。
2 日本は国民党以外の有志と和平を講ずる。汪は下野し協力する。
3 日本は和平政権を新たに樹立し事変の解決を図る 汪は自ら政権を樹立する。
昭和14年 8月28日 汪兆銘は、上海に国民党六全大会を開催し
各部の代表約240名は和平建国の方針を確認、それに基づき 昭和15年 3月30日 南京に汪兆銘を首班とする中華民国の新中央政府が誕生した。
国民政府の政綱は、東亜永遠の平和及び新秩序建設の責任分担、
支那の正当な権益の尊重など10項目からなっていた。
米国ハル国務長官は、即座にこの新政府の不承認を声明した。
- 591 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 11:56 ↑
- このように支那事変解決の望みは薄く、米英の対日圧迫は加重の一途を辿った。
日本経済は全般的に米英依存経済にあり、日本の苦悩は深刻であった。そのとき欧州の戦局は激動を告げ、事変の解決・南方問題(米英依存経済)からの脱却のため、千載一遇の好機であるかのようであった。
桐工作−支那事変解決努力
陸軍は支那事変拡大にはあくまで否定的・消極的であった。そのため事変解決を目的とする幾多の対重慶和平工作が進められていった。「トラウトマン工作」、「蘭工作」、岩崎清七−孔祥熙間の工作、松岡外相による和平工作など民間有志、政府、軍部特に陸軍など枚挙にいとまがなく、和平工作の乱立が長所にして欠点であった。
その中で最大級の期待をかけて進行したものが「桐工作」である。
国民政府行政院長・財務部長の前歴を持つ宗子文は、このころ重慶政権とそりがあわず弟の宗子良と香港に来ていた。そこで参謀本部第7課 鈴木卓爾中佐(34)を主務者として、宗子良(宗3姉妹の弟で銀行家 蒋介石の義弟)に対する秘密工作が発足した。
昭和14年12月 日本は 1)満州国承認問題 2)汪政権の取扱 3)大陸駐兵問題 について重慶側と交渉を開始した。
我が陸軍の情勢判断は「なるべくすみやかに支那事変を停戦に導き、もって変転極まりなき国際情勢に対応するを可とする」というもので重慶側の意見を全面的に受け入れたものであった。 この工作は陸軍主導のもと極秘裏に進行したが、近衛首相も積極的に賛同しており、板垣征四郎中将と蒋介石との話し合いが企図され、ついには昭和15年8月 近衛首相から蒋介石総統あてに「親書」を書くところまで進展した。
しかし親書に対する蒋介石の返信は芳しくないものであった。主務者の鈴木中佐は、重慶側は時間稼ぎをしているのではないか?との疑惑が生じていた。 この間、蒋介石がソ連政府と対中援助強化の話をまとめたとか、宗子文が、対米1億ドルの借款を成立させた という情報が入ってきたからである。
9月になって宗子良は、中国は抗戦力が大であり今和平をすべきではない、という議論がでていると主張、
昭和15年9月19日 結局日本側は桐工作の一時打ち切りを決定した。多大な期待を担った和平工作は失敗に終わったのである。
今日この桐工作について、日本側は最初から支那側の謀略・時間稼ぎに引っかかったとする見解が多数である。否、すでに当時においても重慶側の謀略であることは察知していた。 ただ、工作自体が重慶政府に直結していたのは確認できたので、その点に期待して交渉を続行していたのである。云いかえればそれ程までして和平への道を探っていたのである。 自称宗子良は、実は曾宕という秘密工作を任じた替え玉であることが判明している。また戦後、重慶政府首脳である何應欽が来日した際、岡村寧次大将が和平工作に関して当時の事情を尋ねたところ何應欽は笑って答えなかったという。
- 592 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 11:56 ↑
- 北部仏印進駐
昭和15年9月23日 陸海軍は北部仏印に進駐。 四川省に通じる援蒋ルートの遮断を主要目的としたもので、平和進駐の予定であった。
外務省の交渉の結果カトルー仏印総督は日本監視団の派遣を許可し、フランス本国政府もアンリ大使を通じて認可した。それを受けて西原一策少将(25)を団長とする監視団がハノイに着任、任務の遂行にあたった。西原少将はカトルー総督と交渉を続けていたが、フランス本国(ヴィシー政府)は、カトルーに対して主権を侵害しているとの批判が厳しかった。 カトルーと仏本国では情勢認識が異なっていたのである。やがてヴィシー政府はカトルーを罷免、ドクー中将を新総督に任命した。
ドクー総督は本国の意向に沿って延遷策をとり、細目交渉は停滞した。だが東條陸相以下陸軍は依然として平和進駐が大原則であった。
現地仏印ではすでに平和裡に交渉が成立しつあった。仏印側は西原少将の見識に敬意を払い人格を信頼していたのである。
しかし参謀本部には不評であり、強硬派を現地におくりこんで一気に交渉を成立させよう、とする意見があった。
これにより西原少将不在中に同期である作戦部長冨永少将、作戦課荒尾中佐などの派遣幕僚や中村第5師団長、西村兵団長ら現地軍幕僚の専断、陸軍中央の統制力不足などのため武力進駐となってしまった。
また森本宅二中佐指揮の1大隊が越境した事件(クールーベー仏中佐の冷静な判断により武力紛争にはならなかったが、森本中佐は陸軍刑法の「擅権の罪」による軍法会議に付せられた)や陸軍機の誤爆事件などを起こし、さらには陸海軍の協同を前提の仏印上陸作戦において、平和進駐の大原則に違反する陸軍の暴挙に海軍は怒り、援護を放棄して離脱してしまう事態すら招いた。
このような一部陸軍の専断は上聞に達し、陛下の陸軍不信はいよいよ強められたようであったという。
9月25日 冨永少将一行は帰京した。同少将に対する軍上奏部の空気は険悪であり、海軍からの非難の声は公然化していた。 即日第1部長職務停止が命じられ、憤激した冨永少将は即座に参謀飾緒を取り外して辞去した。また荒尾大佐も歩兵学校教官に左遷された。
西原少将は「統帥乱れて信を中外に失う」と陸軍の失態を憂いたのであった。
この間の9月5日 イギリスのハリファックス外相は、仏印の現状維持に深い関心を有している旨日本政府に注意を喚起した。ハル国務相は仏印情勢を重視している声明を発表、9月20日にはグルー駐日大使が松岡外相に非難文書を提出した。 さらに9月23日にハル国務相は公然と日本を非難し、北部仏印進駐・三国同盟締結に対して、米国は9月26日 屑鉄・鉄鋼の対日輸出禁止を発表、英国も援蒋ビルマルートの再開を通告した。
- 593 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 11:56 ↑
- 汪兆銘政権は事変解決に貢献する存在ではなく、桐工作等の和平交渉も進展しなかった。 一方軍事的には、昭和15年5月から陸海軍航空部隊が重慶に対する奥地進攻作戦を反復実施し、支那派遣軍は宣昌を占領、また共産党軍に対しては粛清討伐戦を実施した。これらの反復によって支那側に打撃を加えていたが、英国は借款を与え米国は膨大な物資を供与して援助を続けていた。
大本営は事態が硬直化する前に事変の解決を図るべく中原会戦、清郷工作、長沙作戦等を実施したが、支那大陸はあまりにも広く解決の決め手にはならなかった。
昭和15年5月 独軍は攻勢を開始、仏は敗退した。欧州の戦局は仏印、蘭印などの植民地に変化を来たすものと思われ、わが国の目は南方に注がれた。独軍が勝利し英国が敗退すれば世界の勢力分野が変革する。日本がもし南方資源を取得できれば、米英依存経済から脱却し。自給自足態勢が整備できるであろう という楽観的情勢判断であった。
昭和15年7月 近衛内閣は画期的な新政策を採択した。
高度国防国家体制を目指す国内政策を重点とした「基本国策要綱」、ついで「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を採択した。時局処理要綱には 1対独伊政治的結束強化 2対ソ国交調整 3国内戦時態勢と戦備の充実 等を定め、南方への武力行使を想定していた。
- 594 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 11:57 ↑
- 日独伊三国条約の締結
松岡外務大臣の構想は、
1 日独伊ソ4カ国提携を実現して英米に対する立場を強化しそれを背景に米国の参戦を阻止する
2 米国に日本と蒋介石政府との関係を斡旋させ
3 さらにソ連ないし米国とともに英米とドイツとの関係を斡旋し世界平和の実現を図る
という大掛かりなものであった。即ち、ドイツと結びかつ仲介としてソ連と結んで日独伊ソの連携をつくることは、支那事変処理にも有効であり対英米戦をも回避することができる、と考えていたのである。
一方ドイツには独自の目算があった。当時英本土空襲にもかかわらず屈伏させる見とおしはたたず、対英和平も見込み得ない情勢にあったので長期戦に備え日本に接近してきたのである。 8月20日に米駆逐艦50隻を英国に供与することと、英国が米国に基地供与を見とめることを発表したので、アメリカを牽制し参戦を阻止することも必要であった。
昭和15年8月23日 ヒトラー総統の信任厚いスターマーを特使として日本に派遣、ドイツと日本との新協定締結の布石であった。
軍事同盟締結については陸海軍事務当局の支持は受けていたが、海軍省首脳は反対で板ばさみにあった吉田海相は病にたおれ、9月4日に辞職、後任には及川古志郎大将が就任した。9月12日の4相会談で松岡外相は、スターマーからの案について受諾を主張したが、及川海相は同意を保留した。さらに松岡外相と海軍側との意見調整した上、14日に下打合せが行われた。
スターマーとの間に三国同盟の交渉が進んでいる中で、海軍だけが反対の態度を固執することには限界があった。また海軍中堅層には締結に積極的な者もあり、これ以上の反対は政治情勢が許されなかったのも事実である。 海軍は「やむを得ず賛成するが、軍事上の立場からはアメリカを相手に戦う自信はない。この上は三国同盟による軍事上の援助義務が発生しないよう、外交上の手段によって防止されたい」として参戦の場合の締結国の判断などに条件を出して賛成したのであった。
昭和15年9月19日 三国同盟締結について御前会議が開かれ、質疑応答の後三国同盟条約の締結を承認した。
海軍・軍令部総長からは
1 本同盟を締結しても、日米開戦を回避せよ
2 南方問題は極力平和的に行い無用の摩擦を起こさないこと
3 有害な排米英言動を取締ること
4 海軍軍備の強化促進に協力を望むこと などを表明した。
昭和15年9月26日 枢密院本会議においても三国同盟は可決された。この本会議において、石井菊次郎顧問官からは 「ドイツ及びその前身たるプロシアと同盟を結んだ国でこの同盟より利益を受けるものがなかったことは顕著なる事実である(中略) 総統ヒットラーは危険きわまる人物にて(略)ヒトラー総統率いるナチスドイツが永きにわたり日本の忠誠なる友と考えることはできない。(中略) イタリアはこれまたドイツに劣らず頼り難き国柄にして(中略)前の欧州大戦においてドイツよりも大なる損害を受けたことは之によるものである。」 とする意見を表明した。
だが、このような意見表明がありながらも締結は最終的に決定され、昭和15年9月27日 日独伊三国同盟が締結された。
- 595 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 11:57 ↑
- 日独伊三国条約の内外の反応
国内世論一般は左右を問わず親英米外交から枢軸外交への転換を支持していた。その中で木戸日記によると陛下は「今度の場合は日英同盟のようにただ慶ぶのではなく、情勢の推移によっては重大な危局に直面するのであるから親しく堅所に参拝して報告するとともに、神様の御加護を祈りたいと思う」と仰せになったといわれている。
海軍が三国同盟に踏み切った以上、国内における反対勢力は微弱であり、政府・軍統帥部等責任当局にあるものや政界、言論界の大勢は三国同盟を支持したものと認められる。戦後三国同盟に反対したと言われている人々−木戸内務大臣、元老西園寺公望、前内務大臣牧野伸顕、米内光政海軍大臣、来栖駐独大使などは、反対したというよりは、その結果に対して危惧の念を抱いたというのが実状のようであった。
9月27日 ハル国務長官は記者会見で、三国同盟によって米国政策が変更されることはないとの見解を発表したが、米国一般民衆に与えた衝撃は大きかった。即ち、日本が独伊と同盟を結んだことは、欧州戦争とアジア戦争が同じ戦争であることを確信させ、日本は独伊の仲間に入り米国等の支持する世界を破壊せんとするものである、という意見に米国世論が同調するに至ったのである。 親日家のグルー大使ですら「極東の問題はヒトラーの世界制覇の企図によって発生した世界危機の一要素となった」といわしめたのであった。
近衛首相をはじめとする当時の政府及び統帥部が、英米の勝利・ドイツの敗北を予想し得なかった不明は免れないであろう。 要は世界情勢判断の誤審にこそ批判が向けられるべきである。
その後欧州戦局は小康状態となり、期待していた英国本土上陸作戦は実施されそうになく、ABCD包囲網はますます強化され、日本の資源入手は細りつつあった。 蒋介石政権との和平の望みを捨てて長期戦を覚悟するとともに武力南進を検討するも、その場合は対米戦は不可避であり、見通しは全く暗く、完全なる閉塞状態であった。
この中での最大の関心は蘭印の石油取得とタイ・仏印への勢力伸張であった。
日蘭会商決裂
先の時局処理要綱に基づき、蘭印/インドネシアに対しては外交的措置によって重要資源を確保することとしていた。昭和15年9月 小林一三商工大臣が特使として派遣され、同行の三井物産向井会長・協和鉱業本多常務らと、ロイヤル・ダッチ・シェル及びスタンダード社との折衝によって、72万余トンの石油確保に成功、東京での交渉分他をふくめて計130万トンの買付が成立した。(他に65万トンを確保) しかし日本は315万トンを要求、なし得れば380万トンを期待しており、大きな隔たりがあった。その上石油以外の物資の入手を強く希望していたのである。
対する蘭印側の反日的態度は明確で、英米友好国への供給を犠牲にして日本への大量輸出は不可である、としていた。ホーフストラーティン通商局長は 平時なら300年の日本−オランダの友好関係に鑑み、いかようにでも譲歩する方法はあるが、食うか食われるかの戦時下においては日本側の要求を満足させることは不可能である、としてオランダとの交戦国ドイツとの同盟を締結した日本の対独再輸出を警戒した。
- 596 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 11:57 ↑
- 昭和16年2月 蘭印経済省は一方的に、日本向け輸出商品の割当額を通告、強硬な態度で臨んだ。なおも交渉は続けられたが
昭和16年6月6日 オランダ側の最終回答が提出された。これは日本にとって満足すべきものではなかった。 一部の合意点を除き、生ゴム、錫、コプラ、ボーキサイトなど日本が希望した物資については妥結には至らなかった。
タイ・仏印国境紛争
昭和15年11月23日 タイ軍はカンボジア西部で越境、軍事行動をとった。19世紀末からの仏のタイ領占拠以来の失地回復行動であった。 我が国は、日泰緊密関係を確立すると共に仏印に対する勢力拡充を図り、以って大東亜における指導的地位を確立 との立場から国境紛争の調停を決定した。 調停斡旋との引き換えに日タイ提携と南部仏印に対する日・仏印軍事協定締結が目的であった。 タイ・仏印は、ともに表面的には親日的ではあったが、裏面では英国と仏亡命政権の策動があり、提携は困難であった。
昭和16年2月 日本は「対仏印・泰 施策要綱」を決定、やむをえない場合は仏印に対して武力を行使すると定めたもので、具体的南進政策の最初のものであった。南部仏印進駐の基礎構想がここに決定決まれたのである。
昭和16年3月12日 東京での調停が妥結、5月9日には正式にタイ・仏印間平和条約が締結された。
昭和16年4月13日 日ソ中立条約が結ばれた。松岡外相の構想では、日独伊ソ4カ国提携を背景に対米国交調整を有利に行おうとする伏線を持っていた。
しかし既に独ソ関係は悪化し、その実現は不可能であった。
- 597 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 11:58 ↑
- 日米交渉の発足
日米国交調整は、昭和15年11月末以来近衛首相によって密かに裏面工作が行われていたが、 昭和16年3月8日 ハル国務長官と野村吉三郎駐米大使との間で、非公式会談が開始された。これは爾後開戦に至るまで数十回にわたって行われた会談の最初のものであった。
ハル4原則と日米了解案
4月16日 『ハル4原則』が野村大使に提示された。
1) あらゆる国家の領土保全と主権尊重
2) 他国の内政問題に対する不干渉原則
3) 通商上の機会均等を含む平等原則
4) 平和的手段により変更される場合を除き、太平洋における現状の不攪乱
また民間主導の非公式折衝として『日米原則協定案』を作製、これはのちに4月16日の『日米了解案』へと発展するもので、日本はこれを基本として交渉を進めようとの考えであった。 しかし多分に融和的は了解案の内容は、ソ連より帰国した松岡外相の手によって大幅修正された。松岡外相はまず日米中立条約を提案、さらに松岡修正(日米了解)案をハル国務長官に提出することにより交渉を進めようとしたが、ハルはほとんど問題とせず『ハル4原則』が交渉の基礎であることを強調した。
日米交渉は、政府・大本営の連携のもとに進められたが時間の経過とともに米側の態度は硬化し、速やかなる交渉成立には失敗した。三国同盟を外交政策の基本と考える松岡外相と、ドイツに対する敵意を強め原則的立場に固執するハル国務長官との対立は激化していった。 さらに国内でも、対米関係悪化を望まず日米交渉の妥結を望む内閣全体の意向から松岡はうきあがっていったのである。
6月22日 独ソが突如開戦した。
これは日本にとって大きな衝撃であり、我が陸軍は @武力南進 A米英と協調しつつ北方解決 B現状の推移を待つ の三案を検討したが結局北進/南進とも決しない『準備陣』案へと傾いた。わが国は長年にわたり対ソ戦を想定してきたが、陸軍省・海軍ともに北進には消極的であった。
この間南方情勢も悪化していた。前述の如く蘭印との交渉は不調に終わり交渉は打ちきりとなった。 米・英・蘭の諸国は南方の戦備を固め、対日政治的・経済的・軍事的圧迫は日に日に強まった。 このためわが国は、南部仏印を勢力下におさめるため、一部の兵力を進駐させることとし、6月25日 対米英戦を辞せず の決意をもって南方施策を促進することに決定した。
7月2日の御前会議
7月 2日 御前会議で『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』を決定した。
帝国は依然支那事変処理に万進し 且つ自存自衛の基礎を確立する為南進の歩を進め又情勢の推移に応じ北方問題を解決す という方針である。即ち南部仏印進駐の確認と対ソ警戒強化であった。 北進の基本構想は、のちに関特演を実施し極東ソ連軍が西方に兵力が転用されてから武力発動が予定されており、独ソ戦の推移如何であった。
だがドイツ軍の進撃は停滞し、8月9日 大本営は年内における北方解決企図を断念、南方に努力を傾注することとした。
一方フランスとの交渉は合意に達し、米国による援蒋ルートの遮断を目的として陸海軍は7月28日から南部仏印に平和進駐を開始した。
これを見た米国は、7月26日 対日資産の凍結を発令、英・蘭もこれに続いた。さらに8月1日 対日石全面輸出禁止を決定した。
いわゆるジリ貧論
経済断交は武力行使に勝るものであり、このままの状態が続けば日本海軍は2年後には全機能を喪失し、重要産業は1年以内に生産を停止し、「ジリ貧」となることは明かであった。 さらに翌年以降になれば、米側の軍備は急速に増加され、彼我の戦力比率は著しいものとなってしまう。もし戦うのであれば今である。
「機を失せず」「死中に活を求める」以外の方法は、石炭液化による人造石油の確保であったが国内の技術では甚だ不十分であった。
加えて極東米陸軍司令部が比島に新設され、英増援部隊がシンガポールに到着し、米軍事使節団は重慶に派遣されると米大統領は発表した。米海軍長官は 「米海軍は、米国の極東政策遂行のため必要な措置を敢行できる」と言明、ABCD包囲網はますます強化されていったのである。
- 598 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 11:58 ↑
- 日米巨頭会談提唱
近衛首相は対米交渉を促進するため強硬派の松岡外相を更迭、7月18日 一旦総辞職して第3次新内閣を発足させた。
8月 7日 近衛首相は日米両国首脳による直接会談を提議した。生き詰まりを打開するための最後の秘策であった。 陸海軍もこの会談に多大の期待をかけ随行員の人選などの準備を進めたが、米国からの回答は近衛に「甚だ失望的であった」と書かせた程冷淡であった。
8月14日 米英共同宣言いわゆる『大西洋憲章』が発表された。これはチャーチル首相主導のもと企図された対日警告の一種であったがルーズベルト大統領は 「3ヶ月間日本をあやすこと(to baby)ができる」と語ったといわれており、米英首脳はこの共同宣言以降においては日米交渉をもって時間稼ぎとみなしていたと考えられた。
8月26日 近衛首相は米大統領あての親書を送り、日米首脳会談を早急に実現するよう再度提案した。
これに対して米大統領は「重要な原則問題(ハル4原則)について合意に達した上でなければ会談には応じられない」と回答してきた。それは対日不信もさることながら米国の遅延策−対日戦争準備に他ならなかった。
陸海軍の戦争決意
政府が外交による時局収拾に苦慮しているとき、統帥部・大本営も時局打開の検討を進めていた。 対米戦の場合の主役は陸軍ではなく海軍であったため、海軍主導による国策決定を陸軍は期待していた。
8月16日 海軍から『帝国国策遂行方針』が提示された。これは10月下旬を目途として戦争準備と外交を併進させ、外交が妥結しない場合は武力を発動する というものであった。 これは海軍としては画期的な重大決意の表明であり、以降この海軍案を基礎として大本営は研究を進めた。
これに対し陸軍は、戦争の決意なくして戦争準備を進めることはできない として反対し意見が対立した。陸海軍の折衝の結果 「戦争を辞せざる決意のもとに〜」 と修正し 『帝国国策遂行要領』として9月3日の大本営政府連絡会議で討議された。この会議では和戦決定時期のリミットについて問題とされたがこの時点では不明確のままであった。
9月6日の御前会議
この『帝国国策遂行要領』が御前会議で決定されたとき、昭和天皇は異例の御発言をされ、外交による局面打開を要望された。また明治天皇の御製を読み上げられ、和平への希望を強調された。御前会議は極度の緊張裡に散会となったのであった。
四方の海 みなはらからと思う世に など波風の立ち騒ぐらむ
その後政府は、聖旨に沿って日米交渉に努めたが進展することはなかった。
8月15日 海軍は出師準備第2着を発動、9月1日 年度海軍戦時編制実施を発令した。
大本営は和戦の決定時期を遅くとも10月15日までに行うよう政府に要望した。政府首脳の意見は一致せず、情勢判断を異にしていた。 この決定をめぐる折衝において、東郷外相は交渉継続を主張、及川海相は首相に一任、東條陸相は米国提案に反対 という状況であった。
海軍は日米戦争は不可能であるとの判断を有していたが、之を公開の席上で発言することはできなかった。これは当時の空気として「海軍は戦えない」などと口にすることは
1)海軍の存在意義を失う 2)艦隊の士気に影響 3)陸海軍間の物資争奪において「戦えない海軍に物資を与える必要なし」 となり
さらに軍令部は毎年作戦計画を陛下に奏上しているが、対米戦はできないということは陛下に対し嘘を申し上げることになってしまうのである。
これにより武藤陸軍軍務局長より、海軍は戦えないと言ってくれれば陸軍強硬派も断念する との働きかけも実を結ばなかった。
- 599 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 11:59 ↑
- 第3次近衛内閣総辞職
10月14日 近衛首相は、官邸に東條陸相の来邸を求めて支那からの撤兵問題について再考を求めた。 支那事変に重大責任がある私としては更に前途に見通しのつかない大戦争へ突入することは何としても同意し難い。この際一時屈して撤兵の形式を米国に与え、日米戦争の危機を救うべきである として同意を求めた。
これに対して東條陸相は、今米国に屈すればますます高圧的に出てとどまるところがない。米国の要求は日本を独伊から切り離すことにある。もしその方向に行けば、米英が独伊を撃滅した後に日本打倒に向かってくるだろう。 支那全土よりの撤兵は、陸相としても日本陸軍としても、大陸に尊い生命を捧げた幾多の犠牲に対し、絶対に認めることはできない。 と主張して物別れとなった。
陸軍は戦争を必ずしも望むものではなかったが支那からの撤兵には反対し、外相は支那からの撤兵を認めなければ日米交渉は成立しないとの見解であった。
とかく優柔不断の感があった近衛首相には決断することができず、第三次近衛内閣は閣内不統一によって総辞職した。
東條内閣の成立
近衛・東條両大臣は、後継首班に東久邇宮内閣を提唱した。 しかし昭和天皇は「皇族が政治の局に立つ事は平和の時はともかく戦争になる虞の場合には慎重に考えるべきである」との御内意であった。また木戸内大臣も宮様内閣には反対であった。結局名目上の白紙内閣として陸軍部内の統制を得られる人物として東條陸相が推挙され組閣の大命が降下したのである。 近衛政権をつぶしたのは陸軍だから、陸軍が最後まで責任を負えばいい とする空気もあった。なお、東條本人は陸相に留任する意図はまったくなく、首相就任など考えてもいなかった。
10月16日 東條内閣が成立。東條首相は9月6日決定の『帝国国策遂行要領』を白紙撤回するように との陛下の聖旨を受け、連日再検討をおこなった。 大本営側はこれに焦慮し、時間が切迫しているので検討を急がれたいと申し入れたが、政府は十分検討して責任をとりたい と慎重であった。
11月1日の大本営政府連絡会議
11月 1日 東條首相は以下の3案を示し、各閣僚、大本営首脳の意見を求めた。
1) 戦争を極力避け、臥薪嘗胆する
2) 直ちに開戦を決意、政戦略の諸施策等はこの方針に集中する
3) 戦争決意の下に、作戦準備の完整と外交施策を続行し妥結に努める
陸軍省首脳を含む閣僚の大部分は3)に賛同、大本営/統帥部側の主張は2)であった。
同日11月1日の連絡会議は、午前9時から深夜に及ぶ激論が続く歴史的会議となった。東郷外相は、外交交渉の条件とする『甲案』のほかさらに穏やかなる『乙案』を提議した。
甲案は、9月29日提出の日本側提案を修正緩和したもので
1 ハル4原則の通商無差別問題は、全世界に適用されるという条件で承認する
2 三国同盟の解釈履行問題は、いわゆる独自解釈に基づく
3 支那撤兵問題は、華北・蒙彊の一定地域と海南島は25年駐屯 それ以外は2年以内に撤退、仏印からはただちに撤退
乙案は、第2次譲歩案であり、米による資産凍結前=南部仏印進駐前の状態に復帰しようというもので
1 日米両国は、仏印以外のアジア・太平洋に武力進出を行わず
2 日米両国は、蘭印の物資獲得について協力する
3 日米両国は、通商関係を資産凍結前に戻す
4 米国は、日支和平の努力に支障を与えない
5 以上が成立すれば、日本は南部仏印から撤兵する
11月 5日の御前会議で『帝国国策遂行要領』は原案どおり採決され、日米交渉は甲案ついで乙案によって進められたが、米国の態度は強硬であった。 打開をはかるべく大使辞任を申し出ていた野村大使の補佐として来栖三郎特使の派遣を決定、当時としては異例の空路によって11月15日ワシントンに到着した。
しかし、来栖特使の派遣によって状況が変わることはなかった。米側は三国同盟の死文化を要求するといった状況の変化が見られたが、すでに交渉に見きりをつけており、不信感は決定的であった。
アメリカはマジック情報により日本の外交電報を解読していた。日本が「11月25日までに日本の要求に応じない場合は戦争も辞さない」ことを知っていた。ハル国務長官は「日本は既に戦争の車輪をまわしはじめている」ことを知った上で交渉を行っていたのである。のみならずルーズベルト大統領は、既に対日戦争を決意し日本をして先に手をださせようとしていた。このように実に一国の外交機密暗号電文のほとんどが、長きにわたって想定敵国に解読されていた ということは外交史上空前のことであった。
- 600 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 11:59 ↑
- ハル・ノート
11月26日 合衆国及び日本国間協定の基礎概略(tentative and without commitment)とオーラル・ステートメント いわゆる『ハル・ノート』が提示された。
1 ハル4原則の無条件承認
2 支那・仏印よりの軍・警察の全面撤退
3 三国同盟の死文化
4 重慶政権以外の政権の否認
これは今までの日米交渉のプロセスを全く無視した最後通牒ともみなされるものであり、米大統領の斡旋により成立した日露講和条約(明治38年)をまったく無視し、遼東半島租借権のみならず全満州からの総撤退(異説あり)を要求していた。これは我が国を日清・日露戦争以前に戻ることを要求する峻烈なものであった。 「甲案」には実質的譲歩としては見るべきものは少なかったにせよ、米国案に少しでも歩み寄ろうとする誠意は払われており、「乙案」は心から戦争を回避したいという東郷外相の熱意の表れであった。その東郷外相は、ハル・ノートを受け取ると和平への熱意を一挙に失い「目がくらむばかりの失望」にうたれ、木戸内大臣は万事休すと思った。戦争を回避しようとしていた多くの人々に決定的打撃を与えたのであった。
永野修 軍令部総長
「米国の主張に屈すれば亡国は必至とのことだが、戦うもまた亡国であるかも知れぬ。だが、
戦わずしての亡国は魂を喪失する民族永遠の亡国であり、最後の一兵まで戦うことによってのみ死中に活を見出し得るであろう。
戦ってよし勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残ればわれらの子孫は再起、三起するであろう。」
開戦決意
11月29日 宮中にて政府と重臣の懇談会が行われ、重臣たちは政府の開戦決意を真にやむを得ないと諒承。
12月 1日 御前会議でついに開戦−自存自衛の防衛戦争の開始−が決定された。
その後、ルーズベルト大統領の天皇あて親電による局面打開が図られたが、既にハル・ノートに接したる日本では問題にならなかった。それは「マジック」によって我が国の手の内を知った米大統領による、単なる戦争回避のゼスチャーに過ぎなかった。
- 601 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 11:59 ↑
- 三国同盟 支那問題 駐兵と汪政権 通商その他
日米諒解案
4月 9日 日本−軍事上の義務はドイツが
現参戦国以外の国から攻撃
された場合のみ発生 と解釈
米国−一方を援助し他方を攻撃しない
米国は次の条件で和平を勧告
・支那独立
・日支協定に基づく日本軍の撤兵
・非併合・非賠償
・蒋介石・汪兆銘両政権の合流
・満州国承認 太平洋海空兵備の制限
物資供給の提携
通商金融の提携
平和的手段による
日本の南方資源取得を支持
日本側
最終提案 甲案
11月 2日 条約の解釈と履行は日本政府が
決定するが拡大解釈はしない
(米国が先にドイツを攻撃しない
限り参戦しない)
北支・蒙彊の一定地域と海南島に
一定期間駐兵(概ね25年)
他地域は和平後2年以内に撤兵
通商無差別原則が
全世界的に適用されるならば
支那でも適用に合意
ハル・ノート
11月26日 米日英支蘭ソタイ間に
不可侵条約締結
三国同盟からの脱退・空文化
支那及び仏印からの
全兵力・警察力を撤去
満州からの即時撤兵
蒋介石政権以外の否認・不支持 通商協定の協議を開始
資金凍結の撤廃
ハルノートに対する反応
東條首相
11月26日附覚書は日本に対する最後通牒である。
この覚書は我が国としては受諾することができない。かつ米国は日本の受諾し得ざるを知って通知して来ている。
以上のことから米国側においては既に対日戦争の決意をしているものの如くである。
それ故いつ米国より攻撃を受けるやも知れず、十分警戒を要する。
東郷外相
出席者の各員総て米国の強硬態度に驚いた。軍の一部の主戦論者はほっとした気持ちがあったらしいが、
一般には落胆の色がありありと見えた。
米国が今迄の経緯及び一致する範囲を凡て無視し、従来執った最も強硬な態度さえ越えた要求をここに持出したのは
明かに平和的解決に到達せんとする熱意を有しないものであり、ただ日本に全面的屈服を強要するものである。
結局長年にわたる日本の犠牲を全然無視し、極東に於ける大国の地位を捨てよと云うのである。
これは日本の自殺と等しい
- 602 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:00 ↑
- 大本営機密戦争日誌
米の世界政策、対極東政策何等変化なし。現状維持世界観による世界制覇之なり
=参謀本部第20班による業務日誌=
宇垣聯合艦隊参謀長
帝国の主張する処は一も容るる処なく、米本来の勝手なる主張に各国の希望条件さえ織込まれてあり。
今更何の考慮や研究の必要あらん、米国をやっつける外に方法なし。
=戦藻録 11月29日附=
嶋田海軍大臣
之では将来日本は大陸における特殊地位を失い、満州・支那においての投資開発はその根拠がなくなり、
更に朝鮮の現状維持も困難となるだろう。之は政府も国民も到底受諾し得る条件ではない。(中略)
或いは先方かた積極的行動に出る危険も考慮せねばならず、我が国としてはこのハル・ノートを
実質的には最後通牒と諒解するの外なかった。
パールインド代表 極東軍事裁判所判事
真珠湾攻撃の直前に米国国務相が日本に送ったものと同じような通牒を受け取った場合、
モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえも戈をとって起ち上がったであろう
オリバー・リットルトン 英国軍需大臣
米国が戦争に押し込まれたというのは歴史を歪曲するのも甚だしい。
米国があまりにひどく日本を挑発したので日本軍は真珠湾で米軍を攻撃するの止む無きに至った。
=1944年6月20日 ロンドンでの演説=
ロバート・クレイギー 駐日英国大使
ハル・ノートは日本の国民感情を全く無視したもので、あれでは日本として立たざるを得なかった。
イギリス政府が私の意見に耳を貸さなかったのは、かえすがえすも残念だ。
太平洋艦隊司令長官 キンメル大将
1941年12月7日(米国時間)朝の攻撃は、
コーデルハル国務長官の11月26日の対日最後通牒に対する烈火の回答であった。
- 603 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:00 ↑
- 開戦に至る米側のうごき
ルーズベルト大統領は独自の考えで、11月6日ころ「6ヶ月間軍事行動を停止し、その間日支両国が和平をはかるよう提案しても良い」として、スチムソン陸軍長官の意見を求めた。スチムソン陸軍長官はフィリピンへの兵力移動は中止すべきでなくまた支那と日本とを交渉させるべきではない として反対した。 同大統領の構想は、冒頭に6ヶ月間と期限を特記していることから見ても時間稼ぎの意味が強いものであった。
スチムソン陸軍長官の日記
「我々が大きな危険にさらされる事なく、最初の発砲をするような立場に日本人をいかに追いこむか」 (how we should maneuver them into the position of firing the first shot) が米国の狙いであった。
他にも11月11日提出の国務省による暫定協会案−できるだけのことをする我々(米国)の努力を記録にとどめることをねらいとしたもので、全体を通じて米国の主張する原則からは一歩も後退せず、日本の歩みよりを求めたものや、 11月17日起草 国務省極東部による『太平洋における若干の領土と日本の艦船を交換する提案』などがあった。
ハミルトン極東部長は提案にあたり「あらゆる可能性を探求するようにとの(ハル)長官の要求に照らしてこれを進達するものであります」として、米国務省はいかにも真剣に日本との戦争回避を希望していたかのようである。
だがコーデル・ハルの回想録には、「時間を稼ぐ」ために「藁をもつかもう」としたことを物語っているかのような記述があるのである。仮にハル及び国務省当局が真に対日戦争を回避して太平洋の平和を念願していたとしても、その為に主義・原則についての自説を謙る考えはいささかもなかったことは明確であった。
開戦の詔書に「彼は毫(すこし)も交譲の精神なく」という文言は「今や自存自衛の為蹶然起って一切の障礙を破砕するの外なきなり」と共に、開戦の直接の契機を表す詔書の眼目である。
ハルは回想録で「11月26日 野村・栗栖両大使に手交した提案(ハル・ノート)は、この最後の瞬間においても、少しでも常識が東京の軍部の心に浸透するようにとの望みをもって、我々の会談を継続するための誠実なる努力であった」と記している。
だが一方で、翌11月27日 ハルはスチムソン陸軍長官に対して「自分は日本との暫定協定を取りやめた」 さらには「私はこのことから手を洗った。今や問題は貴方及びノックス海軍長官 即ち陸海軍の掌中にある」 と語っているのである。これは一体何を意味するのか?
ハル国務長官自らが今や交渉を放棄して開戦を決意したことを明かに証拠だてるものではないのか? ハル・ノートが日本に交渉を断念させるものであることは、ハル長官以下国務省全員熟知のことであった。
ルーズベルトは英国に愛着を抱くとともにソ連にも好意的な感情を終始持ち続け、他方ドイツと日本を激しく嫌悪していた。ヒトラーの脅威から英国を救うために米国が対ドイツ戦に参加できるよう、参戦に消極的であった世論・米国議会を無理やり日本との戦争に引きずり込んだ結果であった。 根底にあった米国による対日謀略を見逃してはならない。
ともあれ日本は、真珠湾攻撃の戦果に狂喜しながらも戦争の前途に緊張を禁じ得なかったが、米国は真珠湾の大敗(実は大敗でもなかった)を喫しながらも、戦争突入に安堵を禁じ得なかった、という奇妙な現象が見られた。これは我が国が米国(英国)の政治的狡猾さを過少評価し、世界の変乱における自らの試練の未熟さというものを物語るものであろう。
- 604 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:00
- http://cgi.io-websight.com/index2/uploarder/img/hare3280.gif
- 605 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:08
- だからぁ?国際関係なんてだまされるほうがわるいんやん。
- 606 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:12 ↓
- 昼休みにコピペしに端末室行ったのか・・・。
友達作れよ。・゚・(ノД‘)・゚・。
- 607 : 実に興味深い :2003/05/27(火) 12:13 ↓
- >>605さん、ここは「彼」以外みんな下げですよ。
どうやら、とんでもないモンスターに育て上げてしまったようで(w
本当に「恥」を知らないなだなぁ、と。
- 608 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:18 ↑
- ◆ ハワイ作戦 ◆
◆作戦の背景◆
我が国は明治40年 始めて帝国国防方針がたてられ、海軍は米国を主な想定敵国としていた。
『用兵綱領』による対米作戦は、
「開戦初頭、まず東洋にある敵海上兵力を掃討し、西太平洋を制圧して交通線を確保、守勢勢力によって
敵の渡洋来攻我が近海に迎えて撃破し、不敗持久の戦略態勢を確保し敵国の戦意を挫折させる」 という方針であった。
その後時代とともに変遷が見られたが、『邀撃作戦』という攻撃防御の基本戦略は、
明治40年以来30年以上の長期にわたり我が海軍の伝統的な対米戦略思想となった。
昭和14年8月 山本五十六中将は聯合艦隊司令長官に親補され、作戦部隊の最高責任者となった。
山本長官はかねてより、旧来からの『邀撃作戦』思想では戦争の勝敗を決定づけるような戦果は期待できず、
たとえ戦闘で勝利を得ても長期戦となり結局敗れることになる、と判断していた。
そもそも航空戦力の発達した今日では、邀撃艦隊決戦はまず起こり得ないと考えていた。
米国さらには英国の国力・軍事力に大きな隔たりのある日本としては、開戦初頭から積極的作戦を行って先手を取り続け、
敵を守勢に終始させる以外に勝機を見出し得ないと判断していた。
山本長官は長い外国勤務と広い視野から、情勢を適正に判断していた。
三国同盟に反対し米国との戦争は回避すべきと考えていたが、聯合艦隊司令長官としての立場からは
万一の開戦に備え、対米作戦準備の完遂に努力していたのである。
昭和15年3月 昼間雷撃訓練の見事な攻撃ぶりを見て、聯合艦隊参謀長福留繁少将に
「飛行機でハワイをたたけないものか…」と漏らした。
これが山本長官によるハワイ奇襲の考えを口にした最初であったとされる。
しかしこの作戦は戦略的奇襲を企図するもので、その隠匿・攻撃時の敵艦隊所在の有無などに不安があるばかりでなく、
作戦失敗あるいは空母の喪失がその後の作戦に及ぼす影響を考えると、山本長官としてもなかなか実行の決断はつかず、
検討に検討を重ねた。
- 609 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:19 ↑
- ◆奇襲作戦の意見具申と軍令部の反対◆
昭和15年11月 山本長官はひそかに検討を重ねてきたハワイ作戦を断行することに踏み切った。
長官の構想は、米主力艦隊に対する痛撃により敵の士気喪失を図るとともに米艦隊の西太平洋進攻を封じ、
これによって我が本土空襲を阻止し同時に南方作戦の側背を守ろうとするものであった。
その決断は長い間検討を重ねていた結果であったから既に長官の信念となっていた。
しかし「安全堂々たる正攻的順次作戦に自信なき窮余の策にすぎない」と長官が自認したハワイ作戦が
いかに大きな危険をはらんでいるかは、「桶狭間と鵯越(ひよどりごえ)と川中島を一緒にしたもの」であり、
「非常に危険困難にして敢行には全滅を覚悟しなければならず」とする嶋田海相あての書簡からも伺い知ることができる。
昭和16年1月末 長官の幕僚として最適任と認めていた大西滝治郎少将ほかに命じハワイ作戦の基礎的研究を行い
その後聯合艦隊司令部は、ハワイ作戦を中央の作戦計画のなかに採用するよう、再三にわたり軍令部に要望し続けた。
しかし従来からの邀撃作戦に成算ありと判断していた軍令部は、この奇襲作戦はあまりに投機的であり成功の確信がもてず、
失敗した時の他方面の作戦に及ぼす影響が大きい との理由からその採用に難色を示した。
中でも特に困難と判断されたのは以下の3点であった。
1 水深が12Mでの雷撃の有効性
2 ハワイまで3500浬(6500KM)もの距離の隠密行動
3 赤城・蒼龍・飛龍は航続力不足であり、気象状況の悪い北方航路での困難な洋上補給
さらに軍令部としてはこの空母艦載機兵力を南方作戦に増強すべきであるとの意見であった。
折衝の結果軍令部としては主力空母4隻をハワイ作戦に、2隻を南方作戦に充当する腹案であった。
一方連合艦隊の中にも反対があった。
第1航空艦隊司令長官南雲忠一中将は、作戦実施に自信がもてないことから
南方航空作戦担当の第11航空艦隊司令長官塚原二四三中将は、用兵上の見地から、
ともにハワイ作戦の中止を山本長官に意見具申した。
しかし山本長官は断固としてこれを退け、さらに
「勝敗を第1日において決する」覚悟を強調した長官は、使用できる空母全部を充当すべきであるとして
「職を賭しても母艦6隻案を堅持する」決意のもとに軍令部と交渉、永野軍令部総長から希望を容れる旨の意向を示され
昭和16年10月29日 聯合艦隊司令部は軍令部からその内示を受け
昭和16年11月 5日 正式にハワイ作戦の実施について指示を受けるに至った。
じつに大東亜戦争開戦の約1ヶ月前のことである。
- 610 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:19 ↑
-
◆戦争決意と作戦海面への進出◆
日米関係は我が政府の期待に反して悪化の一路を辿っていた。近衛内閣は総辞職し10月18日に東條内閣が成立していた。
東條内閣は、陛下の御内意により武力発動の決意を一旦白紙に戻して再度情勢検討に入ったものの、
結局 「対米交渉が12月1日午前零時までに成功したら武力発動を中止する」ことを条件にして作戦準備を完整することとなった。
しかし当時の情勢としては日米交渉が妥結する可能性は低かった。
陸海軍統帥部は11月5日の御前会議の決定に基づいて、開戦概定日を12月8日とした。
11月 5日 前述のように大本営海軍部は山本聯合艦隊司令長官に対し、開戦準備の統帥命令を伝達、
これに基づく作戦方針を示し、作戦前の待機拠点に兵力を展開するように指示した。
9月 1日 全面的な戦時編制を発令しており、10月中旬の戦艦長門における図上演習によって麾下部隊に対し
11月 5日 作戦準備の基礎として作戦計画は示された。更に聯合艦隊は「聯合艦隊の準拠すべき作戦方針」に基づき
11月 8日 「機密聯合艦隊命令作第1号」にて計画を発布、同第2号によって開戦概定日を12月8日と発令し、
各部隊は作戦開始前の待機地点に展開することとなった。
11月21日 聯合艦隊は軍令作第5号で「第2開戦準備」を下令
11月26日 択捉島のヒトカップ湾に集結していた機動部隊は密かに出撃したのである。
- 611 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:19 ↑
- ◆情報の収集と機密保持◆
この作戦の必成を図るため海軍は一体となって機密保持、企図秘匿及び情報収集と通報に万全を期した。
情報収集については、昭和16年9月24日 真珠湾を5水域に分けて各水域ごとに艦船の停泊状況を整理する要領を定め
時局の逼迫とともに所要事項の資料を加えて情報を収集していた (A情報と呼称)。
また軍令部第3部によって邦人引揚船に航空や潜水艦の専門家を乗船させ、常用航路ではない艦隊予定航路/北方航路
を航海させて航路上の気象や海上模様を視察させた。
ホノルル総領事附‘森村書記生’として諜報活動に従事した、吉川猛夫予備役海軍少尉も軍令部第3部嘱託である。
機密保持については、この作戦を知らされていたのは関係者の中でも一部の者に過ぎなかったほど厳重を極めた。
例えば前記「機密聯合艦隊命令作第1号」は、直接関係ない部隊に配布されるものについては、
本ハワイ作戦部分を切り取り白紙とした。
企図秘匿については、秘匿そのもの以外に我が企図を誤判断させるための手段が採られた。
12月1日には艦船・部隊に対する無線呼出符号を変更し、機動部隊は出港後厳重な無線封鎖が実施された。
また九州方面の基地航空部隊や艦隊による偽交信によって、艦隊所在地を偽装し、
さらには開戦直前、横須賀海兵団の水兵達による東京見学(新聞社訪問など)を行い、
艦隊の出港を悟られぬよう誤判断を誘導した。
- 612 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:20 ↑
- ◆米国のハワイ防衛◆
ハワイ諸島の防衛は、第14海軍区司令官ブロック少将が太平洋艦隊司令長官キンメル大将の指揮下にあって
基地諸施設の運営、艦隊に対する補給、修理などに任じていた。
また陸軍部隊はショート中将の率いる2個師団、沿岸砲兵隊、航空部隊などを有し、
陸海空からの攻撃に対する防衛はすべて陸軍の担任となっていた。
レーダーは移動式のものが計5ヶ所に配置され、固定式のものも据付工事中であった。
在ハワイ航空兵力
米海軍
哨戒機 81機
雑用小型機 32機
海兵隊所属 61機
空母搭載用 130機
米陸軍
各種計 180機 (第1線機は約半数)
在ハワイ陸上兵力
オアフ島、カウアイ島、マウイ島、ハワイ島 計43000名
ほかにオアフ島には海兵隊が652名所在していた。
真珠湾の雷撃防止に関する防御網は設置されなかった。これは、奇襲攻撃を受けたとしても
水深(約12〜14M)から考え、飛行機からの魚雷攻撃を受けることはほとんど考えていなかったからである。
これは当時の米英空母機の術力から判断されたものであり、まして日本の空軍は旧式で練度は低いと考えられており
仮に奇襲を受けても被害程度は許容範囲と考えられていた。
ところが我が海軍は早くから停泊艦攻撃のため浅海面で使用できる魚雷の研究をおこなっていた。
加えて昭和15年11月 英軍機による伊タラント軍港への攻撃によってイタリア戦艦を撃沈した戦訓に刺激され、
敵艦隊根拠地を攻撃する場合を考慮して、12Mの水深で使用できる魚雷とその発射法の研究を進めていたのである。
そして我が海軍航空隊の実力は、当時紛れもなく世界で第一級、否、世界最強であった。
米海軍はもちろん我が海軍でもその実力を認めていた人は少なかった。
- 613 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:20 ↑
- ◆機動部隊の攻撃◆
機動部隊は、12月3日に山本長官に賜った勅語とこれに対する長官の奉答文の伝達並びに長官の激励の電報を受け、
12月7日 0700(現地時間1230) 旗艦赤城のマストに、『 皇国の興廃この一戦にあり 各員一層奮励努力せよ 』
の信号を掲げ、速力を上げてオアフ島からの敵飛行哨戒圏内に突入していった。
このころハワイのラジオ放送はまったく異常を示さず、音楽の放送を続けていた。
海軍航空隊の伝統に育まれ、この攻撃のため鹿児島湾などで血のにじむような訓練を行い
しかも世紀の大決戦に参加する光栄に感激していた搭乗員たちは、生還など考えられず、
あるいは遺書を認めながらも最後の点検を行い、心静かに最後の眠りについた。
攻撃隊進撃図 0120 東の空が明るくなるころ一斉に風上に向首し、
0130 第1次攻撃隊 ついで上空警戒機を発艦させた。
0200 4機の水上偵察機を射上発艦、索敵警戒配備につき
0245 第2次攻撃隊を発艦させた。
このように母艦から百数十機が一度に発艦するのは
海軍史上初めての壮挙であった。
- 614 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:20 ↑
- ◆第一次攻撃◆
総指揮官 赤城飛行隊長 淵田美津夫中佐 計183機 第1集団 水平爆撃隊 艦上攻撃機 49機 指揮官 淵田中佐直率 52
雷撃隊 艦上攻撃機 40機 指揮官 村田重治少佐 58
第2集団 急降下爆撃隊 艦上爆撃機 51機 指揮官 高橋赫一少佐 56
第3集団 制空隊 艦上戦闘機 43機 指揮官 板谷 茂少佐 57
0319 総指揮官は略語「ト連送」で全軍突撃を命じ、ついで
0322 略語「トラ連送」で奇襲成功を放送した。この電報は東京でも聯合艦隊旗艦でも直接受信できた。
急降下爆撃隊は2隊に分かれ、主隊はフォード、ヒッカム両飛行場に向かいハワイ攻撃の第1弾を投じた。
また坂本大尉率いるもう1隊は、ホイラー飛行場を急襲、敵戦闘機に壊滅的な打撃を与えた。
雷撃隊は敵戦艦群に攻撃を集中した。
雷撃は順調に実施され、この日のために改良された浅沈度用魚雷は訓練時よりも良好で
発射した魚雷はほとんど命中、敵艦に甚大な損害を与え、予期以上の戦果を挙げ得たと判断
「各機攻撃成功 効果甚大」を報じた。
水平爆撃隊は、各中隊(10個中隊)ごとに爆撃を開始した。
幸運にも真珠湾上空だけが晴れあがり高度3000Mからの水平爆撃が可能であった。
沈着かつ正確な爆撃によって予想以上の命中率をあげ、しかも徹甲爆弾の威力は絶大であった。
この間、敵の防御砲火は見られたが、撃墜された水平爆撃機は1機もなかった。
制空隊は攻撃隊の上空にあって敵戦闘機の反撃に備えていたが、迎撃してきた敵戦闘機はわずかに4機に過ぎず、
これらもすぐに撃墜したので6群に分かれて飛行場への地上機を銃撃した。
第1次攻撃隊は攻撃を終え0445から0600にかけて帰艦したが、風による母艦の動揺が大きく着艦は困難であった。
- 615 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:21 ↑
- ◆第二次攻撃◆
総指揮官 瑞鶴飛行隊長 島崎重和少佐 計167機 第1集団 水平爆撃隊 艦上攻撃機 54機 指揮官 島崎少佐直率 57
第2集団 急降下爆撃隊 艦上爆撃機 78機 指揮官 江草隆繁少佐 58
第3集団 制空隊 艦上戦闘機 35機 指揮官 進藤三郎大尉 60
0245 発艦した第2次攻撃隊は
0425 全軍突撃を命じ
0432 第1次攻撃隊と入れ違いに攻撃を開始した。
制空隊は、オアフ島の制空権を第1次攻撃隊から引継ぎ、反撃してきた若干の敵戦闘機を撃墜して制空権を持続
続いて地上の飛行機攻撃に移り大戦果をあげた。
水平爆撃隊は、フォード、ヒッカムなどの飛行場に殺到、0437から爆撃を開始した。
急降下爆撃隊は、0432から在泊艦船の攻撃を開始、終了後は付近の飛行場を銃撃した。
第2次攻撃隊の攻撃を開始したころは真珠湾は煤煙や火焔に覆われ、目標の視認は困難であった。
そのため水平爆撃は高度をさげて1500Mから1800Mで爆撃を行い、
急降下爆撃隊の中には、やむをえず雲や煙をつたって敵の打ち上げる対空砲火の弾道を逆に辿って
目標を確認した上攻撃したものもあった。
このような不利な視界状況に加え、敵も防御態勢を整える時間的余裕があったので防御砲火は激烈となり、
もはや「奇襲」ではなく「強襲」であり、第2次攻撃隊は第1次攻撃隊に比較して被害が大きかった。
- 616 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:21 ↑
- ◆潜水部隊の攻撃◆
機動部隊の行動とは別に、先遣部隊として潜水艦は配備位置にあって開戦を待ち続けていた。
12月7日夜 開戦時の配備についた先遣部隊のうち特別攻撃隊の特殊潜航艇5隻は、
同夜真珠湾外において各々母艦を発進した。
その後特別攻撃隊はラナイ島の西方海面で収容配備についたが、1隻もかえることはなかった。
しかし8日夜、1隻の特殊潜航艇から「われ奇襲に成功せり」の電報があったことや、同夜港外から真珠湾方面で
爆発らしい火焔を望見したところから、特別攻撃隊は攻撃に成功したが、遂に脱出できなかったものと判断された。
米側資料によると、米哨戒艇は現地時間0342 真珠湾港外で特殊潜航艇1隻を発見、その後飛行機と協同してこれを撃沈、
また1隻は故障のためベローズ航空基地沖に乗り上げ、搭乗員の1人が捕虜となった。
その後港口防潜網が開かれ2、3隻の特殊潜航艇が潜入した。
1隻は在泊艦を攻撃したが魚雷は命中せず、逆に撃沈されてしまった。
また1隻は湾口付近で巡洋艦に対し魚雷を発射したがリーフに命中爆発と記録されている。
戦後の調査では、岩佐直治大尉の艇と横山正治中尉の艇は湾内潜入に成功し攻撃を決行している。
戦後真珠湾外で引き揚げられた1隻と酒巻和男少尉の艇が潜入に失敗したことは確実であるが、残る1隻の消息は不明。
- 617 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:21 ↑
- ◆参加艦艇と主要指揮官◆
部隊名 艦 名 職 官 期 姓 名
第1航空艦隊 司令部 司令長官
参謀長
首席参謀
航空甲参謀
航空乙参謀
航海参謀 中将 36
少将 41
中佐 48
中佐 52
少佐 57
中佐 51 南雲 忠一
草鹿龍之介
大石 保
源田 実
吉岡 忠一
雀部利三郎
第1航空戦隊 赤 城
加 賀 南雲中将 直率
第2航空戦隊 飛 龍
蒼 龍 司令官
首席参謀 少将 40
中佐 49 山口 多聞
伊藤 清六
第5航空戦隊 翔 鶴
瑞 鶴 司令官
首席参謀 少将 40
中佐 48 原 忠一
大橋 恭三
第3戦隊 比 叡
霧 島 司令官
首席参謀 中将 38
中佐 48 三川 軍一
有田 雄三
第8戦隊 利 根
筑 摩 司令官
首席参謀 少将 39
中佐 50 阿部 弘毅
藤田 菊一
第1水雷戦隊 阿武隈
駆逐艦9隻 司令官
首席参謀 少将 41
中佐 50 大森仙太郎
有近 六次
第2潜水隊 伊19潜
伊21潜
伊23潜 司 令 大佐 44 今和泉喜次郎
第1補給隊 補給艦4隻 指揮官 大佐 39 大藤 正直
第2補給隊 補給艦3隻 指揮官 大佐 40 新美 和貴
- 618 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:22 ↑
- ◆戦 果◆
撃 沈 大 破 中 破 戦艦アリゾナ 完全喪失 戦隊司令官、艦長戦死
戦艦 4 1 3 戦艦ウエストバージニア 擱座 艦長戦死
巡洋艦 2 2 戦艦オクラホマ 転覆
駆逐艦 3 戦艦カリフォルニア 擱座
その他 2 1 標的艦ユタ 転覆完全喪失
合 計 6 7 5 機雷施設艦オグララ 繋留移動後沈没
航空機 188機 真珠湾攻撃調査委員報告の完全喪失機数
231機 「真珠湾攻撃記録」米国上下両院合同調査委員会
戦死、行方不明 2402名 含 一般市民68名
戦傷 2382名
軍事施設以外を攻撃しないように目標を厳重に限定したため、一般市民に与えた被害は少なかった。
航空機の被害実数は上記のように確定せず、諸説存在する。
- 619 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:22 ↑
- ◆損 害◆
戦闘機 急降下爆撃機 水平爆撃機 雷撃機
第1次攻撃隊 3機 1機 0機 5機
第2時攻撃隊 6機 14機 0機 −
喪失機 計 29機
要修理機 122機
戦死搭乗員 55名
特殊潜航艇5(乗員9名戦死 1名捕虜)
ニイハウ島に不時着した飛龍戦闘機隊 搭乗員 西開地1飛曹は自決。
また帰路を失した瑞鶴艦爆隊の1機は、「われ不時着す」と報告し行方不明となり戦死した。
◆機動部隊の第2撃問題◆
0922(現地時間1350)ごろ、機動部隊は全攻撃隊の収容を終えた。
各艦からの報告を総合し攻撃成果は十二分に達成したと判断したので、南雲長官は再攻撃を下令せず北上を続けた。
機動部隊指揮官が第2撃を下令しないのに対して、赤城の搭乗員の間には
「この好機に乗じて再度攻撃しべし」との意見があったが、強く司令部に意見具申した者はなかった。
山口第2航空戦隊司令官は、「第2撃準備完了」と信号しそれとなく催促したが、
「南雲さんはやらないよ…」と漏らして意見具申は行わなかった。
次席指揮官たる三川第3戦隊司令官だけは、更に攻撃を加えるべきであると意見具申している。
南雲機動部隊指揮官が第2撃を断念し、引揚を決意した理由は
1 第1回空襲によってほぼ所期の目的を達成し、第2回攻撃を行っても大きな戦果は期待できない。
2 第2回攻撃が純然たる強襲となるのは確実で、戦果の割には犠牲は著しく増大する。
3 我が艦隊の概位は米軍に推定されており、一方敵空母、潜水艦等の動静は不明である。
さらに出撃前、母艦を損傷しないよう軍令部より強く要望されていることが南雲長官の決断に影響した とされている。
第1航空艦隊参謀長 草鹿龍之介中将は、
「攻撃は一太刀と定め周到なる計画のもとに手練の一撃を加えた」 のであり
「なぜ攻撃を反復しなかったのか? 工廠や油槽を破壊しなかったのは何故か? という批判は
兵機戦機の機敏に触れないものの戦略論であると思う」 と戦後語っている。
- 620 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:22 ↑
- ◆本作戦の影響◆
山本長官が本作戦に期待していた「米国海軍及び国民の士気を喪失させる」目的は、相当の成果を収めることができた。
キンメル大将に代わって太平洋艦隊司令長官となったニミッツ大将が真珠湾の廃墟に立ったとき、
最も苦慮したのは、沈滞した艦隊将兵の士気を回復させることであった。
ハワイへの不意打ちを怒り自尊心を傷つけられ憤慨した米国民は、その指導者に対しても同じように憤りを感じていたのである。
しかしこうした士気の低下は一時的な現象に過ぎなかった。
我が最後通告がワシントンの日本大使館の後世に残る不手際のため‘事後通告’となったことが
思わぬ‘贈物’となってしまったのである。
もともと「戦争はすべて正々堂々とやって、どこからも非難されない」ことを、我が政府も統帥部も特に意図していた。
山本長官もこの戦争の実施は「最後通告手交後」の攻撃を大前提としていたである。
米国はこの無通告の奇襲という事態を最大限利用した。
‘だまし討ち’の宣伝と米西戦争の故事にならった‘真珠湾を忘れるな!’のスローガンは、
戦意の喪失どころかたちまち米国民の敵愾心をあおり、全米を対日戦に結集されてしまったのである。
だがこれは、米国民の意思を参戦に転換させるためルーズベルト大統領がしかけた罠で
故意に日本艦隊の情報を現地に知らせなかった とする説は根強い。
一方ハワイ作戦による大戦果と、2日後のマレー沖海戦(海軍航空隊による英2戦艦の撃沈)は、
我が航空部隊の術力を示すとともに航空機の威力が戦艦を制し得ることを立証した。
こうして海軍部内においても航空機についての認識が高まったが、多年にわたって培われた作戦思想が
簡単に変わるものではなかった。
戦艦は依然として海上の主兵である、という伝統的な思想から完全には脱却するには、まだ時間を必要としたのである。
しかし米海軍の思考はこれとまったく対照的であった。
彼等はハワイ作戦は海上戦闘に新時代を画したものと判断し、戦艦が海軍の主役を演じる機会は永久に過ぎ去ったと結論した。
真珠湾の戦訓を正しく学びとったのは、この海戦で大敗した米国海軍自身であったといえよう。
彼等はやがて航空母艦を中核とする作戦思想に転換し、これを主兵とする航空母艦を基幹とする機動部隊が
機動奇襲作戦に適することが確認され、その後大いに活用されたのである。
◆幻の布哇上陸作戦◆
真珠湾攻撃で意気上がる海軍は、12月中旬(13日?)ハワイ攻略作戦を陸軍に提案してきた。
この構想の源は、山本長官による「敵戦力の回復に先だって絶えずこれを反復撃破する必要があり、
このためには米反抗拠点布哇(ハワイ)を攻略して、その効果を確実にしなければ勝てない」、とするものであった。
だが陸軍は、南方作戦一段落後長期持久の態勢に移り、兵力を浮かしてビルマからインド−西アジア打通を図って
北アフリカでのドイツ・イタリアと連携することによってまず英国の脱落をめざしていたのであった。
即ち海軍の対米との東向き短期決戦に対して、陸軍は西向き長期持久作戦であった。
その後の情勢の変化により、西亜打通作戦など現実性がないことから、陸軍としても海軍の戦略思想に歩み寄り
従来「進軍の限界を超えるもの」として反対してきたハワイ攻略作戦にも、陸軍は熱意を示すに至った。
その結果、昭和17年5月23日にはハワイ上陸作戦を予期して第2、第7師団に上陸訓練を実施、
大陸指第1159号による、第53師団を併せた3個師団をもって10月頃ハワイオアフ島を攻略する研究を行い
6月3日から5日にかけて作戦構想を概定している。
だが6月5日のミッドウェー海戦によってその機会は永久に失われ、陸軍はハワイ攻略のための特別訓練の無期延期を発令した。
田中新一作戦部長の業務日誌、6月6日のところには「ハワイ断念」と書かれている。
- 621 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:27 ↓
- >>607
>モンスター
誉めすぎ。機知guyです。
- 622 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:31 ↓
- いいんじゃない。別にこちとら常時ここにいるわけでもないし。
かってにあらわれてかってにあばれてかってにかえっていく。
突っ込み一切為しでお願いします。それでは
- 623 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:31 ↑
- ◆マレー・シンガポール進攻作戦◆
◆作戦の背景◆
日本が英国の極東根拠地シンガポールを攻略することは、
ドイツが日本と同盟を結んだ要因の一つであった。
対英海上封鎖による英国本土への補給の遮断を、間接的に日本に求めたのである。
シンガポールは、昭和初期、日英同盟の終了により英国議会で要塞強化を決定した。
軍港は主力艦隊の収容を可能とし、その海岸要塞は15インチ砲をはじめ多数の要塞砲で防備され、
海正面からのいかなる攻撃も受けつけない戦力を有した。
陸路からしか攻略し得ぬマレー半島は、シンガポール島まで距離約1千KM、道路は1本道で
それ以外の多くは密林に覆われており、大小の河川は250を数えたまさに天然の要塞であった。
これを「東洋のジブラルタル」と称した。
◆南方作戦準備◆
昭和16年11月10日
「南方作戦陸海軍中央協定」及び「南方作戦陸海軍航空中央協定」が成立した。
馬来(マレー)方面の陸海軍兵力は以下のとおりである。
陸軍部隊
◆第25軍 司令官 山下奉文中将
参謀長 鈴木宗作中将
近衛師団
第5師団
第18師団
戦車団1(戦車連隊4)
軍直轄砲兵(11大隊)
高射砲(60門)
◆第3飛行集団
集団長 菅原道大中将
海軍部隊
◆南遣艦隊
司令長官 小沢治三郎中将
参謀長 沢田虎夫少将
第7戦隊 重巡5、軽巡3、駆逐15
第3水雷戦隊
第4潜水戦隊
第22航空戦隊
英軍の防衛
英米蘭豪連合地域 最高指揮官 ウェーベル大将
英国極東軍 司令官 ブルックポッパム大将(のちパウナル中将)
マレー軍 司令官 A・Eパーシバル中将
イギリス兵 約 20000名
インド兵 約 37000名
豪州兵 約 15200名
現地義勇兵 約 16800名
計 約 89000名
海軍部隊
英国東方艦隊、東インド艦隊
米国亜細亜艦隊
蘭印艦隊
- 624 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:31 ↑
- ◆作戦開始時間◆
大東亜戦争は、ハワイ、マレー、フィリピン、香港、グアム等に対する先制攻撃をもって開始するものであり、
ハワイ空襲開始とマレー上陸開始の相互関係については大本営としては特に考慮を要した。
すなわち一方が先行すれば他方の急襲が失敗に終わるおそれがあるのである。
海軍はハワイ攻撃(Z作戦)に絶大の期待をかけ、成功のために奇襲を絶対の条件としたが、
陸軍もマレー作戦(E作戦)の長途渡洋作戦の危険性から奇襲を重視していたのである。
マレー作戦の敵前上陸地点であるコタバル付近とハワイとでは、約6時間半の時差があり、
ハワイの払暁はマレーの夜半にあたった。
以上について、陸海軍は11月10日上記の「東京協定」(連合艦隊と南方軍との協定覚書)を締結し
ハワイ攻撃を絶対優先すべきことを陸海軍双方が確認した。
協定はきわめて友好的に行われ、後年発生したような陸海軍の論争対立は見られなかった。
紀元節・・・・・・・・ 2月11日にシンガポール占領
陸軍記念日・・・・ 3月10日にスマトラ占領
天長節・・・・・・・・ 4月29日に蘭印占領
これが陸軍が密かにたてた攻略予定であった。
- 625 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:32 ↑
- ◆タイ進駐作戦◆
シンゴラ、パタニ、コタバル 以上の3カ所がマレー作戦の上陸予定地点である。
前2点はタイ国南端にある泊地、後者はマレー領の敵前である。
中立を表明していたタイ国に対して、わが国に武力行使のつもりは全くなく、ただ平和進駐を申し入れるのみであった。
が、単なる「軍隊の一時的通過」であっても領土侵犯にかわりはなく、ピブン首相の返答によっては
タイ国との間に武力紛争が起こる可能性もあった。
12月8日1200頃、単純な軍隊通過協定をタイ国は締結。一部で小競り合いがあったものの、
おおむね平和裡に進駐が進みインドシナ方面より近衛師団はタイ領を通過した。
このような無抵抗上陸と対照的だったのが、コタバル上陸部隊であった。
◆コタバル上陸◆
真珠湾空襲に先立つこと約2時間前、12月8日午前1時30分
第18師団・歩兵第23旅団長佗美浩少将率いる先遣部隊がマレー半島東北端コタバルに敵前上陸を敢行した。
大東亜戦争がこのときに始まったのである。
守る英軍は、歩兵第8旅団を主力とする約6000の兵力で海岸一帯に防御陣地を築いていた。
鉄条網をめぐらした陣地は水際から50〜70M付近に構築され、その後方には散兵壕があり、
地雷も多数敷設されていた。
死傷者700、上陸用舟艇の沈没(大発等)15、損傷10
多大な犠牲を出して激闘4時間の末、海岸線を制圧した上陸部隊は直ちにコタバル市内を占領した。
この間、上陸船団の「淡路山丸」「綾戸山丸」「佐倉丸」が被弾し、護衛艦隊指揮官・橋本少将(第3水雷戦隊)
は、一時避難し、再度の揚陸作業のやむなきに至った。
佗美支隊はその後、
11日は補給基地トンバット、12日はムロン、13日は航空基地タナメラ と電撃的に部隊を進めていった。
- 626 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:32 ↑
- ◆ジットラライン◆
一方シンゴラに上陸した第5師団主力は、佐伯捜索連隊を先遣部隊として前進を開始した。
第5師団長松井久太郎中将は、時間の経過とともに敵陣の強化と交通路の破壊は進むと判断し、
第9旅団長 河村参郎少将の指揮下に入れ、速やかに国境を突破させることにした。
12月10日、支隊は戦車第3中隊、山砲1中隊、工兵1小隊他を編入して「佐伯挺身隊」 を組織、
一挙に突撃路を開くべく進撃した。
11日、アースンの国境陣地に入った佐伯支隊は、戦車中隊を先頭に交戦約20分ののちにこれを 突破。
ジットララインに迫った。
12日0350 敵の砲撃を受けた佐伯支隊長は、ジットラ東側陣地に夜襲を命じた。
敵の砲撃は正確で第1中隊長以下多数の死傷者を出した。0900頃、我が砲兵も射撃を開始したが
敵の砲火は峻烈をきわめた。
1230 ついに敵の第2線陣地の一角を占領。歩31連隊主力をもって夜襲を決意しその準備中
1730 敵は突如全面的退却を開始した。
このジットララインは、インド第11師団の第6、第15旅団の守備する有力なる防御線であり、
よもや1日で、しかも約600名の佐伯支隊が突破できるとは両軍とも驚かざるを得なかった。
英軍兵力 インド第11師団の第6、第15旅団からなる人員約5400名、戦車約90両
英軍被害 500〜1000名(捕虜証言)
英軍捕虜 1000名以上
我軍の損害 戦死27 戦傷83
◆全般の戦闘経過◆
敵英軍の戦術は、250にものぼる多数の河川にかかる橋を逐次爆破し、戦術的に後退し時間を稼ぐことにあった。
そのため第25軍の進撃速度はすなわち橋梁の補修速度であった。
道路橋・鉄道橋の修復には、独立工兵15連隊(横山与助中佐)と各師団の工兵部隊があたった。
また鉄道の修復には、鉄道第9連隊(今井周大佐)と鉄道第5連隊(佐々木萬之助大佐)があたった。
これら橋梁修理にあたる工兵隊の努力は、マレー攻略戦中特筆に値するものがあった。
またその間、敵スリム陣地における戦車第6連隊第1中隊(島田豊作少佐)による戦史に例のない
「戦車夜襲」による敵陣突破や、近衛歩兵第5連隊の第2大隊(大柿正一少佐)の大隊戦力の6割を損耗した
バクリ、バリットスロンの激戦もあった。
- 627 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:33 ↑
- ◆マレー沖開戦◆
英国東洋(東方)艦隊の戦艦「プリンスオブウェールズ」と「レパルス」が駆逐艦4隻を伴い
日本軍船団の泊地攻撃に出撃したのは、12月8日1805である。
指揮官は軍令部次長を経験したチャーチル首相の信任のあつい、サー・トーマス・フィリップ中将
(参謀長パリザー少将)である。
本来戦艦有しないマレー方面の我が海軍部隊と比較して、その勢力は驚異であったが、
南遣艦隊の小沢長官は夜戦を挑むべく艦隊を出港させるも東洋艦隊を見失ってしまう。
一方、第1航空部隊・海軍22航空戦隊主力(松永貞市少将)は航空機による攻撃を実施すべく
元山・美幌・鹿屋の航空隊を出動させた。
元山航空隊(甲空襲隊) 26機
美幌航空隊(乙空襲隊) 33機
鹿屋航空隊(丁空襲隊) 26機
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8日 1805 英国東洋艦隊 シンガポール出港
9日 0530 艦隊進路を北方に転進
10日 1150 プリンスオブウェールズ日本機発見、第1級戦闘準備発令
1243 全艦射撃開始
プリンスオブウェールズ 魚雷7本・爆弾2発命中
(英側資料 魚雷6本、爆弾2発)
レパルス 魚雷13本、爆弾1発命中
(英側資料 魚雷5本、爆弾1発)
1403 レパルス 沈没
1450 プリンスオブウェールズ 沈没
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
両戦艦の乗員2921名のうち2081名が救助されたが、司令長官フィリップ大将、
ウェールズ艦長リーチ大佐は艦と運命を共にした。
また、我が軍の被害は対空砲火による2機(不時着大破1機)−21名であった。
この戦闘はマレー進行作戦そのものよりも、飛行機対戦艦の決戦による航空機の優位性という
戦術の大変革をもたらした功績が大きい。
我が海軍の攻撃機は、戦艦2隻の沈没を見届けると、翼を振って英軍将兵の健闘を讃えながら
雲間に去ったと英軍は報じている。そして翌日2機が再び飛来し、日・英両軍の勇士のために
2つの花束を投じたという。
◆マレー半島制圧◆
昭和17年1月に新たに英米蘭豪連合地域最高指揮官となったウェーベル大将は、
シンガポール島への撤退を英国参謀本部に打電、1月30日夜撤退を開始した。
12月8日上陸後わずか55日目に第5、近衛の追撃部隊は相次いでジョホールバールに突入した。
ここにマレー半島での戦闘は終結し、英軍はシンガポール島に追い落とされたのである。
作戦日数 55日
機動距離 1100Km(1日平均約20Km)
交戦日数 95回(1日平均約2回)
橋梁修理 250(1日平均 5)
遺棄死体 約5000
捕虜 約7800
押収 戦車・装甲車235、火砲340、自動車2723 他
損害 戦死1535(将校102)
戦傷2257(将校135)
- 628 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:33 ↑
- ◆シンガポール攻略◆
昭和17年1月31日、第5、第18、近衛の各師団の作戦参謀、軍砲兵隊長、防空隊長、渡河作業隊長
を第25軍戦闘司令所に召集しシンガポール攻撃準備命令を下達した。
地上総兵力は計約5万。
歩兵27大隊(近衛歩兵3連隊を除く)
砲兵14大隊(砲140門、速射砲・歩兵砲は含まず)
戦車3連隊(135両)
舟艇180隻
航空支援は、南方軍のスマトラ作戦への転用から、第3飛行集団(菅原道大中将)の兵力は削減され
戦闘機 60
軽爆撃機 60
重爆撃機 60
であった。
軍砲兵の準備射撃の後、2月8日深夜、各部隊はジョホール水道を渡河した。
右翼を第18師団、中央を第5師団、左翼を近衛師団であり、近衛師団の一部は陽動作戦として
ウビン島に上陸した。
第18師団長牟田口中将が負傷するといった混乱もあったが、9日夕方にはテンガー飛行場を
早くも占領し、第25軍司令部を進出させた。
攻撃3日目の2月11日、その日までに主要陣地を次々奪取した各部隊からの状況により
いよいよブキテマ高地に進出可能と判断した司令部は、あらかじめ準備していた「降伏勧告文」を
飛行機から投下した。
紀元節にシンガポールを陥落させることを目標にしており、戦況は概ね順調であったからである。
だが、ブキテマ高地に突入するや、敵の砲火が集中第5師団第31旅団(杉浦英吉少将)と、
第18師団に集中し、各部隊は釘づけになってしまった。
11日0730頃より、敵は南方から攻勢に転じ、有力なる砲兵隊の支援のもと反撃を開始したのである。
敵の抵抗は峻烈を極め、第5師団歩兵21連隊と同42連隊の損害は続出し戦況は進展をみなかった。
敵の抵抗はシンガポール市街の周辺で強化された上、我が方の弾薬は全く欠乏していた。
2月13日、14日は戦局の前途に見通しがたたず、軍司令部では攻撃の一時中止
−−弾薬の追送を受けたあとの攻撃再開も検討されていた一番苦しい状況であった。
- 629 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:33 ↑
- ◆英軍降伏◆
英軍降伏軍使 2月15日1400 杉浦部隊の正面に突然英軍の軍使が現れた。
英軍参謀長ニュービギン少将 インド第3軍団参謀ワイルド少佐、
マレー総督府書記官長の3名で、 空襲と砲撃により送水管・水道管が破壊され、
シンガポール市内の給水状態が悪化したことが
パーシバル司令官が降伏を決定した原因であった。
さっそく第25軍は情報参謀杉田一次中佐 他2名を派遣し、
降伏申入れ条件を提示した。
1830 英軍軍使一行がブキテマ高地北方ノフォード自動車工場に到着した。
パーシバル司令官、トランス少将、ニュービギン少将、ワイルド少佐及び通訳1名で
1900 山下司令官が幕僚を従えて着席し交渉が開始された。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
山下 先に軍使に渡した要求事項を見たか。
パーシバル 見た
山下 それを詳しくしたものがここにある。実行してもらいたい。
パーシバル (別紙に目を通し)市内は混乱しているので1000名の武装兵を残置願いたい。
山下 日本軍が進駐して治安は維持するから心配ない。
パーシバル 英軍はシンガポールの事情をしっているから1000名の武装兵を有したい。
非戦闘員もいるし、市内では略奪が起こる。
山下 武士道精神をもって日本軍が保護するので安心願いたい。
パーシバル (時間的)空白ができると混乱が生じる。英・日両軍のために好ましくない。
山下 日本軍は目下攻撃を続行中である。夜に入っても攻撃するようにしている。
パーシバル 夜間攻撃は待って欲しい
山下 話し合いがつかなければ攻撃は続行される。
パーシバル 1000名の武装兵はそのままにしたい
山下 (池谷作戦参謀に向かって)夜襲の時刻は?
池谷参謀 2000の予定です。
パーシバル 夜襲は困る。
山下 貴軍は降伏するつもりか?
パーシバル (しばらく考えて)停戦したい。
山下 貴軍は降伏するのかどうか、「イエス」か「ノー」で返答せよ。
パーシバル 「イエス」 1000名の武装兵は認めてもらいたい。
山下 (あっさりと)それはよろしい
杉田参謀 武装兵の配置は「当分の間」と了解されたい。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
以上で会見を終わり、降伏申出に対する回答書にサインを終わった。
かくして2月15日2200をもって停戦になり、シンガポール攻略作戦は終了した。
情報参謀・杉田一次中佐(のち大佐)は、後年
‘山下中将が「イエス」か「ノー」か?と卓をたたいて威圧したかのように巷間伝えられているが、
パーシバル中将は、自分の意見を申し述べ納得した上で降伏文書に署名しようと考えていた。
ところが山下閣下は、こまかい話合いは後回しだ、無条件降伏するのか、しないのかをまず決めよ
という態度であった。このような行き違いから生じた空気を新聞記者が「山下将軍激怒す」 と
報道してしまったものであろう。’
として、報道が先行したやや誇張された実状について語っている。
2月16日1730 侍従武官がシンガポールに到着。天皇の聖旨、皇后の令旨を伝達した。
◆戦果・損害◆
シンガポール島攻略作戦間の戦果・損害について第25軍は以下のように発表した。
兵器各種
野山砲 約300門
要塞砲 54門
小銃 約60000挺
重機関銃 約2500挺
捕虜 約10万人(諸説あり)
捕虜中主要なものは、
マレー軍司令官
インド第3軍団長
シンガポール要塞司令官
インド第11師団長
英第18師団長
豪州第8師団長
損傷戦死 1713名
戦傷 3378名
- 630 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:34 ↑
- ◆香港攻略作戦◆
◆作戦の背景◆ 香港攻略図
米・英の極東三大拠点は、シンガポール、マニラ、香港であった。
シンガポールとマニラの進攻作戦が南方軍によって行われたのに併行し、
香港攻略戦は支那派遣軍によって行われた。
即ち、支那事変遂行上の大きな弊害となっていた、敵性租界地の処理と在華米英武力の掃討が
香港攻略作戦の主眼であった。
香港は、英国領の香港島と租借地・九竜半島からなり、
九竜半島南部の高地にはトーチカ陣地からなる堅固な防御線がひかれていた。
香港島の海側には堅固な砲台が構築され、九竜半島側に対しても複郭陣地が設けられていた。
しかし、大局的には日本の制海空権下に孤立した要塞であり、
その弱点は180万人も及ぶ過密人口とその給水の困難にあった。
昭和16年12月2日 香港攻略命令が発令された。
「大陸令第572号(鷹)発令さる」という電報であった。
酒井第23軍司令官は、12月9日1030 敵主陣地に対する攻撃準備に関する部署を命令した。
敵はその防御線において抵抗するものと判断し、砲兵を推進し1週間の攻撃準備期間を予定していた。
敵要塞に対しての攻撃原則に従い組織的攻撃の指導であった。
◆若林中尉の独断◆
第38師団・佐野兵団の歩兵228連隊は、右部署から第一線に進出していた。
その先遣隊は、若林東一中尉の指揮する第11中隊であった。若林中尉は連隊の先頭にあって
標高255高地を偵察中、敵兵力配備の欠陥と警戒の欠如に乗じて9日夕刻、独断にて敵陣地に突入、
これを奪取してしまった。歩兵228連隊主力はその機に乗じて一気に戦果を拡大し、第38師団は
所定の攻撃準備期間を待たず10日攻撃を開始、軍主力として12日敵防御線の突破に成功した。
若林東一中尉(52)はその後昭和18年1月にガダルカナル島で戦死するが、
ガ島の決死敢闘及び香港攻略戦の偉攻に鑑み、のちに2度の感状が授与された。
だが軍司令部内には当初、この独断行動に対し軍法会議に付すべきとの声もあった。
そして結果的には成功となった若林中尉の独断を、黙認し擁護した土井連隊長・佐野師団長ら
第38師団首脳と第23軍司令部内との間のしこりは、この後まで残った。
敵としても予想しなかった防御線の崩壊により、13日九竜半島全部の掃討は終了した。
敵英軍の大部は香港島に後退した。
- 631 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:34 ↑
- ◆香港島攻撃◆
第23軍は香港島に対し、12月13日と12月17日の2回に亘り軍参謀多田中佐を派遣、
降伏勧告を行った。非戦闘員への配慮と立籠ることへの戦略的な無意味さからであった。
ヤング総督は2回ともこれを拒絶したが、日本軍が香港島の一角に上陸すれば降伏するのでは
との印象を与えた。
12月14日、北島司令官率いる重砲隊は攻撃を開始。
12月18日、香港島北角付近と東北部の2カ所に渡海を開始、香港島東北部を占領した。
敵はニコルソン山の以西・以南の地区で抵抗を続けた。
戦闘は、18・20日の両日混戦状態となった。香港要塞の本格的抵抗に直面したのである。
予想に反し、香港島の複郭陣地は九竜半島の防衛線よりも一層堅固なものであった。
12月21日、貯水池のある高地を占領、香港全域に対する給水を断った。
さらに数昼夜にわたる激戦が続き、焦りの色が現れるようになった12月25日1750
英軍は白旗を揚げた。
かくして12月25日1930をもって停戦になり、香港攻略作戦は終了した。
◆戦果・損害◆
日英両軍の兵力の一覧及び損害は以下の通りである。
第23軍 軍司令官 酒井 隆中将
第38師団 師団長 佐野忠義中将
第1砲兵隊 司令官 北島驥子雄中将
第66連隊 (荒木大佐)
飛行第45戦隊 (土生大佐)
香港総督兼総指揮官 サー・マーク・ヤング
香港駐屯軍司令官 CMマルトビイ少将
香港歩兵旅団
カナダ旅団
ロイヤル砲兵隊
香港義勇軍
計 12000
戦果 遺棄死体 1555
捕虜 9495
捕獲各種砲 110門
戦車装甲車 10両
損害 戦死 683(内、海軍6)
戦傷 1413(内、海軍8
- 632 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:34 ↑
- ◆蘭印攻略作戦◆
◆作戦の背景◆
蘭印作戦は、南方作戦中最大の狙いである資源地域確保の攻略作戦である。
この作戦には困難な点が2つあった。
1) 蘭印に兵を用いるまでに、マレー・比島の両作戦を経過しなければならない。
2) 敵の破壊の前に重要油田地帯を占領すること。
マレー・比島他に航空基地を進出させ、ジャワ周辺の制空・制海権を奪う必要があるが、
果たして十分なる航空支援を蘭印に対し発揮できるかどうかという点が、時間的制限と合わせて
作戦遂行上の条件であった。
幸いZ作戦(ハワイ作戦)の成功によって米艦隊の側面からの攻撃の危険はなくなり、
またマレー・比島作戦が順調であったので大本営は予定を1ヶ月繰上て蘭印作戦を開始した。
一方連合軍は、昭和17年1月にABDA戦域コマンド/米英蘭濠 地域連合司令部を設置。
マレー・蘭印への増援を開始、比島・マレーの海空軍部隊は逐次蘭印へ後退した。
◆パレンバン攻略戦◆
シンガポール陥落前の2月14日、空挺部隊がパレンバン油田付近に降下作戦を敢行した。
油田と精油所を敵の破壊前に確保するためには、シンガポール陥落以前に実行する必要があった。
この攻撃の為の航空兵力は陸軍機140機、海軍機180機で、主力はボルネオ、一部はマレーにあった。
2月14日 1126 主力はパレンバン飛行場南部に、一部は飛行場西側に降下した。
第1挺身団(団長久米精一大佐)第2連隊からなる降下人員430名である。
投下した武器・弾薬が入手できるまでは、各自携行した拳銃と手榴弾のみで攻撃、飛行場に進撃した。
英・蘭・濠連合の守備隊(約500名)は装甲車で応戦、市街の兵舎より増援部隊が疾走してきたが、
降下した我が部隊はこれを攻撃ののち、2100頃飛行場を占領した。
放火により製油所工場の一部に火災が発生したが、大規模破壊は避けられ作戦は成功した。
2月15日 第2悌団の降下と併せてパレンバン市街に突入、同市を占領した。
- 633 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:34 ↑
- ◆3つの海戦◆
ジャワ海の制海権を巡って米・英・蘭・濠連合海軍と我が連合艦隊との間に4度海戦が起こった。
昭和17年2月 4日 ジャワ島沖海戦
昭和17年2月20日 バリ島沖海戦
昭和17年2月27日 スラバヤ沖海戦
昭和17年3月 1日 バタビヤ沖海戦
ジャワ島沖海戦は第21航空戦隊の陸攻機による海戦で、撃沈は1隻もなかった。
本格的海戦はバリ島沖海戦からで、ドールマン少将率いる連合海軍/ABDA艦隊は巡洋艦3、駆逐7の艦隊で
2隻の我が駆逐艦の攻撃に対し、蘭駆逐艦「ピートハイン」沈没、軽巡「トランプ」中破の損害を受けた。
スラバヤ沖海戦で連合海軍はほぼ壊滅し、バタビヤ沖海戦はその直後戦場を離脱した
米重巡「ヒューストン」と蘭軽巡「パース」が、我が輸送船団に対して攻撃をしたもので、
我が重巡「三隈」「最上」ら第7戦隊に撃沈された。
連合海軍は結局、夜闇の中4隻の駆逐艦が豪州に辛うじて脱出しここに壊滅した。
酸素魚雷の威力と我が海軍の練度の高さが勝因であった。
日本側被害 連合海軍側被害
バリ島沖海戦 駆逐1大破 駆逐1沈没 巡洋艦1中破
スラバヤ沖海戦 駆逐1中破 巡洋艦2沈没 駆逐2沈没
バタビヤ沖海戦 輸送1沈没、2大破 巡洋艦2沈没
のち巡洋1、駆逐2沈没
この日以降ジャワ近海の連合海軍は一掃され、制海権は日本海軍のものとなったのである。
◆ジャワ攻略戦◆
昭和16年12月中に川口支隊によって英領北部ボルネオ要地占領し、
昭和17年になり坂口支隊によって、ダバオ、バリクパパン、パンジェルマシンを占領した。
海軍もメナド、マカッサルを占領し、艦隊・航空基地を前進させた。
まず石油基地の確保、次に濠州との連絡線の遮断が蘭印戦の前哨戦だったのである。
昭和17年3月1日 4方からジャワ島に上陸した第16軍は、直ちに進撃を開始した。
蘭印守備軍の拠点は3万の兵が守るバンドン要塞であった。
第3飛行集団長(遠藤三郎少将)の援護のもと、第38師団第230連隊基幹の東海林支隊は、
要塞の態勢が整っていないことに乗じ、相次いでスバン、レンバンを占領した。
3月7日 2030軍使が到着し停戦申し込みがあった。
3月8日、バンドン防衛司令官ベスマン少将は降伏した。
同じ頃スラバヤ市を占領した第48師団もジャワ島東部において降伏申し入れを承認させた。
かくて、蘭軍主力の降伏により米・英軍11000をはじめとする各方面の部隊も降伏し、
ジャワ全土の攻略を終了した。
◆戦果・損害◆
日蘭両軍の兵力の一覧及び損害は以下の通りである。
第16軍 軍司令官 今村 均中将
第2師団 師団長 丸山政男中将
混成第56旅団 歩兵団長 坂口静夫少将
歩兵第55旅団 旅団長 川口清健少将
第3飛行集団 集団長 菅原道大中将
地域連合軍総司令官 ウェーベル大将
蘭印陸軍司令官 テルポールテン中将
西部ジャワ兵団
中部ジャワ兵団
東部ジャワ兵団
パンドン地区防衛兵団
計 81000
(蘭印正規軍25000名 米豪軍16000名)
戦果 (第16軍のみ 航空部隊・海軍によるものを除く)
遺棄死体 ? 確実な資料なし
捕虜 82618
捕獲兵器 各種砲940門 航空機177両
損害
戦死 255
戦傷 702
- 634 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:35 ↑
- ◆比島攻略作戦◆
◆作戦の背景◆
開戦初頭企図された比島作戦は、主としてルソン島にある首都マニラと南部ダバオの占領であった。
マニラは米国の極東における根拠地であり比島の軍・政・経の中枢であった。
またミンダナオ島のダバオは、比島南部の軍・政・経の要衝であり、
両者を占領すること即ち全比島占領を意味し、戦略目的は達成できると考えられたのである。
比島攻略の大きな障害は米空軍、特にB17爆撃機が驚異であった。
航空母艦はハワイ作戦に充当していたので、基地航空部隊による航空撃滅戦を実施し制空権獲得後
マレー作戦のような奇襲ではなく、正攻法にて上陸作戦を開始することが検討された。
◆航空撃滅戦◆
12月8日早朝、南部台湾に集結した陸海航空隊約500機は比島にむけて出撃した。
一方在比島空軍は約200機、濃霧のため敵機を発見できなかった部隊もあったが
1330 クラークフィールド、イバの両基地を攻撃し撃墜炎上100機の戦果を収めた。
第1撃を以て勝敗を一挙に決してしまったのである。
以降約1週間、第11航空艦隊と第5飛行集団による掃討作戦をもって航空撃滅戦は目的を達成した。
◆比島上陸◆
先遣部隊が12月10日、12日に上陸したのち
第14軍主力は12月22日 リンガエン湾に、第16師団主力は24日ラモン湾に上陸を開始した。
マッカーサー大将は、日本軍の戦力を過大に算出し、前進を遅滞させた上で米比軍の主力は
バターン半島へ後退した。
なお、南部のダバオは12月20日に占領し、ミンダナオ島は掃討作戦にすでに入っていた。
日本軍は南北からマニラに進撃し、1月2日これを占領した。
だがこれは、日・米比の戦略の相違であった。
マニラ湾要塞に対して関心の薄い 大本営や南方軍はマニラ占領で比島作戦は残敵掃討の段階に入ったとし
部隊の一部転用 (第48師団を蘭印作戦へ、第5飛行集団を泰方面へ)を行うが、
バターン半島への退路を断たれなかった米・比軍は、ここを拠点として抵抗を示すのである。
- 635 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:35 ↑
- ◆バターン半島 第1次攻撃◆
前述の如く当時、軍の主眼はマニラにあり、バターン半島への認識は全くなかった。
敗退した部隊などは簡単に撃破できると考えていたのである。
第65旅団(旅団長 奈良晃中将)は抽出された第48師団に代わり追撃の任を受けた。
1月12日より攻撃準備を企図したが、敵砲兵の攻撃と猛烈なる逆襲のため死傷者が続出、膠着状態となる。
第14軍は、この戦況を打開すべく木村支隊(歩兵第20連隊基幹)を招致したが、
これもまた敵の包囲するところとなり、2月を迎えてしまった。
2月8日、軍司令部において爾後の戦争指導に関して幕僚会議が開かれた。
本間軍司令官は熟慮の末一旦攻撃を中止し、防勢に転じることに決し、大本営にその旨報告した。
反転命令による木村支隊の敵中突破を最後に第1次攻撃は中止された。
バターン半島の戦線膠着は大本営と南方軍を憂慮させた。
敵は完全に包囲下にあり、そのまま封鎖を続けていれば遠からず自滅することは確実であった。
しかし各部隊の損耗甚だしいことに加え、敵側の宣伝謀略による精神的影響は重視せざるを得なかった。
曰く、「シンガポールは落ちたがコレヒドールは健在である」 と
◆第2次攻撃◆
大本営は、十分なる準備の後兵力増強を発令し、特殊地形の訓練を実施し、第2次攻撃に備えた。
4月3日(神武天皇祭)に第2攻撃は開始された。
軍砲兵隊は、北島驥子雄中将指揮のもと0900効力準備射撃を、1000攻撃準備射撃を実施。
続いて、第1次破壊射撃と第2次破壊射撃を実施、軍航空隊の爆撃と併せて敵砲兵・敵陣地を制圧した。
この戦機を逃さず夜にはいっても攻撃を続行、敵第1陣を突破することに成功した。
その後攻撃の手をゆるめず追撃と力攻を重ね、4月9日夜第4師団と第16師団は
バターン南端のマリベレスに突入、米比軍指揮官キング少将は降伏し組織的抵抗は終わった。
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その後、捕虜約10万の移送に関していわゆる「死の行進」なる事件が起こった。(4月9日〜27日)
これは、移送手段は「徒歩」によるものが一般的な日本軍と、「車両」によるのが一般的な米軍の
認識の相違で、当時の日本では常識的な対応だったのである。また糧食の不足やマラリア等で
敵捕虜の多くが既に体力を消耗しており、このことをもって日本軍の「残虐行為」などとするのは
不当と言わざるを得ない。
この「事件」の戦後の裁判は、敗将マッカーサーの本間中将への復讐劇でもあった。
- 636 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:36 ↑
- ◆コレヒドール要塞攻撃◆
コレヒドール島
コレヒドール島にはスペイン統治時代より外敵を阻止するための要塞が設置されていた。
米軍は第1次大戦後、地下発電所を持ち坑道には電車の走る本格的地下要塞を建設した。
昭和17年当時やや旧式ではあったものの、沿岸砲台23、要塞守備隊13000の兵力を有していた。
また、近接するフライレ島、カバロ島、カラバオ島も沿岸砲が設置されマニラ湾の入り口を制していた。
4月14日我が砲兵隊は、占領したバターン南端よりコレヒドール要塞へ砲撃を開始した。
直ちに同要塞からも反撃が開始され、約10KMの海を挟んでの砲撃戦が連日続いた。
軍砲兵隊は、5月5日2245 第4師団の左翼隊上陸支援射撃を実施し、左翼隊は2310上陸に成功した。
5月6日早朝より米軍の反撃が行われ混戦状態となったが、同日1130ウェーンライト中将が降伏を申し出た。
会見の結果、コ要塞に限定して降伏を申し入れたので、帰還させ攻撃を続行した。
5月7日、ウェーンライト中将は改めて全米比軍の降伏を申出た。
そして2350マニラ放送を通じて全米比軍に投降命令を発し、幕僚を各地に派遣し伝達させた。
ここに比島作戦は終了した。
なお敵将マッカーサー大将は、米大統領命令により家族・政府首脳とコ要塞からオーストラリアに脱出、
後任をウェーンライト中将に託し、ミンダナオ島の飛行場よりB17でメルボルンに既に逃れていた。
◆戦果・損害◆
日米両軍の兵力の一覧及び損害は以下の通りである。
第14軍 軍司令官 本間雅晴中将
第16師団 師団長 森岡皐中将
第48師団 師団長 土橋勇逸中将
第65旅団 旅団長 奈良晃中将
第5飛行集団 集団長 小畑英良中将
極東米陸軍司令官 マッカーサー大将 のち ウェーンライト中将
2個軍団 8個師団主力
計 73000 (在米軍23000名 比島軍50000名)
戦果 (第14軍のみ 飛行部隊・海軍を除く)
遺棄死体 ? 確実な資料なし
捕虜 83631
捕獲兵器 各種砲751門 航空機12機、戦車装甲車77両
損害
戦死 4130
戦傷 6808
行方不明 287
飛行機喪失 38機 (戦闘16、偵察10、爆撃12)
- 637 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:36 ↑
- 印度洋作戦
我が陸軍によるシンガポール陥落によって、英国東方艦隊の拠点はジャワに退いた。
残存艦隊はABDA艦隊に合流したが、「スラバヤ沖海戦」「バタビヤ沖海戦」によってほとんど壊滅した。更にビルマ作戦を進行しつつあった我が軍は、ビルマにおける航空撃滅戦を制し、連合国軍は逐次インド基地へと後退した。 いまや連合国/特に英国にとってインド洋に危機が訪れつつあった。
英国としてはセイロン島に有力な艦隊を配備して防衛態勢を固める計画ではあったが、日本軍の急進撃の前に基地網の構成が間に合わなかった。マレー沖海戦で戦死したトム・フィリップ中将の後任として独戦艦ビスマルク追撃で名を挙げたジェームス・ソマービル大将を東洋艦隊の司令長官に任命し、その要請に応じて東方艦隊を大幅に増加した。 形の上では大型空母2、小型空母1、戦艦5、巡洋艦計7を基幹とする大艦隊ではあったが、大部分は旧式艦である上に練度は不十分で、空母艦載機は著しく不足していた。 ソマービル長官は我が艦隊のセイロン島攻撃の予想に際し、決戦を避け艦隊保全に努める方針をとった。
大本営では、@セイロン島攻略、A独・伊との中東での連携(西亜打通作戦)も検討されたが、インド洋における連合軍の基地航空戦力等を考慮して中止され、セイロン島攻撃を含む印度洋作戦のみ実施されることとなった。 印度洋作戦は、南方部隊指揮官近藤信竹中将の指揮下に機動部隊によるセイロン島の攻撃と敵艦隊撃滅を主体とし、マレー部隊による海上交通破壊・ベンガル湾北部の索敵攻撃を実施し、基地航空部隊と潜水部隊の一部が支援するものであった。
昭和17年
3月26日 セレベス島のスターリング湾を出港
4月 5日 セイロン島コロンボを空襲 航空部隊・在迫船舶、基地施設に大損害を与えた。
4月 9日 トリンコマリー(ツリンコマリ)基地を空襲 小型空母ハーミス撃沈
英国艦隊は日本艦隊を攻撃する機会をとらえ得ず、逆に機動部隊の空襲を恐れて旧式戦艦等の低速部隊をアフリカ東岸に後退させた。さらに5月31日 戦艦ラミリーズがマダガスカル島のディエゴワレズで我が特殊潜航艇の雷撃を受け大破 これによってインド洋東西両側間の制海・制空権は、一時完全に日本軍の掌中にあったが、間もなく我が機動部隊は 太平洋方面へと移った。
珊瑚海海戦
我が軍は1月23日ラバウルを占領、大本営はさらにラエ、サラモア、ツラギ、ポートモレスビーの攻略を指示した。オーストラリアを基地とする反抗を未然に防止するためである。 3月8日 ラエ・サラモアを占領したが、ツラギ、ポートモレスビーの攻略は延期されることとなった。
このころ連合軍は、米豪連絡線とオーストラリアを確保し、反抗準備の態勢を進めており、ポートモレスビーや豪州北部を基地として日本軍に反撃を加えていた。
この作戦は、敵の基地航空隊や空母機動部隊の反撃を予想される海域で、低速の攻略部隊の長距離機動をさせなければならないので、南洋部隊(指揮官 井上成美中将)は空母部隊の増強と事前の敵航空部隊の撃滅を希望していた。その結果、配属空母は2隻に増加されたが、インド洋作戦やミッドウエー作戦との関係で作戦実施が5月上旬に繰上げられ、かつ事前の航空撃滅作戦は実施されないこととされた。 そこで南洋部隊は先ずツラギを攻略して水上機基地を推進し、基地航空部隊の援護下に船団を進攻させ空母機動部隊をもって敵空母の出現に備えさせることとした。
一方我が暗号を解読してポートモレスビーを攻撃することを知った連合軍側は、英・豪の艦艇で増強された空母機動部隊を配置して待ちうけていた。また東京初空襲から帰投したハルゼーの機動部隊も南太平洋に向っていた。(結局間に合わず、不参加)
昭和17年
5月 3日 南洋部隊はツラギ島を占領 水上機基地の設置を開始
5月 4日 敵空母機によるツラギ空襲、駆逐艦1、掃海艇1、駆潜艇1が撃沈
5月 7日 給油艦と駆逐艦撃沈 敵空襲により空母祥鳳撃沈
5月 8日 レキシントン大破(のち自沈)、ヨークタウン中破 翔鶴中破
空母に与えた損害では優れていたが、戦死者数は我が軍の方が多く、ポートモレスビー攻略の目的は達し得なかった。艦載機と搭乗員の損耗は大きな負担となり、ダメージコントロール(造修能力)の差は、こののち発生するミッドウエー作戦に影響することとなる。
- 638 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:37 ↑
- ◆ ミッドウエイ海戦 ◆
◆ 作戦の背景 ◆
ハワイ作戦終了後、聯合艦隊は新作戦の準備を実施した。
南方攻略作戦の一段落と、昭和17年4月のインド洋方面作戦の終了に伴い、
艦隊兵力を瀬戸内海西部に集結し基地航空隊の大部分を太平洋東正面に配備し、着々次期作戦の準備を進めた。
初期作戦の成功を確信するようになった2月上旬から大本営政府連絡会議で、
爾後の戦争指導構想が聯合艦隊・大本営の「海軍 第2段作戦」構想と併行して検討された。
陸軍側の主張−−−開戦前の構想のとおり占領地域を固め長期不敗態勢を造りつつ英・蒋の脱落を促進する
海軍側の主張−−−長期戦は不利であるので攻勢をあくまで続行する
同じ海軍部内においても
軍令部内の主張−−前方要域を占領し長期持久のための邀撃態勢の確立
聯合艦隊の主張−−敵艦隊を誘出し連続的な決戦
と、両者の相違は大きかった。
聯合艦隊 大本営海軍部 大本営陸軍部
オーストラリア
攻略作戦 賛成 反攻基地の覆滅 主張 反攻基地の覆滅
英国脱落促進 反対 国力限界の超過
米豪 遮断作戦 反対 危険な上効果に疑問 主張 豪の反攻基地化阻止
米艦隊の誘出撃滅 海軍に協力
ハワイ攻略作戦 主張 米戦意喪失に効果的 反対 戦力限界の超過 陸軍には提示されず
セイロン島
攻略作戦 英艦隊の誘出撃滅
(機動部隊による攻撃のみ実現) 当初難色 攻略後の確保困難
ミッドウエー作戦 米空母の誘出撃滅 当初反対
米豪遮断作戦の前提として賛成 当初反対
本土空襲後海軍に同意
山本長官はその真意を充分に吐露し議論するするよりも、実行によってその貫徹を期す傾向が強かったので
ミッドウエー作戦立案の真意は明らかではない。
が、米国の国力を知るとともに従来から海軍が計画していた邀撃作戦に疑問を抱いていた同長官は、
逐次増勢する米艦隊に連続決戦を強要し、各個撃破によって敵を守勢に追いこむ以外にはこの戦争に勝算がない、
と考えたのではないかと推察される。
- 639 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:37 ↑
- ◆ 本土初空襲 ◆
真珠湾奇襲から我が海軍は太平洋全域で快進撃を続け、米軍は後退を余儀なくされた。
ルーズベルト大統領は、沈滞しがちであった米国民の士気を高揚させる反撃作戦として日本本土空襲の構想を示した。
検討の結果、航続距離の長い陸軍の双発爆撃機を空母から発艦させ、帰投せずそのまま支那大陸に片道飛行させ、
蒋介石軍の航空基地に着陸させるという大胆な計画を立案したのである。
この計画実行には、B25を通常の滑走距離の1/3で離陸させねばならず、日本本土の防空体制も未確認であり
非常に危険を伴うものであった。
指揮官は米航空界での第一人者・ジェームスH ドゥーリットル陸軍中佐が任命され、1ヶ月の猛訓練の後
サンフランシスコを出港 一路日本に向かった。
しかし開戦前から米機動部隊による本土空襲を予想していた我が海軍は、
徴用した漁船を中心に本土東方に哨戒線を張っていた。
また内地にある基地航空部隊も木更津と南鳥島から哨戒を行っていた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−
昭和17年4月18日 0630 釧路に帰投中の監視艇第23日東丸(90トン)が敵飛行機発見の第一報をもたらした。
続いて0650 敵空母3隻見ゆ(実際は2隻)との米機動部隊接近を報告した。
日本本土から700カイリの海上で発見されたということは、当初の計画より距離にして約200カイリも手前であり、
米軍の計画を大きく狂わすこととなった。
@ これ以上日本本土に接近すると陸上機の攻撃を受けるおそれがあり、
A ここで発進させると夜間爆撃の予定が昼間爆撃となり
B 燃料の関係上、支那大陸までの飛行距離が微妙
だがハルゼー中将は敢然と決断。 空母ホーネットとエンタープライズは
昭和17年4月18日 0725 日本本土から670マイルの地点でB25中型陸上爆撃機 16機を発艦させた。
「米機動部隊発見」の報に接した我が軍は、空母機による往復攻撃であれば250マイル以内と考えていたので、
その発見海上から考え本土来襲は翌19日朝と判断していたが、念のため警戒態勢はとった。
4月18日 1215 B25は来襲した。日本軍の裏をかいて海面スレスレの低空飛行で我が本土に侵入したのである。
ドゥーリットル中佐の一番機は、1230頃東京上空に達し高度を400Mまで上昇させ東京初空襲の第1弾を投下した。
全16機のうち13機が東京・川崎・横浜・横須賀 2機が名古屋(うち1機は四日市) 1機が神戸を爆撃、
荒川区尾久町、川崎の日本鋼管、昭和電工のガスタンクなどが被害を受けた。
陸海軍の防空戦闘機や高射砲部隊も低空での侵入のため不意をつかれてしまい、確たる反撃はできぬまま
敵機は本土を横断して西方に飛び去り中支方面に向かったのである。
監視艇2隻沈没、数隻に被害を受け、戦死33名 戦傷23名
空襲の犠牲は、死者45名 重症153名 家屋全焼160戸 全壊21戸
少数機の空襲にしては被害は小さくなかった。
しかしそれ以上に大きいものは、我が国民に与えた心理的影響で、その後しばらくは敵機来襲の誤報が続き、
一般国民から軍への非難の声があがった。
なお16機のB25は、1機がウラジオストックへ、残る15機は大陸まで飛行したが、8名がわが軍の捕虜となった。
捕虜のうち3名は日本軍によって処刑された。
これは空襲の死者のなかに新宿区山吹小学校の生徒がおり、無差別空襲に対する報復措置であった。
この空襲を受けて山本聯合艦隊司令長官は、再度の奇襲を許さないためには
すみやかにミッドウエー作戦を実施すべきであるとして準備を進めさせた。
また本土防衛に任ずる陸軍もこれに強く同意したのであった。
- 640 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:38 ↑
- ◆ 作 戦 計 画◆
大海令第18号
大海指第94号
昭和17年5月5日 機密聯合艦隊命令
作第12号 「聯合艦隊第二段作戦計画」
一般方針
作戦方針はミッドウエー方面とアリューシャン群島とに二分するが、両者は一体の作戦とし
要地攻略も重要な作戦目的であるが、この攻略作戦を契機として反撃が予想される敵艦隊を補足撃滅することを目的とする。
ミッドウエー作戦要領
機動部隊を以って上陸前ミ島を空襲、兵力と防御施設を壊滅し、攻略部隊を以って一挙に攻略するとともに
出撃し来る敵艦隊を補足撃滅する。
ミッドウエー攻略の計画は聯合艦隊から提出された。
当初難色を示していた軍令部も、アリューシャン作戦と合わせて実施することになり、東京空襲を受けたことによって
同意した陸軍から攻略部隊として一木支隊(のちガダルカナル島作戦に参加)も参加することとなった。
ミ島攻略は、上記のように米機動部隊を誘い出し撃滅することとともに、
東京空襲を防ぐため同島に哨戒線を前進させることを目的としていた。
だが珊瑚海海戦のため大型空母2隻が不参加となり、潜水艦部隊の哨戒線配置が遅れ
インド洋作戦から帰投後の機動部隊等の作戦準備や訓練も不十分であった。
一方我が暗号を解読し計画を知った米軍は、大型空母3隻を日本潜水艦が哨戒線につく前に配置についていた。
珊瑚海で損傷したヨークタウンも3日の突貫工事で応急修理と飛行隊の補充を終えて配備された。
またミ島の防備も強化され、同基地の航空部隊は約120機であった。
◆ 一航艦司令部の用兵思想 ◆
ハワイ作戦で成功した海軍による空母集中運用は、指揮運用が容易で攻撃力の集中が可能である利点があった。
一航艦司令部はその後も空母集団使用を続けていたが、最も欠点とする本格的な航空攻撃を受けた経験がなかった。
空母は攻撃力は強大であるが防御力はきわめて弱く、空襲に対する受身の防御では阻止できないことは
当時から指摘されていたのである。
これに対し源田参謀は、空母を集団使用すれば防空戦闘機を多数配備できるので
かえって敵の攻撃に対処できると考えていた。
(源田参謀は戦闘機出身であり、零戦の性能・我が搭乗員の技量を熟知していた)
司令長官・南雲忠一中将(36)は、水雷専攻ということもあって航空作戦の計画や指導には
ほとんどイニシアチブをとることはなく、幕僚の意見を「よかろう」と決裁していた。
参謀長・草鹿龍之介少将(41)は、航空作戦の第一人者であったがほとんど口を出すことはなく、
首席参謀・大石保中佐(48)は航海専攻で航空経験が少なかった。
勢い航空作戦の計画も指導も、航空甲参謀・源田実中佐(52)の意見がほとんど全部通っていたようである。
当時機動部隊を‘源田艦隊’と評していた者さえあった。
しかし源田自身は、自己による計画や指導がなんらの批判もなく長官や参謀長を通ることが寂しい
と漏らしていたと伝えられている。
- 641 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:38 ↑
- ◆ 両 軍 戦 力 ◆
第1機動部隊 指揮官 南雲忠一中将
空襲部隊 (南雲中将直率)
第1航空戦隊 赤城、加賀
第2航空戦隊 飛龍、蒼龍
支援部隊 (阿部弘毅中将)
第 8戦隊 利根、筑摩
第 3戦隊 榛名、霧島
警戒部隊 (木村進少将)
第10戦隊 長良、第4、10、17駆逐隊
攻略部隊 指揮官 近藤信竹中将 (陸軍 一木支隊 約2000名)
本隊 (近藤中将直率)
第 3戦隊 金剛、比叡
第 4戦隊 愛宕 鳥海
第 5戦隊 妙高、羽黒
第4水雷戦隊 由良 第2、9駆逐隊 他
護衛隊 (田中頼三少将)
第2水雷戦隊 神通 他 輸送船15隻
支援隊 (栗田健夫少将)
第 7戦隊 三隈、最上、熊野、鈴谷 第8駆逐隊
航空隊 (藤田類太郎少将)
第11航空戦隊 千歳、神川丸 他
主力部隊 指揮官 山本五十六大将
戦艦3、改装空母1、軽巡1、駆逐8
先遣部隊 指揮官 小松輝久中将
軽巡1、潜水艦18
警戒部隊 指揮官 高須四郎中将
戦艦4、軽巡2、駆10
航空部隊 指揮官 塚原二四三中将
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空母部隊 指揮官 フレッシャー少将
第16任務部隊 (スプルーアンス少将)
空母2(エンタープライズ・ホーネット)、重巡5、軽巡1 基幹
第17任務部隊 (フレッシャー少将)
空母1(ヨークタウン)、重巡2、駆逐艦6 基幹
ミッドウエー守備隊 (D.シャノン大佐)
兵員3027名 戦闘機等約120機
- 642 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:38 ↑
- 5月27日 第1機動部隊は柱島泊地を出撃した。
5月29日 近藤中将指揮の攻略部隊主隊が出撃
その後、山本長官直率の主力部隊と高須中将の
指揮する警戒部隊が続けて出撃していった。
またそれより前の5月26日 ミッドウエー作戦の北方
からの牽制作戦として、アリューシャン作戦部隊、
角田覚治中将の第2機動部隊が大湊を出撃した。
聯合艦隊の各部隊は出撃直後、悪天候に悩まされる
こととなった。また航海中各部隊は、厳重な無線封止
を行っていたため、山本長官は各部隊の状況を掴む
ことはできなかった。
一方、暗号解読によってミッドウエー攻撃を知った
米軍は、空母「エンタープライズ」「ホーネット」さらには
珊瑚海海戦で大破しながらも、修理をわずか3日間で
繰上げた「ホーネット」の3空母をもって、我が南雲
機動部隊を待ち受けた。
◆ 作 戦 経 過 ◆
6月5日
0130 上空警戒機、ミッドウエー島攻撃隊、対潜直衛機、索敵機 各々空母より発進
0200 第4索敵線 利根4号索敵機遅れて発進
0220 南雲長官 第二次攻撃をミッドウエー島に向けると予令
各艦陸上攻撃用爆弾の準備開始
0232 敵飛行艇接触開始
0255 利根4号(1号?)索敵機 「敵機向う」の通信受信
ミッドウエー島からの陸上機来襲と判断
0334 ミッドウエー島飛行場・地上施設 攻撃開始
0400 ミ島攻撃隊指揮官 友永大尉
「攻撃は概ね成功なるも効果不十分 第二次攻撃の要ありと認む」と打電
0405 ミッドウエー島からの敵機 攻撃開始
防空のため第二次攻撃用戦闘機を発進し、来襲せる大半を撃墜
0415 索敵機予定索敵線に到達するも敵艦隊発見できず
南雲長官はミッドウエーに対し第二次攻撃を決意。陸上攻撃用兵装に転換
0428 利根4号機 「敵らしきもの10隻発見 ミッドウエー10度240浬」
0445 利根4号機から付近の天候報告
南雲長官は敵水上部隊存在確実と判断、空母を含むと推定
攻撃を決意し、艦船攻撃兵装(雷装)に再転換下令
0450 ミッドウエー(第1次)攻撃隊 母艦に帰投開始
0509 利根4号機 敵兵力巡洋艦5、駆逐艦5と報告
0520 利根4号機 敵は空母らしきもの1隻伴うと報告
南雲長官は、ミッドウエー攻撃隊を急速収容、兵力整備と艦隊北上を決意
0540 ミッドウエーからの敵機攻撃収束
我が攻撃隊収容開始
0618 敵艦載機来襲 防空戦闘により来襲機の大半を撃墜
0630 南雲長官 昼戦の企図信号下令
0723 第二次攻撃準備未完了のまま敵雷撃機を迎撃中
急降下爆撃機の奇襲を受ける
加賀、赤城、蒼龍 被弾大火災
0730 敵空襲終了
0746 赤城の司令部首脳 駆逐艦 「野分」に移乗のち 軽巡洋艦「長良」に将旗を移す
0758 飛龍第1次攻撃隊 発進
山口第2航空戦隊司令官 第二次攻撃準備
0810 二式艦偵 空母部隊を索敵報告するも指揮官には不達
0853 南雲長官は飛龍攻撃に策応し昼間水上戦闘を下令
0910 飛龍攻撃隊 敵空母1隻を火災炎上させるも攻撃隊の被害大
1000 第4駆逐隊司令は捕虜情報として空母3隻の基幹を報告するも
上級司令部が了解したのは1時間以上後
南雲長官 飛龍第二次攻撃成果を待って突入を決意
1031 飛龍 第2次攻撃隊発進
同 第1次攻撃隊収容
1100 山口司令官は空母3隻を報告
1145 飛龍攻撃隊 魚雷2命中と報告
1220 山口司令官 第3次攻撃を薄暮に延期
1245 飛龍 第二次攻撃隊収容
1315 山口司令官 敵空母3隻中2隻を撃破、残存は1隻との判断を報告
敵接触機(索敵機)発見
1400 敵艦上攻撃機続いてミッドウエー島からの敵陸上機来襲 防空戦闘開始
1403 飛龍 急降下爆撃機の奇襲を受け被弾火災
1530 空襲修了 飛龍以外は被害軽微
1620 加賀 蒼龍 沈没
1700 索敵機と上空警戒機(飛行機は海上不時着)搭乗員 収容
筑摩2号索敵機により敵健在空母4隻と推定
6月6日
0200 赤城 自沈
0210 飛龍 駆逐艦による雷撃処分
- 643 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:39 ↑
- ◆兵装転換と敵艦隊発見◆
ミ島攻撃隊より再攻撃の必要との報告を受けた南雲長官は、索敵機が予定時刻になっても敵発見を
報じて来なかったので、敵艦隊は付近に存在しないと判断、第2次攻撃をミ島に指向することを決意した。
そのため待機中の艦上攻撃機の兵装を、魚雷から陸用爆弾に代えるよう下令した。
だがこの換装作業は防空戦闘中に開始されたのでなかなか進捗しなかった。
この防空戦闘や兵装転換作業で混乱している最中、利根4号索敵機は敵艦隊発見を報じた。
これを受けて敵艦隊攻撃を決意、「艦攻の雷装そのまま」を下令。
そのとき敵空母との距離は、攻撃可能である約210浬であった。
当時ミ島からの空襲が続いていたが、約1時間半に及びそれも終わろうとしていた。
少数機ずつの長時間攻撃で我が艦艇に被害はなく、来襲機の大部分は撃墜していた。
零戦の戦力が大きいことと敵の技量が拙劣なことが要因であった。
敵空母は攻撃可能範囲であったが敵機の来襲は続いており、
その防空戦闘のため攻撃隊につける戦闘機は残っていなかった。
また兵装復旧作業(爆弾から魚雷)も終わっていない。さらにはミ島攻撃隊は空母上空に戻って来ており、
燃料や被弾を考えると至急収容する必要があった。
第2航空戦隊山口司令官は一刻を争う戦況と判断、二航戦の艦爆隊を先に発進させるよう意見具申した。
しかし南雲長官は、まずミ島攻撃隊と上空直衛機を収容、十分な護衛戦闘機をつけた強力な攻撃隊を編成し、
正攻法で敵空母部隊を撃滅する方針を採った。
=草鹿参謀長=
艦爆隊ならすぐ発進させることができた。しかし戦闘機を伴わないミ島からの敵機が
次々撃墜されているのを目前で見て、戦闘機をつけずに出す決心がつかなかった。
戦闘機は母艦直衛のためすべて上空にあり、攻撃隊につけてやる分はなかった。
◆「飛龍」の攻撃◆
旗艦赤城が大火災となり、次席指揮官の第8戦隊司令官 阿部弘毅少将(39)が第1機動部隊の指揮を一時継承した。
当時敵空母は2隻と判断されており、敵の技量からみて「飛龍」1艦でこれを圧倒できると信じていた。
一方飛龍は第2航空戦隊の旗艦であり司令官 山口多聞少将(40)は、阿部司令官の命を待たず即座に攻撃を決意、
山口司令官は攻撃隊発進後も「飛龍」を率いてどんどん進撃し、部隊指揮官の阿部司令官がこれを追うような形となった。
(のち南雲長官は指揮を継承する)
0758 艦爆18機、艦戦6機の兵力で小林大尉を指揮官とする第1次攻撃隊は発進した。
0910 ヨークタウンを強襲 爆弾3発を命中させ一時航行不能にさせた。だが我が方も艦爆13機、艦戦3機を喪失した。
1031 予定より遅れて友永大尉を指揮官とする第2次攻撃隊を発進させた。兵力は艦攻10機、艦戦6機にすぎなかった。
第2次攻撃は、少数機による悲壮な攻撃となった。
1145 空母に魚雷2本(3本?)を命中、この空母は炎上していなかったので第1次攻撃時とは別空母であると判断された。
これにより敵空母2隻を撃破した計算となった。 我が方は艦攻5機、艦戦2機を失った。
だがこの時の空母は実は再び動き出したヨークタウンであった。
つまり同一空母を2度にわたって攻撃したとは知らずに、計2回の攻撃戦果から3隻中2隻を戦闘不能にしたものと
判断したのである。
この攻撃で大破したヨークタウンは航行不能となり1455総員退去となった。
1231 第3次攻撃の計画を報告 残存全兵力(艦爆5 艦攻4 艦戦10)を以って薄暮攻撃をかけることとした。
1245 第2次攻撃隊の収容を終え
1330 夜戦に備えた(日没は1543)
山口司令官は敵空襲近しと判断して甲板待機の上空警戒機を発進させ計13機が敵攻撃機を警戒した。
このように警戒厳重にしていた最中の1401 敵・急降下爆撃機が奇襲して来るのである。
- 644 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:39 ↑
- ◆ 全空母の喪失 ◆
旗艦「赤 城」
敵雷撃機14機が北東から接近中、0726ころ信号兵が急降下3機を発見、奇襲のため対空機銃も間に合わなかった。
敵1番機の爆弾は至近弾、2番機の爆弾は飛行甲板中央から格納庫内で爆発、3番機の爆弾は左舷後部に命中した。
甲板上では戦闘機が発艦準備を整え、格納庫内には艦攻、艦爆全機があり
次期攻撃のため全機燃料を満載、魚雷・爆弾も装備中であった。
そのため格納庫内で爆発した第2弾により大火災となり、魚雷や爆弾の誘爆が始まった。
0746 南雲長官以下司令部は「野分」に移乗を始め、0820青木艦長は艦橋から飛行甲板前部に移った。
しかし機関科指揮所とは連絡がとれず消火の見込みが少ないと判断、1625総員退去を命令した。
青木艦長は艦と運命を共にするべく移乗する乗員を見送っていたが、艦がなかなか沈まないので
増田飛行長はむりやり艦長を「嵐」に移した。
翌6日0150 山本長官から魚雷によって処分するよう命令を受け、0200「赤城」は艦影を没した。
戦死者は准士官以上8名 下士官兵213名 計221名で定員は1630名、司令部64名であるが実員数は不明。
「加 賀」
来襲した敵雷撃機を回避中突然急降下する敵艦爆9機を発見、「加賀」は直ちに右に転舵して防空砲火で反撃した。
敵の第1〜第3弾はかわしたが、第4弾は右舷後部、第7、第8弾は前部昇降機付近、第9弾は飛行甲板中央に命中。
第8弾の爆発により艦長以下艦橋にあった者ほとんど全員が戦死し、第9弾は格納庫内で爆発、大火災となった。
飛行長天谷中佐が先任者として指揮をとり全力で消火に努めたが、
火勢が強く炭酸ガス消火装置発動が間に合わず消火ポンプも破壊されていた。
鎮火の見込みが立たないので、1025まず御真影を「萩風」に移し、飛行長は1400頃総員退去を命じた。
1625 前部ガソリン庫に引火して大爆発2回を起こし、1626沈没した。
戦死者は艦長岡田大佐以下約800名に及び、機関科要員が多かった。定員は1708名であるが実員数は不明。
「蒼 龍」
同艦も敵雷撃機の回避に気をとられていた時、急降下爆撃機12機(13機?)の奇襲を受け、直ちに対空砲火で応戦。
しかし間に合わず、0725、0726、0728ころ続けて爆弾が命中し大火災となった。
これによって格納庫内飛行機、爆弾、魚雷はもちろん高角砲弾、対空機銃弾も誘爆を起こし、見る間に火災は広がった。
0740主機械は全部停止、0745柳本艦長は艦を放棄することを決意、総員に退去を命じた。
柳本艦長は火傷を負っていたが、艦橋右舷の信号台に立ち全艦の指揮を執っていた。
部下は再三にわたり強硬に安全な区域に移るよう懇願したが艦長は断固としてこれを退け、
ついに万歳を連呼しながら火焔の中で、従容として守所を離れず壮烈なる戦死を遂げた。
1612 沈没を始め、1620 水中で大爆発を起こした。
戦死者は准士官以上35名、下士官兵683名 計718名 定員は1103名であるが当時の実員数は不明。
「飛 龍」
上記僚艦が被弾した後も奮戦を続けていたが、敵艦爆13機が太陽を背に急降下してきた。
回避を行ったが間に合わず最初の3弾は外れたが第4弾から続いて命中、命中弾数は4弾で格納庫内で誘爆を起こした。
機関科員の努力により一時は28ノットの高速航行を続けていたが、炭酸ガスによる消火装置は故障し、火勢のため
多くの機関科員も斃れていった。
2058 再び誘爆が起こり、加来艦長は山口司令官の許可を得て2330 総員退去準備を下令した。
6日0015 艦長は総員退去を命令、御真影、負傷者、搭乗員を先頭に、「風雲」「巻雲」に移乗、0130終了した。
山口司令官と加来艦長は温顔、従容として訣別の帽を振りながら退艦者を見送った。
おおよそ見送りが終わると、「良い月だなあ、月でも見よう」といって二人で艦橋に昇っていったという。
0210「巻雲」は魚雷を発射、沈没を確認しないで現場を去った。
戦死者は准士官以上29名、下士官兵387名 計416名 定員は1103名 二航戦司令部が23名であるが実員は不明。
ところが同艦はこのとき沈没せず、まだ生存者が残っていたのである。
- 645 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:39 ↑
- ◆ 「飛龍」乗員の脱出−漂流 ◆
総員退去ののちもなお相当数の生存者があった。これは退去命令が伝わらなかった者や脱出が遅れた者である。
他の3艦もこのような乗員がいたものと想像されるが、これらは「飛龍」とは異なり乗艦がすぐ沈没したので
すべて艦と運命を共にしたものと思われる。
「飛龍」は沈没まで時間があった。
このため艦橋との電話連絡がとだえた機関科員を中心とした約70名が救助を待つことにした。
甲板上のランチ(小型の連絡艇)を海上に降ろそうとしたところ艦は沈み始め、一同は海に飛び込んだ。
右舷に逃れた者はカッターに乗れたが、左舷に逃れた者は1名も救助されなかった。
カッターに乗れたのは 機関長相宗中佐、機関分隊長(機械部指揮官)梶島大尉、機関長附萬代少尉以下39名であった。
しばらく救助に来るのを待っていたが現れないので、意を決してウエーク島に向かうこととした。
しかしカッターには海図も羅針盤もなく若干の毛布のほかは糧食も少量でしかなかった。
漂流開始後15日目、米水上機母艦バラードに発見され全員が収容された。
漂流の間5名が死亡、結局34名が捕虜となったのである。
◆ 「ヨークタウン」撃沈 ◆
飛龍の奮戦により行動不能に陥った 「ヨークタウン」は、総員退去の後ハワイへ向け掃海艇によって曳航中であった。
我が潜水艦伊168潜は6月7日1005 距離900Mから魚雷4本発射、これにより「ヨークタウン」は沈没した。
護衛中の5隻の駆逐艦のうち「ハマン」も轟沈した。
なおミッドウエー砲撃に向った重巡「最上」と「三隈」は、米潜水艦の回避運動中に衝突して損傷
速力が低下して取り残された。追撃してきた米空母機によって、「最上」は大破炎上かろうじて脱出したが、
「三隈」は6月7日午後 三時にわたる航空攻撃によって沈没した。救助されたのは237名に過ぎなかった。
その後駆逐艦「浦波」と「磯波」も衝突事故を起こし、特に「磯波」は11ノットしか速力が出なくなってしまった。
◆ 戦果・損害 ◆
日本軍 米軍
戦死・行方不明 3064名 (内 搭乗員121名) 364名 (内 搭乗員210名)
撃 沈 空母4 重巡洋艦1 空母1 駆逐艦1
損 傷 重巡1 駆逐艦4
喪失飛行機 285機 (他に水偵4機) 147機
◆ 本作戦失敗の原因 ◆
本作戦の失敗をレベル別に整理すると以下のようになる。
戦略/聯合艦隊司令部のレベル
1 目的の二重性
真の目的はミ島占領ではなく米空母群を補足撃滅することにあった。
2 情報軽視と危機管理の不十分
戦略的奇襲が成立すると判断していたが、敵の暗号解読は行えなかった。
これに対し敵は、我が暗号の解読に成功、我が作戦企図、作戦計画を
かなり詳細にしっていたのである。
3 兵術思想転換の不徹底
航空決戦思想に矛盾する作戦目的に沿わない艦隊編成
4 山本長官の出撃と無線封止
主力部隊が無線封止となり、山本長官自らの出撃も
適切な作戦指導を行い得なかった。
戦術/第1機動部隊司令部のレベル
1 不十分な索敵
索敵機の発進遅延、見落とし、索敵コースのずれ、位置の誤認、等
2 航空決戦の戦術的敗北
護衛戦闘機なしでも攻撃隊を発進させるべきであったかどうか はわからない。
しかし結果としては先制奇襲の大原則に反して戦機を逸し、大敗北を期したのである。
先に記したように、空母は攻撃力は大きいが防御力は脆弱である。
このため先制攻撃こそが最も効果的な防御手段ではなかったか?
- 646 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:40 ↑
- ◆ 本作戦失敗の影響 ◆
1 正式空母4隻の喪失によって当面空母部隊を活用する積極作戦は企図できなくなった。
まして長年訓練を重ねていた第1、第2航戦の域にその戦力を高めることは、当分の間望むことはできなかった。
2 搭乗員をどの程度失ったかは被害隠匿のため特殊な人事処理を行ったので正確には不明である。
しかし空母こそ失ったが搭乗員の損耗は思ったより少なかった。また救助された搭乗員の士気は向上の傾向があった。
これは来襲した米航空部隊の低劣な技量を目の当たりにしたことと、「飛龍」の少数機による攻撃が戦果をあげた
(当時 敵空母2隻を沈没させたものと判断されていた。実際は1隻のみ) ことによる。
この次には我々が仇を討つのだと意気込んだのであった。
3 搭乗員は救助されたが、飛行機自体は全機=約300機が失われた。
海軍空母機は基地飛行隊よりも戦闘の機会が少ないので生産要求数は少なかった。
また飛行機の増産も計画どおりには進んでおらず、特に零戦の補給が間に合わない状況であり
生産力が不十分であった海軍にとっては非常な痛手であった。
- 647 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:40 ↑
- ◆ 南太平洋陸軍作戦 ガダルカナル島作戦 ◆
◆ 作戦の背景 ◆
大本営では米豪連絡線を遮断して豪州が反抗基地となることを阻止するため、
かねてポートモレスビーを攻略するとともに フィジー、サモア、ニューカレドニアを攻略する作戦
(FS作戦)を実施する構想であった。
しかしミッドウエー海戦で主力空母4隻を失ったのでFS作戦は6月7日に2ヶ月延期となり、
7月11日中止と決定されたが、かねて中部ソロモンに陸上機の基地推進を検討していた
海軍の第4艦隊、第25航空戦隊はガダルカナル島の基地設定に着手した。
7月1日設営隊の先遣隊を、7月6日本隊をガ島に上陸させ、8月5日には第1期工事を終わり、
長さ800M、幅60Mの滑走路を概成した。
当時のガ島在島の日本軍は、2個設営隊2571名うち陸戦部隊280名、
他に遠藤幸雄大尉を長とする第84警備隊派遣隊約150名であった。
海軍はガ島に飛行場を設営したことを陸軍に通報した。
しかし大本営陸軍部部員の大部分はガ島の名前や位置さえも知らなかった。
これは、東部ニューギニアの攻略は陸海軍で中央協定が作られたのに対し、
ソロモン方面の作戦は特に研究が行われたことがなく陸軍の関心が薄かったためである。
ミッドウエーの敗戦で太平洋における米艦隊の早期撃破に失敗した大本営・聯合艦隊では、
米軍の本格的反抗は昭和18年中期以降と予想し、南太平洋方面ではモレスビーを攻略して
東部ニューギニア−ソロモン−ギルバートの要線で連合軍の反抗を阻止する態勢を造る考えであった。
◆ 連合軍のガ島反攻開始 ◆
一方米軍はミッドウエー海戦後、始めて主導的作戦をとり得る立場となった。
種々の検討の結果、成功が比較的容易で大損害を避け得る上陸作戦を敢行することとなった。
そしてその第一弾が日本軍が飛行場建設中であったガダルカナル島に決定されたのである。
米国の対日戦略の基本は、我が本土侵攻による戦争終結にあった。
ただし中部太平洋諸島の制圧なくしては対日進攻はありえず、航空基地確保は困難であった。
米軍はこのような長期構想のもとに、我が補給線/攻勢終末点を越えた先端ガダルカナル島を突いてきたのである。
これは大本営が予想した昭和18年後半以降という米軍反抗予想時期より1ヵ年早いものであった。
昭和17年8月7日 米軍は主力をもってガダルカナル島に、一部をもってツラギ島に上陸した。
『望楼(ウオッチタワー)作戦』の開始である。
ツラギ島には米軍2個大隊が上陸、我が第84警備隊等約250名は0603を最後に通信を断って玉砕した。
ガ島には巡洋艦3隻と駆逐艦4隻多数の飛行機による砲爆撃下、0710上陸を開始した。
上記のように我が守備隊のうち、正規の戦闘部隊は500名以下であり、
敵機来襲に備えて簡単な防空壕を構築していただけで、地上攻撃に対する築城は全然準備していなかった。
不意をつかれた部隊は混乱状態に陥り、ジャングル内に離散、通信所は破壊され島外との連絡は途絶した。
第13設営隊長 岡村少佐はルンガ川の線で米軍を阻止しようとしたが、第11設営隊長 門前大佐は困難と判断、
8日朝までに後退した。陣地後退にあたって携行した糧食は1週間分に過ぎなかった。
急報を受けた第25航空戦隊(司令官山田定義少将)は、基地航空部隊で猛反撃を加え、
第8艦隊(司令長官三川軍一中将)はガ島に向い米巡洋艦艦隊を夜襲し大戦果を挙げた(第1次ソロモン海戦)。
反撃を受けた米攻略部隊は一時ガ島水域から避退した。それを知った陸軍はガ島奪回を企図したのである。
- 648 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:40 ↑
- ◆ 一木支隊の戦闘 ◆
8月13日 第17軍百武晴吉中将と第11航艦塚原二四三中将は、ガ島奪回作戦に関して現地協定を締結した。
「キ号作戦」と呼称された作戦は、一木支隊と海軍陸戦隊だけでガ島飛行場を奪回しようとするものであった。
一木支隊は、第7師団歩兵第28連隊長 一木清直大佐(28)を長とする2000名の部隊で、
本来ミッドウエー島攻略作戦に参加が予定されていた部隊である。
また横須賀第5特別陸戦隊は、司令安田義道大佐以下616名で6月以降グアム島に位置しており
第8艦隊の指揮下にあった。
一木支隊の乗船していた輸送船は、9.5ノットの低速船であった。そこでまず速度の速い駆逐艦6隻に
約900名の人員を先遣隊・第1悌団として輸送し、支隊残りは輸送船による第2悌団として上陸させることになった。
海軍陸戦隊は第2悌団と同行することとなった。
先遣隊のみで攻撃するか、第2悌団の上陸を待って攻撃するかは支隊長の判断に任されたが、
第17軍の意向としては先遣隊だけで攻撃奪取する趣旨であった。また支隊長一木大佐も同意見であった。
なお軍司令部としては攻撃失敗の場合、やむを得ざればガ島一端を占領し航続部隊の来着を待つべしと命じた。
一木大佐は、支那事変発端となった盧溝橋事件当時の大隊長(北支那駐屯第1聯隊第3大隊長)で
歩兵学校の教官を永年勤めた実戦指揮に長けた武人であった。
また旭川で編制された現役の将兵は、輸送にあたった海軍関係者が称賛するほど、動作溌剌、軍紀厳正であり
我が陸軍の伝統的「白兵夜襲」をもってすれば、ガ島奪還など簡単なものと信じていたので、
各人の携行する小銃弾は250発、糧食は7日分であった。
先遣隊は、支隊本部、歩兵大隊、工兵中隊 重機8、軽機36、擲弾筒24、歩兵砲2の計916名と定めた。
ガ島には、飛行場設営隊などの生存者と海軍陸戦隊の高橋中隊(113名)を合わせて
『ガ島守備隊』が第11設営隊長 門前鼎大佐指揮のもと編成されていた。
一木支隊による奪回計画を知ったガ島守備隊の士気は大いに挙がった。
各種情報を総合してガ島米軍兵力は約2000名、一部はツラギ方面に退避途中で戦意は低いと考えられていた。
とすれば米兵など鎧袖一触、我々は支那大陸で1をもってよく10にあたってきたではないか、と。
だが実際は海兵第1師団を中心とした13000名(そのうちガ島には10900名)であり、
10倍の敵に銃剣突撃の戦術をもって相対することとなるのである。
◆ 一木支隊の攻撃 ◆
8月18日 2300 上陸した一木先遣隊は海岸線を西進、ジャングル内で大休止をとった。
8月19日 0830 支隊長は渋谷大尉、館中尉以下の情報所要員と将校斥候34名を派遣した。
ところがこれら部隊が3名を残し全滅したとの情報が入り、不幸な前途を暗示するかのようであった。
8月20日 0230 支隊長は攻撃計画を示した。
8月20日夜半から『行動即捜索即戦闘』の拙速主義をもって一挙に飛行場を奪取しようとするものであった。
大隊長蔵本信夫少佐、次いで支隊長一木清直大佐が尖兵中隊長の位置に先行した。
一木支隊戦闘要図
8月21日 0118 ジャングル内に緑色の信号筒が打ち上げられた。
尖兵第2中隊は擲弾筒の集中射撃の支援下に銃剣を振りかざして突入した。
支隊長は一部で正面から牽制、主力をもって左翼方面から砂州を超えて攻撃するよう部署を行った。
8月21日 0310 主力の攻撃が開始された。
弾幕を集中する米軍に対し、我が夜襲はすさまじいものであったが、
この正面を担当した海兵第2大隊の防戦も必死であった。
一部には鉄条網を突破し敵陣に突入するものもあったが、大部分は砂州の前後に折り重なって倒れた。
支隊長は機関銃中隊や大隊砲小隊(砲2門)を加入させたが、
米軍の迫撃砲を主とした砲火が反撃集中されるのとは全く比較にならず
支隊将兵は次ぎから次ぎへとイル川の穏やかな河口を埋めていくという悲惨な状況が展開された。
8月21日 0900 支隊南側から米軍の反撃が開始、午後には戦車6両が加わり支隊の背後を蹂躙、
さらにはグラマン戦闘機が頭上から攻撃を加えてきた。
生き残った兵士たちは対戦車地雷で2両を破壊したが次々戦死、もはや支隊の抵抗もこれまでと
一木大佐は1500頃軍旗を奉焼し自決した。
- 649 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:41 ↑
- ◆ 戦果と損害 ◆
日本軍 米 軍
総兵力 916 10900
戦 死 777 34
戦 傷 30 75
戦傷者及び監視警戒のため上陸地点に残っていた、計128名は後続部隊の来着を待った。
またこの攻撃で、米側資料によると15人が捕虜になったとされている。
8月25日 精鋭とされる一木支隊の惨敗が第17軍司令部で確認された。
それは21日部隊壊滅して以来実に4日目のことであった。
軍司令部には重苦しい空気がみなぎった。
米軍反攻の第一歩に対する日本軍最初の反撃はあっけなく終わった。
軍司令部には重苦しい空気がみなぎった。
日本軍としてあるはずはないと信じていたことが、現実に起こったのである
- 650 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:41 ↑
- ◆ 南太平洋陸軍作戦 ガダルカナル島作戦2 ◆
◆ 川口支隊派遣決定と上陸 ◆
第17軍司令部では、一木支隊だけでガ島飛行場奪回が成功すると考えていたわけではなかった。
またそれが成功したとしてもガ島南方のツラギ島を引き続き攻略する必要があったので、
一木支隊に次いで歩兵第35旅団の派遣を準備していた。
昭和17年8月20日から米軍航空隊はガ島飛行場に進出し米艦隊と協同していた。
これを撃破し増援輸送支援のため出動した聯合艦隊との間に第2次ソロモン海戦が行われた。
輸送船団は引き帰したが8月28日からは駆逐艦によって川口支隊の輸送が行われた。
ガ島基地の米航空部隊は逐次増強され、ラビ、ポートモレスビーを基地とする航空部隊とともに
奪回作戦の大きな障害となりつつあった。
この海戦以降ガ島への輸送は、昼間の輸送船による大規模増援から、
夜間高速を利用した駆逐艦による逐次連続輸送『ねずみ輸送』に切り換えることとなった。
ねずみ輸送の場合、駆逐艦1隻の輸送能力は、人員150名、軍需品100トンが限度であり、
重火器の輸送は不可能であった。
◆ 川口支隊の攻撃準備 ◆
9月6日 支隊長(第35旅団長)・川口清健少将(26)は以下の攻撃構想を第17軍司令部へ報告した。
支隊は9月12日1600攻撃開始、主攻撃方向を南方ジャングルより北方飛行場に指向し
13日払暁までに全陣地を蹂躙する。
岡部隊(舟艇機動部隊)は海岸方面より飛行場西側に攻撃させる。
これは飛行場を東から攻撃するのでは、米軍の堅陣に遭遇し一木支隊と同じ運命に陥るおそれが多いので
ジャングルを迂回し飛行場南方から米軍の背後を奇襲し、一挙に飛行場を奪取しようとするものであった。
一木大佐の轍を踏まないために戦術的には苦心を払ってはいたが、敵兵力の軽視は前回と大差はなかった。
川口支隊長の強い主張で駆逐艦による輸送ではなく舟艇機動させた第124聯隊は、
第2大隊基幹の約1000名が予定されていたが、数度にわたる敵機の空襲によって
第2大隊長鷹松少佐は戦死、上陸した兵力は予定の1/3、実力は1個中隊でしかなかった。
支隊長は全戦力の大部分を第1線に使用した。
これは第1線兵力を強化し一夜のうちに雌雄を決しないと、天明後は米軍の優勢な火力の前に
苦戦に陥ると判断したことによった。したがって予備兵力を持たなかった。
20〜30輛とみられた米軍戦車に対し、我が砲兵は聯隊砲4門、速射砲12門を基幹としていた。
- 651 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:41 ↑
- ◆ 川口支隊の戦闘 (第1回総攻撃) ◆
9月12日 第1次夜間攻撃が行われたが各部隊による統制のとれない各個の行動であったため
支隊長は、兵力を結集して13日夜攻撃再興を企図した。
川口支隊戦闘要図
昭和17年9月13日 2000 援護砲撃を合図に川口支隊の総攻撃が開始された。
中央隊左
国生大隊の突進目標は飛行場北西部の高地であった。
エドソン大佐の2個大隊の布陣する丘(ムカデ高地、血の丘)を中心とした鉄条網のある2条の陣地の
第一線を突破したが第2線陣地を抜くことができず、猛烈な砲撃のなかで多数の死傷者を出した。
国生勇吉少佐は屈することなく自ら砲兵陣地に白刃を振るって斬りこんだが戦死を遂げた。
また中隊長級の幹部も多数が戦死した。
中央隊中
続く田村大隊は、「夜襲の仙台師団」の名誉にかけて第5、6、7中隊を併列し敵陣に突進した。
大隊長田村昌雄少佐の父は、日露戦時「弓張嶺」夜襲戦に参加した旅団副官であった。
小野寺中尉の第5中隊が優勢なる敵を前に突破を阻止されている間に
他の2中隊は飛行場内に突入した。
黒木中尉の第6中隊は真一文字に北進し滑走路を横切り海岸近辺まで進出した。
敵幕舎数個を破壊し米軍司令所付近を確保した。
石橋中尉の第7中隊は遮蔽物がないため死傷続出したが屈せず、
機銃座を蹂躙し高射砲2門を破壊、建設中の倉庫を占領した。
中央隊右
大隊の一部が敵陣に突入しただけで主力は米軍と接触するに至らなかった。
不幸にして大隊長渡辺久寿吉中佐は、在満中の外傷が悪化し歩行不能であり
部隊と行動することができない状態であった。
右翼隊
一木支隊の集成部隊である水野大隊は、鉄条網を有する米軍陣地の前に前進を阻止され
水野少佐は戦死、部隊は突撃できなかった。
左翼隊
岡大佐以下の第124聯隊は、米軍陣地の一角を占領しただけでその後の前進は
敵の集中砲火に阻止され進展せず、後続の舞鶴大隊も米軍の集中砲火に阻止された。
支隊長川口少将は、副官以下若干の兵とともに森林内に位置し各部隊の攻撃状況の把握に努めていた。
14日朝までに攻撃が失敗したことを確認し、1105 後退命令を隷下部隊に発した。
飛行場の一角を占領しつつあった田村大隊は、攻撃中止の決死伝令によって無念の後退を実施した。
◆ 戦果と損害 ◆
日本軍 米 軍
総兵力 6200 10900
戦 死 633 31
戦 傷 505 103
不 明 75 9
なお日本軍の損害は、8/13〜10/2間のもので
総攻撃以外の空襲などによる損害を含む。
この後の戦闘推移を見ても、この川口支隊の攻撃がガ島飛行場奪還の唯一の機会であった。
「もう一個聯隊あったら、ルンガ飛行場は完全に占領していたよ。」という大隊長 田村昌雄少佐以下の談話は、
エドソン大佐の「貴様たちになくて敵にあるのはガッツだけだ」と兵士達への叱咤激励と
米軍の呼んだ「September Crisis/9月の危機」 と併せ考えても、
陥落一歩手前まで追い詰めたことは疑うべからざる事実であった。
そして良く戦った米軍は、兵力火力ともに増やして再度の日本軍の攻撃に備えていくと同時に、
マタニカウ川付近では積極行動に出た。しかし岡聯隊は、ことごとくこれを撃退した。
- 652 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:42 ↑
◆ 大本営と第17軍の作戦指導 ◆
開戦以来の帝国陸軍の不敗の思想が米軍の前に始めてつまずいたのがこのガ島作戦であった。
ここで始めて大本営と第17軍によるガ島奪回と南太平洋の戦局好転への本格的作戦がとられることになり、
師団規模のガ島投入が企図されることになった。
支隊の寄り合い世帯であった第17軍は、第2師団を主力とする建制2個師団を根幹とすることに増強され、
参謀陣も大本営派遣参謀を加えると一挙に3名から11名に増員された。
9月下旬、百武司令官に招致された川口少将は、ガ島戦況について説明を行った。
我が戦力の貧困(とくに飢えと疲労)、地形の峻険、敵戦力の強大(航空支援、火力、電波探知機等)などで、
ガ島の実状に則した説明ではあったがその悲観的な事実認識は、必勝の信念に燃える軍司令部員の反感を買い
のちの罷免事件へと繋がった。
また離島決戦の不利を悟り自重論を展開した第17軍二見参謀長は、病気を理由に10月19日更迭された。
- 653 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:42 ↑
- ◆ 南太平洋陸軍作戦 ガダルカナル島作戦3 ◆
◆ 第17軍の攻撃準備 ◆
第2回総攻撃計画は、今までの夜襲とは異なる堂々たる正面作戦であった。
第2師団を主力とする歩兵17500名、火砲176門、糧食30日分を輸送する予定であったが、
実際に揚陸させる輸送/補給に問題があった。度重なる海戦は日米互角とも思えたが
制空権は米軍の手中にあり、10月14日の輸送は揚陸途中で失敗し火砲は38門しか揚陸できなかった。
このような状況下で、大なる火砲での正攻法を180度転換
前回の川口支隊同様の夜間奇襲攻撃を再度敢行することに決した。
右翼部隊長を任じられた川口少将は、自身の反省に基づき「勝利の見込み無し」として
迂回攻撃を主張したが、第17軍司令部の容れるところではなく攻撃直前にして罷免された。
第1回総攻撃の敗戦の責任者としては、とかく「弁解過多」と言動が批判的であったことが背景にあった。
海岸方面からの作戦部隊として、中熊部隊(第4聯隊基幹)、岡部隊、砲兵隊をもって編成された
住吉部隊は、第2師団の迂回企図を秘匿するため米軍主力に対する牽制作戦を実施した。
10月22日 2200 戦車中隊を加えた攻撃が開始された。
一部が米軍陣地の一角に突入したのみであまり芳しいものではなかったが、
相当の牽制効果を収め、軍主力の攻撃を待った。
◆ 第17軍の戦闘 (第2回総攻撃) ◆
昭和17年10月24日 第2回総攻撃が開始された。
1400からガ島一帯はものすごい豪雨となり、第2師団の両翼隊は1700突入の命令に基づき前進したが
起伏の激しい密林は地点の標定ができず、さらに日没を過ぎると全くの暗黒となり、
突入予定時刻になっても豪雨は止まなかった。雨が止んだのは1900過ぎであったが、
第1線部隊は米軍と接触していなかった。また予備隊と支援砲兵部隊は後方を主力に追及中であった。
右翼隊
罷免された川口少将に代わって、攻撃直前に指揮を執ることとなった東海林俊成大佐の
第230聯隊は、右翼から攻撃を開始した。
その行動については諸説あって詳細は不明であるが、防御陣地の前に前進は頓挫し25日夜明けを迎えた。
統帥が混乱したまま右翼隊の攻撃は失敗に終わったのである。
左翼隊
仙台夜襲師団の名を担う那須弓雄少将(25)の指揮する第29聯隊主力は、勇戦奮闘敵陣に突入した。
敵哨戒線は突破したものの、第2第3の堅塁に阻止され猛砲火のため損害続出し攻撃は進捗しなかった。
第29連隊長古宮大佐は聯隊旗とともに行方不明となり、大隊長、中隊長の大半を失うに至った。
このような事態にもかかわらずこの夜飛行場占領の発信があり、後に訂正されるという醜態を示す一幕もあった。
日本軍の戦法は、米軍の準備した陣地に対し偵察を行うことなく遭遇戦同様、行動縦隊から逐次戦闘加入し、
しかも火力を発揮せずに陣地の間隙部から潜入、白兵突撃で勝利を獲得しようとするものであった。
10月25日 丸山第2師団長は左翼隊が敵陣に突入している状況から、
再度全力を挙げて夜襲を敢行する命令を下達した。
特に左翼隊は、新たに増加された第16聯隊を増加しこの正面に重点を保持して夜間攻撃を開始した。
第16聯隊の一部は鉄条網を突破したが夜明けとともに米軍の機関銃や迫撃砲がますます峻烈となり、
死傷者が続出した。那須少将は重傷後戦死、第16連隊長広安大佐も戦死、第29連隊長古宮大佐は
依然として行方不明であった。(のち健在が確認)
第29聯隊の損害は2日間で戦死522名にのぼり、戦傷と併せ損害は50%に達し、
積極果敢なる辻参謀でさえも陣地突破は望み得ない意見を述べた。
第17軍百武司令官は10月26日 0600 攻撃中止を発令した。
かくて一木支隊、川口支隊に続き、日露戦争以来の伝統に輝く第2師団の攻撃も失敗に終わったのである。
- 654 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:42 ↑
- ◆ 爾後の第17軍持久戦 ◆
当時大本営においては、南太平洋海戦の戦果もあり今一押しすれば局面打開できるという空気が強かった。
即ちこの度の攻撃失敗は、航空戦力の不十分、海上輸送の困難、攻撃準備の不十分、将兵の体力消耗等
制約された条件下に攻撃したことによると考えており、航空戦力を強化し、輸送を計画どおりに行って
攻撃すれば成功疑いなしという考えは全員共通のものであった。
補給の途絶した状況は「10を計画して6を送り、6を送りて3を揚陸せしめ、2を使用しうるがごとき」であった。
第17軍戦闘指揮所では、食事は1日1合の飯または少量の乾パンだけでまれに味噌がつく以外に副食はなかった。
この飢餓の状態は時間の経過とともに悪化の一路をたどり、「耳かき1杯の塩と手の平一つのかゆ」や「絶食数日」
という部隊はめずらしくなかった。
このころガ島戦闘可能人員は、全部で7500名と見積もられた。
上陸総人員27000名のうち、現在人員が19700名であり戦闘可能な者は半分もなかったのである。
密林内の陣地は、雨と日光不足のため不衛生で、栄養不良と相俟って多数の患者の発生をみた。
第17軍司令部には蝋燭やマッチが払底、通信用紙もなくなり命令を煙草の包装の裏に書きつける状況であった。
百武軍司令官・宮崎参謀長(二見少将の後任)以下の幕僚は、階級章や参謀肩章をとり一兵士と同一の軍装となり、
作戦命令や戦闘日誌は地中に埋め、突撃可能の準備を整えていた。
11月5日 第38師団の主力が上陸。後発の第51、第6師団と併せて第3次総攻撃を12月下旬とした。
しかし士気旺盛な新着の第38師団が上陸後に揚陸された糧食は数日分にすぎず、
11月下旬には早くも飢餓が襲っていた。
当時ガ島に対する補給は月明のため駆逐艦によることが困難で、やむなく潜水艦による輸送
(その構造上輸送量は少量に留まった)が行われているに過ぎなかった。
制空、制海権を有する優勢な米軍に対し、守勢による長期持久は不可能であった。
そこで積極的に欺瞞、陽動、局部的な積極行動を行い、絶えず敵に危惧・圧迫感を与えることが必要であった。
第228聯隊第8中隊は岡部隊の命に基づき、11月30日陣地を出発、東から西に米軍を攻撃し攪乱させた後に
12月1日早朝 無事もとの陣地に帰還した。
また工兵第38聯隊の中沢勲少尉は、部下4名を指揮し12月6日陣地を出発米軍飛行場に潜入
飛行機2、給油車輛2、照空燈1を爆破炎上した。
同じく寺沢孔一少尉以下4名は、砲兵陣地1、幕舎2を爆破して全員無事に帰還した。
他にも米軍陣地に対して小部隊(大多数の将兵は戦闘不能であった)による奇襲がさかんに行われ、
多くの戦果を挙げたが、我が損害も少なくなく戦局の大勢を変えるにはほど遠かった。
◆ 撤退作戦 ◆
12月 6日 作戦部長田中中将は、ガ島作戦継続のための船舶増徴165000tの要求に対して、
85000tしか閣議が認めないので東條総理大臣に食い下がり、「馬鹿野郎」と怒鳴ったため謹慎の上更迭された。
12月 8日 海軍は駆逐艦によるガ島へのドラム缶輸送を中止する、という申し入れが陸軍側になされた。
(翌月再開される)
12月31日 永野軍令部総長と杉山参謀総長は、ガ島撤収作戦案を上奏した。
陛下は「この方針に最善を尽すように」と決裁され、
昭和18年1月4日 大本営の撤退命令が下った。大本営参謀が撤退を考えるようになってから
ほぼ2ヶ月が経過していた。この間ガ島の日本軍では飢餓と病が加速度的に進行していたのであった。
明けて昭和18年。
1月14日 撤退援護のため第38師団の補充兵によって臨時編成された矢野大隊(750名)とともに
撤退命令伝達のため方面軍の井本中佐と佐藤少佐がガ島に上陸した。
撤退命令は直接百武司令官に伝達され、説得の結果2月1日、4日、7日の3日間にわたり
駆逐艦20隻による撤退作戦は実施された。
第1次撤退 2月1日乗船 : 第38師団、軍直轄部隊の一部、海軍部隊、患者の大部
第2次撤退 2月3日乗船 : 第2師団、軍直轄部隊の大部 (第17軍司令部)
第3次撤退 2月7日乗船 : 残余の部隊
撤退行動は概ね予定どおり成功した。
補充大隊である矢野大隊の陽動作戦は十分なる効果を示した。
近く大規模な逆襲が行われるのではないかという印象を米軍に刻んだのである。
撤退準備中、後退した第38師団の間隙をぬって米軍が侵入したため、
撤退命令の届かなかった第4聯隊の内藤大隊は、大隊長以下全員戦死し
- 655 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:42 ↑
- ◆ 戦果と損害 ◆
日本軍 米 軍
上陸兵力 31400 60000
撤退前離島 740 −
撤退人員 10652 −
死亡 20800
戦死 約5000 1000
戦病死 約15000 0
負傷 不明 4245
ガ島を「飢島」たらしめた責任は後方の司令部、大本営に在る。
その結果第1線の将兵は悉く飢餓に瀕し、病に冒されたのである。 軍の戦力は極度に低下し
個人を見ても軍隊を見ても悉く半身、否全身不随になっていたのであった。(撤退直後の井本日誌)
第17軍司令官 百武晴吉中将は、撤退後敗戦の責任をとって自決する覚悟であった。
だが、2月14日 第8方面軍司令官 今村均中将から「あなたが兵を飢えさせたのではない。
2万の戦友の霊を見守るためにも生きてください」と説得され、ようやく自決を思い止まった。
(だがその後百武中将は脳溢血に倒れて半身不随となり、それを知らされた今村中将(のち大将)は
あのとき自決を許すべきだった、と後悔したという)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
敗戦濃厚の12月15日 海軍大佐黛治夫は連絡参謀に急派され、百武・宮崎の小屋に仮宿した。
未明、森のなかから斉唱の声が聞こえる。
一つ、軍人は忠節を尽すを本分とすべし
一つ、軍人は礼儀を正しくすべし ・・・
以下、五箇条の「軍人勅諭」であり、終わって、「突撃用意」「突っ込め!」の突撃号令の訓練を聞いた。
黛大佐はその前日、よろめき歩く兵隊の痩せ衰えた姿を思い合わせ、
襟を正して第17軍将兵の精神力と軍紀の厳正に頭をさげたのであった。
- 656 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:45 ↓
- >>622
いやいや、「彼」を煽ればこのスレをより楽しめます。
ほらね?
- 657 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:51 ↑
- ◆北東方面作戦◆
◆作戦の背景◆
大本営は昭和17年5月5日 山本連合艦隊司令長官に対し、
陸軍と協同してミッドウエイとアリューシャン西部要地の攻略を命令した。
作戦構想の大要は以下の如し
【 一 般 方 針 】
作戦方向はミッドウェー島方面とアリューシャン群島とに二分するが、
者を緊密に連携せしめる一体の作戦とし、要地攻略自体も作戦目的であるが、
この攻略作戦を契機として出現が予想される敵艦隊を捕捉撃滅することも目的とする。
◆占 領◆
昭和17年6月5日 ミッドウェー作戦は失敗に終わった。
その時点で支作戦たるアリューシャン作戦も中止すべきである との意見もあった。(特に海軍部内)
南方での作戦が激化し、北方作戦どころではなかったからである。
しかし、結局アリューシャン作戦は続行された。(特に陸軍の主張)
これは
1) 北方からの本土空襲阻止
2) 米ソ連絡路の分断
3) 一部といえども「米国本土」を占領したという心理的効果
( そして ミッドウェー作戦失敗の隠蔽 )
ということを根拠とするが、戦略的価値に疑問を抱いていた者は大本営首脳のなかにも少なくなかった。
昭和17年6月7日 舞鶴第3陸戦隊(向井少佐指揮の海軍1250名)はキスカ島に上陸し占領した。
翌6月8日 北海支隊(穂積少佐指揮の陸軍1142名)は、アッツ島に上陸した。
島には米軍はおらず、アリュート人の原住民と2人の米宣教師がいただけで、無抵抗のうちに
同島を占領した。2島ともに無血占領であった。
◆防備作戦◆
大本営は当初、両島の占領は冬季までとしていたが、越冬可能と分かると長期占領に踏み切った。
その後アッツ島を引き上げキスカだけの保持を一旦決めるが、昭和17年11月に北千島より
歩兵2個中隊をアッツに増援、両島保持に変更する というようにしばしばその方針は揺らいだ。
しかし、米軍の反撃の兆候を察した大本営は、
昭和18年2月 「北太平洋方面作戦指導要綱」を議定、正式に両島の保持を北方軍司令官に伝達した。
北方軍司令官樋口季一郎中将は、北海守備隊司令官に峯木十一郎少将を任命。
キスカ島(鳴神島と命名)を北海守備第1地区隊
アッツ島(熱田島と命名)を北海守備第2地区隊とした。
- 658 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:51 ↑
- ◆アッツ島沖海戦 (米軍呼称 コマンドルスキー島沖海戦)◆
我が軍の戦略思想は陸軍の北進に対し、海軍は南方重視の思想であった。
ゆえに北方には小兵力しか海軍は配置しておらず、第5艦隊が千島・アリューシャンを作戦水域としていた。
昭和18年2月になると米軍のアリューシャン方面への空襲は激化の一途をたどった。
第5艦隊司令長官 細萱戊四郎中将(36)は、防備体制強化の為に船団輸送任務の支援強化を開始した。
3月9日の第1回輸送は成功し、第2回輸送部隊は昭和18年3月22日に幌筵を出撃した。
日本軍 米軍
重巡洋艦 那智,摩耶 ソルトレイクシティ
軽巡洋艦 多摩 リッチモンド
駆逐艦 若葉,初霜,雷,電,薄雲 ベーレー,コグラン,モナガン,デール
輸送船 三興丸,崎戸丸,浅香丸
チャールズ・H・マクモリス少将指揮の米第16・6部隊は、レーダーで日本艦隊を探知し追跡してきた。
3月27日
0230 米艦隊が我が艦隊を発見したのとほぼ同時刻、浅香丸の見張員が敵艦隊のマストを発見した。
0342 日米両艦隊は、ほぼ同時に砲撃を開始した。距離2万米、右舷反航戦であった。
0350 「那智」に「ソルトレイクシティ」の砲弾命中、一時射撃不能に陥る。戦死11名。
0410 「ソルトレイクシティ」に「摩耶」の砲弾1発命中、 カタパルト炎上
0420 「那智」「ソルトレイクシティ」それぞれ1発被弾
米艦隊30ノットで西方へ待避行動。後続駆逐艦は煙幕を展開。
距離2万メートルでの遠距離射撃が続いた上に北方特有の荒波のため、命中弾は少なかった。
0502 「ソルトレイクシティ」2発被弾・累計4発 機関室浸水、一時航行不能となる。(のち航行可能)
マクモリス少将、乗員の収容準備と駆逐隊に魚雷攻撃を命令。
「ベーレー」、魚雷発射するも「那智」「摩耶」西方へ魚雷回避。そのため米艦隊との距離拡大。
0717 「摩耶」「多摩」最後の斉射 細萱司令官追撃中止を命令、北千島に反転した。
3時間半の戦闘で、我が第5艦隊の使用せる砲弾は約1600発、魚雷は43本(40本説あり)発射したが、
命中したのは6発、魚雷は0であった。
一方米艦隊は「那智」に砲弾7発を命中させた。
劣勢ながら積極的な行動を示した米艦隊に対し、細萱長官の行動は消極的と言わざるを得ないものであった。
米艦隊の20センチ砲8門に対して日本軍は20門。輸送船護衛という点を差し引いても批判の残る行動であった。
また航行不能に陥った「ソルトレイクシティ」を取り逃がしたことも悔やまれる。
追撃中止の理由として、残弾がなかった(実は残っていた)ことや
「阿武隈」以下の第一水雷戦隊が「那智」「摩耶」の進路妨害したため としているが、
当然連合艦隊司令部内で問題となり、細萱中将は解任され予備役へと更迭された。
昭和18年3月31日付で河瀬四郎中将が司令長官に就任した。
この海戦は、アリューシャン方面の制海権を握る好機であったが、結局それは米軍の手中に落ちた。
即ち重巡1、駆逐1が損傷したが、船団補給を中止させた米艦隊の戦略的勝利であった。
以降海上輸送による補給は中止され、駆逐艦や潜水艦による隠密輸送に頼るのみとなった。
- 659 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:52 ↑
◆米軍の攻略作戦◆
対日戦略構想が確立していなかった米軍首脳の中で、アリューシャン方面経由の日本本土進撃を主張したのは
アラスカ西部防衛軍司令官ジャン・デビット中将である。
事実我が軍の北方警備は甚だ手薄で、的を得た戦略であったが、
マーシャル参謀総長は時期尚早として却下した。デビット中将はなおも「自分の指揮下部隊のみでやってみる」
と再度提案し、やっとマーシャル参謀長の同意を得た。
この背景には、米国領を日本軍に占領された、というアメリカの国内感情があったことも要因であった。
さらに、北太平洋艦隊司令官キンケイド少将から、アッツのみを攻略しキスカを孤立させる作戦が出された。
米軍統合参謀会議も同意し、昭和18年5月7日をアッツ島攻略日と決定した。
1年のうち最も霧の少ない時期を選んだのである。
- 660 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:52 ↑
- ◆アッツ島 攻防戦◆
アッツ島守備隊(第2地区隊)長は、米川浩中佐(31)が発令されていた。
また守備兵力は11000名まで増強させる予定であったが、輸送困難のため果たせず、
守備強化のため山崎保代大佐(26)が新任され、昭和18年4月18日着任した。
守備軍幹部・兵力
山崎 保代 大佐 (北海守備隊第2地区隊長)
米川 浩 中佐 (北千島要塞歩兵隊)
渡邊 十九二 少佐 (独立歩兵303大隊)
歩 兵 1大隊半
山 砲 1中隊
工 兵 1小隊
計 2638名 内海軍100名
攻略軍幹部・兵力
ウォルターブラウン少将
歩兵第7師団基幹 12000名
総指揮官 キンケイド少将
航空部隊 バトラー少将
山崎大佐は着任当初から不運であった。
防御陣地を構築する資材も時間もなく、弾薬も一会戦分のみ、兵力も予定の3分の1であった。
80門の火砲を有していたが重砲はなく、戦車は1台もなかった。
飛行場設営が中心であったので陣地築城も限界があった。
- 661 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:53 ↑
- ◆戦闘経過◆
5月12日 内地からの増援部隊を待っていたアッツ島守備隊が見たのは、
本国からの輸送船ではなく、30隻からなる米軍の上陸船団であった。
天候不良のため5月7日から延期されていたアッツ攻略「ランドグラフ」作戦の開始である。
守備隊は定石どおり水際撃滅を企図したが、優秀なる米軍火力の前に為すすべがなく、
上陸した両湾ともに陣地を放棄して後退し、持久防御に徹した。
米軍第7師団はネバダ砂漠とカリフォルニアで訓練を受けサンフランシスコを出発した部隊である。
寒さを知らないこともあり、ぬかるみと雪上に苦戦した上に日本軍の砲弾が降り注いだ。
死傷者が続出し第17連隊長アール大佐も戦死した。
5月16日 ブラウン師団長はアラスカの第4連隊の援軍の要請を仰いだ。
キンケイド少将は「日本軍は少数なのに援軍要請とな何事か!」と激怒し、即刻ブラウン少将を解任し、
ランドラム少将と交替させるといった事態も迎えた。
一方キスカ島の峯木司令官と東京の大本営はともに逆上陸作戦を企図した。
また古賀連合艦隊司令長官も17日 水上部隊主力に東京湾集結を命じ、陸軍の支援に備えた。
この決定は北方軍からアッツ島に打電され、杉山参謀総長からも激励電報が飛び、守備隊の士気は上がった。
しかし5月20日 急転直下アッツ島への増援を大本営は断念した。
この間参謀本部内でも激しい意見交換があったが、大局的にはやむを得ない判断であった。
そもそも海軍の発案であったアリューシャン作戦とはいえ、制海権なき離島の作戦は
一大消耗戦・・・「ガダルカナル島の二の舞」となる可能性大であったからである。
- 662 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:53 ↑
- アッツ島の戦況は悪化の一路をたどっていた。
南部では我が軍が米軍の進撃を阻止していたが、北部の進撃は予想以上に早かった。
5月17日 敵上陸6日目、山崎部隊長は戦線縮小を決意し熱湾方面に後退した。
5月22日 敵上陸11日目、主な守備隊の損耗は
米川部隊
北千島歩兵隊 人員3分の1 速射砲1、機銃2、山砲4
渡邊部隊
独歩303大隊 人員3分の2 速射砲2、機銃4、大隊砲1
高射砲部隊
独高射砲33中隊 人員3分の1 高射砲14、機関砲6
となり、戦闘力は著しく低下していた。
5月23日 敵上陸12日目
米軍は十勝岳に襲いかかりその一角を占領、南東部に熱田湾攻撃の足場を固めた。
その日、海軍の陸上攻撃機19機が米艦隊に対し攻撃をかけたが、アッツ島の戦闘に影響を
与えることはなかった。霧の多い天候で飛行機による艦船攻撃はこれが最後であった。
潜水艦による攻撃は続行されたが、参加した潜水艦7隻のうち4隻を失うこととなった。
5月29日 敵上陸18日目
いよいよ守備隊は熱田湾の平坦地に追い込まれた。
周囲の高地すべてが米軍が確保し、守備隊は包囲される形となっていた。
かくて山崎部隊長は残存全兵力を以て夜襲を敢行することに決し、北方軍司令官宛最後の打電を行った。
山崎部隊長は全将兵を前に、指揮官として全滅に至らしめたことを深く詫び、
「武人としてその名を汚さぬことを望む」と訓示し、また重傷者の処置を命じた。
2000 全員で西南の故国に向かい「天皇陛下万歳」を三唱し
最後の打電を行った。そして
2115 「機密書類焼却、無線機破壊」を通知し連絡を断った。
総攻撃は5月29日夜半から30日にかけて敢行された。
軍属を含む残存兵力300余名は、3個中隊に編成されて米軍陣地に突撃した。
戦闘司令所2カ所を突破し、野戦病院を攻撃し負傷兵や従軍牧師を殺害したが、 米軍第50工兵連隊によって阻止された。
態勢を立て直した米軍によって日本軍の大部分は戦死し、最後の大混乱を名残に全員玉砕した。
傷つき生き残った日本兵の大部分は手榴弾で自決した。
昭和18年5月30日 1700 大本営はアッツ島の玉砕を発表した。
これは、大東亜戦争中において「玉砕」の文字を使った最初のものである。
東条首相は、北方に向かって端座し手を合わせて黙祷したと言われ、
樋口北方軍司令官は、第2地区隊と山崎部隊長に対し感状を授与した。
5月29日付で山崎保代大佐は二階級特進し陸軍中将に任ぜられた。
杉山参謀総長は宮中に参内し、山崎部隊からの最後の電報について奏上した。
陛下は、「山崎部隊は最後までよくやった。自分は嬉しく思う と打電せよ」 と仰せになった。
杉山は、「無線機は破壊しているので、受信されません」
陛下は、「それでも電波をだすように・・・」
杉山元帥は沈痛な面持ちで、御下問の内容について随行の瀬島龍三少佐にこう語った。
それを聞いた瀬島少佐は、涙がとまらなかったという。
==瀬島参謀の回想より==
大本営から北太平洋に向けて電報発信の措置がとられたが、受領の返信が届くことはなかった。
◆戦果・損害◆
日本軍 米軍
戦 死 2600名 550名
戦 傷 29名 2240名
(軍属含む) (半分は凍傷患者)
29名の捕虜の内1名(見習士官)は、護送される途中船上から投身自殺した。
「なぜ負けたと分かっても日本軍は降伏しないのか?」
最後の一兵まで戦う日本軍に対して
米軍は、この戦争の険しいことを身をもって体験したのであった。
そしてこの戦いは、太平洋の各地でますます激しくなっていくのである
- 663 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:54 ↑
- ◆キスカ島 撤退作戦◆
昭和18年5月20日 大本営はアッツ島増援作戦の中止を決定する。
この決定は直ちに北方軍司令部に連絡され、秦参謀次長が札幌の北方軍司令部を訪れて説明を行った。
だが、アッツ島守備隊の上級司令部たる北方軍はこの決定に納得しなかった。
樋口季一郎(21)北方軍司令官は秦参謀次長に、
「キスカ島守備隊の撤収する保証を得なければアッツ島増援中止は受け入れない」
と断固とした態度で臨みキスカ島撤収の約束を取り付けた。
『ケ号作戦』と呼称するキスカ島撤収作戦は、このときから始まったのである。
5月30日 アッツ島守備隊は玉砕した。
さらに東方/米国寄りに位置するキスカ島は、米軍の制空・制海権下にあり完全に孤立した。
島周辺は強大なる敵艦隊に十重二十重と包囲された上に、その米艦艇にはレーダーが装備されていた。
キスカ島撤収作戦は例えるならば、
「小笠原に上陸した敵部隊を、米艦隊が撤収を行うようなもの」 であるとして
奇跡でも起きぬ限り成功はおぼつかない とする意見が大本営内でも多数であった。
◆第1期作戦◆
第1潜水戦隊司令官(古宇田武郎少将)が指揮する15隻の潜水艦兵力によって、撤収作戦はまず開始された。
しかし、米艦艇による警戒が厳重になり、
「伊24」 「伊9」 消息不明、 「伊7潜」 擱座 という被害を受け5月末、作戦を中止した。
この間撤収した人員は、負傷兵を中心に約820名であった。
◆一水戦 司令官◆
海軍の北方担当部隊は第5艦隊(河瀬四郎中将 38)であり、
その指揮下にある第1水雷戦隊が第2期撤収作戦の中心部隊であった。
昭和18年6月10日 脳溢血で倒れた森友一少将に替わって第1水雷戦隊司令官に任命されたのは
木村昌福少将(41)である。
木村司令官は、1)気象士官の配属 2)新鋭駆逐艦の手配 3)その中にレーダー装備の高速駆逐艦の配備
以上の要望を申し出て、直ちに1水戦の指揮下に加えられた。
- 664 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:54 ↑
- ◆第2期−第1次作戦◆
7月の濃霧に紛れて水上艦艇による一挙撤収… これこそが唯一成功の鍵であった。
7月 7日 第1水雷戦隊に増強した駆逐艦と軽巡「木曾」を加えた部隊を主として千島/幌筵を出港した。
7月10日 キスカ島南南西300浬の海面まで到着する。
数日間気象状況・敵状などを慎重に検討するも、特に霧の状況が芳しくなかった。
7月15日 木村司令官は突入を断念、反転して幌筵に帰投した。
◆第1次作戦失敗の波紋◆
帰投後、直ちに第2次作戦の計画に着手した。これには3つの大きな制約があった。
1 霧は7月末までは期待できるが、8月からは減少が予想された。
2 作戦用燃料はあと1回分しかなかった。
3 米軍上陸は霧の晴れる8月〜9月と予想された。
これにより次の第2次作戦が最後の撤収の機会となった。
突入を断念した水雷部隊の慎重なる行動は、大本営。聯合艦隊、それぞれが批判的であった。
7月20日 聯合艦隊参謀副長小林謙五少将、軍令部岡田貞外茂少佐は東京から出張し、
直接第5艦隊司令部と作戦成功について打合せをおこなった。これは「督戦」の意味を持っていた。
上級司令部たる第5艦隊司令部も1水戦の行動には大いに不満であった。
「なぜ突っ込まなかったか?」とする空気が司令部内に蔓延していたという。
一方、1水戦司令部内では木村司令官の突入中止は、その状況から当然と考えていた。
第5艦隊からの非難は全くの心外と考えており、両者の感覚の相違は拭い難いものであった。
◆第2期−第2次作戦◆
第2次作戦では、河瀬長官以下、参謀長、先任参謀等を帯同して「多摩」に乗艦、直接指揮を執ることとなった。
だが、第5艦隊の意気込みとは別に、「無理をしてはならない」というのが水雷部隊(1水戦)の多数意見であった。
軽巡 多摩/河瀬長官座乗
阿武隈/木村司令官座乗
木曾
駆逐艦 朝雲 薄雲
夕雲 風雲 秋雲 響
若葉 初霜 長波
長波 島風 五月雨
補給艦 日本丸
海防艦 国後
7月22日 水雷部隊は再び幌筵を出港した。
7月26日 「阿武隈」と「国後」が衝突、その後「若葉」「初霜」「長波」も衝突するという事故が発生した。
「国後」が分離行動中であったことと、濃霧が原因であった。
この事故のため突入を延期し、「若葉」「国後」は反転帰港した。
7月29日 前日夜からの濃霧が増大し、気象状況は絶好の状態となった。
河瀬長官は突入を決意、またキスカ島の秋山司令官からも好機と認める連絡を入電した。
0700 「多摩」は反転、支援配備についた。
1340 「阿武隈」以下は予定を4時間繰り上げてキスカ湾に入泊。
キスカ港外は深い霧に包まれていたが、港内は視界良好、撤収作業は順当に実施された。
1435 陸海軍全将兵を収容して、艦隊は出港した。
その後「阿武隈」は浮上潜水艦を発見したが間もなく潜航した。(米潜が味方艦隊と誤認した?)
7月31日 (〜8月1日)参加各艦隊は幌筵に帰投した。
昭和18年8月2日
0600 第5艦隊司令長官は「8月1日を以てケ号作戦完了す」と発電した。
1100 参謀総長と軍令部総長は列立拝謁して「ケ号作戦」の完了を上奏し、
陛下から優渥なる御言葉を拝受した。
- 665 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:54 ↑
- ◆戦果・損害◆
日米両軍の参加兵力一覧及び損害は以下の通り
陸軍 北海守備隊司令官 峯木十一郎少将(28)
海軍 第51根拠地隊司令官 秋山 勝三少将(40)
歩兵2大隊
工兵1中隊半
連隊砲4門
大隊砲2門
高射砲8門
計 5200名 (陸軍2400名 海軍2800名)
チャールス・H・コーレット少将
計 34400名 (米軍29100名 カナダ軍5300名)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−
8月15日 無人のキスカ島に米軍は上陸し、各所で同士討ちを展開した。
島内を捜索すること数日、結局米軍の見たものは、
一部が破壊された食糧、軍需品、弾薬と、3−4匹の雑種犬に過ぎなかった。
戦 果
死者95名 :陸上同士討ち25名 海上機雷によって70名
負傷78名 :陸上同士討ち31名 海上機雷によって47名
撤収人員
陸軍 2410名
海軍 2773名
計 5183名 (5219名 5187名 諸説有)
木村1水戦司令官の冷静な指揮、各級指揮官の技量、周到なる計画、陸海軍の緊密なる協力などが
撤収作戦成功の要因であった。 まさに「天佑」であった。
匹夫の勇で、第1次作戦のときに突入を強行していたら果たしてどうなっていたことか。
しかし何よりも、アッツ島の玉砕はキスカ島撤収と表裏一体の同一作戦であって、
アッツの玉砕がキスカの撤収を助けたのである。
即ち、アッツ守備隊の英霊がキスカ守備隊を救ったと言えるのではないだろうか。
◆木村昌福◆
海兵41期、卒業時の成績は 118名中107番で、海軍大学校は卒業していない。
41期同期には、草鹿龍之介、田中頼三、大森仙太郎、保科善四郎 などがいるが、
彼等が少将の時にはまだ大佐であった。
当然省庁での中央勤務などとは無縁で、海上勤務特に小型艦艇で過ごすことが多かった。
しかし同期の誰からも好かれ、部下の信任の厚い提督であった。
柔道5段の堂々たる体躯と、見事なヒゲがいかつい、それでいて人間的に温かく慈父であり厳父であった。
接する人を魅了するショーフク(本名はマサトミだが、同期からはそう呼ばれた)提督は、
同時に卓越した統率力を持つ、経験豊富なたたきあげの海軍軍人であった。
その後「礼号作戦」などの指揮をとり、同期草鹿中将の推薦で聯合艦隊司令部附となって最終的に中将に進級した。
- 666 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:55 ↑
- 進攻作戦
ビルマは日本にとって南方資源地帯の西側防壁であるとともに、ラングーン−ラシオ−昆明と続く援蒋ルートの拠点でもあった。
一方英国にとってビルマの失陥は、印度・中近東への脅威となるものであり、果てはドイツ・イタリアとの連携をも可能にさせる危険を招くものであった。
昭和17年2月17日 進攻作戦を開始した第15軍(飯田祥二郎中将)は、まずビルマ南部を攻略することとした。シッタン河を渡りべグー山系に突進、3月8日には首都ラングーンを占領した。シンガポールの占領に伴い、大本営は第25軍と第3飛行集団の多くをビルマに転用、ビルマ全域の攻略を開始した。 既に大きな損害を出し軍司令官が3人交代していた英印軍は、支那軍と連携して防戦しようとしたが、蒋介石は軍の南下を許さず、両軍の指揮関係に混乱が生じており英軍の増援はもはやビルマではなく、セイロンやインド東部に向けられていた。
昭和17年3月30日 トングーを占領した第55、56師団に続くべく、4月3日には全軍挙げての攻勢となった。連合軍は各所で頑強に抵抗し激戦となったが、我が軍は要地を占領、4月29日にはラシオで支那軍の退路を遮断した。引き続き追撃にうつり、昭和17年5月18日 ビルマ方面主要作戦終了を報告した。英印軍は多くの捕虜を残してインドに退却、退路を断たれた支那軍の多くは疲労と飢餓に倒れつつフーコン河川を経て逃れた。
連合軍の反攻(アキャブ・チンジット作戦)
南東方面の情勢悪化によりビルマ方面への反攻も予想されるようになると、第15軍のみでは手薄であるので、昭和18年3月ビルマ方面軍が新設され、逐次兵力は増加された。
連合軍はカサブランカ会談で昭和18年(1943)11月からビルマへの本格的反攻を開始することとした。米式装備の支那軍は雲南とレドの2方向から、英印軍はカレワからの地上進攻と南西沿岸への上陸作戦の2方向からと予想された。この反攻のため、攻勢拠点を設けることとなり、南西ルートのために南西沿岸の戦略拠点であるアキャブの奪回作戦が開始された。
第1次アキャブ作戦(31号作戦)
当初アキャブ正面の防御に任じていたのは2個大隊基幹の宮脇支隊であった。英印軍は昭和17年末ごろからこの正面に進出して激戦が展開されていた。第15軍は第55師団に敵撃破を命じるとともに、有延支隊に進出を命じた。通過不能と思われたアラカン山系方面から側背を突かれた第14インド師団は、包囲され大損害を受けて敗退、連合軍の反抗の初動は失敗に終わった。
第1次チンジット作戦
昭和18年2月14日 オード・ウインゲート准将指揮の英国空挺部隊(以下ウインゲート旅団)は、2グループ7個縦隊に分かれて(約3200名)中部ビルマに潜行を開始、空中補給を受けつつアラカン山系を越えて我が後方地域に潜入、鉄道や橋梁を爆破、後方攪乱に任じた。 第15軍は直ちに各師団に掃討作戦を命令。激しい掃討作戦の結果、ウインゲート旅団は大損害を受けて3月24日撤退を開始、約4ヶ月に渡り分散しつつ帰還した。
作戦は失敗したが、チャーチル首相に賞賛されたウインゲートはこの行動に自信を持ち、以後空挺部隊の拡大に努めることとなった。
第2次チンジット作戦(英軍呼称 サーズデイ作戦)
昭和19年2月 ウインゲート旅団は2回目のビルマ侵入を開始した。6個集団約9000名を2波に分け、前回の徒歩に対し今回は大量のグライダーを使用、ノルマンディ作戦までは空挺作戦としては最大規模のものであった。 日本軍はインパール・フーコン両作戦の後方を攪乱され掃討に努めたが、敵を完全に捕捉することはできなかった。なお3月24日 ウインゲートは飛行機事故で死亡した。
- 667 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:55 ↑
- インパール作戦
第2次アキャブ作戦(イ号作戦)
英印第15軍団は昭和18年末から再びアキャブに向い攻撃を開始していた。我が軍はインパール作戦を容易にするため、昭和19年2月4日から、桜井徳太郎少将指揮の部隊は、東方から敵の側背に進出、正面からの第55師団(花谷中将)主力部隊とともにシンゼイワ盆地で英印第7師団主力を包囲した。
第1次アキャブ作戦の再来と思われたが、敵は戦車百数十台からなる円陣で攻撃を阻止し、増援兵力と補給品を空輸して抵抗した。軽装備の日本軍には包囲はできても攻略する力はなく、2月26日包囲を解いて適時後退。第2時アキャブ作戦は不成功に終わった。
インパール作戦(ウ号作戦)
ウインゲート旅団の侵入によって、アラカン山系を越える作戦の可能性に着目した第15軍司令官・牟田口中将は、インパール方面への進攻を強硬に主張した。3週間分の糧食を携行し3個師団で急襲すれば短期間でインパールを占領し、インド独立工作も容易となると判断したのである。南方総軍、ビルマ方面軍は兵站の見地から難色を示したが、対インド工作は大本営にとっても魅力的であり徐々に悪化する戦局を打開する意味からも準備が進められた。
昭和19年3月8日 第33師団はチンドウイン河を越えた。第15、第31師団は3月15日に続き、各数縦隊に分かれてインパールに向けて進撃を開始した。作戦は順調に進むと思われたが、日本軍の補給線の延びきったインパール平地で決戦を計画した英第14軍スリム中将の作戦であった。英印軍は空輸等でインパールとコヒマに増援部隊を急送し、インパールの確保に努めた。一旦はコヒマを占領したものの、補給を欠き軽装備の第15軍には、空地一体となった英印軍を撃破する力はなく、逐次戦力を消耗した。
牟田口軍司令官は部隊を督励し攻撃続行を強く命令したが、山内第15師団長は胸部疾患と作戦不徹底から、柳田第33師団は作戦中止を意見具申、佐藤第31師団長は無断撤退を行い夫々解任され、昭和19年7月10日 ついにインパール作戦は中止された。
第15軍は後退に移ったが、体力を消耗しきった部隊の後退行動は雨季のなかで惨憺たるものとなった。
フーコン作戦ほか
北ビルマを作戦担任とする第33軍(本田中将)は、このころフーコン正面の米軍装備の支那軍、雲南正面の支那軍の反抗を受けて苦戦していた。逐次戦力を消耗して崩壊の危機に達したと判断された昭和19年6月末 ビルマ方面軍は北ビルマ放棄を決定、第53師団の援護下に第18師団を後退させた。またミートキーナ飛行場がガラハット挺進部隊によって占領され(5月17日)交通の要衝ミートキーナに対し攻撃が開始された。 第56師団は水上少将指揮の1個小隊他の増援部隊と丸山大佐指揮の第114聯隊とで迎え撃ち、約80日間の激闘が展開されたが、限界に達し8月2日水上少将は残存部隊の撤退を見届けた後に自決した。
ビルマ戦線は全面的に崩壊し始めていた。
- 668 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:55 ↑
- 断作戦
蒋介石は、遮断された印支地上ルートの再開を目指して約16個師の雲南遠征軍を派遣し、反攻を開始した。第56師団(松山中将)は、騰越、拉孟、竜陵、芒市、平戞などの要地を堅固に守備するとともに、抽出した兵力で果敢な反撃を繰り返して防戦した。しかし彼我の兵力の懸隔が著しく各要地守備隊は敵の重囲に陥るようになった。インパール作戦が失敗に終わった以上その援護作戦としての雲南持久作戦は意義を失っており、各守備隊の撤退は戦略上当然の要請であった。
第1期断作戦
拉孟、騰越守備隊を救出し、印支ルート遮断を確実にするため、第33軍は「断作戦」を開始した。
まず第56師団が、続いて第2師団を併列して攻撃を開始した。我が軍は各地でこれを撃破したが数にものを言わせる米式装備支那軍は進出を食い止め、「平戞」守備隊は救出したが「拉孟」、「騰越」守備隊の救出には失敗した。
「拉孟」は金光少佐以下約1260名が守備し、6月2日から支遠征軍の猛攻の反撃を加えていた。激闘3ヶ月、木下中尉と1名の兵のみが命令による報告のため脱出した以外、総員玉砕した。
「騰越」は蔵重大佐以下約2025名が守備し、拉孟と違って完全なる城郭都市であり、街の周囲は高い城壁で守られていた。戦闘は6月27日から開始され、戦死した蔵重大佐に代わって先任第9中隊長大田大尉が指揮をとり、9月1日からは壮烈なる市街戦が展開された。9月8日 残存300となった守備隊は訣別電報を発信、最後の玉砕突撃を敢行したのは9月13日であった。
敵将蒋介石はその勇戦敢闘を賞賛して「ビルマの日本軍を規範とせよ」と全軍に訓示した。
第2期断作戦
太平洋方面の戦局悪化に伴い第2師団はサイゴンに転用されることとなり、雲南正面は第56師団・吉田支隊(第49師団の第168聯隊基幹)のみで持久せざるを得なくなった。第1次断作戦で損害が大きかった支遠征軍は兵力を補充し、昭和19年11月1日 全面攻勢を開始した。竜陵及びバーモに危機が迫り、第33軍はバーモ守備隊を救出するとともに第56師団で持久作戦を実施した。また第15軍との間隙を突破されることを恐れ、第18師団主力をモンミット付近に配置した。
第3期断作戦
第33軍は、竜陵から西南進する支那遠征軍とバーモから南下する米支軍に対し、持久戦を続けた。引き続く戦闘に兵力比は15対1となり、果敢な反撃を反復しつつ持ちこたえた。戦線は錯綜し激闘が続いたが軍は遂に昭和20年1月末 モンユからの撤退を命令、印支ルートの遮断は終わりを告げたのである。
- 669 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:56
- http://cgi.io-websight.com/index2/uploarder/img/hare3280.gif
- 670 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:56 ↑
- 盤作戦(イラワジ会戦)と完作戦
第15軍(司令官片村中将)はイラワジ河に向って英印第14軍(司令官スリム中将)に追尾されながら悲惨な退却を続け、雲南正面に危機が迫っていた。 インパール作戦前と比較して1/5程の戦力しかなく、火砲・弾薬はほとんど払底していた。一方ビルマ南西沿岸の第28軍(司令官桜井中将)にも危機が迫っていた。
英印軍は昭和20年1月3日アキャブ島、21日ラムレ島に上陸、この正面からも攻勢を開始、第28軍は、第55師団(花谷中将)でイラワジデルタを防衛、第54師団(宮崎中将)でアラカン山脈を利用した防戦を展開させた。
ビルマ方面軍(司令官木村中将)はトングー付近まで後退し戦線を縮小しようとする意見も出されたが、強気な田中新一参謀長によってイラワジ会戦案を固守することとなった。 このイラワジ河畔で中部ビルマを防衛する作戦を「盤作戦」、バセイン及び海上からの進攻に備える作戦を「完作戦」と呼称し、いずれも先の「断作戦」の延長であった。
マンダレーを簡単に奪還した英印軍は、2月14日イラワジ河を渡り、第255戦車旅団を先頭に3個旅団の兵力でメークテーラを目指した。メークテーラ市街には、400の兵力しかない歩第169聯隊と後方部隊、飛行場大隊の計4000名が守備していた。急遽かけつけた吉田部隊(歩3個大隊基幹)とともに防戦に努めたが圧倒され3月3日 同市は英印軍に制圧された。 ビルマ方面軍は第33軍をしてメークテーラ奪還を決意、しかし逐次増強される英印軍に対し、対戦車装備の乏しい我が軍の攻撃は成功しなかった。肉薄攻撃と夜襲を続ける中に第33軍の戦力はみるみる低下した。この間マンダレー東方の第15軍の戦線も崩壊しつつあり、ビルマ方面軍は3月28日メークテーラ奪還を諦め、盤作戦(イラワジ会戦) の中止を命じた。
ビルマ戦線の総退却
イラワジ会戦に望みを託していたビルマ方面軍には、まはや爾後の作戦のため有効な手段は残されてはいなかった。英印軍は機甲部隊を先頭に日本軍には目もくれず南下突進を続け、4月22日にはトングーを通過、首都ラングーンに向った。
昭和20年4月23日 木村方面軍司令官はビルマ政府や日本大使館・居留民に対する処置も不明のまま、ラングーンを脱出後方200Kmのモールメンに撤退した。方面軍司令部のラングーン撤退は、日本軍のラングーン放棄を意味し、大混乱の中5月3日 英軍によって首都は奪還された。
敵中に残された各軍は敵中を潜行・突破してシッタン河を渡り7月下旬、多数の犠牲を伴いながらもシッタン東岸に兵力を展開し防戦中に終戦を迎えた。
- 671 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:56 ↑
- ◆一号作戦(大陸打通作戦)他 1◆
◆作戦の背景◆
支那大陸布陣図
昭和17年 南方作戦の順調な進展に伴い
蒋介石政府の首都・重慶を攻略する
構想がたてられた。
第5号作戦(当初51号作戦と呼称)である。
これは昭和17年秋以降実施予定であったが
ガダルカナル島やニューギニアの戦局が悪化したため、
結局支那大陸での攻勢は見送られた。
戦局全般のたてなおしのため支那派遣軍や関東軍から
兵力を引きぬいて補充する必要があり、
攻勢実施の余力はなかったのである。
しかし太平洋方面の態勢が急速に悪化した
昭和18年春 大本営において
支那大陸を南北に通づる回廊での
本土と南方の陸上交通路確保と沿線の米空軍B29基地の覆滅
並びに重慶軍の撃破と継戦意思の破砕
を狙う作戦が構想されるようになった。
このため絶対国防圏設定による合計10個師団抽出
−支那大陸からの精鋭5個師団の太平洋方面転用
及び他5個師団の集結・転用準備−
を命じていたのを取り消し、
さらに関東軍などから多くの部隊を
大陸へ転用することとなったのである。
昭和18年12月24日 『虎号兵棋』と称する兵棋演習によって作戦を内定し、
昭和19年 1月24日 大本営は作戦目的を『敵空軍主要基地を覆滅』とする『一号作戦』実施を正式に命じた。
東條首相兼陸相の‘要らざる欲を出すな’の一言によって作戦目的を絞ることとしたものであったが、
支那派遣軍(畑俊六元帥)による作戦目的は
@ 敵の撃滅 粤漢及び南部京漢鉄道沿線要地の占領確保
A 敵空軍の主要基地の覆滅
B 重慶政権の経戦企図の破砕衰亡
とされた。
大本営としては本作戦実施のため企図秘匿を重視し、当初は支那大陸における積極作戦を実施するが如く欺瞞し、
かつ作戦・政略・宣伝・防諜など中央現地統一した計画のもとにこれを行うよう指導したが、
敵は我が企図を察知していたもののようであった。
当初敵は上海事変以来の主将である湯恩伯将軍の率いる9〜10個軍を以って対するものと判断していた。
しかし精鋭なる機動兵団をはじめ他地区の救援兵力を集結して我が進攻に反撃するべく備えをしていたのである。
敵交戦兵力
18〜20個軍 35万から40万人
我が兵力
師団3個、戦車師団1個、独立旅団4個、騎兵旅団1個 計約15万
敵兵力の半分以下であったが、従来の戦績による‘支那兵は弱い’という自信から作戦目的は達成できるものと考えられた。
ともあれ北支から中支、南支、さらには貴州、広東、仏印までの支那大陸を打通するという壮大な野戦大作戦であった。
- 672 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:57 ↑
- ◆第1期作戦 コ号/京漢作戦◆
そのころ京漢線(北京−漢口)の黄河鉄橋は敵の砲撃により破壊されていた。
この大作戦は在支各軍間の陸路連絡の確保が大前提であり、まず黄河の鉄橋の修復が第一である。
黄河鉄橋は全長3073M、この大橋の修理はかなりの困難が予想されたが、鉄道第6聯隊(聯隊長 小玉鉄太郎中佐)は
異常なる努力をもってこの難工事にのぞんだ。
第二野戦鉄道司令官 村冶敏男少将(25)、派遣鉄道監/鉄道練習部研主事 加藤肇大佐(35)らの協力を得て
3月25日 遂に大修理を完了、北支方面軍以下の作戦遂行に自信を加えるに至った。
第12軍は昭和19年4月17日夜 黄河を渡河、ここに『一号作戦(大陸打通作戦』は開始された。
第12軍を主力とし、これに第11軍が協力し、南部京漢(北京−漢口)沿線を占領確保することが目的である。
先遣隊は敵陣地を撃破し1部をもって19日夕までに鄭州を占領した。
華南方面は艦船護衛の関係上約半月の遅延のやむなきに至ったが、華中方面は揚子江の増水期に入り運航効率があがり
順調に進捗していた。
この間第5航空軍は戦爆の各1部と直協隊の主力を新郷、彰徳ほかに展開してこれに協力した。
殊に中牟付近の戦闘においては敵砲兵をほぼ壊滅させていた。
4月29日 第37師団は許昌の攻略を開始した。
許昌は三国志以来の軍の拠点で、その城には湯恩伯将軍率いる第29師団が守備していた。
5月 1日 第12軍主力は許昌を占領 第11軍の一部は長台関から確山付近に向かい北面して攻勢を開始した。
5月 9日 第27師団は確山に到着し、京漢陸路の打通に成功、南北の連絡を完成した。
許昌攻略後、敵は主力を北方に移したために直ちに洛陽方面に旋回することに計画を変更、
当面の敵を各個に撃破することに決定した。
5月14日 北支那方面軍は、洛陽封鎖を命令
野副兵団をして洛陽を封鎖すると共に、第12軍主力と第1軍の一部を以って西方に向かい追撃を続行した。
◆洛陽攻略◆
5月19日 第63師団長 野副昌徳中将(22)を指揮官とする野副兵団に対して
戦車師団の主力と第110師団の一部をもって洛陽攻略に任じた。
野副兵団は直ちに洛陽外郭陣地に対して攻撃を開始した。
しかし陣地堅固のため戦況は進展せず、北支方面軍は改めて第12軍をもって洛陽攻略を担任せしめた。
5月23日1300 両正面から洛陽城の攻撃を開始
洛陽北・東北正面からは第63師団主力西北から戦車第3師団の主力と歩兵6個大隊、砲兵3大隊である。
5月24日 洛陽の敵に対して降伏を勧告したがこれに応じないため、1300 攻撃を再開ついに城郭の一部に突入した。
5月25日 ついに史上名高い古都洛陽を占領、ここに京漢作戦は成功を迎えたのであった。
これより先、第2線兵団であった第27師団が黄河橋梁を通過し武漢地区に南進し、北進してきた第11軍の部隊と合流した。
これにより京漢陸路打通が成功、南北の連絡が完成した。
またこれにより、米空軍の空襲によって途絶しがちであった陸上輸送が円滑に行われることとなった。
武漢地区への輸送がそれまでの揚子江の船舶輸送に代わって陸上輸送が可能となったのである。
◆戦果・損害◆
日本軍 支那軍
戦 死 840名 36700名
戦 傷 2300名 21868名
捕 虜 14000名
- 673 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:57 ↑
- ◆第2期作戦◆
第11軍は、次のような計画を立て、5月下旬までに作戦準備を完成するよう兵力を岳州付近に集中した。
1 第2期 前段−第1期作戦 衡陽攻略
2 第2期 前段−第2期作戦 桂林、柳州攻略
3 第2期 前段−第3期作戦 南部粤漢打通
4 第2期 後段作戦 南寧攻略、仏印打通
◆第2期 前期−第1期 ト号/湘桂作戦◆
京漢作戦が順調に進展している間、第11軍は岳州東西の線から攻勢準備を進めていた。
洛陽攻略当日の5月25日 支那派遣軍総司令官畑大将は予定通りその司令部を漢口に進出、
第11軍の諸部隊も岳州付近に集中を完了した。
これより先、第5航空軍は5月18日漢口に戦闘司令所を進め各飛行団をもって本作戦に協力した。
5月27日払暁 第3、第13師団が左翼から、ほか軍主力は夜半から28日にかけて南にむけて攻勢を開始、
ここに湘桂作戦が開始された。
各兵団は勇躍前進したが、敵は我が企図を予期し、進撃に先立ち撤退を開始していた。
第11軍は関王橋付近及び汨水南岸において敵第20軍の組織的抵抗を受け一両日の戦闘を交えた他には
大きな抵抗を受けることなく進出することができた。
6月3日 長沙北方の達摩山山系に2個師団の敵が残存し、
軍は第34師団を以ってこの敵を攻撃したが敵の抵抗に遭い進展しなかった。
このころは連日の降雨のため道路は泥海のようになり、兵站物資の輸送は困難であった。
このため第1線兵団は6月下旬まで殆ど後方補給を受けることができなかった。
自動車道は使用不可能となり野砲、自動車等の車輛部隊の移動も困難となり、岳州−長沙道に車輛は充満する状態となっていた。
6月 7日 益陽及び瀏陽方面の敵を撃滅するとともに長沙周辺の敵に対する攻撃準備部署を発令した。
6月11日 第40師団は益陽を占領
6月16日 敵の第73、第74軍を撃破し寧郷を占領
また岳麓山に布陣する敵と長沙に対して攻撃を開始。
6月18日 長沙を占領した。
この間第5航空軍の爆撃機は、米中軍に比して極めて劣勢であったが効果的に攻撃し、爆撃威力は著しいものがあった。
- 674 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:57 ↑
- ◆第1次衡陽攻撃◆
長沙攻略後、軍は敵の態勢の崩壊に乗じ一部を以って衡陽に向かい、主力を以って爾後の作戦を準備するに決した。
6月22日 湘郷を攻略
6月26日 衝陽飛行場を占領
6月27日 湘江を渡河、衝陽西南地区に進出
6月28日 衡陽攻撃を開始した
6月29日 第58師団の一部と第218聯隊はそれぞれ衡陽の西北と東北より攻撃を開始したがはかばかしくなく、
第68師団長及び師団参謀長が敵迫撃砲弾にて負傷する といった苦戦を強いられた。
6月30日 このため第116師団長岩永中将の指揮によって攻撃を再開したが敵の抵抗は頑強で成功しなかった。
7月 2日 軍は攻勢を一時中止し、砲兵部隊を進め、航空部隊の援護のもとに一挙に敵を攻撃するに決した。
敵の戦意は旺盛であり航空兵力は優勢であった。
衡陽は要塞化され、蒋介石総統が方先覚軍4個師団に死守を厳命していたのである。
対して日本軍は追撃に次ぐ追撃で弾薬等が不充分の上に占領した飛行場の修復が遅れており
航空支援が得られる状況ではなかった。
7月になり、敵は逐次大兵力を進め我が衡陽攻略部隊の背後を脅かすまでとなり、
我が軍は逆包囲される状況となりつつあった。
敵の航空勢力は優勢で、夜間行軍と夜襲しか方法がなかった。
◆第2次衡陽攻撃◆
7月10日 後方からの火砲、弾薬の追送,航空部隊の準備が完了しつつああった。
7月11日 改めて衝陽西南方に向けて攻撃を再開した、若干の前進陣地を攻略した。
7月15日 本格的な攻撃を実施し一部の地域を攻略したが戦況は進展しなかった。
軍は状況に鑑み更に十分なる準備−特に第1線兵団の戦力を充実した後攻撃を再開することに決した。
◆第3次衡陽攻撃◆
7月下旬となり、攻撃再開の準備は整えられた。
7月30日 軍は攻撃命令を下達、軍司令官自ら衡陽に進出し「今度こそは」の決意に燃えていた。
8月 4日 第68師団は衡陽南部に対し、第116師団は衝陽西南陣地に対して第三次攻撃を開始した。
8月 5日 第58師団は主として衡陽西北に対し、第13師団は湘江東岸地区から第68師団を支援してこれに続いた。
しかし支那軍の抵抗は頑強であり、第3次攻撃をもってしても攻撃は進展しなかった。
第13師団は一部の兵力を強行渡河させ第58師団に協力したが、損害が続出、師団砲兵の弾薬も欠乏してきたので
軍命令により攻撃を中止し、牽制を任じた。
その中で南部では第116師団が敵線の一部を奪取、第58師団も西北角の奪取に成功、初めて市街の一部に進入した。
8月 7日 全線において攻撃を復行したが依然攻撃は進展しなかった。なお数日攻撃を要すると判断していたところ
第68師団正面の敵小部隊が投降してきた。軍は敵は動揺しているもの判断し、攻撃を続行した。
8月 8日 敵軍長(軍司令官) 方先覚将軍以下師団長4名が投降、以降投降するものが続出した。
敵の一部はなおも抵抗を継続をしたが、0800ころまでには掃討を終了
ここに衡陽の攻略を終えた。
6月28日の第1次攻撃開始から実に40数日目であった。
- 675 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:58 ↑
- ◆戦果・損害◆
戦 果 遺棄死体 4100名以上
捕 虜 13300名
捕獲兵器 各種砲110門 戦車装甲車10両
損 害 戦 死 3860名
戦 傷 8327名
戦 病 19288名
日本軍戦死・戦傷の約1割は米軍機の爆撃や機銃掃射によるものであった。
既に保有機で我が軍を圧倒する在支米軍によって制空権は握られていたのである。
◆第2期 前期−第2期/後段 作戦◆
衡陽陥落後の支那軍の戦意は乏しく、衝陽戦とは対象的に退避戦に移った。
第11軍は支那派遣軍から止められていた零陵を独断にて攻撃を開始、
果敢なる追撃で9月7日零陵を、13日には全県を占領した。
8月下旬 新たに第6方面軍を新設(軍司令官 岡村寧次大将)、軍容を改め追撃体制を固めた。
9月10日から第11軍、第23軍を指揮し、また10月19日第20軍が指揮下に入り兵站線の警備についた。
第6方面軍は、重慶野戦軍の撃滅を作戦目的とし、第11軍に桂林を、第23軍に柳州を策応させつつ
占領させることを構想し、10月26日 作戦発起を命令した。
しかし第11軍は支那軍の弱さを見て、独断で桂林と柳州を11月10日 同時攻略した。
だが、当面の敵はすでに柳西北方に逸脱してしまったおり、第11軍の有力兵団は独山方向に追撃、
潰乱状態となった残敵を掃討、膨大なる軍需品を獲得して戦力を充定することができた。
第23軍は南寧を攻略、ついで北上してきた南方軍の部隊と呼応して北部仏印との公路を打通した。
支那からは第22師団、仏領インドシナからは第21師団が連絡に成功
『支那とインドシナの大陸打通が完成』したのであった。
これによって支那派遣軍から南方軍に転用される2個師団が、この行路を通り仏印に進出した。
◆第2期 前期−第3期 作戦◆
11月中旬、比島方面の戦況からみて、広東地区の対米戦備の着手、このため湖南・広東省を連絡する
粤漢線の打通が必要となってきた
昭和20年1月 第6方面軍は第20軍と第23軍をもって南部粤漢鉄道を奇襲占領し確保するとともに
遂川、南雄地区の米空軍基地を覆滅することとした。
1月上旬 第20軍の4組の挺身隊が密かに潜行し、粤漢鉄道の重用施設を無傷で占領した。
続いて第20、第23軍の作戦部隊が南北から一挙に前進、
昭和20年1月26日までに南部粤漢線を打通し全鉄道路線を確保した。
一度破壊されると修復が困難な橋梁、トンネルなどを無傷で占領することを重点とし、
敵野戦軍撃滅は第二義としたのが成功の主因であった。
ついで2月7日までに遂州などの米空軍飛行場群を占領爆破し、米軍機の活動を一時的に封殺した。
- 676 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:58 ↑
- ◆作戦の総括◆
参加兵力約41万人、自動車12000両、馬匹67000頭、作戦距離約2000Kmという
支那事変以来の大作戦で、一号作戦(大陸打通作戦)の目的は達成された。
しかし具体的な効果は、
1) 航空警戒線を本土より遠方に推進できたこと
2 )第22,第37師団を南方軍に陸路をもって転用できたこと
だけであり、さらには
1) 仏領インドシナからの回廊で鉄道・自動車の物資輸送に活用されることはなく
2) 敵飛行場破壊によって本土長距離空襲を阻止することはできず
3) 重慶政府の戦意が喪失されたとは言えなかった。
また、ビルマ方面−ほぼ同時に開始されたインパール作戦に寄与するところもなく、
戦線全局を左右することはなかった。
なお南方飛行場を喪失した米空軍は、北西に転じ、成都、老河口等に新飛行場を建設、
これによって中支、南支の鉄道線と揚子江の航行に対する爆撃は日を追って激しくなった。
支那派遣軍は、これら飛行場の覆滅を主目的として老河口・蕋江作戦を実施することとなったのである。
- 677 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:58 ↑
- ◆老河口作戦◆
昭和20年1月29日 支那派遣軍は、北支派遣軍及び第6方面軍をして飛行場覆滅を目的として
老河口及び(止)江攻略作戦を実施するに決定した。
北支那方面軍(下村定大将)は第12軍/第110師団 第115師団 戦車第3師団 騎兵第4旅団を以って
3月中旬末攻撃開始の構想の下に準備を進めた。
3月22日 軍は一斉に攻撃を開始、前面の敵陣地突破、各兵団は所命の如く前進を続行した。
特に活躍が目覚しかったのは騎兵第4旅団(旅団長 藤田茂少将)であった。
当時既に騎兵は自動車化に改編しつつあり、支那大陸の特性に鑑み最後にのこった唯一の騎兵部隊が同第4旅団であった。
果敢な急襲によって3月27日 老河口飛行場を占領次いで老河口市街の陣地を攻撃したが
城門突破は阻止され成功しなかった。
老河口は防備強固なるため重砲・第13戦車隊を招致、さらには第115師団と協力し、
4月8日 これを占領した。
これは世界戦史における騎兵の最後の戦闘と言われ、我が騎兵第4旅団は見事に最後を飾った。
この間老河口攻略作戦に協力すべく第6方面軍は、第34軍(軍司令官佐野忠義中将)をして襄陽方面に作戦を展開。
第39師団を主力とする部隊は、3月21日から漢水に沿う地区を北進し、
敵を撃破しつつ襄陽、次いでその一部は毅城を占領した。
しかし優秀な米軍の支援を受けた支那軍の反撃を受け、4月初旬には現駐屯地へ反転の止む無きに至った。
- 678 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:59 ↑
- ◆蕋江(しこう)作戦◆
蕋江(湖南省西部)は敵の首都重慶の370KM南東に位置し、その地形上老河口よりも難攻が予想された。
本来蕋江作戦は、支那派遣軍において四川省方面に対する挺身作戦との関連において研究されていたが
まず蕋江にある敵前進飛行場の覆滅の目的をもって、上記の如く老河口作戦と併せて1月29日実施を命令した。
第6方面軍(岡部直三郎大将)は第20軍(板西一良中将)にこの作戦を遂行せしめることとして準備を開始した。
坂西司令官は、隷下の第116師団、新たに内地より派遣された第47師団、第11軍に属する第34、第58師団をもって
4月中旬から作戦を開始し、5月には敵野戦軍主力を補足撃滅し、
其の上で蕋江の飛行場基地を覆滅する計画を立案した。
しかし内地から転進して来る第47師団の渡航は船舶不足等により著しく遅延し、作戦発動に重大なる支障を来した。
衝陽の西100KMの宝慶を主力として3方面より進撃を開始した我が軍は、兵の疲れと地形の険しさとに災いされていた。
雪峰山は超えたものの、各所で猛烈なる反撃を受けることとなった。
支那軍は軽戦の後で退却し、我が軍はこれに追尾して進撃したが、山が深くなるにつれ敵の抵抗は頑強になり、ついに
4月25日 宝慶より90KM前後進出した地点で各隊の進撃を止めざるを得ない状況となった。
このころ蕋江飛行場には完全に米軍式装備をした重慶からの増援兵団が続々空輸されていた。
4月末 敵は総攻撃に転じた。
米式装備による豊富な火力、密接なる空地協同、果敢な近接戦闘、迅速なる増援部隊の派遣など、
従来の支那軍からは想像できないものであった。
第20軍では『支那兵は弱い』とすることの不可能なことを悟っただけでなく、実際の戦場においては
局所的には圧倒されるような事態さえも生じた。
即ち、我が軍の第一線の制空権はなく、兵站線は延び補給は続かず、攻撃は夜間に限定され、
彼我戦力の格差は開くばかりであった。
強気な坂西司令官はなおも作戦を強行しようとしたが、支那派遣軍の参謀の間には
事態の重大性を認めて作戦再考を促す動きがあった。
現地を視察した派遣軍総参謀長 小林浅三郎中将(24)は作戦の中止を意見具申、
全般の情勢を判断した岡村総司令官もこれを容認し、
5月9日 作戦中止の命令を下した。
その後の撤退行動も困難を極めた。
優秀な米空軍と支那軍との追撃を受けて反転する部隊の苦難は著しく、
支那大陸始まって以来最悪の戦場離脱行動であった。
秘術を尽して反撃また反撃を繰り返し、圧倒的に優勢な敵の包囲のなかを連続突破したのである。
軍主力となった第116師団第109聯隊は、一時は玉砕を覚悟しその救出のため師団全部が危険に陥るおそれすらあった。
その第109聯隊は755名が戦死、大部分が負傷した。
また参加部隊全体の戦死者は約2400名と言われ、戦傷者を含めると損害は28000名にのぼった。
支那大陸において全戦全勝を誇った日本軍は、ついに最後の一戦において敗退したのである。
同時に全軍壊滅の完敗に終わる前に撤退を決断したことは、他の戦線にはみられない英断であったと言えよう。
- 679 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:59 ↑
◆対米戦準備◆
昭和19年12月 支那大陸には27個師団、34個旅団、計100万の大軍を擁し、
その大半は大陸の奥深くに展開していた。
支那派遣軍総司令官 岡村寧次大将は、100万の将兵が大東亜戦争全局に寄与するには、
重慶政府を屈服させ蒋介石政権を連合国側から分離して単独講和を図ることにある、という結論に達した。
昭和19年12月中旬 この意見が大本営に伝えられたが、大本営は、対米戦備に転換するよう要請した。
岡村総司令官は、従来の西向き戦面を東向きに大転換することには反対であり、四川進攻作戦実施について
大本営に意見具申を行ったが、大本営はこれを認可せず、
昭和20年1月22日 『支那派遣軍の基本任務は対米作戦を主務とする』と新任務を発令した。
昭和20年1月29日 南京で軍司令官合同を実施し軍総軍命令を下達した。
1) 第23軍は、3月末までに東南中国沿岸(2個師団増強)に防衛準備を完整
2) 第13軍は、初夏までに揚子江下流の上海・杭州地区に防衛準備
3) 北支方面軍は、初夏までに山東半島方面の防衛準備
支那派遣軍は6月『対米作戦計画大綱』を定め、対米、対ソ作戦準備への全面的転換を開始した。
米軍の上陸を香港・広東地区、揚子江下流、青島半島等に予想し、
対米戦態勢を造ることを主眼とし、支那軍に対しては思いきって戦面を縮小しようとするものであった。
(在中国米軍は、6月から広西省西部に攻勢をとり、10月ごろ、広東、香港を奪還する計画であった。)
また対ソ戦備としては、従来の関東軍担任地域の1部を北支方面軍が担任し、関東軍に策応しようとするものであった。
しかし敵の制空権下において追撃や妨害を受けながら、広大なる支那大陸での態勢の転換には非常な時間を必要とし、
終戦時、なお多くの部隊が転戦途中の浮動の態勢であった。
- 680 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 12:59 ↑
- ◆ マリアナ沖海戦1 (米軍呼称 フィリピン海海戦) ◆
◆ 作戦の背景 ◆
昭和19年3月31日 聯合艦隊司令長官 古賀峯一大将以下の司令部が、
パラオからミンダナオのダバオへ飛行艇で移動する途中、低気圧に遭遇し
搭乗機が行方不明になるという事件が発生した。
いわゆる「乙事件」である。 (詳細は別途紹介)
古賀長官が策定していた作戦計画は「Z作戦」と呼ばれるもので、進攻してくる米艦隊が、
マリアナ諸島かパラオまたはニューギニアを経て、フィリピン海域に侵入した際は
聯合艦隊は全力をあげて出撃してこれに決戦を挑むというものであった。
それは我が海軍伝統の「決戦思想」を受け継ぐもので、不利な戦況を逆転させようとする
総力結集の「この一戦」主義であった。
この「Z作戦」がマリアナ沖海戦のための「あ号作戦」の骨子となったもので、豊田新長官は
古賀前長官の作戦計画を引き継いだのである。
しかし「Z作戦計画」と司令部用暗号書、信号書などの機密書類は「乙事件」時にセブ島の
ゲリラの手によって米陸軍情報部に運ばれていた。
作戦は筒抜けであった。
◆ 米軍の作戦構想 ◆
開戦の前後に発注した航空母艦22隻などは、1943年春から逐次就役するに至り
同年秋以降大量の艦艇、航空機を持つに至ったニミッツ提督は、中部太平洋における大規模な反攻を開始した。
11月21日 ギルバート諸島、翌年2月1日 マーシャル諸島に上陸、各占領するとともに、
同17日 トラック島、23日マリアナに大空襲を加え大損害を与えた。
マッカーサーも2月末アドミラルティ諸島に上陸これを占領し、両方面の攻勢は密接な連携を保ちつつ
絶対国防圏の核心に迫り得るようになった。
このようにマーシャル諸島に指向されているニミッツの中部太平洋路線と、
マッカーサーのニューギニア路線の2方面作戦に惑わされて、我が軍は「いずれが米軍の反攻正面か?」
の判断に迷うこととなった。敵の真意がわからないままに、海軍は中部太平洋方面(サイパンまたはパラオ)と
壕北から比島に至る線の両方面に備えなければならなかった。
- 681 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 13:00 ↑
- ◆ 「渾」作戦 ◆
マッカーサー軍は5月27日 ビアク島に上陸した。
聯合艦隊は健闘する同島守備隊に呼応して、海上機動第2旅団を増援・逆上陸する「渾」作戦を支援するため、
基地航空部隊を同方面の基地に移動させた。
さらに左近允尚正少将率いる第16戦隊(戦艦1、重巡3 基幹)主力で上陸部隊の輸送を行った。
ところが哨戒中のB24に発見され、敵の有力艦隊が存在するとの誤報によって作戦は一時中止される。
6月10日 豊田長官は第2次「渾」作戦を発令して新たに第1戦隊司令官 宇垣中将を指揮官とした。
第1次「渾」作戦の兵力に戦艦「大和」「武蔵」らを加え有力な艦隊となったが、
米軍のマリアナ来襲によって6月13日 第2次「渾」作戦も中止された。
「渾」作戦で、絶対国防圏でないビアク島への来攻に対し「あ」号作戦のため準備した決戦兵力の一部を投入した。
これは「あ」号作戦命令の方針と一致しているとはいえず、
しかも軍令部に相談したものではなく、聯合艦隊司令部独断で実施したことが明らかとされている。
その結果決戦用の航空機が多数抽出し消耗していき、その後の「あ」号作戦に重大な影響を及ぼすこととなった。
確かにビアク島は、戦略上の要衝で「戦局の分岐点たる関が原」(戦藻録)と言われるまでに重視されていた。
しかし同時にこのビアク上陸は、サイパン上陸をカモフラージュするための米軍の牽制作戦でもあった。
◆ 「あ」号作戦準備 ◆
海軍は、反撃戦力の中核である第一機動艦隊及び第一航空艦隊の戦備概成により
5月下旬以降連合軍の絶対国防圏への来寇に際し、米機動部隊を撃破して連合軍の進攻に反撃を加え
戦局の転換を図ろうとし、その作戦計画の検討を行っていた。
連合軍の大規模な次期進攻は、5月末から6月中旬に行われるであろうと判断されていた。
本作戦は「あ」号作戦と呼称され、由来はアメリカの「ア」をとったとも「あいうえお」の「あ」であるともいわれている。
昭和19年5月3日 大本営はその作戦方針を指示し、同日聯合艦隊司令長官に親補された豊田副武大将も
大本営の指示に基づき聯合艦隊「あ」号作戦命令(作第76号)を発令した。
「あ」号作戦計画の要点は、敵状判断及び不足していた油槽船の状況から、
決戦海面を @パラオ付近 A西カロリン方面 に選定し、潜水艦及び索敵機により
早期に敵状を把握し、機動部隊・基地航空部隊の攻撃力を集中して一挙に米機動部隊を撃破、
次いで攻略部隊を撃滅する方針であった。このため機動艦隊は中南部比島に待機し、
基地航空部隊は主要基地に哨戒、迎撃兵力を配備し、攻撃集団を編制して決戦海面に機動集中できるようにした。
そして機動部隊と基地航空部隊の協同に期待するとともに、機動部隊の決戦においては昼間強襲を建前とし、
遠距離からの先制空襲(「アウト・レンジ Out Range」または「ロング・レンジ」戦法と呼称)を重視していた。
- 682 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 13:00 ↑
- ◆ 第一航空艦隊 ◆
当時軍令部作戦課員だった源田實中佐が昭和17年末に着想したもので、内南洋の島嶼基地を不沈空母にみたてて
基地航空部隊が空母部隊と同じように航空戦を行うというもので、昭和19年2月には13個航空隊が編成されていた。
長官は猛将と定評ある角田覚治中将で、総数は1620機にのぼるはずだった。
だが実状は、搭乗員が不足し訓練時間も少なく機材も足りず、中には定数の半分といった航空隊もあった。
とはいえ、この一航艦が海軍の決戦の切り札的存在であったことは間違いなく、
大本営直属の精鋭部隊として訓練完了までは日本本土で温存される方針であった。
昭和19年2月23日 米機動部隊はマリアナ諸島に来襲した。
5日前のトラック大空襲では捕捉できなかったが、今度は敵空母をうまく捕らえた。
淵田先任参謀は、戦闘機進出が不十分であること、進出直後で成算がない、などの理由から
飛行機の避退を進言したが「見敵必戦」を旨とする角田長官は聞き入れず、一航艦(61航戦)に攻撃を命じた。
戦果は大型艦5隻撃沈破と報じられた (米軍発表では被害なし 飛行機が少数のみ)が、
我が被害は甚大で、一航艦93機のうち90機喪失、サイパン、テニアンの基地航空隊の稼動数は12機のみとなった。
この一航艦93機は真珠湾以来の熟練搭乗員が多数存在した精鋭であった。
それが壊滅し爾後の戦力に影響するところ大なるものがあった。
その後も一航艦は、米機動部隊のパラオやトラックへの空襲の際にたびたび迎撃に向い
搭乗員と航空機を消耗していった。
◆ 参加艦艇 ◆
機動部隊 (第1機動艦隊)
司令長官 小沢治三郎 中将
参謀長 古村啓蔵 少将
本 隊
甲 部 隊
第1航空戦隊 空母:大鳳 翔鶴 瑞鶴
第5戦隊 重巡:妙高 羽黒
第10戦隊 軽巡:矢矧 駆逐艦9
乙 部隊
第2航空戦隊 空母:大鳳 翔鶴 瑞鶴
戦艦:長門
重巡:最上
駆逐艦7
前 衛
第 2 艦 隊
第1戦隊 戦艦:大和 武蔵
第3戦隊 戦艦:金剛 榛名
第4戦隊 重巡:愛宕 高雄 摩耶 鳥海
第7戦隊 重巡:熊野 鈴谷 利根 筑摩
第2水雷戦隊 軽巡:能代 駆逐艦7
第3航空戦隊 空母:千歳 千代田 瑞鳳
補給部隊 油槽船5 駆逐艦2
別動浪速船団 油槽船1 軽巡1 駆逐艦3
第5基地航空部隊 (第1航空艦隊)
司令長官 角田覚治 中将
参謀長 三輪義勇 大佐
第61航空戦隊 9個航空隊 定数696機
第22航空戦隊 8個航空隊 定数552機
第26航空戦隊 3個航空隊 定数240機
第23航空戦隊 3個航空隊 定数240機
付属部隊 輸送機52 水偵10 ほか
ただし損耗が続いて実稼動数は著しく減少しており、練度も低下していた。 6月5日現在 約530機
- 683 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 13:00 ↑
- ◆ マリアナ沖海戦2 ◆
◆ 海戦経緯 ◆
昭和19年
6月15日 0717 あ号作戦決戦発動
0800 機動部隊主力 ギマラス出撃
6月19日 0500 索敵機発進
1100 第2次索敵発進 その後基地航空部隊等と併せて索敵継続
0730 @ 3航戦 第1次攻撃隊 64機発進 零戦14、戦闘爆撃43 天山7
0745 A 1航戦 第1次攻撃隊 128機発進 零戦48、彗星53 天山29
0810 「大鳳」 米潜水艦による魚雷1命中 小松兵曹長機の自爆で1本は消失
0840 A 前衛味方艦隊からの誤射撃で10機の被害(2機撃墜?)
0900 B 2航戦 第1次攻撃隊 49機発進 零戦17、戦闘爆撃25 天山7
0935 @ 迎撃をうけ41機喪失(6機を撃墜)
1015 C 2航戦 第2次攻撃隊 65機発進 零戦26 九九艦爆27 彗星9 天山3
1020 D 1航戦 第2次攻撃隊 18機発進 零戦4、戦闘爆撃10 天山4
1053 A 迎撃を受け96機喪失(12機を撃墜)
1120 「翔鶴」 米潜水艦による魚雷4命中
1200 B 迎撃を受け7機喪失(4機撃墜)
1410 「翔鶴」 沈没
1432 「大鳳」 大爆発 機動艦隊司令部は「羽黒」に移乗
1500 C 迎撃を受け26機喪失
1510 D 目標を発見できず支離滅裂となり9機を失って帰還
1628 「大鳳」 沈没
6月20日 0700 機動部隊各艦 補給部隊と合同
1200 旗艦を「瑞鶴」に変更
1615 索敵機 敵艦隊発見
1725 薄暮攻撃を企図し雷撃隊発艦 遊撃部隊には夜戦を命令
1730 敵機来襲216機 戦闘機85、急降下爆撃77、雷撃54
1932 「飛鷹」 沈没 補給艦玄洋丸、清洋丸 航行不能
1945 豊田聯合艦隊長官より離脱命令
6月21日 1545 小沢長官 最終的に「あ」号作戦を断念
6月22日 1300 機動部隊 沖縄中城湾に入港
- 684 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 13:01 ↑
- ◆ 各攻撃隊 ◆
@ 「3航戦」64機は、空母1(実際は戦艦サウスダコダ)爆弾1命中、巡洋艦1に至近弾1
A 「1航戦」128機は、1機が戦艦に激突、2機は空母バンカーヒルに至近弾
B 「2航戦」49機は、敵を発見できず、目標変更中に敵機の攻撃を受け退避
C 「2航戦第2次」65機は、統一行動がとれず艦爆隊と彗星隊に分かれたが、攻撃効果は不明
D 「1航戦第2次」18機は、一部が予定地点に到着したがその後の行動は不明
なお、「3航戦第2次攻撃隊」は、他隊の飛行機収容のため期を失し、発進を実施せず
マリアナ沖海戦図 「アウトレンジ戦法」による攻撃の間
日本艦隊は、米機動部隊から発見される
ことなく、敵機の攻撃は受けなかった。
戦果の詳細は不明であったが、
敵の攻撃圏外からの先制攻撃は
成功したかに思われた。
しかし日本艦隊を索敵できなかった米艦隊は
攻撃をあきらめその分防御を固めて
我が攻撃隊を待ち構えていた。
この日の日本側の攻撃中、米機動部隊の
上空にあって接触を保ちながら攻撃を指示
していた偵察機があった。
米旗艦レキシントン通信室では、この電波
を受信して二世士官が日本語を英語に
逐一翻訳して日本側の攻撃方向をそのまま
把握、迎撃機の誘導に成功していた。
偵察機は撃墜されることなく米側の情報源
として逆利用されたのであった。
◆ 「大鳳」の沈没 ◆
第1次攻撃隊発進直後の0810 急降下爆撃機彗星の1機が突然「大鳳」の右舷海面に向って垂直に突入した。
それは「大鳳」に向って走る雷跡2本を認め、その1本に対して体当たりしたものであった。
この特攻攻撃の先駆けを敢行した勇敢なパイロットは小松咲男兵曹長であった。
(小松機の自爆でも雷跡は消えず、それが命中したという説もある)
米潜水艦アルバコアの発射雷数は6本で大鳳に向ったのは2本、残る1本に対し面舵一杯で回避したが命中した。
「大鳳」は竣工後3ヶ月の最新鋭空母で、特に飛行甲板は爆弾防御のため250キロ爆弾に十分堪えられる
不沈空母として信頼されていた。 しかしこの爆弾防御甲板がその命を縮めることになる。
被雷後も速力は27ノットから1ノット落ちただけで悠々と走っていたが、前部の飛行機用エレベーターが故障し
その付近のガソリンタンクに破孔が生じた。そしてそこから漏れる揮発性ガスがしだいに艦内に充満していた。
1432 突如目のくらむような大爆発を起こした。ガソリンの臭気を抜くためすべての換気栓を解放したことが、
ガソリンと重油の揮発性ガスを艦内に充満させてしまい、それに排気用電動送風機の火花が引火したのである。
(引火の原因は判然としていない)
爆弾に堪えるための厚い飛行甲板が下からの爆発を抑えたために、爆発圧力をさらに強める結果となり、
甲板を小山のように盛り上げながら2つに割れ、内部の人員を圧殺した。
直衛する「羽黒」「若月」は「大鳳」への接近を命じられたが、爆発が続くためにあまり近寄れなかった。
小沢長官以下が「羽黒」移乗から20分後、急に左舷から傾き艦尾から沈んでいった。
「大鳳」乗員2150名中 生存者は約500名といわれている。
- 685 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 13:01 ↑
- ◆ 「翔鶴」「飛鷹」の沈没 ◆
1120 米潜水艦カバラは距離1100Mから6本の魚雷を発射した。
「翔鶴」の右舷に4本命中。被雷箇所は艦橋前部の主管制御室、中部の変圧器室、発電機室、電気工場である。
電気系統が破壊され艦内照明が消え前部エレベーターは落ちこみ、各所に火災が発生した。
まず航空機搭乗員に退艦命令が発令された。直衛の「浦風」が付近の海面に爆雷を投下
「矢矧」は接近して短艇をおろした。
しかし4本もの魚雷を受けては如何ともし難く、真珠湾にはじまりラバウル攻略、セイロン攻撃に参加した
武勲輝ける主力空母「翔鶴」は、被雷から2時間50分 前のめりとなって遂に沈没した。
乗組員830名が戦死、他に乗組んでいた第601航空隊隊員376名も犠牲となった。
艦長松原大佐は艦と運命を共にしようとしたが果たせず救出された。
1730ころから始まった米機の空襲では、レキシントン(2代目)からの攻撃機が中心で
第2航空戦隊「隼鷹」「飛鷹」「龍鳳」に襲い掛かった。
出雲丸を改造した特設空母「飛鷹」は、マストに直撃弾1、機械室に1本の雷撃を受け航行不能となった。
さらにもう1本雷撃を受け(誘爆との説あり)艦内大火災となり、1932遂に沈没した。
- 686 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 13:01 ↑
- ◆ マリアナ沖海戦3 ◆
◆ 米軍の追撃 ◆
6月19日 夕刻になっても攻撃の成果が判然としないため、
1710 小沢長官はひとまず全軍に北上を命じ、翌日の決戦再興を期することにした。
6月20日 補給部隊と合同、1119 油槽船から補給開始が下令された。
この日は早朝から索敵機を発進させていたが米機動部隊を発見できなかった。
しかし基地索敵機から敵発見の報があり、西方へ艦隊は退避を開始した。
午後になって発進した索敵機は1615 敵機動部隊発見を通報、
また敵信傍受によって米機が我が艦隊の動静を米機動部隊に報告していることがわかり、
敵艦隊の追尾が明らかとなった。
1725 薄暮雷撃のため1航戦から7機の天山雷撃機が発進したが目標を発見できず、
未帰還3、不時着水4で全機喪失した。
同発艦直後に敵機216機(日本側の把握では150機)が来襲、
機動部隊の迎撃機は44機で、自爆、不時着水を含めて25機を失った。
艦船の被害は、「飛鷹」沈没、補給部隊の「玄洋丸」「清洋丸」が被爆後航行不能となり、
味方駆逐艦により処分自沈した。
「隼鷹」「瑞鶴」「千代田」「榛名」「摩耶」も直撃弾で損傷したが航行に支障はなかった。
この攻撃は急降下爆撃が主力で雷撃が少なかったために機動部隊の被害は少なく、
加えて上空直援機はベテランが多く、敵機に対し互角に戦っていた。
これより先、薄暮航空攻撃に呼応して遊撃部隊による夜戦命令が下り、速力24ノットで
東進を開始したが目標を捕捉できず、小沢長官は「夜戦の見込みなければ西方に退避せよ」と命令
栗田第2艦隊長官も「敵情不明、夜戦の見込みなし」として2105 反転を命じた。
残存母艦機数は「一航戦」7機、「二航戦」33機、「三航戦」21機、計61機に過ぎず、
敗戦は既に明らかとなっていた。
なお米側の損害は戦闘機6、急降下爆撃10、雷撃4 計20機が撃墜。
さらに攻撃終了が夜間となったため、着艦に失敗する機が続出、80機が喪失、
計209名の事故搭乗員中49名が死亡した。
◆ 米軍の反省 ◆
米艦隊はその勝利にもかかわらず、作戦が消極的であったということで、
最高指揮官スプルーアンスは部内の不評を買った。
部下のクラーク提督は「世紀のチャンスを逸した」と悔しがり、モンゴメリー提督は
「この結果はすべての者にとって著しく失望すべきものであった」と嘆いた。
さらに真珠湾の米海軍航空本部は「航空専門家でない者を空母部隊の指揮官にしたからだ」と非難した。
まさに南雲中将に対する真珠湾第2撃問題やミッドウエーの批判と同じである。
しかしスプルーアンスはサイパン全作戦の最高指揮官であったから、ニミッツの要請である。
サイパンの上陸作戦援護に重点を置いたのであって危険なギャンブルを賭すことはできなかったのである。
- 687 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 13:02 ↑
- ◆ むすび ◆
マリアナ沖海戦における敗北、「あ」号作戦の失敗は、海軍ひいては日本の戦争指導に大きな影響を及ぼした。
海軍はこの作戦に聯合艦隊のほぼ全兵力を投入、更には多くの内地部隊をも動員、即ち帝国海軍の
ほとんど全力をあげての決戦であった。
この敗北により機動部隊は三隻の空母(うちニ隻は正規空母)と艦載機・搭乗員の大部を失い、
機動部隊としての戦力を喪失、再起不能となった。
海軍としては連合軍の急速な進攻に対して当分の間反撃戦力を有しない状況となった。
この敗戦は、制海権の喪失=マリアナ諸島及びビアク島の失墜を意味し、
戦略的に日本を著しく不利な状況にたち至らしめた。
海軍は「あ」号作戦に相当の自信を持って臨んでおり、
陸軍もマリアナ諸島、特にサイパン島の防衛には相当確信を表明していた。
しかし結果的にマリアナ沖海戦は完敗に終わり、サイパン島の陸上戦も戦況が悪化していた。
「あ」号作戦の失敗が日本の政府、大本営に与えた衝撃はきわめて大きく、
これが直接の原因となって東條内閣は総辞職、小磯内閣が成立するに至ったのである。
本作戦の敗因については、
1) 十分な作戦準備が不可能であった
2) 圧倒的な兵力差
3) 彼我の兵器、術力の相違
などで、さらに具体的には
1) 我が空軍の練度が低かった
2) 米側の艦艇と航空機に電探が完備されていた
3) 優秀なF6F「ヘルキャット」が待ち伏せていた
4) 対空砲火にVT信管(ドップラー効果を利用した近接触発の電子信管、計算上目標が50倍となる)が使用されていた
などが揚げられる。
またアウトレンジ戦法について戦後いくつかの批判が生まれたが、
小沢長官は搭乗員の練度の実状を認識し、劣勢な兵力で勝つ手段はこれ以外にないと確信したためで
「死中に活を求めた」戦法であったものと思われる。
戦闘の要訣は「先制」と「集中」にある。寡をもって衆と戦う場合は尚更であろう。
◆ 戦果と損害 ◆
日 本 軍 米 軍
参加 喪失 損傷 参加 喪失 損傷
正規空母 5 2 7 1
軽空母 4 1 8 1
戦艦 5 1 7 2
重巡 11 1 8 1
軽巡 3 12
駆逐 28 1 65
母艦機 482 426 956 130
基地航空 240? 50
搭乗員 445 76
- 688 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 13:13 ↓
- レイテ湾や台湾沖、沖縄戦、本土防衛戦は無視ですか?
- 689 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 14:07 ↓
- コピペくん、コテハンつけるとか特定の判別しやすい言葉を書くかしてよ。
透明あぼーんしやすくなる。
- 690 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 14:30 ↑
- いやだ。だれがお前なんかの言うこと聞くか。ボケ。けけけけ・・・・
- 691 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 14:32 ↓
- 提督の決断ファン?
- 692 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 14:34 ↓
- ここの長ったらしいコピペのせいで
マウスホイールをぐりぐりしなきゃいけないのが
うっとおしいなあ。
>>690みたいなこと言い出したら単なる荒らしじゃん
- 693 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 14:37 ↓
- >>689
匿名じゃないと何もできないんだよ。その意味では
@Emacsの方がずっとまし。
>>692
はじめはともかく、もうずっと単なる荒らしだよ。
- 694 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 14:45 ↓
- 腹÷話+酒=友情
- 695 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 14:48 ↓
- 明日の天気は?
- 696 : 実に興味深い :2003/05/27(火) 19:02 ↓
- いやぁ〜今日もオナニコピペ本当にお疲れ様です。(誰が読むの?)
昨日までの復習
関東大震災の朝鮮人虐殺は捏造。理由は、次の年の渡航者数が増加したから。
↓非論理的だと批判され・・・
6000人死んだのは捏造。(完全な論点すり替え)
↓朝鮮人を多数殺害した事実は消せないよ、と言われ・・・
事故だよ。だいたい殺された朝鮮人が無実という証拠がどこにも無い。
↓何故、そこまで朝鮮人を疑うのですか?
日本人は恥を知っているからです。
↓論点すり替えはどう思いますか?
あれはコピペなんだよ。俺の主張じゃない。(以降オナニコピペ続く)
- 697 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 20:07 ↑
- 中部太平洋陸軍作戦 ギルバート・マーシャル・ブラウン諸島の作戦
作戦の背景
日本本土の東南東約5000Km、ハワイ諸島の西南方約4000Kmの赤道直下、ここに40数個のサンゴ礁の島々が群がっている。
このうち南方に位置する16個ほどの環礁をギルバート諸島、北方にある約30個の環礁をマーシャル群島と云う。さらにマーシャル諸島の中の北西端に位置する40余の小島がブラウン環礁である。
これらの島々はほとんどが珊瑚環礁といって、円形または三角形状の一連の珊瑚礁の小島から成っており、標高は10M以下で起伏は少なく、岩盤はない。そのため飛行場の建設には容易であるが、土中工事が困難であり、また島嶼の地積が狭いため防御施設の設置には著しく不利であった。 さらに魚類と椰子を除き生鮮食糧の自給は不可能な上に、地下水も塩分が濃く飲料には適さず、定期的に来るスコールが飲料源であった。
この中部太平洋上の狭小な島々において我が陸海軍守備隊は、昭和18年11月から優勢な米軍の上陸攻撃を受けた。 そして短期間であったが勇戦敢闘、敵に多大な損耗を与えたが、遂に膨大なる物量に抗し得ず、大東亜戦争における防勢作戦の初期を飾って玉砕戦を展開した。
以下はその概要である。
ギルバート諸島の作戦 : タラワ島 マキン島
マーシャル諸島の作戦 : クェゼリン島 ルオット・ナムル島
ブラウン環礁の作戦 : エンチャビ島 エニウェトク島 メリレン島
- 698 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 20:08 ↑
- ギルバート諸島の防備
ギルバート諸島とナウル・オーシャン方面は、昭和17年8月17日 米潜水艦によるマキン島奇襲
= (カールソン中佐指揮の米海兵隊226名が潜水艦2隻に分乗、ゴムボートで奇襲上陸し、
第62警備隊マキン派遣隊・金光兵曹長以下約70名が反撃した奇襲作戦。
我が軍の損害、戦死43名 行方不明3名 生存27名 米兵捕虜9名
米軍情報によると 海兵隊戦死18名、戦傷14名、行方不明12名 収容時溺死7名 日本軍死体83体) =
以来、急ぎ防備強化に着手し、昭和18年2月15日に第3特別根拠地隊が新編されるに及び、
地上防備や航空基地の画期的な増強が行われた。
その後7月 柴崎恵次少将が司令官として着任すると軍紀の刷新と訓練の励行を重視し、
特に払暁訓練と夜間訓練を連日連夜反復することにより、守備隊は面目を一新して精強の度を加えた。
柴崎司令官の優れた指揮統率力はその後の戦闘に大きな影響を与えた。
第3特別根拠地隊 本隊
佐世保第7特別陸戦隊
第111設営隊
755航空隊
902名
1669名
2000名
30名 ほか
20センチ砲 2門
14センチ砲 4門
8センチ砲 6門
12.7センチ高射砲 4門 ほか
戦車 14両
以上がタラワ本島を中心に点在していた。
- 699 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 20:08 ↑
-
米軍の進攻準備と迎撃準備
米軍統合参謀本部は昭和18年9月 ニミッツにギルバート諸島に対する作戦を指示し、
ターナー少将指揮の第54機動部隊が作戦を担任した。
攻略作戦は「ガルバニック」作戦と呼称され、主目標はタラワであった。
上陸兵団は、タラワ島に約18600名、マキン島に約6500名で、その兵力は守備隊戦闘力の4倍(タラワ島)
乃至23倍(マキン島)に達した。
米機動部隊は9月中旬早くも準備作戦を開始、タラワ、マキン両島を空襲するとともに10月に入ると写真撮影を行った。
タラワ作戦経過 そして11月19日から上陸前の本格的空襲を開始するとともに、
連日にわたって艦砲射撃を加えた。
この動きから聯合艦隊は、
陸攻隊約60機をもってタラワ南方海面の米機動部隊に
攻撃を加えたが大きな戦果は得られなかった。
また敵の砲爆撃のため地上施設はほとんど破壊され、
部隊全員雨中に露営するという状況であった。
さらに兵器・弾薬・糧食の損失も大きく、
守備隊戦闘力の低下は否めないものがあった。
しかし守備隊は柴崎司令官指揮の下
いささかも士気は衰えず、
手ぐすねひいて敵上陸を待ち受けた。
タラワ島(ベティオ島)の作戦経過
11月21日 0200 上陸支援の艦砲射撃開始
0259 第2海兵師団主力 約200隻の水陸両用戦車と上陸用舟艇でタラワ島北岸桟橋に上陸を開始した。
守備隊は水際戦闘により、敵2/3を撃破したが、遂に米軍の上陸を許すに至った。
米軍の損害は多く、攻略戦の死傷者の約半数は水際戦闘で生じたものであった。
0635 全軍決死敢闘士気旺盛ナリ との戦況を柴崎司令官は発信。
1200 守備隊司令部地下壕を野戦病院にするため別の壕に移動中、敵の艦砲弾が命中、
柴崎司令官以下幕僚全員が戦死した。
また島内の通信線もズタズタに切断されてしまい、統一された指揮系統は麻痺した。
1330 タラワ守備隊の無線連絡は一旦途絶、東に隣接するバイリキ島も占領された。
しかし我が軍の士気は衰えず、予め定められた部署によって各隊は迎撃を続行し終日敵を圧迫した。
11月22日 米軍はさらに予備兵力を上陸させ、タラワ島中央部と西端付近を占領した。
米軍は飲料水、食糧、弾薬の補給に苦しんだが、輸送船を環礁内に進入させて揚陸を続け、
午後からの後続部隊の上陸によって、戦況は上陸戦闘開始後約30時間を境に米軍に有利に傾いていった。
タラワの通信連絡は感度零になったが、0750頃かすかな感度があって通信を再開した。
1330 「〜桟橋に通じる南北線付近で彼我対戦中」と最後の報告を発信、
爾後無線連絡は全く途絶した。戦闘は激化の一途を辿ったものと推定された。
11月24日 追い詰められた日本軍に対し、米軍は掃討戦の段階に入る。動ける将兵は総員見事な最後を飾った。
1300 米軍は東端に達し、第2海兵師団長、スミス少将はタラワ島の占領を発表した。
上陸から76時間余の戦闘は終了した。
戦果・損害
日本軍 米 軍
兵力 4500 18600
戦死者 4350 1000
戦傷者 2100
我が軍の捕虜は戦闘員17名、非戦闘員(朝鮮人軍属)129名
- 700 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 20:08 ↑
- マキン島の防備
マキン島作戦経過 マキン島はギルバート諸島の最北端に位置する環礁で、
米軍の上陸したプタリタリ島は環礁群の南部に位置し、
東西約15KM、南北約1000Mの細長い島であった。
ここにはギルバート北部行政官駐在所、修道院、南洋興発支店
などがあり、島の人口は2400人であった。
マキン島には昭和18年2月以来、海軍第3根拠地隊の
マキン派遣隊のほか航空基地隊、海軍設営隊などが進出し、
その総人員は約700名であった。
そのうち戦闘員は僅かに250名、
火砲も8センチ砲・同高射砲各3門、13ミリ機銃12門に過ぎず、
タラワ島のように要塞化はされていなかった。
第3特別根拠地隊 分遣隊
第111設営隊
第952、802航空隊
243名
340名
110名
8センチ砲 3門
8センチ高角砲 3門
マキン島(ブタリタリ島)の作戦経過
11月21日 0300 猛烈なる艦砲射撃のもとに米第27師団の165聯隊主力が島の西岸と
一部は北岸付近に上陸開始した。 すでにこの日まで6波にわたる空襲で100名の死傷者を出していた
我が守備隊であったが、敵の上陸を迎え撃ち頑強に抵抗した。
上陸軍は実戦経験がなく、援護砲撃の下でしか行動できなかった。
このため我が守備隊の反撃にあうと前進を停止するのが常で、この弱腰を利用して米軍をかき回した。
0430 外部との無線連絡は途絶した。
11月22日 なおも抵抗は続いたが、戦闘員250名に対し絶対優勢の敵の攻撃には立ち向かうことができず
全島が敵の有に帰したのである。
23日未明 最後まで生き残った約30名の攻撃でマキン島の戦闘は終了した。
戦果・損害
日本軍 米 軍
兵力 693 6472
戦死者 約500 65
戦傷者 152
我が軍の捕虜は戦闘員1名、非戦闘員(朝鮮人軍属)104名
- 701 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 20:08 ↑
- アパママ島の作戦
水陸航空基地の好適地であったが、配備する兵力不足のため基地建設は行われず
海軍の見張所が駐屯しているだけであった。
11月21日深夜 米潜水艦ノーチラスから偵察中隊78名が無血上陸、
11月22日午後 海軍見張所員の抵抗を受け、対峙戦が2日間続いた。
ノーチラスの援護射撃は功を奏さなかったが駆逐艦の援護射撃で守備隊14名が死傷、
11月26日早朝 残る見張所員10名は総員自決した。
逆上陸作戦の企図
米軍のギルバート諸島来襲を知った聯合艦隊は、ギルバート諸島方面の敵上陸地点に
逆上陸を決行して敵上陸部隊を撃滅しようと企図し、まずポナペ島の甲支隊
(第52師団から編制 約2000名)に対し11月22日命令を下達、
また第2艦隊主力(巡洋艦6 駆逐艦8)と陸攻24機、戦闘機32機のマーシャル方面進出を下令した。
甲支隊と海空部隊は11月下旬クエゼリン、ルオット島などに到着したが、時既に遅く
ギルバート諸島は敵の領有するところとなっていた。
このため同方面奪回の好機は去り、陸軍部隊の増援、逆上陸も中止しなければならない状況となり、
結局諸部隊はマーシャル諸島に留まることになった。
ギルバート作戦の終了
米国政府は11月26日朝 タラワ・マキンを占領したことをラジオ放送を通じて発表した。
また大本営は1ヵ月後の昭和18年12月20日 両島の玉砕を発表した。
ギルバート諸島の獲得は、マーシャル諸島への足掛かりを得ることとなり、
日本海軍の航空・潜水艦戦力の低下と米海軍の戦力充実化によって一気にマリアナをも席巻するに至った。
この作戦は米軍特に海兵隊における士気に及ぼす影響は甚大であった。
過去の激戦はアッツ島は酷寒、ガ島はマラリアやデング熱という複合条件があったのに対し、
初めて日本軍守備隊と純粋な戦闘に勝ち抜いた自信は、個々の戦闘員を通じて米国民全体に自然に浸透していった。
一方、この米軍のギルバートへの進攻は日本海軍にも重大な影響を与えた。
ブーゲンビル・ニューギニアの南東方面は苦しい防戦を続け、南西方面は援蒋ルートの奪還の兆しが見え、
東西寸時も油断のできない情勢下にあって少ない兵力で対抗しなければならなかった。
- 702 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 20:09 ↓
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「昭和1」
- 703 : 名も無き筑波大生 :2003/05/27(火) 20:09 ↑
- マーシャル諸島の作戦/クェゼリン島・ルオット・ナムル島
マーシャル諸島の防衛
マーシャル諸島は、幅約200カイリ、長さ500カイリに渡り北西から南東の方向へ延びる2列の環礁群から成っていた。
西の列島をラリック列島、東をラタック列島と呼ばれ、環礁は約30群で全島すべて珊瑚礁からでき
土地は平坦で多くは1.5mから6mに過ぎない。
住民は開戦当時日本人が約500人、カナカ族が約1万人と少数の外国人が居住していた。
上記のようにマーシャル諸島各島は地積が狭い上に平坦で、しかも地下水が浅く防備施設の構築は極めて困難であった。
これら防備上の致命的欠陥からマーシャル諸島の戦術的価値については従来から多くの異論があった。
しかし、同諸島に有力な地上兵力を配して反撃拠点とし、併せて基地航空兵力を配置、
海上戦力と相まって積極作戦を実施する場合、敵艦隊に対する態勢上の戦略的優位を占め、
地形的欠陥を補って余りあるものと考えられた。
ところが実際には船舶の不足やギルバート諸島喪失により敵潜水艦や航空機が活発になり、
鋼材・セメント等資材の輸送が困難となり、飛行場以外満足な防備施設は構築することができなかった。
米軍の進攻準備とクェゼリン島の防衛
米統合参謀本部は昭和18年7月20日 ニミッツ太平洋艦隊長官に対し、
昭和19年(1944)1月 マーシャル諸島占領の準備を下令していた。
ニミッツ長官による攻略作戦は当初バンクレイト作戦と呼称したが、フリントロック(石錠)作戦と改称された。
12月4日 米機動部隊によるクェゼリン偵察の結果、同島に70%完成の爆撃機用滑走路を発見、
同島をまず攻略することとされた。
攻略計画では、もしクェゼリンが予想外に頑強な抵抗がなければ続けてブラウン環礁を攻略する予定であった。
クェゼリン環礁はマーシャル諸島の北西に位置する世界最大の環礁で、
北西から南東に伸びる長辺は66カイリ、最大幅20カイリ、90余の島々からなり、
どの島も椰子の木の茂る平らな砂島である。
そのうち軍事的に利用できる面積があるのは南東橋のクエゼリン島と北端のルオット・ナムル両島のほか、
西端のエバデンとこれらに隣接する小島だけであった。
クェゼリン島は、マーシャル群島方面の海上及び陸上防備の中枢基地として整備され、
開戦前から海軍はここに第6根拠地司令部を置いた。
文字通りマーシャル方面の中心基地であった同島の米軍来攻時の守備兵力は以下のとおり。
第6根拠地隊 本隊
第61警備隊
第6通信隊
第6潜水艦基地隊
海軍軍人 計
海上機動第1旅団第2大隊基幹
陸海軍 計 (除軍属)
80名
1500名
400名
200名 他
約2700名
約1020名
約3900名
第6根拠地隊 司令官
第61警備隊 司令
海機第1旅団 第2大隊長
海機第1旅団 参謀(来島中)
秋山門造 少将
山形政二 大佐
阿蘇太郎吉 大佐
伊藤豊臣 少佐
クエゼリン作戦経過 ギルバート諸島での戦訓に鑑み、
米軍が環礁内から上陸する場合にも備え、
内側海岸に戦車壕、トーチカ、機銃陣地等を
急速に構築したが、防御施設はルオットと同様
縦深を欠き、島の内部には陣地はほとんどなかった。
戦闘のため利用でき